表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

切り裂きジャック

 時は十九世紀、大英帝国時代。二人の男性がロンドンから来た乗合馬車から降りて、乗り継ぎをしていた。二人組みの男性のうちの一人は紳士風の上品な男で、もう一人はどことなく粗野な男だった。

「馬車を一台頼む」

 待合所の男性が御者の名前をけたたましい声で呼ぶと、すぐに馬車が横付けされた。

「どこまで?」

 御者の問いに、粗野な男が答えた。

「レスフォード家まで」

男の発言に、待合所がざわついた。

「伯爵家に用事かしら」

「レスフォード家でしょう?」

「物好きな方ね」

「あそこは、不気味な家なのに」

「当主が突然別人に入れ替わったとか」

「子どもが突然増えたとか」

「夜になると子どもの泣き声が聞こえるとか」

「使用人も長く続かないって」

そんな声をよそに二人は馬車に乗り込んだ。ピシッという鞭の音を合図に、馬が走り出した。

馬車が走るのはロンドンから離れたのどかな田舎だった。馬が走るスピードに合わせて、ロンドンとは違う、緑の風景が通り過ぎていく。

真面目そうで、仕立てのいい服を着たアルフレッド・キングズリー警部補は、馬車の外をのぞいた後、横に座っている男性の方へ向き直った。

「ところで、ユージン。先ほどご婦人方の会話が不穏だったんだが、私たちがこれから行く家は、レスフォード家で合っているな?」

「合ってますとも、刑事さん」もう一人の不真面目そうな男、ユージン・サリヴァン警部はにやっと笑った。「レスフォード家といえば、バラ戦争以来の名家の、あのレスフォード家ですよ。学校で習いませんでした?」

 キングズリーは寄宿学校での日々を思い出してしかめっ面をした。バラ戦争といえば、こまごまとした戦争や、ややこしい家の名前や、乱舞する数多の「ヘンリー」と「リチャード」に悩まされた思い出しかない。

「ヘンリー七世に味方をして武勲を立て伯爵になった。落ちぶれたがまだ名家」

 キングズリーは学生時代に叩き込まれた名残で諳んじたが、顔は当時の苦行を思い出して苦々しい顔になっていた。サリヴァンはそんなキングズリーを見てカラカラと笑い声をあげた。

「さすがよく覚えていらっしゃいますねぇ。その通り。これから俺たちが行くのは、その有名なレスフォード家のお屋敷です。ま、もっとも、このあたりはレスフォード家の治外法権ですから、俺たちスコットランドヤードなんて門前払いを食らうかもしれませんねぇ」

「ちょっと待て、ユージン。そんな有名な貴族の人たちに捜査の協力を依頼しに行くのか?」

キングズリーは聞いた。未だに地方ではスコットランドヤードよりも代々土地を治めてきた名門貴族のほうが権威をもっている場合がある。キングズリー自身、何度かそのことを知らずに大変な目に遭ったことがあった。だから、自然と警戒心を強めたのだ。

「別にいいじゃないですか。誰に捜査協力を求めに行こうと」

サリヴァンは、明らかに年下の相棒の反応を面白がっていた。

「貴族だろうがなんだろうが、事件が解決できれば万々歳ですよ。あなたが常々言っていることじゃないですか。『我々の仕事は何が起こったかを淡々と明らかにし、悪に適切な裁きを下すお手伝いをすること』だと。違いましたっけぇ、警部補さん?」

「それはそうだが」

 キングズリーは自分の言葉をそのまま真似されたので、居心地が悪そうに坐りなおした。

「それに、俺も何度か世話になったことがあるんですがねぇ、なかなか頭が切れる子どもたちですよ」

キングズリーはサリヴァンの話を半分に聞き流していたが、聞き捨てならない単語が聞こえた気がしたので思わずサリヴァンの方へ身を乗り出して聞き返した。

「ちょっと待て、ユージン。『子どもたち』だと?」

その頃には馬車はすでに屋敷の近くまで来ていたので、キングズリーはその問に対する返事を聞けなかった。

「さあ見えてきましたよ」

 サリヴァンは馬車の窓から見える巨大なお屋敷を見やっていった。サリヴァンの視線の先には、平地にそびえたつ白亜の屋敷があった。古典様式の見事な屋敷は見るものを圧倒させた。サリヴァンにつられるようにして屋敷を目にしたキングズリーは、その荘厳さに言葉を失った。

 やがて、馬車がゆっくりと止まった。

「どこのものだ?」

 門番の問いに、サリヴァンは「スコットランドヤードのユージン・サリヴァンだ」と告げると、門番は無表情で屋敷に連絡を入れた。ここではやはり、スコットランドヤードの名前は重みをもたないらしい。

あまりに待たされるので、キングズリーが不安に思い始めとき、門が開いて馬車は長いドライブウェイを進みはじめた。馬車がようやく長いドライブウェイを抜けて屋敷の正面玄関に辿り着くと、客人到着の呼び鈴が鳴らされた。

馬車のドアが開けられると、サリヴァンは先に馬車から降り、骨っぽく背の高い体を低くして、まるでレディにするかのようにキングズリーに向かってうやうやしくお辞儀をし、手を差し伸べた。だが、はサリヴァンの慇懃無礼な態度は無視して馬車から降りた。結果、サリヴァンの手は空中で行き場を失ったが、サリヴァンが気を悪くした様子はなかった。

サリヴァンは、態度を一切変えず手を後ろ手に組むと、平均よりも高い背を屈めてキングズリーに話しかけた。

「なかなか訳ありの坊ちゃんたちみたいですから、大人しく、いい子ちゃんにしていてくださいねぇ。あちらさんの機嫌を損ねると面倒なんで」

「馬鹿にするな、ユージン。私だって、きちんとできる」

 キングズリーは背筋を伸ばして前を向くと、ピシッとジャケットの襟を正した。だが、サリヴァンは、キングズリーの生真面目で融通が利かないさまを知っていたので「さあ、どうだか」とつぶやいて肩をすくめた。

二人が巨大な玄関ドアに向かうと、客人の到着を見ていた従僕がすでに扉を開け放っていた。重厚な扉の奥には、圧倒的な巨大な空間が広がり、執事や従僕が「いらっしゃいませ」と頭を垂れていた。

キングズリーは、思わず名家にふさわしい堂々たる屋敷のたたずまいに息を呑んだが、サリヴァンは慣れた様子で執事の差しだす銀の盆にカードを置いた。

「スコットランドヤードのユージン・サリヴァンだ。手紙で約束したとおり、レスフォード伯爵に会いに来た」

 執事はちらりと名刺に目をやると、「スコットランドヤードのサリヴァン警部ですね。旦那様に御取次してまいります。少々こちらでお待ちください」と言って下がった。その口調は丁寧だったが、形式的なもので、本来はそこらの平民など入ることの許されない貴族の家であるぞという威圧感があった。

執事の足音が大理石の玄関ホールから遠ざかると、二人はその場で立ったまま待たされることになった。

サリヴァンは、余裕たっぷりに値踏みでもするように天井のフレスコ画を眺めていたが、キングズリーは屋敷のもつ威厳に圧倒されっぱなしだった。法の名の下にここへ来たはずのキングズリーは、大理石の床から伝わる冷気に、自分がひどく場違いな存在であるように感じ始めていた。壁に並ぶレスフォード家の先祖たちは、彼の持つ警察手帳など、焚き付けの紙屑ほどにも価値がないと、その冷徹な眼差しで語っていた。

 どれほどの時間が流れただろうか。高い窓から差し込む陽光の中で踊る塵の動きさえ止まり、キングズリーの居心地の悪さがピークに達したかと思われたその時、ホールの奥から微かな、しかし規則正しい音が響いてきた。

カツ、カツ、カツ。

大理石に刻まれる硬い革靴の音を聞いて、キングズリーはようやく執事が戻ってきたことにほっとした。執事の表情は、先ほどと何ら変わらぬ無機質な仮面のようで、まるでこの屋敷の秩序そのものを体現しているようだった。

「お待たせいたしました」

執事は二人の前で足を止めると、まるで計ったかのような角度で頭を下げた。その流れるような動作には、長く待たせたことへの謝罪の意など微塵も含まれておらず、単に「準備が整った」という事実だけを告げていた。

「閣下がお待ちです。こちらへ」

執事が翻した燕尾服の裾が、空気に踊る。彼は迷いのない足取りで、ホールの正面に鎮座する重厚なマホガニーの両開き戸へと二人を導いた。

廊下を進むにつれ、絨毯が音を吸い込み、周囲の空気はさらに密度を増していった。突き当たりの扉の前で執事が立ち止まり、銀の取っ手に手をかけた。

「レスフォード閣下。スコットランドヤードの方々をお連れいたしました」

執事が扉を押し開くと、そこには外の喧騒を一切遮断した、静謐で圧倒的な「伯爵の領域」が広がっていた。

 扉の向こう、逆光の中で書斎の机の前に座っていたのは、まだ少年の面影を色濃く残した当主だった。まだ幼いのか、体格の割に少女のような線の細さをもつ少年は、書類を読んでいて、二人が部屋に入ってきても顔すら上げなかった。

その両脇には、かっちりとした貴族らしい服を年かさの少年と同じように着込んだ二人の少年が、影のように控えていた。三人は兄弟なのだろうか。彼らはレスフォード伯爵を頂点とした、一点の隙もない三角形の絵のような陣を敷き、闖入者であるキングズリーを、値踏みするような冷ややかな沈黙で射抜いた。

キングズリーは、そのあまりに若く、あまりに美しい構図に、一瞬の戸惑いを覚えた。この子供のような者たちが、本当に血なまぐさい事件の解決を仰ぐ貴族だというのか。

しかし、キングズリーの戸惑いをよそに、サリヴァンは不遜な足取りで部屋の奥へと踏み込み、その靴音が床を叩いたとき、部屋の主がゆっくりと顔を上げた。

キングズリーは、その刹那、心臓を直接掴まれたような衝撃に襲われた。レスフォード伯爵の瞳には、その肉体が経てきたはずの時間とは、到底釣り合わない凍てついた知性が宿っていた。それは純粋な子供のあどけなさと、酸いも甘いも噛み分けた老人の虚無が、一滴の混じり気もなく同居する、深淵のような眼差しだった。

「……サリヴァン警部。君がわざわざここまで足を運ぶということは、ロンドンの石畳がよほど血生臭くなっているということだろう」

その声は、まだ低くなりきっていない少年の澄んだ響きを持ちながら、中身は驚くほど平坦で冷酷だった。サリヴァンは立ち止まり、口角をへらりと吊り上げて笑った。

「相変わらず歓迎の言葉が手厳しいですねぇ。ええ、仰る通りです。霧に紛れて女性を切り裂いて歩く、趣味の悪い奴が幅を利かせていましてね。我々のようなヤードの者だけでは、手も足も出ないというわけです」

サリヴァンはそこまで言うと、背後に立ち尽くしているキングズリーを親指で示した。

「紹介しましょう。私の相棒、アルフレッド・キングズリー警部補です。お会いするのは初めてでしたっけねぇ」

キングズリーは、サリヴァンの紹介にはっと我に返り、慌てて一歩前に出ると自己紹介をした。

「……スコットランドヤードのアルフレッド・キングズリー警部補です」

 キングズリーは、あいさつをしたものの、この歳下で、捜査協力をするという貴族をどう扱えばいいものか測りかねていた。

「ようこそ、キングズリー刑事」机に座った少年は歓迎の意を感じさせない硬い口調でいった。「私はエドワード・レスフォード。隣にいるのが、弟のヘンリーとウィリアム」

「俺らのことは、ハル、ウィルって気軽に呼んで」

 ヘンリーと呼ばれた真ん中の少年がいきなり気さくに言い出したので、キングズリーは目に見えて慌てた。自分よりも身分が上の人間をそんな風に呼んでいいといわれて戸惑ったのだ。

「大丈夫だよ。僕たちは、兄様と違って称号がないから」ウィリアムがいった。「それに、警部さんたちよりずっと年下だしね」

「ということは、君が伯爵?」

 キングズリーは、薄々気づいていたものの、改めて明言されると驚いてエドワードを見た。親が亡くなれば子供が家督を継ぐこともある。だが、普通、栄養状態がよく長生きする傾向にある貴族が、この年の子供を残して死ぬことはあまりない。だから、キングズリーは初めて子どもの伯爵を見て驚いたのだ。

「伯爵とでも、エドワードとでも、お好きなように。先代はすでに亡くなっているので、今は私が伯爵です」

「それは失礼した、閣下」

 アルフレッドは少し畏まった態度でいった。

「別に構わないさ」

ユージンは、二人のやり取りをにやにやしながら見ていた。エドワードを侮り、伯爵だと分かったとたんに態度を変えるアルフレッドと、子どものくせに重々しく受け答えをするエドワードのちぐはぐさが可笑しくてたまらなかったのだ。

それに気づいたアルフレッドは「ユージン。失礼だろう」とすぐさま注意をした。しかし、ユージンは、「すみませんねぇ。もとからこんな顔なもので」と肩をすくめるだけで、まったく反省をするそぶりを見せなかった。

「こほん」アルフレッドはわざと咳払いをすると、「ところで、ここにいるのは君たちだけか。道中、不思議な話を聞いたんだが」と話題を変えるために聞いた。

アルフレッドとしては、当たり障りのない話題を出したつもりだったが、子どもたちは一瞬で殺気立った。

「ほう?どんな話を?」

 エドワードが、気味が悪いほどじっとアルフレッドを見つめながら聞いてきた。

「その……なんというか、幽霊屋敷、みたいな」

アルフレッドは多少居心地の悪い思いをしながら答えた。そのアルフレッドの横で、ユージンは、あーあ、この馬鹿正直な坊ちゃんは言っちまったよ、という顔をわざとらしくしてみせた。

だが、その返事を聞いてエドワードは意外だったらしい。ひどくびっくりした顔をしたかと思うと、ぷっと噴出した。

「夜の街が電灯で昼間みたいに照らされる、この科学の時代に幽霊だって?笑わせるな」

ハルとウィルも同時に笑った。

「警部補さん、もしかして幽霊が怖いんですか?」

ウィルがくすくす笑いながらいった。

「僕たちぐらいの名家ともなれば、家に幽霊が出るぐらいの『箔』はつきますよ」

 そう言われれば、確かにその通りで、待合室で聞いた話も単なる根拠のないうわさ話に思えた。

「それより、ここに来たってことは、私たちに依頼があるんでしょう」とエドワードがいった。

「そうだ」

 キングズリーはようやく本題を思い出した。

「きみたちは新聞を読んでいるか」

いきなりそう聞かれて、エドワードは退屈そうに机の上のペーパーナイフを弄んだ。

「クオリティ・ペーパーから、駅の売店で売られている低俗なタブロイド紙まで、一通りはね。……切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)という、いかにも大衆が好みそうなあだ名のついた殺人鬼の話なら、飽きるほど読まされているよ」

「では、話が早い。……あ、いや、ご存じだったのですか、閣下」

 キングズリーは、意外な反応に言葉を詰まらせた。

「あんな扇情的な記事、眉に唾をつけて読むべきだ。……だが、キングズリー警部補。君がわざわざここまで足を運んだということは、新聞には書かれていない『事実』が、私の手元にある切り抜き以上の価値を持っているということだろう?」

「何人もの女性が同じ手口で惨殺されている。今回の殺人事件は、無差別の殺人とみられる。被害者の親類関係や怨恨の線で探っても、まったく犯人が浮かび上がらない。現場付近の人たちをすべて調査したが無駄足だった。我々にはお手上げ状態だ。そこで、ユージンから君たちを紹介された」

「ほう?」

 エドワードは意味ありげにサリヴァンを見やった。サリヴァンはおどけて肩をすくめた。

「それで、私たちにその事件の捜査に協力してほしいと?」

「ええ。通称『切り裂きジャック』と呼ばれる犯人は、スラム街の女性たちを無差別に殺してまわっている。既にリズ・エドウッド、キャリー・ニコルズ、アン・コンウェイが遺体で発見された。そして、今朝新たに身元不明の女性の遺体が発見された」

キングズリーはそこで一度言葉を切り、周囲を警戒するように声を潜めた。

「……閣下。新聞各紙は、犯人が死体を無残に切り刻んだと書き立てていますが、彼らが掴んでいない事実があります。被害者たちは皆、鋭利な刃物で腹部を割かれ、驚くべき手際で特定の臓器を抜き取られているのです。死体から一部を刈り取っていくなど、常人の発想ではありません」

「ほう?」

 エドワードの眉が、わずかに跳ねた。その反応は驚きというよりは、冷徹な確認に近いものだった。

「これ以上の犠牲者を出す前に犯人を捕まえたい。そのために、閣下にロンドンに来ていただき、捜査に協力してもらいたい」

 キングズリーは、エドワードに深々と頭を下げた。

「なるほど……わかった」

 エドワードは了承した。

「明日にはロンドンに向かおう」

 キングズリーは、エドワードたちが自分たちと同じ夕方の汽車でロンドンに向かわないことを不思議に思った。

「我々と一緒に来ないのか」

「お前らと同じ汽車なんて御免だな」

エドワードは、主にサリヴァンに向かっていった。

「客車は違いますよ、坊ちゃん方。生憎と我々には、六倍もの値段の一等車に乗るお金はないんで」

「それでも御免だね。先にロンドンへ帰っていてくれ。こちらはこちらで情報を集めてから合流する」

サリヴァンはいけ好かない坊ちゃんという表情を浮かべたものの「お好きにどうぞ」といった。「じゃあ、このへんで失礼しますよ」


ようやく息が詰まるような堅苦しい屋敷を出た後、キングズリーは、「あれで本当に大丈夫なのか?」とサリヴァンに詰め寄った。

「まあ、まあ。捜査に行き詰って、『猫の手も借りたい』っておっしゃっていたのはあなたでしょう」

「『子供の手も借りたい』とは言っていない!」キングズリーはいら立ちをあらわにした。「それに、あの厄介さなら猫のほうがマシだ」

「あれでも、ここだけはちゃんとしてますから」サリヴァンはとんとんと人差し指で頭を叩いて見せた。「大人しくロンドンで待つとしましょう」


そのころ、二人の客人がいなくなった書斎で、三兄弟は兄弟だけの気安さに戻っていた。 「ひゃっほう! 兄ちゃん! 事件だよ!」

 ハルはそう叫ぶなり、窮屈なシルクハットを放り投げた。短く切り揃えられた髪が汗で額にはりついている。帽子で隠されていた耳の形や、うなじの白さが、少年のそれにしてはあまりに繊細で、なめらかだった。

「やったね、兄様。手がかりかもしれないよ」

普段は知的で冷静なウィルも嬉しさを隠せない様子で、エドワードの肩に甘えるように頭を乗せた。その仕草は、厳しい訓練を受けた貴族の少年というよりは、冷たい夜に身を寄せ合う姉妹のそれだった。

「ああ。女性だけを狙い、切り裂く異常性。……サリヴァンがわざわざここまで来た理由がわかったな」

エドワードは立ち上がり、壁一面を埋め尽くす巨大な書架の前へ歩み寄った。金箔で装飾された革装本が並ぶなか、迷いなく一冊の古びた背表紙に触れた。それは、アリストテレスの『動物誌』――命を解剖し、分類しようとした男の記録だ。

その背をぐっと押し込むと、カチリ、と硬質な金属音が響いた。直後、床の奥底で巨大な歯車が噛み合うような重低音が鳴り、目の前の書架がゆっくりと回転を始める。

 現れたのは、埃匂いと死の気配が混じり合った狭い空間だった。そこは、かつてこの屋敷の主であった「左足」――前レスフォード伯爵の悍ましい秘密の隠し部屋だった。

隠し部屋の中央に鎮座するのは、逆さまに吊るされた解剖図が描かれたタペストリーだ。その図像は、人体を「五つの肉」に分かち、頭にNの文字、右手にCの文字、左手にLの文字、右足にFの文字、左足にはBの文字が刻まれている。

エドワードは、喉仏のない首筋を隠していた高い襟を割ると、シャツの合わせ目に手を差し入れ、細い銀のチェーンを引き出した。その先には、不釣り合いなほど大きく重厚なシグネットリングが揺れている。

鈍く光る銀の台座には、切り落とされた「左足」の紋章にBの文字。大人の男の指に合わせて作られたその輪は、彼女の細い指にはあまりに無骨で、到底はめることなどできない。だからこそ彼女は、それを鎖に繋ぎ、心臓に一番近い場所に「呪い」として封じ込めていた。

「……『五肉祭パンタグリュエル』」

 エドワードは、心臓の鼓動に合わせて揺れる指輪を、掌の中でぎゅっと握りしめた。硬い補正布に押し潰された胸元で、大ぶりな指輪の塊が、そこだけが生きた心臓であるかのように重く、冷たく主張している。少女の柔らかな輪郭を殺してまで纏ったその布越しに、復讐の証だけが、彼女の肌に鋭く食い込んでいた。

「あいつらは、人間をただの肉の塊だとしか思っていない。今回の『ジャック』が死体から臓器を奪っているのなら、それは組織の新たな『遊び』の始まりかもしれない」エドワードの瞳に、激しい怒りの炎が宿る。その時、ハルとウィルが、吸い寄せられるようにエドワードの両脇へ身を寄せた。三人は互いの体温を確かめ合うように、あるいは一人の人間として形を保つために、固く肩を並べた。

「必ず尻尾を掴んでやる。そして、奴らを白日の下に引きずり出し、私たちから奪った代償として、必ず法の裁きを受けさせてやる」

エドワードが吐き出した言葉は、三人の共有する呼吸となって、冷え切った隠し部屋に溶けていった。三人の少女たちの視線が、逆さまの解剖図へと注がれる。それは、同じ地獄を生き延び、互いの傷跡を縁にして繋がった「一つの生き物」の視線だった。

豪華な書斎の静寂の中で、彼女たちの瞳だけが、復讐の残り火を宿して、爛々と輝いていた。


 次の日。汽車で到着したエドワードたち三兄弟をロンドンのターミナル駅でサリヴァンは出迎えた。蒸気機関車の吐き出す黒煙がプラットホームを覆い尽くすなか、エドワードたち三人は、その煤さえ寄せ付けぬ冷徹な気品を纏って降り立った。

エドワードはタウンハウスへ向かうための馬車を一瞥しただけで、荷物はすべて従僕たちに任せて送り出した。彼らの手にあるのは、地位を象徴する一本の杖のみで、迷いなくサリヴァンの用意した馬車へと乗り込んだ。

「時間が惜しい。まずはその被害者を見せてもらおうか」

エドワードの短い指示で、馬車はロンドンの表通りを滑り出し、警察署へと直行した。

署内に足を踏み入れた彼らは、周囲の警官たちの好奇の視線を一顧だにせず、サリヴァンに案内され、エドワードたちは警察署の地下深く、冷気が淀む死体安置所へと降りて行った。    

扉を開けると、先客が一人、こちらを振り向いた。

「あら。こんにちは、キングズリーさん。サリヴァンさん」

それは死体安置所に場違いなほど朗らかな挨拶だった。しかし、彼女の視線が後ろにいるエドワードたち三人へ移った瞬間、その瞳に検視官らしい目つきの鋭さになった。彼女は、貴族の服に包まれた彼らの骨格を解剖学的な正確さで一瞬のうちに分析し終えると、ふっと表情を和らげた。

「あらまあ、かわいらしい子どもたちね」

 その言葉に、エドワードの胸の奥で、補正布に締め付けられた心臓がわずかに跳ねた。 少女であることを隠し、レスフォード伯爵という虚像を纏って以来、これほどまでに射抜くような視線を向けられたのは初めてだった。彼女の目は、喉仏のない首筋や、厚手のジャケットで隠した華奢な肩のラインを、正確に「女のそれ」として捉えている。だが、幸い、キングズリーは何も気が付いていないようだった。

検視官の彼女は、ちょうど検視台の上でお茶を飲んでいるところだった。いくら台の上に遺体がないとはいえ、検視台とボーンチャイナの繊細なティーカップの組み合わせはあまりに場違いな光景だった。彼女は赤っぽい茶色の髪をきちんと結い上げ、レディの装いをしていたが、その立ち居振る舞いは、ここが死と隣り合わせの場所であることを忘れさせるほど浮世離れしていた。

「ベイリー博士。こちら、エドワード・レスフォード伯爵。それから、その弟のヘンリーとウィリアムだ」

 キングズリーが紹介すると、彼女はちょっと驚いた様子で「まあ。失礼しちゃったかしら」と立ち上がり、ハンカチで手を拭ってから握手を求めて差し出した。

「はじめまして。アナ・ベイリー博士よ」

 エドワードは、差し出された手をしばらく凝視してから握り返した。アナの瞳にあるのは好奇心だけで、自分たち三人姉妹の正体を暴き立てるような下劣な意図はないと直感したからだ。

「……はじめまして」

 エドワードは意識して低い声で、短く答えた。

「彼女がうちの検死官なんだ」キングズリーはいった。「女性だが優秀だ」

その言葉に、エドワードはわずかに眉をひそめた。「女性だが優秀」という、称賛の形を借りた無意識の偏見がいきなり飛び出たからだ。一方、アナはそんな言葉を飽きるほど「誉め言葉」として浴びてきたのだろう。動揺ひとつ見せず、「まあ、優秀だなんて。買いかぶりよ」とさらりと謙遜した。

だが、実際は、彼女は、学生時代、男子学生たちが解剖を前に次々と吐き気を催し、倒れていく中、ただ一人勉学への覚悟で耐え抜いた度胸が指導教官に気に入られ、男性陣を圧倒する成績でめでたく医学博士となった有名人だった。

「それで、私に何か御用かしら?」

アナが問いかけると、キングズリーが表情を引き締めて一歩前へ出た。

「ベイリー博士。例の連続殺人事件についての検視結果を」

その言葉を聞くと、アナは愛用のボーンチャイナを脇にどけ、検視官としての真面目な顔になった。

「ええ、いいわ。……ただし、覚悟はしておいて。今回の『ジャック』は、これまでの不器用な連中とは格が違うわよ」

アナは奥の冷蔵棚の鉄の扉に手をかけた。彼女がその細腕に似合わぬ力で台を引き出すと、白い布に覆われた遺体が現れた。アナはその布の端を掴み、迷いのない手つきでゆっくりと剥ぎ取った。その瞬間、和やかな空気は霧散し、皆遺体へと集中した。

布の下から現れたのは、若い女性の遺体だ。キングズリーは、すかさずポケットから清潔なハンカチを取り出し、口と鼻を覆ってから遺体に近寄った。

「見て、ここよ」

アナがピンセットで示したのは、鎖骨から下腹部へと迷いなく引かれた十字の細い線だった。

「普通、これだけの深さを切れば、周囲の組織はズタズタになる。でも、この傷口を見て。まるで最初からそこに『線』があったかのように、一切の躊躇がない。そして、一番奇妙なのはここよ」

アナが遺体の脇腹を少し持ち上げると、サリヴァンが顔をしかめ、キングズリーがハンカチを握りしめた。

「……子宮がないわ。外科手術のような手際で、まるごと『摘出』されている。犯人はこれを持ち去ったのよ。まるで、彼女から『女』という属性だけを抜き取って、清らかな空洞にしたように」

アナの淡々とした、しかし冷酷な事実の提示に、安置所の空気は氷点下まで下がったかのように静まり返った。その沈黙を破ったのは、エドワードの低く、確信に満ちた声だった。

「救済、か。……いや、これはもっと個人的で、病的な執着だ」

エドワードは遺体の傍らへ寄り、傷口の端をじっと見つめた。そこには、ただ肉を裂くためだけではない、異様なほどの丁寧さが残されていた。

「そうなのよ、伯爵。ジャックの刃物には、憎しみと同時に、うっとりするような『愛撫』の跡がある。彼は被害者を憎んでいるようでいて、同時にその肉体に恋をしているのよ」

そのあまりに倒錯した指摘に、キングズリーは露骨に不快感を示した。

「……博士、失礼ながら、それは少しばかり詩的すぎる解釈ではありませんか。恋、などと。現場にあるのは無残な暴力の痕跡です。女性らしい豊かな感性ゆえの想像かもしれませんが、あまりに情緒に寄りすぎるのは、捜査を曇らせる原因になりかねない」

キングズリーにとって、それは良識ある紳士としての忠告だった。だが、エドワードは彼を冷ややかに一瞥し、その言葉を切り捨てた。エドワードが見ているのは、目の前の刑事ではなく、遺体に刻まれた犯人の痕跡だけだった。

「情緒的、だと? キングズリー警部補。君は事実と空想の区別もつかないのか。これは純然たる、外科的な違和感の問題だ」

 エドワードは手袋を嵌めた指先で、遺体の切開面の縁を、触れるか触れないかの距離でなぞった。

「周辺組織への損傷が極端に少ない。迷いがないのは人体を知り尽くしているからだろうが、それ以上に、この丁寧さは異常だ。犯人にとってこの臓器は、奪うべき戦利品ではない。不純物を取り除いて保護すべき『聖遺物』のように扱っている」

その言葉に、アナが弾かれたように顔を上げた。彼女の瞳には、自分の思考の先を行く者を見つけた時の、隠しきれない歓喜が滲んでいた。

「……聖遺物。まあ、素晴らしい表現だわ、伯爵! その通りよ。切り口を観察して。通常、摘出を急ぐなら血管の処理はもっと雑になる。けれどこの犯人は、まるで生きている患者を執刀するかのように、最短かつ最も美しい経路を選んでいるわ」

「ああ。つまり、ジャックにとっての殺人は、彼女を殺すことではなく、彼女を完成させるための『儀式』だ。……ベイリー博士。君は先ほど、彼がその肉体に恋をしていると言ったな。それは単なる性愛ではない。完璧な形への崇拝だ。彼はこの女性を、自分の理想とする無垢な偶像へと作り替えたかった。だからこそ、外科的な正確さが必要だったんだ」

二人の会話は、もはやサリヴァンやキングズリーを置き去りにして、加速していっていた。

「そうね。だからこそ、彼はこの場所で作業を終えなかった。伯爵、この遺体から『抜き取られた』のは、子宮だけではないわ。……彼が執着しているのは、もっと別の象徴的なもの。貴方なら、この傷の『終わり』がどこに向かっているか、見えるかしら?」

アナがピンセットの先を、遺体の胸骨のちょうど中心へと滑らせた。エドワードはアナの意図を汲み取り、わずかに身を乗り出してその傷の「起点」を見据えた。

「……心臓、だな」

エドワードの低く鋭い声が、冷えた空気の中を走った。

「アナ、君の言いたいことはわかる。彼は彼女から『命の鼓動』を奪ったのではない。……スラム街の泥にまみれ、卑俗な欲望のために脈打っていた汚れた心臓を、わざわざ外科的に取り除いてやったんだ。彼女を、鼓動すら持たない静謐な聖像へと昇華させるために」

エドワードの言葉に、アナは深く頷いた。

「その通りよ。ジャックにとって、この作業は『不純物の除去』なの。胸を切り開くという野蛮な行為ではなく、彼女の魂を肉体の呪縛から解き放つための、外科的な奇跡。……見て、この切断面を。まるで、ここにあるべきだった『汚れ』が最初から存在しなかったかのような、清々しい空洞だわ」

キングズリーは、その会話の異常さに顔を青ざめさせた。

「……待ってください。どこの誰とも分からぬ、スラムの行き倒れかもしれない女ですよ。あんな場所で惨殺された死体に、なぜそこまで高潔な動機を想定するのですか。これはただの狂人の凶行だ」

その問いに、エドワードは鼻で笑うような高慢な態度で答えた。

「キングズリー警部補、それが君の限界だ。犯人にとって、彼女が何者であるかは問題ではない。問題なのは、彼がこの『泥の中の女』に、あろうことか抗いがたく惹かれてしまったということだ」

エドワードは遺体の傍らで、その冷たい顔を見下ろした。その瞳には、犯人の胸中にあるであろう地獄が映っているようだった。

「彼は彼女を蔑んでいる。自分を惑わす不浄な存在として呪っている。だが、同時に彼女なしではいられないほど、その肉体に、その生命に、狂おしく執着してしまった。……その救いがたい矛盾に耐えきれなくなった彼は、自らの手で彼女を『殺し』、自らの理想にのみ忠実な『聖女』へと作り替えることでしか、その歪んだ愛を完結させられなかったんだ」

エドワードは、心臓のあった場所——今は清らかな空洞となった部位を指し示した。

「殺しは、彼にとっての唯一の祈りだ。彼は彼女から『女』を奪うことで、ようやく彼女を清らかに愛せるようになったんだ。……違うか、ベイリー博士?」

アナは、ピンセットを口元に当てて、まるで美しい真理を突きつけられた少女のように、その瞳を爛々と輝かせた。

「ええ、その通りだわ、伯爵。あまりに哀れで、あまりに完璧な解答。……フフ、彼にとってこの空洞は、ようやく手に入れた『汚れなき処女』の証というわけね」

サリヴァンは、二人の女性のやりとりに満足げに口の端を吊り上げた。彼はこの、常人には踏み込めないほど鋭利な知性の応酬を最高級の観劇でも楽しむかのように眺めていた。自分にはない、そしてキングズリーのような「真面目な人間」には決して持ち得ない、闇を覗き込む才能。それこそが、この難事件を解く鍵になると確信しているのだ。

対して、キングズリーはハンカチを握りしめたまま、困惑と、得体の知れない畏怖の混じった眼差しを二人に向けた。

「……殺人を、愛だの祈りだのと。我々が追うべきは法を犯した凶悪犯であり、神学や芸術の対象ではないはずだ」

それは良識ある捜査官としての正当な叫びだった。だが、エドワードは彼の方を見ることさえせず、手袋を脱ぎ捨てながら静かに告げた。

「法を追うだけで捕まる相手なら、スコットランドヤードだけで事足りているはずだ。自力で解決できないからこそ、君たちはこうして私を呼び出したんだ。その程度の自覚は持ってもらわなくては困る」

キングズリーが言葉に詰まり、屈辱に顔を強張らせるのを、サリヴァンはどこか楽しげで皮肉な微笑で見守っていた。

「サリヴァン警部、ここでの検分は終わった。この聖女の生前の名を知る必要がある。イーストエンドの泥を攫いに行くぞ」

サリヴァンが「了解した、伯爵」と短く応じ、地下室に再び革靴の音が響き始めた。

アナは名残惜しそうに遺体に白い布をかけ直すと、エドワードに向かって深々と、親愛を込めた一礼を捧げた。

「またお会いしましょう、伯爵。これほど実りある、知的な会話ができたのはいつ以来かしら。とても有意義な時間だったわ」

アナはそう短く告げると、すでに次の作業へと意識を切り替えたのか、手元に視線を落とした。その簡潔な別れの言葉には、これ以上の犠牲者を望まない医学者としての節度と、エドワードの知性に対する確かな敬意が込められていた。エドワードは、ハルとウィルを引き連れて、後ろを振り返らずに死体安置所を後にした。

地上に出ると、サリヴァンは闇に向かって短く口笛を吹いた。すると、霧の向こうから一台の、塗装の剥げかけた古びた辻馬車が音もなく近づき、三人の前で止まった。

「馬車を呼びましたよ、坊ちゃん方。本当にこれからイーストエンドに行くんで?」

「ああ」 エドワードは短く答えた。「ただし、ここからは私たちのやり方でやらせてもらう。手出しは無用だ」

 エドワードのきっぱりとした物言いに、サリヴァンはへらりと笑った。

「はいはい、わかりましたよ。でも、きっとこれは必要でしょう?」

サリヴァンは、どこからか麻袋を取り出した。

「……今回の被害者の身元を洗うために、監獄の倉庫から『適当なもの』をいくつか見繕っておきましたよ。それと、被害者の唯一の所持品だったブローチを入れてあります。ホワイトチャペルの境界で降ろすよう頼んでありますんで、そこから先は、坊ちゃん方に任せますよ」

サリヴァンは、それだけ言うと返事も待たずに闇の中へ消えていった。

走り出した馬車の狭い室内で、エドワードは麻袋を開き、中から酸っぱい汗と埃の匂いが染み付いた古着を引き出した。

「ハル、ウィル。着替えるぞ」

ここでは「伯爵」の低い作り声は必要ない。エドワードたちは、三姉妹だけの本来の距離感に戻った。高価なシルクのタイを解き、肌を刺すような粗末な綿のシャツに袖を通す。それは、かつて彼女たちがストリートで、ただ飢えと寒さから逃げるために纏っていた皮膚そのものだった。貴族としての虚像を剥ぎ取るたびに、イーストエンドの泥にまみれて生きていた頃の記憶が、呪いのように蘇ってくる。

三人は、狭い車内で互いの肌が触れ合うほどの距離で、黙々と着替えを進めた。ふと、隣で震えるウィルの指先に、ハルが自分の手をそっと重ねた。ウィルは丁寧で繊細な性格ゆえに、この「汚れ」を纏うことで、今の自分たちまでもが壊れてしまうのではないかという恐怖に支配されかけていた。

「ウィル、お前は口に気をつけろ。お前の丁寧な喋り方は、あそこでは命取りになりかねない」

エドワードが静かに諭すように言った。ウィルを叱るためではなく、自分たちを「あちら側」の住人として完成させるための、生存確認に近い言葉だった。

「……分かってるよ、兄様。大丈夫」

「ハルもだ。お前のその、考えるより先に身体が動く癖に気をつけろ。今はお前にも貴族らしさが染みついている。迂闊な行動には気を付けるように」

「わかったよ、兄ちゃん」

 二人の返事を聞くと、エドワードはすうっと深呼吸をした。自然とハルとウィルがエドワードを支えるようにエドワードの手に自分たちの手を重ねた。

「……思い出せ。私たちが、どうやってあそこで息をしていたか。三人で、どうやって生き延びてきたか」

 三人は手を握り合い、覚悟を確かめ合った。そして、エドワードは、最後に麻袋から靴墨の缶を取り出すと、指先で中に入っていた黒い煤を掬い取った。それを躊躇なく、自らの整った頬と鼻筋に塗りつけていく。それは化粧ではなく、戦場へ戻るための、そして三人で生還するための儀式だった。ハルとウィルもまた、互いの顔に煤を塗り合い、髪を粗雑な帽子の中に押し込み、浮浪児へと変貌していく。

数分後、馬車がイーストエンドの入り口で止まった。扉が開いた時、そこから降りてきたのは、先ほどまでの高貴な貴族たちではない。どこにでもいる、しかし眼光だけが異常に鋭い、三人のストリートチルドレンだった。

馬車の車輪が去っていく音が、霧の奥へと消えていった。後に残されたのは、石炭の煙と馬糞、そして腐りかけの残飯の匂いが混じり合った、濃厚なイーストエンドの空気だ。

三人は、周囲を警戒する視線を走らせた。その立ち姿は、もはや貴族のそれではない。重心を低く保ち、いつでも逃げられる、あるいはいつでも襲いかかれる野良犬のようなしなやかさが、彼女たちの身体に戻っていた。

「……まずは、あそこへ行こう」

 エドワードが顎で示したのは、傾いた長屋が迷路のように入り組んだ路地裏だった。

「あの被害者がこの界隈の住人だったなら、あのネズミたちが知らないはずがない」

エドワードの言う「ネズミ」とは、情報の対価としてわずかなパン切れを求める、スラムの浮浪児たちのことだ。三人は、暗がりに潜む「かつての自分たち」のような視線をいくつも感じながら、慣れた足取りでぬかるんだ道を進み始めた。

「……兄様、あそこ」

 ウィルが声を潜めて、路地の隅を指差した。数人の少年たちが、割れた樽に火を焚いて暖を取っている。彼らは一斉にこちらを向いた。侵入者を拒む、鋭く、乾いた視線。

エドワードは、不敵に笑い、一歩前に出た。

「おおい、そこの餓鬼ども。いい話があるんだけど、聞く耳はあるかい?」

その声は、もはや貴族のものではない。イーストエンドの泥に馴染んだ、野卑でいてどこか人を惹きつける、ストリートのそれだった。だが、相手は、見慣れないエドワードたちに警戒心を持っていた。

「おいおい、見慣れないツラだな。お坊ちゃん。どこから来たんだ?」

一人がしゃべると、まわりがヒューヒューとはやし立てた。

「なんだそのなよっちい体つきは。女みたいに細い手足しやがって。どこかのいいところから落ちぶれてきたのか?」

「知らねぇのか。ここは入るだけで通行料がいるんだよ、お坊ちゃん」

 一人がエドワードに木の棒を突き付けた。

「通行料?冗談だろ?まさか、この俺に通行料を要求してんのか?」

エドワードは不敵に笑うと、木の棒をはねのけた。

「お前たちがその薄汚れた指先で触れていいのは、せいぜいドブネズミの死骸くらいじゃねぇか」

 すると、相手は顔を真っ赤にして怒った。

エドワードは深く溜息をついた。

「……ウィル、下がってろ。ハル、お前はやりすぎるな」

「了解、兄ちゃん!」

 ハルが返事をするより早く、エドワードの身体が動いた。無駄のない動きで少年の懐に飛び込み、喉元を肘で強打する。悲鳴を上げる間もなく少年は崩れ落ち、残りの少年たちもハルがねじ伏せた。

「ハア。鈍いな。今のイーストエンドは、こんな鈍間でも生きていけるほど甘くなったのか?」

 エドワードは、地面に倒れ込んだ少年たちを見下ろしていった。

「な、なんだこいつら……っ。おい、ボスを呼んでこい!ボスだ!」

少年たちは、鼻血を流しながら這う這うの体で逃げて行った。エドワードは追おうともせず、冷めた目でその背中を見送った。

数分後。路地の奥から、ボロボロになった少年たちを後ろに従えて、少し年かさの少年が現れた。

「どこのどいつだ、俺のシマで暴れてる命知らずは――」

威圧的な声を上げながら出てきたその少年は、エドワードと視線がぶつかった瞬間、石像のように硬直した。

「……おい。……嘘だろ」

彼は信じられないものを見るように目を見開いた。

「……エド、なのか? お前、死んだんじゃなかったのかよ」

「見ての通りピンピンしてるよ。俺も、ハルも、ウィルもな」

 エドワードが両手を広げると、相手の少年は親友との再会を嬉しがるようにしっかりと抱き合った。

「マジかよ、死んだと思ってたぜ」

「で、キット。今はお前がここのボスか?」体を放すと、エドワードが聞いた。

「まあな。でも、エド。お前たちは、貴族の屋敷に引き取られたんじゃなかったのか?」

 その話を聞いて、一瞬、ハルとウィルの顔がかつての屋敷での恐怖を思い出して硬直した。だが、エドワードは「んなわけねーだろ」と軽やかに笑い飛ばした。

「どこの貴族が浮浪児を引き取るよ?それに、お高くとまったお貴族様なんて、こっちから願い下げだ」

「それもそうだな」とキットも豪快にわらった。「とにかく、お前らならいつでも歓迎するよ。ボス女さん」

「その呼び名はやめろって」

「おい、お前ら。こいつは死神の使いだ。手を出せば、今夜中にドブ川に浮かぶことになるぞ。……消えろ!」

少年たちが蜘蛛の子を散らすように去っていくと、キットは改めて三人を値踏みするように見た。

「で……死人が何の用だ? まさか、このシマを返しに来いなんて言うんじゃねえだろうな。……それとも、やっぱりあの噂、半分は本当なのか? その後ろの二人は、ずいぶん小綺麗になったように見えるぜ」

キットの視線が、煤の下で品格を隠しきれていないハルと、怯えを抑えようとして背筋を伸ばしているウィルに注がれる。

「……昔の話をしに来たんじゃねぇよ。お前のその鋭い『ネズミ』たちの力を貸してほしいだけだ」

 エドワードはそう言うと、懐からサリヴァンが用意した「被害者の遺留品」……古びたブローチを取り出した。それは、あの女性の唯一の持ち物だった。

「これを持っている女を見なかったか。数日前の夜だ」

キットはブローチを一瞥し、ニヤリと笑った。

「……わかったよ、エド。あんたの頼みだ、特別に『フル・ネットワーク』を開いてやる」

キットが指を口に当てて、独特の鋭い口笛を吹いた。すると、暗がりのあちこちから、呼応するように異なる音階の口笛が返ってくる。それは、ホワイトチャペルの迷路のような路地裏を伝い、壁を越え、下水道の蓋の裏まで響いていった。

エドワードもまた、キットの口笛の合間に、かつて自分たちが使っていた「緊急招集」の合図を混ぜた。すると、建物の屋上から、ゴミ溜めの影から、あるいは酒場の裏口から、次々と影が動き出した。「エドが帰ってきた」「死神の使いが情報を求めている」という報せが、驚異的な速さでスラムを駆け巡っていく。

「……始まったぜ」

キットの言葉通り、数分もしないうちに、最初の「報告」が届いた。一人の小さな、片足を引きずった少年が闇から現れ、エドワードの足元に跪くようにして囁く。

「……そのブローチの持ち主、知ってるよ。ドセット・ストリートの長屋に住んでるメアリー・チャップマンのものだ」

続いて、洗濯物干し場の影から少女が現れる。

「いつもボロボロの手で、マッチの臭いをさせていた人でしょう。旦那が蒸発して、子どもたちを養うために休む間もなく働いていたわ。彼女が家から出るなんてめったなことではなかったわよ」

「違うわよ、彼女ならいつも聖ジュード救護院にいたわ、これは確かよ」別の少女が言った。「子どもたちに『今夜はごちそうを買って帰るからね』って約束して、本当にごちそうを買って帰ったそうよ」

「マッチ箱づくりの女が?ごちそうを?」

 ウィルは怪訝な顔をした。この界隈でマッチ箱づくりといえば、一日十六時間働いてようやく数ペンスを得られるかどうかの、呪われたような内職だ。糊と紙の匂いにまみれ、指先をすり減らして千を越える箱を組み立てて、ようやく家族がその日のパンにありつける。  肉の一片どころか、清潔な水さえ贅沢な彼女たちが、子どもに「ごちそう」を約束するなど、普通ならありえない。しかし、先ほどの少女は自信ありげに「そうよ。これは本当のことよ」といった。

「それ以来、彼女は救護院に通い詰めて、三日前までそこで姿を見られていたそうよ。それ以来彼女の姿を見たものはいないけど。姿を消す前、彼女はこう言っていたらしいの。『ケイン卿に特別に選ばれた』って」

彼女の話には情報がたくさん詰まっていたが、エドワードはメアリー・チャップマンが救護院にいた、という言葉に引っ掛かっていた。救護院は、困窮者を救済するためという名目とは裏腹に、そこへ頼らざるを得ない境遇そのものを「罪」として扱う場所だった。「無償の施しは人間を怠惰にする」との思想のもと、入所者は服を取り上げられ、囚人のような制服に着替えさせられ、家族と引き離されたうえで、骨を砕いて肥料にしたり、古いロープを解いて繊維に戻したりといった、無意味な苦役を朝から晩まで延々とさせられる。救護院は、絶望に絶望を重ねた人でも門をたたくような場所じゃなかった。

「救護院だと?メアリー・チャップマンは救護院なんかに行ったのか?」

 エドワードの声には、隠しきれない不快感が混じっていた。エドワードたちが浮浪児をしていたころ、救護院は、貧困を罰するように労働を強いる地獄の代名詞でしかなかったからだ。しかし、キットは熱を帯びた瞳でエドワードを遮った。

「ああ、そうだ。だがエド、勘違いするな。聖ジュード救護院だけは、他のゴミ溜めみたいな場所とはわけが違うんだ」

キットが手を広げると、周囲にいた少年たちも一斉に頷いた。その表情には、飢えた野良犬が神を仰ぎ見るような、歪なまでの心酔が浮かんでいた。

「ジェラルド・ケイン卿は本物の聖人様さ。あそこへ行けば、凍える夜にスープがもらえるだけじゃない。卿が直接、俺たちの仲間に読み書きを教えてくれたり、真っ当な仕事の口を回してくれたりするんだ。あそこだけは、この泥沼に唯一残された『天国』なんだよ」

「そうよ!」と、先ほどの少女が声を弾ませていった。「ドセット通りじゃ有名な話だわ。ケイン卿はメアリーのことも気にかけていたの。あの日、卿は彼女に『君のように徳のある女性こそ、ふさわしい場所へ導かれるべきだ』って手を差し伸べたそうよ。本当に、メアリーは卿に選ばれた幸運な人なのよ」

 話をまとめると、スラムの住人たちの間では、ケイン卿による「奇跡」の噂が熱狂的に駆け巡っていた。

 ――足の悪い老婆が、卿の援助で療養所に入れた。

 ――親を亡くした娘が、卿の紹介で屋敷のメイドとして雇われた。

 具体的な成功例が、希望という名の毒となって、絶望の淵にいる彼らの心に深く染み込んでいた。

「……だがよ、エド」

 キットが急に声を潜め、視線を泳がせた。

「妙な噂もあるんだ。卿に特別に選ばれて『救済』されたはずの女たちが、誰一人としてその後の姿を見せねぇ。……手紙の一通も届かない。みんな『素敵な場所へ行った』ってことになってるが、夜の帳に溶けるみたいに、ふっと消えちまうんだ」

「救済、ね」

 エドワードはブローチを握りしめ、冷たく吐き捨てた。

「慈善家の仮面をかぶった蜘蛛が、最も絶望している獲物を慎重に選んで、甘い言葉で巣へ誘い込んだ……」

エドワードはブローチを握りしめ、キットに向かって短く頷いた。

「助かったぜ、キット。お前のネズミたちは、最高の仕事をしてくれた」

「ああ。……なあ、エド。あそこを嗅ぎ回るつもりか?」

キットは少し不安げに、けれどどこか縋るような目でエドワードを見た。

「あそこは俺たちの最後の希望なんだ。……メアリーはきっと、本当に幸せになったんだよな? 卿が、彼女を綺麗な場所へ連れて行ってくれたんだよな?」

その問いにエドワードは答えず、ただ暗い霧の先を見つめた。

「……それを自分たちの目で確かめてくる。じゃあな、キット」

エドワードが背を向けた瞬間、キットは何かを言いかけて口を閉ざした。煤の下にあるエドワードの瞳が、もう自分たちと同じ「ドブネズミ」のそれではないことを、彼は悟っていた。エドワードもまた、キットが縋っている「天国」の正体を暴きに行く残酷さを自覚し、あえて顔を合わせようとはしなかった。

互いに、これが永遠の別れになると肌で感じながら、エドワードは短く、一度だけ手を上げた。

「またな。……元気でいろよ」

「お前らもな」キットはいった。

エドワードは一度も振り返ることなく、ハルとウィルを連れて霧の先へと消えていった。


三人がスラムの出口へ差し掛かったその時、霧の向こうから迷いのない足音が響いた。 「そこの少年。止まりなさい。懐に入れたものを出しなさい」

現れたのはキングズリーだった。彼はエドワードの煤けた顔とボロを纏った姿を一瞥し、無意識に自分の胸元に手をやった。外套の内側にあるはずの懐中時計と財布の重みを確かめ、盗賊を検品するかのような冷ややかな視線を向ける。

「善良な市民から不当に奪ったものがあるのなら、今のうちに私へ渡しなさい」

キングズリーは、エドワードの腕を正確に、事務的な手際で掴んだ。彼にとって、目の前の少年が盗みを働いたと判断するのは当然の帰結だった。言葉遣いこそ丁寧だが、そこに敬意は微塵も含まれていない。

「さあ、署まで同行してもらおうか」

「……驚いた。キングズリー警部補。貴方のその『法』への忠実さは、相手が泥だらけの少年であっても揺らがないのですね」

掴まれた腕を解こうともせず、エドワードが静かに口を開いた。低く、理知的で、圧倒的な教養を感じさせるその響きは、この路地の汚濁にはおよそ似つかわしくないものだった。

「……え? エドワード……いや、伯爵じゃないか!」

 キングズリーは、目の前の「浮浪児」の瞳に宿る、鋭く冷徹な光に息を呑んだ。彼は弾かれたようにその手を離し、数歩後ずさった。

「失礼した、伯爵。……まさか、このような真似を。私としたことが、貴方を犯罪者扱いするなど……」

「ははは。キングズリー警部補。私を泥棒扱いしたことは問わないでおいてあげますよ」

 エドワードは煤けた顔のまま、不敵な笑みを浮かべた。

「しかし、閣下。なぜそのような恰好を?」

「キングズリー警部補の反応から見ても明らかじゃないですか。身分社会では身に着ける服次第で階級が変わるんですよ。よそ者の伯爵なんてここでは相手にされません。馬車の上から金貨でもばら撒けば人は寄ってくるかもしれませんが、所誠金を持って行って終わりですよ。馬車から降りたところで同じこと。ならば、この町の流儀にならったまでです」

「……なるほど。流儀、ですか」

 キングズリーは少し感心して、エドワードの熱意に敬意を払った様子だった。

「しかし、伯爵。その流儀に従って、貴方は何かを掴んだのですか? 泥に塗れてまで、得たものがあったというのですか」

その問いを待っていたかのように、エドワードは懐からメアリーのブローチを取り出した。

「ええ。被害者が身に着けていたこのブローチが答えを連れて来てくれました。彼女の名前はメアリー・チャップマン。ドセット通りの長屋で、子供たちのために夜通しマッチ箱を作っていた女性だと判明した」

「名前を突き止めたというのですか。この短時間で」

キングズリーは驚愕に目を見開いた。彼が足を使って散々調査をしても、スラム街の人込みに埋もれ、まったくわからなかった被害者の名前だ。

「ええ。そして彼女は、三日前の晩にある『聖域』に招かれた。キングズリー警部補。貴方が最も潔白だと信じ、警察が一度も疑いの目を向けなかった場所だ」

エドワードの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。

「聖ジュード救護院。彼女は、そこでケイン卿から特別に『救済』されるのだといって、姿を消した」

「……まさか。あのケイン卿が?」

キングズリーの顔から血の気が引いた。聖人として名高い慈善家と、路地裏の無惨な死体。その二つを繋ぐ線は、彼にとって天と地がひっくり返るほどの衝撃だった。

「慈善の権化のようなあの方が、そんな……」

キングズリーが絶句し、足元がふらついたその時、霧の向こうからもう一つの足音が近づいてきた。

「おや、潜入は首尾よく運んだようですね、坊ちゃん方」

 現れたのは、いつもと変わらぬ穏やかな、しかしどこか冷徹な観察者の眼差しを湛えたサリヴァンだった。彼はエドワードの煤だらけの姿を見ても眉一つ動かさず、キングズリーの横に並び立った。

「ユージン。どこに行っていたんだ。全く目を離すとふらふらと」

キングズリーの小言を、サリヴァンは静かに手を上げて遮った。

「失礼。少しばかり、捜査資料を読み直していたんですよ。……いやはや、ケイン卿ですか。完全に盲点でした。しかし、そうか……確かに彼は、お貴族様の嗜みとしては異例なほど医学に精通していましたっけねぇ」

サリヴァンの言葉に、キングズリーが息を呑んで振り返った。

「医学……? 爵位を持つ身でありながら、なぜそのような、実務的な技術に手を」

「彼は探求心の強いお方ですから。当時は情熱ある慈善家が、貧しい人々を救うために自ら医術を学んでいるのでしょうと美談にされていましたが……今の話を聞けば、全く別の色がついて見えますねぇ」

サリヴァンは、安置所での光景をなぞるように静かに続けた。

「あの死体の傷口を思い出してください。あれは、ただの暴漢にできる仕業ではありませんよぉ。高度な医術を心得、かつ人間を血の通った存在と見なさない冷酷な理性があって、初めて成し遂げられる所業ですよ。ケイン卿なら、それが可能です。彼は救護院という名の、誰の目も届かない巨大な実験場を持っているのですからねぇ」

サリヴァンの冷静な指摘は、キングズリーが抱いていた「聖人」の虚像を無慈悲に引き裂いた。エドワードはブローチを握りしめ、キングズリーを射抜くような目で見つめた。

「……警部補。聖ジュード救護院は天国なんかじゃない。聖人が執刀医を務める、巨大な屠殺場のようなものだ。このまま警察が『聖域』だと拝んでいる間に、メアリー・チャップマンのような犠牲者が増え続けるだろう」

「……っ、そんなことが……許されてたまるか」キングズリーの拳が、怒りで白く震えていた。「今すぐ聖ジュード救護院の確かめに行く」

「ちょっと」

 これには、エドワードたちもサリヴァンも驚いた。

「アルフレッド、無策で救護院に行っても何も得られないと思いますよぉ」

「これが、じっとしていられるというんですか。もしこの話が本当なら、ケイン卿はすでに4人の女性を殺しているんですよ!」キングズリーは義憤に駆られていった。

「それは確かに、そうなんですけどねぇ」

 煮え切らない態度のサリヴァンに、キングズリーはしびれを切らしたように動き出した。

 一度こうと決めたら引かないキングズリーの性格を知っているサリヴァンは、やれやれと頭を振った後、エドワードたちに助けを求めるような視線を寄こした。エドワードは黙って肩をすくめた。

「つきあいきれませんね」

「はぁ……でも、オレは、腐ってもあいつの上司で相棒なんで。ついていきますかねぇ」

 サリヴァンは愚痴りながらもキングズリーの後を追った。


「頼もう、頼もう」

キングズリーは、自身の正義感だけを頼りにジュード救護院の扉を叩いた。すると、中からこざっぱりとした服装の女性が出てきた。

「何か御用でございましょうか」

「スコットランドヤードのキングズリー警部補だ! 責任者のケイン卿を出してもらおう!」

キングズリーの叫びは、救護院の清潔な廊下にやけに大きく響いた。

「ケイン卿でございますか?警察の方といえども、急な訪問は困るのですが……。ケイン卿は大変忙しくいらっしゃいまして」

 すると、救護院の奥から「いや、いいんだよ、マーサ」と言いながら、大柄で髭をたくわえた男性が現れた。

「私がジェラルド・ケインだ」

 ケイン卿は、凶悪な犯人のような見た目ではなく、一分の隙もない貴族らしい服の上に白いエプロンを掛け、慈愛に満ちた表情をしていた。

「スコットランドヤードがそんなに血相を変えて、一体何用かね」

「……卿、失礼を承知で伺う。現在行方不明になっているメアリー・チャップマンを、三日前の晩、貴方はこの救護院に招きましたね。彼女の安否を確認させてもらいたい。今すぐ、施設内の捜査を許可していただこう」

キングズリーの鋭い要求に対し、ケイン卿は怒るどころか、困った子供を見るような柔和な微笑を浮かべた。

「ああ、あの哀れなメアリーのことですか。ええ、確かに私が彼女をここに招きましたよ。どうぞ。隅々までご覧なさい。ここは神の愛が形を成した場所だ。やましいことなど、何一つとしてありはしません」

ケイン卿に促され、キングズリーは救護院の奥へと足を踏み入れた。だが、そこで彼を待っていたのは、期待していた凄惨な現場ではなかった。廊下は塵一つ落ちていないほど磨き上げられ、窓からは春の陽光が穏やかに差し込んでいる。病室へ一歩入れば、そこには純白のシーツに身を包んだ貧民たちが、穏やかな表情で休息を取っていた。

「また新しい仲間かい?」

 一人の男性がケイン卿がキングズリーを連れて歩いているのを見て声をかけた。

「いやいや、彼は見学に来たスコットランドヤードの警部補さんだよ」ケイン卿は優しい口ぶりで説明した。すると、「……あ、ああ、警部補さん。ケイン卿は、本当に、聖人様なんだよ」と足の悪い老人が、涙ながらにキングズリーの手を握った。「あの日、死にかけていた俺を、卿が自ら抱きかかえてこの天国へ連れてきてくれたんだ。温かいスープと、清潔な寝床……。これ以上の幸せが、この世にあるもんか」

 それを皮切りに、救護院の老若男女がキングズリーのそばに駆け寄ってきて、口々にケイン卿に対する感謝の言葉を述べ始めた。

キングズリーは、自分が汚泥の中にでも足を踏み入れたかのような、言いようのない不快感と眩暈に襲われた。

「……どうしました、警部補。地下室も、倉庫も、私の私室さえも、望むならお見せしましょう。ですが、ここは多くの貴族の方々が出資してくださっている『聖域』でもある。何の証拠もなく、ただの推測でこれ以上騒ぎ立てるというのなら……ヤードの正義も、少しばかり度を越していると言わざるを得ませんな」

ケイン卿の言葉は、どこまでも丁寧で、しかし「法」よりも強固な「貴族の壁」となってキングズリーを押し返した。キングズリーは拳を握りしめ、あまりに白すぎる壁を見つめながら立ち尽くすしかなかった。

その光景を、救護院の入り口で腕を組んでいたサリヴァンが、冷ややかに眺めていた。

「……だから言ったんですよ。あの人の『白さ』は、ドブ板を一枚めくったくらいじゃ、びくともしないってねぇ」

 サリヴァンは口の中でつぶやいた。

「警部補。私はあなたに誠意を見せました。今度はあなたが誠意を見せる番ではありませんかな」

 ケイン卿にそう言われ、キングズリーは言葉に詰まった。正義感だけでは、この磨き上げられた白壁の沈黙を打ち破ることはできなかった。

「スコットランドヤードの失礼を、私からも詫びよう。ケイン卿」

その時、救護院の入り口から、冷徹な響きを持つ少年の声が届いた。 エドワードだった。ハルとウィルを従え、煤を落として再びレスフォード伯爵の装いに戻った彼は、その手に一枚の小切手を持っていた。

「レスフォード伯爵閣下。なぜこちらへ?」

 すっかり意気消沈したキングズリーがいった。

 レスフォード伯爵、そう呼ばれた子どもを目に映した時、ケイン卿の眉がわずかに、不快げに動いた。卿の瞳には、キングズリーに向けた慈愛の影はなく、自分たちの神聖な静寂を乱す「俗物」への嫌悪が走った。ケイン卿は、目の前の少年――いや、少年の皮を被った何者かを凝視した。警察のような愚か者なら、この清潔で完璧な白壁を見せれば黙る。だが、このレスフォード伯爵の瞳には、欺瞞を見抜く知性だけではなく、「自分と同じ闇の匂い」が宿っていた。そのことをケイン卿は、本能的に察知したのだ。

「ヤードの無作法を宥めにきたのさ。巷では、卿がこの掃き溜めのようなスラムを、神も驚くような清らかな庭に変えられたと専らの評判でね。高潔なる慈善こそ、我々貴族が誇示すべき最大のステータスだ。卿のその素晴らしい献身を耳にし、私も同じ特権階級に連なる者として、深い感銘を受けたというわけだ」

エドワードは小切手をケイン卿の目の前で軽く振った。そこに書かれた数字は、救護院を数十年維持できるほどの巨額だった。

「レスフォード家としても、これほど『本物』の、一点の曇りもない天国を運営される卿を、永続的に支える義務があると感じたのだ。法さえ理解できぬヤードの愚か者には、卿がこの壁の裏で、どれほど崇高な意志に基づき『不浄なもの』を選別し、救済されているかなど到底理解できまい。だが、私にはわかる。……どうかな。これほど心躍る投資先を、私自身の目で、隅々まで納得させてもらいたいのだが。……卿は、私のような同志を拒むような野暮な真似はしないだろう?」

ケイン卿は一瞬、硬直した。この傲慢な少年伯爵の寄付を拒むことは、彼が掲げる慈善の論理に反する。彼は唇の端を歪な微笑に形作り、恭しく頭を下げた。

「……光栄です、閣下。どうぞ。私自ら、この救護院をご案内しましょう」

ケイン卿が恭しく一礼し、先導を始めた。エドワードは杖を軽く鳴らし、その後ろに続く。  ハルとウィルもまた、従順な「弟」たちの顔をして続いた。さらに後方には、招かれてもいないのに当たり前のような顔をしてついていくサリヴァン警部と、サリヴァン警部の判断を疑いながらも続くキングズリー警部補の姿があった。

「閣下、こちらが第一病棟でございます」

ケイン卿は誇らしげに、日当たりの良い第一病棟の説明を始めた。

「ここでは、結核に冒された者たちに純粋な空気と、栄養価の高いスープを提供しております。閣下、このシーツの白さをご覧ください。貧民街では決して拝めぬ光栄でしょう」

「ああ、眩しいほどだ。だが、卿。私は見かけの白さだけで満足するほど安い男ではないのだ。この廊下の隅の埃はどうだ。掃除が行き届いているという触れ込みだったが、これでは私の屋敷の犬小屋の方がまだ清潔だ。卿、寄付金というのは、こういう細かな綻びから霧散していくものではないか?」

エドワードは杖の先で、壁の継ぎ目や床の隙間をわざとらしくなぞり、汚れを探すような仕草を繰り返した。

「それに、先ほどの第一病棟だが……日当たりの計算がなっていない。結核患者に一番必要なのは陽光だ。窓の角度が悪く、これでは午後の早い時間には影が落ちるだろう?私なら設計からやり直させるね。卿、お前の情熱は認めるが、実務的な詰めが甘いのではないか?」

ケイン卿の頬の筋肉が、ピリピリと微かに痙攣した。彼にとってこの救護院は、自身の崇高な理想を具現化した「聖域」だ。そこを小姑のように、それも「犬小屋」などという下劣な言葉と比較されたことは、耐えがたい屈辱だった。

「さらに言わせてもらえば、スープの匂いだ。廊下まで漂っているのは、肉の脂ではなく、使い古した野菜の屑の匂いじゃないか? 貧民に与えるものとはいえ、レスフォード家が名を連ねる事業で、これほど貧相な食事を提供していると知られたら、私の名に傷がつく。卿、お前は貴族たちから集めた金を、どこに消しているんだ?」

エドワードは、まるでケイン卿が寄付金を着服でもしているかのような、疑いの眼差しを隠そうともしなかった。

「……閣下。それは誤解です。私は私財を投げ打ってでも、彼らに最良の……」

「お前の『最良』など、私には興味がない。私が求めているのは『完璧』だ」

エドワードが尊大に言い放ち、ケイン卿がその侮辱に対して必死に「弁明」を並べ立て始めたその時、エドワードは背後で指先を小さく二度、弾いた。自分がケイン卿の気を引いているから、自由に活動して証拠を集めてくるようにとの、ハルとウィルへの合図だった。

「お前はどう思う、ウィル?」

「……ごめんなさい、兄様。急に気分が悪くなってしまって。ここの消毒薬の匂いが、少し鼻につくのです」

 ウィルが今にも倒れそうな顔面蒼白な顔をしていった。

「おや、それは失礼した」

ケイン卿が優しくウィルを支える。その隙に、ハルは影のように集団から離れ、次の角を曲がって消えた。キングズリー警部補はそれに気づき、咎めようとしたが、サリヴァン警部が黙って唇に人差し指を当てた。

「卿、この子を少し休ませてやってくれないか。……ああ、そこでいい。事務室の椅子でも貸してやってくれ」

「では、こちらで」

ケイン卿は、椅子とブランケットを用意すると、マーサを呼んで「彼に水を」と指示を出した。そのほかにも、ケイン卿はウィルに看護婦を一人つけようとしたが、エドワードはそれを遮った。

「それには及ばないさ、卿。弟は休めばすぐに良くなる。それより、施設の東側はどうなっているのか話を聞かせてもらおうか」

エドワードはケイン卿の肩を抱くようにして、強引に廊下へと連れ出し、彼に案内をさせながら、それを遮るように執拗に質問を重ねた。ベッドの足の傷、看護婦の配置、寄付金の使い道――。完璧主義者のケイン卿は、伯爵からの細かな指摘に一つ一つ「完璧な回答」を提示せざるを得ず、エドワードという高慢な観察者に釘付けになった。

一方、扉が閉まり、事務室に一人残された瞬間。ウィルは、先ほどまでの蒼白な顔を嘘のように消し、鋭い観察者の瞳で立ち上がった。ウィルにとって「体調不良」は、敵の懐へ入り込むための最も使い勝手のいい武器に過ぎない。

マーサが水を持ってくるまでの、わずか数分。ウィルは音もなくデスクへと歩み寄り、指先に意識を集中させた。引き出しの鍵の磨耗具合、書類の束の乱れ――ウィルは、ケイン卿が「他人に見せたくないもの」をどこに隠す傾向があるか瞬時に逆算し、帳簿を探り当てた。

ウィルの細い指が、最新の薬品発注書と、厨房への配給帳簿をめくった。 (……防腐用のフェノール溶液の発注量が、この病床数に対して三倍。逆に、患者の滋養に不可欠な肉の仕入れは、三日前から完全に途絶えている)

ウィルは、その矛盾を冷徹に脳内に刻み込んでいく。

(生きている者への食事を削り、死んでいる者を解剖するための薬品に金を注いでいる。……卿、あなたの『救済』の優先順位は、数字に克明に現れていますよ。あなたは今、誰かを『清めている』最中なのですね。その方が食事を摂らなくなってから、もう三日。……大量の薬品で腐敗を抑えながら、あなたは今も、その方の内側から『泥』を掻き出している。……そして、磨き上げられた『聖女』が完成したとき、またあの川べりに、臓器のない抜け殻が飾られることになる……)

カチャリ、と廊下で足音がした瞬間、ウィルは羽毛が舞い降りるような静かさで椅子に戻り、再び睫毛を伏せて「気分の悪い少年」の顔を作った。その手には、帳簿の隅から剥ぎ取った、決定的な「数値」のメモが握りしめられていた。

そのころ、ハルは建物の裏手にある不自然な通気口に這いつくばっていた。訓練された猟犬のような鋭い嗅覚が、石炭の煙に混じった、わずかな、しかし決定的な「鉄」の匂い――血の気配を捉える。

(壁の向こうに空洞。それも、冷気が溜まっている……。ここだ)

ハルは音もなく廊下に戻ると、視察を続ける一行の列に、何食わぬ顔で混じった。

合流した三人は、再び一点の隙もない三角形の陣を敷く。ウィルが小さく頷き、ハルが天井の特定の角に視線を送った。エドワードは、手袋越しに杖を握り直す。

「どうかな、閣下。私の『天国』にご満足いただけましたかな?」

ケイン卿が、勝利を確信したような笑みを浮かべて足を止めた。だが、エドワードはそこから一歩も動かず、ハルが示した「何もない壁」を杖の先でピシャリと叩いた。

「卿。お前の言う『天国』にしては、少しばかり防腐剤の匂いが鼻に付くようだ。まさか、清潔さを保つために患者を漬け込んでいるわけではあるまいな?」

エドワードの瞳は、もはや貴族の退屈しのぎではなく、地獄の蓋をこじ開けようとする執行人のそれへと変わっていた。ケイン卿の頬がわずかに引きつるように動いたが、それでも彼は笑みを崩さずに答えた。

「……閣下。それは医学的な知識に乏しい方の誤解です。ここは救護院。死の気配を遠ざけるために、最先端の衛生管理を行っているのです」

エドワードは、ケイン卿の背後の壁――絵画が飾られた何の変哲もない一角――を杖で軽く叩いた。

「なるほど。では、この壁の向こう側にある『氷の部屋』も、衛生管理の一環というわけだ。……卿。私はレスフォードの当主だ。見え透いた書き割りの舞台裏に、家門の資財を投げ出すほど、私は甘くはないぞ」

ケイン卿の顔から、ついに一切の表情が剥ぎ取られた。静まり返った廊下に、キングズリー警部の、困惑したような息遣いだけが響く。

「……閣下。何を、仰って……」

「とぼけるな。お前の指先が、何より雄弁に語っている」

エドワードは、杖を預けて自らの白手袋をゆっくりと脱いだ。剥き出しになった少年の指先が、ケイン卿の右手を指し示す。

「先ほどから、お前は無意識にその右手の親指と人差し指を擦り合わせている。……それは、高濃度の石炭酸に長時間触れた者に現れる、特有の皮膚の硬化だ。この病棟の薄い消毒薬の匂いでは、そこまでの変色は起きない」

エドワードは一歩、逃げ場を塞ぐように踏み込んだ。

「ここには不自然な点が多すぎる。患者に与えるはずの食糧の仕入れが止まり、代わりに大量の防腐剤が運び込まれている。建物の奥行きと廊下の長さが合わない。……そして、卿。お前のその完璧な白衣の袖口に、わずかに残った『冷気』の匂いだ」

エドワードは、ケイン卿が「神聖な儀式」のために隠し持っていた地下への鍵――その存在を確信したように、絵画の裏にある隠し扉の隙間を杖でなぞった。

「卿。お前はこの壁の向こう側で、誰かを『清めている』最中なのだろう? その方が食事を摂らなくなってから、もう三日。……お前の言う『不純物』を、今まさにその手で掻き出しているところか?」

ケイン卿の瞳に、初めて「優しい偽善」ではなく、自分と同じ深淵を覗き込む者への、狂気を孕んだ「敵意」が浮かんだ。

「……ハハ、ハハハハ!」

ケイン卿の喉から、押し殺したような、しかし熱を孕んだ笑いが漏れた。もはや彼に、先ほどまでの卑屈な弁明の気配はない。彼はゆっくりと背筋を伸ばし、エドワードを見つめ返した。その瞳には、自分の「聖域」を暴かれた怒りを超え、最も手ごわい観客を得たという倒錯した歓喜が宿っていた。

「そこまで仰るのなら、ご覧いただきましょう。――私の、最高の芸術を」

ケイン卿は、壁に掛けられた何の変哲もない肖像画の縁に手をかけた。カチリ、と硬質な金属音が響き、隠し扉の重いボルトが外れる。

「サー!一体、何を……!」

キングズリー警部が思わず叫び、身構えた。しかしケイン卿は彼らを一瞥もせず、まるで主人が親しい友人を自慢の書斎へ招くかのような優雅な仕草で暗い口を開けた階段の先を指し示した。

「警部。あなたが探している『失踪者』など、ここにはおりませんよ。……ここにいるのは、泥の中から救い出され、永劫の美を手に入れた『聖女』だけです。伯爵、あなたのその研ぎ澄まされた審美眼で、どうか判定していただきたい」

階段の奥から、肺を刺すような冷気と共に、濃厚なフェノールと、そして……何かが「腐敗を免れている」独特の甘い香りが這い上がってきた。

「ハル、ウィル。……来なさい」

エドワードは短く命じると、躊躇うことなくその暗闇へと一歩を踏み出した。

階段を下りきった先に広がっていたのは、救護院の白壁からは想像もつかない、銀色に光る執刀台と、整然と並べられたガラス瓶の群れだった。そしてその中央、氷の敷き詰められた祭壇のような台の上に、彼女はいた。体を切り開かれ、不純な子宮を取り除かれながらも、その肌は雪のように白く、驚くほど穏やかな表情で眠る、一人の女性。その頬には、スラムの過酷な生活で刻まれたはずの微かな翳りすら、ケイン卿が施した「処置」によって拭い去られ、不気味なほどの滑らかさを取り戻していた。

「……ローズ・マッケンジー」

 ウィルが、ケイン卿の救済者リストにあったその名を低く呟いた。

「ああ、ローズ。なんと美しい名だ。だが、その名に反して、彼女の身を焦がしていたのは、卑俗な欲望という名の泥だった」

ケイン卿は、まるで恋人の髪を撫でるような手つきで、女の青白い肩のラインをなぞった。彼の指先には、メスが銀色の月のように握られている。

「見てください、この胸の透き通るような白さを。私は今、彼女の肋骨の裏側から、執拗に彼女を苦しめていた『心臓』という名の不浄な機械を、切り離そうとしているところです。……伯爵、わかりますか? この動悸が止まり、血という名の熱い泥が引いていく時、彼女はようやく……腐ることのない、真実の薔薇へと昇華されるのです」

ケイン卿の瞳には、狂おしいほどの愛着が宿っていた。彼は、彼女を殺したのではない。彼女から「人間」という余分な機能を取り除き、「永遠の静寂」という芸術品へと磨き上げているのだと、本気で信じている。

「あと数センチ、この刃を滑らせれば、彼女を繋ぎ止める最後の鎖が外れる。……伯爵。あなたたちは、この世で最も神聖な『脱皮』の目撃者となるのです」

ケイン卿がうっとりとメスを掲げ、ローズの胸元に刃先を沈めようとしたその時、エドワードの冷徹な声が地下室の静寂を切り裂いた。

「……卿。その『芸術』とやらは、致命的な計算違いの上に成り立っているな」

エドワードは、ローズ・マッケンジーの無機質な肉体を見下ろしたまま、吐き捨てるように言った。ケイン卿のメスを握る手が、微かに止まる。

「……計算違い、だと……? 伯爵、あなたは何を仰っている。見てください、この清浄さを。彼女は私の手によって、スラムの汚濁から永遠に切り離されるのです!」

「ああ、そうだな。だが卿、お前は彼女を愛するために、彼女を殺した。……いや、違うな。お前は、彼女の『生』に惹かれ、愛していた自分を、許せなかっただけだ」

エドワードは一歩踏み込み、ケイン卿の足元に転がっている、彼女が着ていたであろう汚れたボロ布を杖の先で跳ね除けた。

「お前は彼女たちを蔑んでいた。泥にまみれ、卑俗な欲望にまみれ、名前もなき獣のように生きる彼女たちを、心の底から汚らわしいと思っていたはずだ。……だが、卿。お前はその『汚れ』のなかに、自分には決して持ち得ない、剥き出しの生命の輝きを見てしまった。それを、どうしようもなく愛してしまった」

ケイン卿の瞳の奥で、何かが激しく明滅した。図星を突かれた者の、逃げ場のない動揺だ。

「愛しているからこそ、その『汚れ』が我慢ならなかった。愛する対象が、自分と同じ清浄な高みにいないことが耐えられなかった。だからお前は、彼女を『聖女』に作り変えるという名目で、お前が愛したはずの彼女の輝き――その生命を、力ずくで掻き出した。……お前のしていることは、救済ではない」

エドワードは、ケイン卿が「聖域」として守ってきた執刀台を、冷ややかに杖で叩いた。

「手に入らない美しさを、自分の理解できる『静止した標本』に加工して安心しているだけだ。卿、お前の愛は、自分の臆病さを隠すための漆喰に過ぎない。……これは聖女の顕現ではなく、ただの不器用な子供による、取り返しのつかない泥遊びだ」

「泥遊び……だと……っ!」

ケイン卿の喉から、獣のような、あるいは壊れた楽器のような悲鳴が漏れた。

ケイン卿は、エドワードの言葉を撥ねのけるように、震える手で自らの胸を叩きました。

「……黙れ! 泥遊びなどという不浄な言葉で、私の献身を汚すな! 伯爵、あなたには見えないのですか。このローズの、なんと安らかな表情が。彼女はスラムの片隅で、明日のパンのためにその身を、その尊厳を、野犬に食わせるようにして切り売りしていた。その『泥』から彼女を救い出し、一滴の不純物もない白磁の静寂へと導いたのは、この私だ!」

卿はメスを握りしめ、恍惚とした表情で続けた。

「心臓は、彼女を卑俗な情動に縛り付けていた。子宮は、彼女を果てなき生の苦痛へと繋ぎ止めていた。……私はメスによって、彼女たちの魂をその肉という名の呪縛から解放したのだ! 私が施したのは、人知を超えた究極の慈悲……そう、これは神に代わって私が完成させた、完璧なる福音なのです!」

ケイン卿は自らの論理に酔いしれ、その「正当さ」を地下室の冷気にぶつけるように語り続けた。しかし、エドワードはその狂気を含んだ独白を、ただ冷え切った眼差しで眺めていた。

「……卿。お前の話は退屈だ」

エドワードは吐き捨てるように言い放ち、一歩、また一歩とケイン卿の「聖域」に土足で踏み込んだ。

「お前のその潔癖な指先が、なぜこれほどまでに『泥』を求めてしまったのか。……卿、お前の手元にあるその本を見せてみろ」

エドワードは杖の先で、執刀台の脇に置かれた一冊の重厚な書物――表紙の擦り切れた『旧約聖書』を無造作に開かせた。

カサリ、と乾いた音を立てて頁がめくれる。その瞬間、文字の羅列の間から、場違いなものが冷たい床へと滑り落ちた。それは、煤け、脂に汚れ、獣のような生の匂いを微かに残した、安物の赤紫色のドレスの端切れだった。

「……これは……」

キングズリーが絶句し、ケイン卿の顔から血の気が引いた。

「この端切れ。これはメアリー・チャップマンが着ていた、あの薄汚れたドレスの裾だろう? ……卿、お前は彼女を『聖女』に仕立て上げ、不純物を取り除いたと豪語しながら、その実、彼女の『汚れ』を捨て去ることすらできなかったのだ」

エドワードは杖の先で、落ちた端切れをケイン卿の足元へと押しやった。

「『レビ記』の、忌むべき汚れを説く聖句の間に、お前は彼女の生々しい生の残骸を隠し持っていた。夜な夜なそれを指でなぞり、あの泥にまみれた『女』の感触を思い出していたのではないか。……お前が真に愛していたのは、白磁の偶像などではない。お前を惑わせ、その高潔な理性を狂わせた、あの泥だらけの生命そのものだったのだ」

「……あ、ああ……っ!」

ケイン卿は、はじかれたようにその場に崩れ落ちた。震える指先が、床の布切れに吸い寄せられる。それは、彼が自らの手で切り刻み、「清めた」はずの女が、かつて纏っていた生きた証だった。

「……美しかったのだ」

 ケイン卿の喉から、もはや聖人とは程遠い、飢えた獣のような掠れた声が漏れた。

「あの泥の匂い、あの浅ましいまでの生の熱……。それを殺さねば、私は私を保てなかった! 私の中に芽生えたこの醜悪な恋心を殺すには、彼女を……彼女自身を、動かぬ器に変え、聖女として救済するしかなかったのだ……!」

「聖女?救済? 笑わせるな。言葉を飾るほど、お前の無能と卑しさが透けて見える。お前がここでやっているのは、医学でも救済でもない。……お前はただの、救いようのない人殺しだ」

エドワードの杖の先が、執刀台の銀の縁を鋭く打ち鳴らしました。

「リズ・エドウッド、キャリー・ニコルズ、アン・コンウェイ、メアリー・チャップマン、そして今ここにいるローズ・マッケンジー。……五人の女性を、その身勝手な妄執で、ただの動かない肉塊に変えた。お前は、自ら泥にまみれたスラム街の女を愛する勇気もないくせに、死体という名の操り人形を求めた、卑しい殺人鬼に過ぎない。お前は聖女を造ったのではない、ただの死体を造ったのだ」

「死体……だと……っ!」

彼の「聖域」は、エドワードの剥き出しの言葉によって、漆喰が剥がれ落ちるように崩壊してくようだった。ケイン卿の顔からは「聖人」の理性が消え、ただ剥き出しの殺意と絶望が、メスを握る拳を白く染め上げた。

「黙れ、黙れ! 私の愛を、私の救済を、そんな卑しい言葉で汚すことは許さん!」

ケイン卿は獣のような咆哮を上げ、執刀台を蹴るようにしてエドワードへと躍り出た。銀色のメスが、エドワードの喉元を目掛けて振り下ろされる。だが、エドワードは微動だにしなかった。切っ先が少年の白い肌を裂くより早く、背後の暗闇から伸びた太い腕が、ケイン卿の手首を鋼鉄の万力のように掴み取った。

「……そこまでだ、ケイン卿」

低く、重厚な声。彼をねじ伏せたは、ずっと静観を貫いていたサリヴァン警部だった。彼はケイン卿の腕をねじり上げると、その手に握られていたメスを冷徹に叩き落とした。床に落ちた銀色の刃が、高い音を立てて地下室に響き渡る。

「警部、離せ!私はこの子に、真実を教えてやらねばならないのだ! 汚泥に沈んだ彼女たちが、私の手によってどれほど気高く……!」

「……もういいでしょう、サー」

サリヴァン警部の声は、怒りを通り越し、深い疲労を含んだ氷のように響いた。彼はケイン卿の腕をさらに強くねじ上げ、その抵抗を物理的な力で封じ込めた。

「一通りの主張は伺いました。……あなたの理屈は、尋問室で嫌というほど聞かせてもらうことになるでしょう。だが、これ以上この場所で、あなたの妄想に付き合うつもりはありませんねぇ。……現行犯で逮捕する」

カチャリ、と冷たい手錠の音が、地下室の静寂を切り裂いた。

エドワードは、目の前で床に組み伏せられ、泥のように這い回る「聖人」を、冷めきった瞳で見下ろした。

「警部、ご苦労。……この男の言う『真実』とやらは、冷たい監獄の中で、少しは冷やされるといい」

「連れて行け」

サリヴァンの冷徹な声が響き、キングズリーがケイン卿の身体を引きずり出す。抵抗を止めた卿が、エドワードの傍らを通り過ぎようとしたその時だった。エドワードの杖が、まるで偶然を装うようにケイン卿の右手に触れた。

「……待て。警部、この男がまだ凶器を隠し持っている可能性がある」

キングズリーが不審げに足を止める。エドワードは無造作にケイン卿の右手首を掴み、その袖口を乱暴に捲り上げた。そこにあったのは、肉に食い込むほどきつく嵌められた、重厚な金のシグネットリングだった。紋章には、右手とともにCの文字が刻まれている。エドワードの瞳の奥に、かつてスラムの路地裏で見た「地獄」と同じ炎が灯った。

(……見つけた。五肉祭の一員だ)

エドワードの指先が、そのリングの感触を憎しみを込めて確認する。隣でハルの喉が小さく鳴り、ウィルの視線が鋭くその紋章を射抜いた。警察にとってはただの成金の装飾品に過ぎないが、エドワードたちにとっては、これこそが「復讐のリスト」にチェックを入れるための、血塗られた証明書だった。

「……何でもない。ただの悪趣味な指輪だ。早く連れて行け」

エドワードは嫌悪感を露わにしてその手を離した。サリヴァンは一瞬、エドワードの奇妙な執着に目を細めたが、それ以上は追及せず、卿を地下室から連れ出した。

静まり返った室内で、エドワードは壁に掲げられた『逆さ解剖図』のタペストリーを見上げた。警察が遺体の確認に追われている隙に、彼はその端を指先でなぞる。この救護院は、彼らにとっての通過点に過ぎない。

「卿。お前の『芸術』の続きは、ニューゲートの冷たい朝に、麻の縄で描き終えるがいい」

だが、エドワードたちの復讐は、法が彼を処刑したところで終わりはしない。

「これで二人目……ですね、兄様」

 ウィルが耳元で、誰にも聞こえないほど小さな声でささやいた。

エドワードは答えず、ただ不気味な逆さ解剖図のタペストリーを見つめていた。『五肉祭パンタグリュエル』の構成員は、五人。頭にNの文字、右手にCの文字、左手にLの文字、右足にFの文字、左足にはBの文字が刻まれている。今回のジェラルド・ケイン卿は、五肉祭の右腕、Cだったわけだ。

地上では、救護院に踏み込んだ警官たちの怒号と、何も知らない収容者たちの怯える声が遠く響いている。だが、この地下室には、復讐を一つ遂げた者たちだけが共有する、墓場のような静寂が満ちていた。

エドワードは手袋をはめ直し、杖の銀の握りを強く握りしめた。

「……あと三人。復讐はまだ、始まったばかりだ」

彼は翻り、一度も振り返ることなく出口へと歩き出した。その背中を、ハルとウィルが、影のように、あるいは分身のように追っていく。地下室に残されたのは、偽りの聖女と、タペストリー。そして、ニューゲートの石壁の向こうへと消える予定の、一人の狂人が残した残骸だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ