人狩り子爵
霧が深く立ち込めるロンドンの夜。エドワード・レスフォード伯爵のタウンハウスは、馬車の音さえ吸い込むような静寂に包まれていた。
書斎の暖炉の前で、エドワードは重厚な本のページをめくっていた。その傍らでは、ウィルが本棚を整理し、ハルは退屈そうに暖炉の火を火掻き棒で突いている。三人の穏やかな時間を破ったのは、執事による来客の報だった。
「通せ」
やってきたのは、サリヴァン警部とキングズリー警部補だった。
「スコットランドヤードの警部ともあろうお方が、夜分に個人の邸宅を訪ねるとは。ロンドンの治安はよほどいいと見える」
エドワードの皮肉に、サリヴァンは苦笑いしながら、布に包まれた「何か」をテーブルに置いた。
「そうであってほしかったですよ、伯爵閣下。……バザルジェットの野郎が下水道を掘り返してくれたおかげで、二十年分のごみが逆流してきた。その中に、どうしても放っておけない『ごみ』が混じっていましてね」
サリヴァンが布を広げると、そこには眩いばかりの、一点物の革のブーツがあった。子供用だろうか、小さいが、王侯貴族が履くような特注品だと一目でわかる。貴族として生きるエドワードには特別珍しいものでもない。
「それがなにか?貴族の落とし物なら、ヤードの紛失物係にでも届ければいい」
エドワードが素っ気なく返すと、サリヴァンは表情を険しくした。
「この靴の持ち主が問題でしてねぇ。この靴を履いた少女の遺体は紡績工場の安っぽい作業着を着ていました。当初は盗んだ靴かとも思いましたが、あまりに少女の足にぴったりだったんですよ。まるで王室御用達の職人が、持ち主の足の形に合わせてミリ単位で調整した特注品のように。盗んだ靴がこれほどぴったり合うはずがない」
「ほう」
エドワードは本を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。靴のそばまで歩み寄り、手袋を嵌めた手でそれを持ち上げる。レースアップのショートブーツは、最高級のキッドスキンでできていた。ヒールは低く、靴底を見ると、高級靴としては珍しく滑り止めの鋲が打たれていた。ソールの土踏まずのあたりには「14」の数字が彫り込まれてあり、ブーツの踵には右足の意匠に「F」の紋章の焼き印が押されていた。その紋章を見たとき、エドワードは、指を震わせた。
(五肉祭の、右足……)
「どうしたの、兄ちゃん?」
「兄さん?」
エドワードの様子を見て、その手元をのぞき込んだハルとウィルも五肉祭を表す紋章を見て固まった。
「右足の『F』……」
エドワードは、復讐の印としてチェーンに通して首から下げている骨折り伯爵のシグネットリングがある胸元に無意識に手をやった。
サリヴァンは彼らの反応を見逃さなかったが、あえて深くは追求せず、報告を続けた。
「閣下、実は検視の結果、さらに奇妙なことがわかりましてねぇ。遺体には無数の転んだような擦り傷のうえ、犬の噛みあとがあった。……まるで、猟犬に追い回され、なぶり殺しにされたかのような。ヤードの上層部は『野犬に襲われた浮浪児の行き倒れ』で済ませようとしていますが、この靴を見ればそんな理屈は通らないでしょう」
「そこで閣下のお知恵をお借りしたい」キングズリー警部補がいった。「少女の無念を晴らすには、公の捜査では限界があります。だから、閣下のお力が必要なのです」
「なるほど」
エドワードは、靴をそっとテーブルに戻した。
「……少女の身元と死に至った経緯は、私たちが洗おう。ハル、ウィル。動けるか」
「もちろん、兄ちゃん」
「了解です、兄さん」
エドワードは満足げに頷くと、依然として期待の眼差しを向けてくるキングズリー警部補と、事の重大さを噛み締めているサリヴァン警部へ向き直った。
「サリヴァン警部、キングズリー警部補。夜も更けた。これ以上のおしゃべりは無駄だろう。これより先は、我々の流儀で進めさせてもらおう。身元が判明次第、しかるべき招待状を送る。それまでヤードの諸君は、精々汚れた机で書類仕事にでも励んでいるといい」
「……はは、相変わらず手厳しい。ですが、期待していますよ、伯爵閣下」
サリヴァンは苦笑しながら、キングズリーを促した。
「では、失礼しますよ、坊ちゃん方」
キングズリーは名残惜しそうに一度だけエドワードに深く一礼し、二人は霧に包まれた夜の街へと消えていった。
玄関の重い扉が閉まり、馬車の走り去る音が霧の彼方へ消えていく。サリヴァンたちの気配が完全に消えたことを確認すると、書斎の空気は「客を迎える社交」から「獲物を屠る狩猟」のそれへと一変した。
エドワードは暖炉の火を見つめたまま、テーブルに残された14番の靴へ視線を落とします。その瞳には、先ほどまでの冷笑的な仮面はなく、静かに燃える復讐の炎だけが宿っていました。
「……さて。あいつらは帰った。ここからは身内の時間だ」
エドワードが低く、合図を送るように呟くと、控えていたハルとウィルが吸い寄せられるように周囲に集まった。
「あと残り2人の五肉祭のメンバーのうち、1人の手がかりが見つかったな」
「兄ちゃん。少女の遺体は、紡績工場の作業服を着ていたんだよね?オレ、紡績工場のあるスピタルフィールズあたりに行って、消えた少女がいないか聞き込みしてくる」
ハルが言った。
「ぼくは、この靴の革と鋲の出所を調べます。これほど特殊な細工、職人を辿れば必ず注文主に突き当たるはずですから」
ウィルが言った。
「わかった、その間に私はヤードがくれた資料と残された靴から犯人像を精査していよう。頼んだぞ、ハル、ウィル」
数日後。
再び書斎に集まった三人の顔には、それぞれの収穫が色濃く滲んでいた。
「どうだ、何かわかったか」
エドワードが問う。
「まずはぼくから」ウィルが話し始めた。「兄さん、例の靴を作った職人は、ギルドをあたっても見つかりませんでした。どこかの貴族のお抱えの職人なんだと思います。……ですが、最高級のキッドスキンと、軍用規格の特殊な鋲を同時に仕入れている個人を、問屋の帳簿から見つけましたよ。エセックスのセバスチャン・フォークナー子爵の領地に、その材料は全て送り届けられています」
「兄ちゃん、わかったぜ。消えたのはスピタルフィールズの紡績工場にいるスカヴェンジャーの少女たちだ。みんな、体が大きくなって機械の下に入れなくなる年齢に差し掛かった途端に、自分の意思でどこかに消えてるらしいんだ。なんでも、噂では『侍女になれる』とスカウトしてまわるこぎれいな紳士がいるらしいよ」
「……スカヴェンジャー(機械下清掃員)、か」
エドワードは苦い薬を飲み下すように、その職業の名を口にした。スカヴェンジャーは、産業革命の熱狂が生んだ、最も過酷な子供の仕事の一つだ。絶え間なく轟音を立てて動く巨大な紡績機。その鋭い針や回転する歯車の隙間に潜り込み、溜まった綿屑や埃を素手で掻き出す。利益のため、機械を止めることは許されない。わずか数インチの隙間に潜り込めるのは、まだ幼い子供たちだけだった。当然、子供たちの体が成長してしまえば、もはや機械の下には入れなくなる。それはすなわち、工場における唯一の価値を失い、路頭に迷うことを意味していた。スカヴェンジャーの少女たちにとって、成長は喜びではなく絶望でしかない。
「機械の下に入れなくなった少女の行き先など、このロンドンでは決まっている」
エドワードは、サリヴァンが残した報告書の余白を指で叩いた。
「一つは、工場内のより過酷なセクションへの移動だ。綿埃を吸い込みすぎて肺を病んだまま、今度は巨大な織機の横で、切れた糸を繋ぎ続ける『ピアサー(糸繋ぎ)』として使い潰される。指先が動かなくなるか、血を吐いて倒れるまでな」
そして、もう一つ。それは工場の外、霧の深い夜の街へと続く道だった。
「あるいは、文字通り路頭に迷うことだ。教育も受けず、ただ機械の下を這い回る技術しか持たない少女が、工場を追い出されて何ができる?……結果、彼女たちはヘイマーケットやピカデリーの暗がりに立つことになる。体を売って、その日を凌ぐための数ペンスを稼ぐ。それが、成長という呪いを受けたスカヴェンジャーたちの、ありふれた終着駅だ。そんな連中に『侍女になれる』と囁くのは、地獄の底で天国への梯子を見せるようなものだ」
当時の底辺層の少女にとって、侍女という職は究極の憧れだった。煤まみれの作業着を脱ぎ捨て、清潔なエプロンを纏い、屋根のある屋敷で食事が保証される。それは単なる転職ではなく、人間としての尊厳を取り戻す唯一の手段に見えたはずだ。
「五肉祭の右足であるフォークナー子爵は、その希望を、最高級の獲物を無傷で釣り上げるための餌に使ったというわけか。……ハル。そのこぎれいな紳士は、今もスピタルフィールズに現れているのか?」
「そうだよ。月に一度、決まった周期で現れるらしいんだ。ちょうど、次の新月の夜がその日だよ。……工場主の話じゃ、その紳士はいつも一番活きのいいスカヴェンジャーを指名して連れていくんだって」
ハルが言うと、エドワードはふっと、温度のない笑みを浮かべた。
「月の満ち欠けに合わせて獲物を補充するとは、どこまでも趣味の悪いコレクターだ。……だが、好都合だな。奴が求めているのが、絶望の淵にいて、かつ誰よりも機敏に逃げ回れるスカヴェンジャーだというのなら」
エドワードは立ち上がり、姿見の前に立った。まだ男の装いのままだが、その瞳はすでに獲物を誘う罠の光を宿している。
「俺がその最高級の獲物になってやろう。……ウィル。付け毛を用意しろ。フォークナー子爵の審美眼を、俺自身の身体で試してやる」
「兄ちゃん、本気? 相手はあの五肉祭の右足だ。……万が一、捕まったら」
「捕まりに行くのさ、ハル。……誰よりも美しく、誰よりも惨めに。奴が思わず指を伸ばしたくなるような、スカヴェンジャーとしてね」
エドワードは自らの金髪を指で掬い上げ、鏡の中の自分を冷たく見据えた。
「……さあ、変身の時間だ。地獄の梯子を登る前に、まずは最高に可憐な地獄の住人にならなくてはな」
エドワードは鏡の前で、伯爵としての記号である重厚な三つ揃いのジャケットを脱ぎ、タイを解いた。伯爵としての仮面を脱ぎ捨て、復讐という名の甘美な毒を纏う準備が、今、静かに始まった。彼はウィルが用意したのは、ハルがスラムの古着屋で調達してきた、煤の匂いが染み付いた粗末な麻のブラウスだ。
エドワードは鏡を凝視しながら、胸を硬く縛りつけてきた補正布に手をかけた。指先が結び目を解くと、何層にも巻かれた布がハラリと床に落ちる。抑圧されていた柔らかな起伏が解放され、深い呼吸と共に、鏡の中に一人の「少女」の輪郭が浮かび上がった。伯爵という男装の呪縛を脱ぎ捨て、かつて五肉祭に奪われた「肉体」へと立ち返る瞬間。それは復讐のための変装であると同時に、彼にとっては最も忌まわしく、しかし抗いようのない真実の姿だった。
「……スカヴェンジャーの少女に、豊かな肉体など不要だ。だが、この『成長』の証こそが、彼女たちを絶望へ追い込む引き金になる」
次にエドワードは、自らの金髪を後頭部で厳重にまとめ上げた。そこへ、ウィルが精巧に編み上げられた付け毛を被せる。それは、労働階級の少女らしい、少しパサついた質感の髪だった。
「ハル。顔を」
控えていたハルが、複雑そうな表情で炭粉と少量の油を混ぜた絵具を指に取った。陶器のように白い頬に、わざとらしくない程度の「煤汚れ」が描き込まれていく。目の周りには寝不足を装う薄い影を落とし、唇の赤みは粉で消した。
数十分後。鏡の中に立っていたのは、傲慢な若き伯爵ではなかった。寒さと空腹に震え、これ以上体が大きくなることを死ぬほど恐れながら、それでも生きるために縋り付くような瞳をした、一人の美しい「少女」だった。
「完璧です、兄さん。これなら、スカウトマンも、よもやこの中に復讐鬼が潜んでいるとは思わないと思います」
エドワード――今は「エディス」と呼ばれるべき少女は、掠れた声で微笑んだ。
「さあ、スピタルフィールズへ行こう。……地獄への片道切符を、買いに行かなくてはな」
夜明け前の霧が、機械の吐き出す煤煙と混じり合い、粘りつくような灰色に街を染めていた。
スピタルフィールズ、第4工場の重い鉄門の前には、仕事を求める餓えた群れが列をなしている。その末尾に、粗末なショールを深く被ったエドワード――今は「エディス」と名乗る少女が立っていた。
「次だ! 面を上げろ」
脂ぎった顔の工場主が、家畜を値踏みするような手つきでエドワードの顎を乱暴にしゃくり上げた。エドワードはわざと肩を震わせ、潤んだ瞳を泳がせる。
「……ふん。顔立ちは上等だが、スカヴェンジャーにしちゃあ育ちすぎじゃないか? 胸も腰も、これじゃ機械の下で引っかかる。使い物にならん、次へ行け」
工場主が興味を失ったように手を振った瞬間、エドワードはその場に膝をつき、彼の汚れたブーツに縋り付いた。
「お願いします、旦那様! 私はこれしか能がないんです。前の工場も、体が大きくなったからと追い出されました。でも、誰よりも速く、誰よりも深く潜れます。どうか、一度だけでいい、やらせてください。何だってしますから……!」
掠れた、悲痛な懇願。工場主は鼻を鳴らしたが、エドワードの細い指先が震えながら自分の脚に触れる感触と、ショールの隙間から覗く、肌の白さに目を留めた。彼は下卑た笑みを浮かべ、エドワードの体を執拗に眺め回した。
「……ほう。何だってする、か」
工場主の視線が、エドワードの胸元から腰のラインを舐めるように動く。その卑俗な値踏みは、エドワードという男の魂を激しく逆撫でした。だが、エドワードはその怒りを「怯え」という完璧な仮面の下に封じ込め、哀れな少女らしく振舞った。
「よかろう。そこまで言うなら、一日の試用期間をやる。……おい、こいつを第4ラインのスカヴェンジャーに入れろ。死にたくなければ、絶対に機械を止めるなよ」
「……ありがとうございます、旦那様。ありがとうございます……」
何度も頭を下げるエドワードの背中を、工場主の鞭のような視線が追う。工場の奥から響く、巨大な紡績機の咆哮。その地獄の入り口へ向かいながら、エドワードの瞳の奥で、復讐の炎が静かに、そして鋭く研ぎ澄まされていた。
轟音を立てる紡績機の下。エドワードは、油にまみれ、膝を擦りむきながらも、誰よりも無口に、誰よりも正確に機械の腹を這い回っていた。周囲の少女たちは、空腹と疲労に耐えながらも、ある「噂」に頬を上気させていた。
「……ねえ、もうすぐよね。あの身ぎれいな紳士様が来る日」
「次は私が選ばれるわ。見て、この一ヶ月、顔だけは汚さないように気をつけてたんだから」 「侍女になれば、毎日白いパンが食べられるのよね。ふかふかのベッドで眠れるのよね」
彼女たちの瞳に宿る希望は、エドワードにとっては喉元を掻き切られるような悲哀でしかなかった。その希望の先に待っているのは、血塗られた死だとも知らずに胸を膨らませている。
その時。工場の入り口から、場違いな静寂が広がってきた。こぎれいなシルクハットを被り、ステッキを携えた紳士が、工場主を従えて歩いてくる。
「……あの方よ、あの方がいらっしゃったわ!」
その紳士の姿を目にした瞬間、エドワードの心臓が爆ぜるような衝撃を受けた。視界が、一瞬にして鮮血のような赤に染まる。そこにいたのは、ジョン・スミス。かつて母を甘言で欺き、自分たちを「骨折り伯爵」へと売り飛ばした、あの男だった。
(貴様か……。貴様だったのか、フォークナー……!)
怒りでエドワードの指先が震え、奥歯が砕けんばかりに噛み締められる。今すぐ機械の下から飛び出し、その喉笛を食いちぎってやりたい衝動に駆られる。だが、エドワードはそれを超人的な自制心で押し殺した。ここで怒りを露わにしてしまえば、少女たちをさらう五肉祭の全容は闇に消える。エドワードは紳士の登場に沸き立つ少女たちを後目に、あえて、獲物としての「最高の身のこなし」をスミスの前で披露した。機械の隙間を縫うように滑り、しなやかな脚のラインを、スミスの偏執的な審美眼へと突きつける。
「……ほう。あの子だ。あの子がいい」
ジョン・スミスを名乗るフォークナー子爵が、手袋を嵌めた指先でエドワードを指した。隣にいた工場主は、重々しくうなずくと「おい、エディス!」とエドワードを呼びつけた。
「旦那様。何用でしょう」
エドワードは、わざと呼ばれる心当たりがないのに呼び出された不安気な少女を装って見せた。
「エディス。おめでとう、お前は幸運だ。こちらのジョン・スミス様が侍女としてお前を召し抱えたいと仰っている」
エドワードは、肩を震わせ、俯いたまま掠れた声を絞り出した。
「……私、が……ですか? 私のような、育ちすぎた、可愛げもないスカヴェンジャーが……」 「謙遜することはないよ、お嬢さん」
フォークナー子爵が、かつて家族を壊した時と同じ、吐き気がするほど柔らかな笑みを浮かべて歩み寄った。
「君のその、泥の中でも失われない気品。そして何より、そのしなやかな脚が気に入った。私の屋敷に来れば、二度とこんなみじめな思いをすることはない。美しいドレスを着て、私の傍で働いてくれないか?」
エドワードは一瞬、迷う素振りを見せてから、顔を上げて輝くような「喜び」を瞳に宿してみせた。
「……はい! どこへでも、なんなりと、旦那様!」
「聞き分けのいい娘だ。気に入ったよ」
フォークナー子爵は満足げに目を細めると、傍らで揉み手をしていた工場主へ、ずしりと重みのある革の袋を放り投げた。袋の隙間から覗くソブリン金貨の輝きに、工場主の目は卑しく見開かれる。彼はホクホクとした顔で中身を確かめると、一枚一枚の感触を確かめるように丁寧に数え、それを奪われまいと大事そうに上着の懐へと深くしまい込んだ。
フォークナー子爵に促され、エドワードは工場の門前に停められた漆黒の箱馬車へと案内された。二頭の黒馬が繋がれたその馬車には、貴族の証である家紋こそ刻まれていないが、磨き上げられた車輪と、一点の曇りもない真鍮のランプが、煤煙に汚れたスピタルフィールズの街並みの中で異様なほどの威容を放っていた。スミスが軽く指を鳴らすと、馬車の後部に直立していた別当が音もなく飛び降りた。彼は慣れた手つきで重厚な扉を開け、折りたたみ式のステップを素早く引き出す。
「……さあ、乗りなさい。泥道はもう歩かなくていい」
フォークナー子爵は自ら手を差し出し、エドワードを車内へと促した。エドワードは煤けたスカートの裾を握りしめ、震える足取りでステップを登る。続いてフォークナー子爵が身軽な動作で乗り込むと、別当が外側から「ドン」と重々しい音を立てて扉を閉めた。窓の分厚いガラスが、一瞬にして工場の喧騒を断ち切る。
扉を閉められると、密閉された車内にフォークナー子爵のポマードの香りが濃く漂った。 フォークナー子爵は流れるような動作でシルクハットを脱ぎ、それを隣の座席へと置いた。彼の額と整えられた髪が露わになる。フォークナー子爵はエドワードの真正面、進行方向を向いた上座から微笑みかけた
「……さあ、もう安心だ。これからは、あんな薄汚れた場所を思い出す必要はないよ」
ハットを脱いだことで、フォークナー子爵の蛇のような視線が、隠すものなくエドワードを射抜く。対面する二人の距離は、膝が触れ合うほどに近い。フォークナー子爵は満足げな笑みを浮かべ、獲物のコンディションを確認するように、エドワードの顔の汚れや細い手首をじっくりと眺め回した。
(……この男だ)
エドワードは視線を伏せ、膝の上で拳を握りしめた。帽子を脱いでくつろぐフォークナー子爵の姿は、かつて自分の家庭を壊した時の、あの「親切な紳士」の顔そのものだった。
膝を突き合わせるほどの至近距離に、エドワードたち三姉妹の人生を狂わせた仇がいる。エドワードは、視界が怒りで再び赤く染まりかけたが、必死に奥歯を噛み締め、それを「初めての立派な馬車に戸惑う少女の緊張」へとすり替えた。
馬車は静かに、しかし力強く動き出した。その様子を、選ばれなかったスカヴェンジャーの少女たちが、羨望の入り混じった熱い視線を送って見ていた。その視線を一身に受けながら、二人は霧の彼方、エセックスの湿地帯へと運ばれていった。
馬車がエセックスの広大な領地へと入ったとき、エドワードは窓の向こうに、丘の上にそびえ立つセバスチャン・フォークナー子爵の本邸を認めた。無数の窓がランプの光で黄金色に輝き、白亜の石壁が夜の闇の中に神殿のように浮かび上がっている。かつて「侍女になれる」と囁かれた少女たちが夢見た、救いの象徴。だが、馬車はその輝かしい本邸へと続く並木道を無情にも通り過ぎた。
車輪は進路を逸れ、光の届かない裏手のアプローチへと入り込む。下草の生い茂る不気味な森を抜け、馬車が跳ね上げる泥が車体に激しく叩きつけられる。本邸の光はまたたく間に霧の彼方へ消え、代わりに現れたのは、立ち枯れた木々が墓標のように並ぶ、底なしの湿地帯だった。
辿り着いたのは、沼の只中に孤立して建つ、石造りの冷徹な離れだった。本邸の華やかさとは対極にある、生気を吸い取るような灰色の塊。何世紀もの間、沼の毒気を吸い続けてきた黒ずんだ石壁は、常に冷たい脂汗を流しているかのように濡れそぼり、近づくだけで骨の髄まで凍えるような湿った冷気が這い上がってくる。貴族の屋敷において、離れは客人用や隠居用に使われることもあるが、この建物にはどこか異質な気配があった。窓には鉄格子に似た装飾があり、周囲を深い霧と湿地が囲んでいる。逃げ場のない、「鳥籠」の構造だ。
建物の中はもっと異様な構造だった。建物の中央には、吹き抜けの広々とした食堂があった。中央には、大人数が座れる長いグレート・ダイニングテーブルがあり、その表面は鏡のように磨き上げられ、天井のシャンデリアを冷たく反射している。その堂々とした風貌は一見すれば貴族の邸宅そのものだ。しかし、その共有スペースを囲むようにして、左右の廊下には「1」から「26」までの番号が振られた、全く同じ意匠の扉が整然と並んでいた。それは豪華な邸宅というよりは、高度に洗練された刑務所を思わせた。
「ここが君の部屋だ。……しばらくは、外へ出ようとは考えないことだね。霧が深くて、道に迷えば底なし沼に飲み込まれてしまうから」
フォークナー子爵は14番と銘打たれた重厚な扉を開け、エドワードを中へと促した。
室内には、最高級のマホガニーで作られた天蓋付きのベッド、曇りひとつない大型の鏡台、そして重厚な彫刻が施された洋服ダンスが備え付けられていた。洗面台には金縁の陶器の洗面器と水差しが置かれ、足元には毛足の長いペルシャ絨毯が敷かれている。
全体的に古びて色あせてはいるが、調度品の一つ一つは間違いなく貴族の逸品だ。しかし、部屋には本の一冊も、書きかけの手紙も、生活を感じさせる装飾品も一切ない。ただ「美しい少女を収めるためだけ」に最適化された、最低限かつ完璧な空間。その豪華さが、かえってこの部屋が監獄であることを強調していた。
「あとで服や、君に必要なものを届けさせるよ。……ゆっくり休むといい、14番目の小鳥さん」
フォークナー子爵は不敵な笑みを残し、静かに扉を閉めた。カチリ、と外側から鍵が掛かる音が部屋に響く。
一人残されたエドワードは、少女の仮面を脱ぎ捨て、冷徹な復讐鬼の瞳で部屋の隅々を凝視した。
「……待っていろ、ジョン・スミス。君の自慢のコレクションを、中から食い破ってやる」
翌朝、冷徹な鍵の音と共に、無表情な中年メイドが部屋へ入ってきた。
彼女が手にしていたのは、繊細なレースをあしらった最高級のシルクドレスだった。エドワードがこれまで纏っていた、油と煤にまみれた紡績工場の作業着は、メイドの手によって無造作に剥ぎ取られた。
「……その服は、衣装ダンスの奥へ。後でまた『必要』になりますから」
メイドは事務的に告げ、エドワードの体を新しい「外装」へと押し込めていく。
あてがわれたドレスは、驚くほど高価な生地が使われていたが、肩口がわずかに突っ張り、胸元には不自然な余りがあった。ふと、めくれた裏地を見たエドワードは、そこに鮮烈な緋色の糸で、無機質な「14」の数字がまるで家畜の耳標のように刺繍されているのに気づいた。
「(……緋色か)」
その刺繍は、少しくたびれた絹の裏地に、まるで抉り取られた傷口から流れる血のように、鮮やかに浮かび上がっていた。罪人へ焼印を押すかのように、このドレスを着る者は、永遠に「14番目の獲物」としての羞恥と恐怖を纏わされるのだ。ドレスは歴代の「14番」たちが着古してきた、お下がりなのだろう。
メイドの手によってエドワードは、髪をきつく結い上げられ、首筋には濃厚な百合の香油を刷り込まれる。その香りは、腐敗しゆく沼の死臭を覆い隠すための、葬儀の花のようだった。
仕上げに、メイドは一本の黒いベルベットの首輪を取り出した。エドワードの抵抗を許さず、細い首筋にそれはきつく巻き付けられる。首輪の中央には、小指の先ほどの小さな銀の鈴が、チリンと憐れな音を立てて揺れた。
朝の静寂を切り裂いたのは、館の奥から響く、重々しい銅鑼の音だった。「ゴォーン……」という地響きのような震動が、石造りの床を伝ってエドワードの足元を揺らす。エドワードが驚いていると、メイドが「朝食の合図です。食堂に行ってください」といって消えた。
中央の食堂へ足を踏み入れた瞬間、エドワードは吐き気を催すような既視感に襲われた。 そこに並んでいたのは、自分と全く同じ意匠のドレスを纏い、同じ形に髪を結い上げ、同じ百合の香油を漂わせた25人の少女たちだった。
彼女たちは迷うことなく、吸い込まれるように自分の席へと着いていく。エドワードが自分の場所を探して足を止めると、漆黒のマホガニーの椅子の背もたれに、鈍く光る真鍮のプレートが打ち付けられているのが見えた。
「14」
エドワードがその椅子を引き、腰を下ろした瞬間、周囲の少女たちの首に巻かれた鈴が、共鳴するようにチリン……と一斉に、しかし弱々しく鳴った。
全員が真っ白なダマスク織のクロスがかけられたテーブルに着席し、静寂がホールを支配したその瞬間、背後の重い扉が左右に開いた。
一列に並んだ無表情な給仕たちが、銀のトレイを掲げて入ってくる。彼らは機械的な動作で、26人の少女たちの前に一斉に皿を置いた。
それは、まさに貴族の晩餐会のようなコース形式だった。最初の一皿が下げられれば、次はスープ、その次は魚……。給仕たちは一言も発さず、ただ銀食器が触れ合う冷たい音だけが響く。
メインディッシュの銀のカバーが外された瞬間、湯気と共に立ち上ったのは、野性味溢れるジビエの香りだった。血の滴るような赤身肉に、濃厚な赤ワインのソース。美食というにはあまりに露悪的なその一皿。少女たちは豪華なそれを味わうこともなく、まるで刑執行を待つ囚人のように、運ばれてくる皿を淡々と口の中へ押し込んでいく。一言の会話もなく、ただカチカチと銀食器が皿を叩く音だけが、冷たい石壁に反響していた。
エドワードは、隣の席に座る青白い顔の少女に小声で尋ねた。
「……おいしいはずなのに、なぜみんな、砂を噛むような顔で食べているんだ?」
少女は瞬きもせず、フォークを止めた。
「あなたは新入りだから、何も知らないのね。子爵様は、満月の夜に私たちをこの湿地帯へ放つの。そして、猟犬と共に私たちを『狩る』のよ。一度の狩りで、必ず一人が殺される。あなたは、先月殺された『14番』の補充。子爵様はおっしゃるわ。26回狩りから逃げ延びたら、多額の持参金を持たせて自由にしてやるって。でも、そんな子は一人もいない。みんな、その前に沼の底よ。あなたも、満月の夜を生き延びたかったら黙って食事をすることね」
少女はそれだけ言うと鉄仮面のような顔に戻ってしまった。エドワードが仕方なくフォークを動かそうとしたその時、ホールの奥、一段高い場所に設けられたバルコニーに、人影が現れた。
そこには、朝の陽光を背に受けたフォークナー子爵が、満足げに少女たちを見下ろしながら、ゆったりとワイングラスを傾けていた。その姿を目にして、一瞬、エドワードの瞳に激しい殺意が宿った。だが、エドワードはすぐさま視線を伏せ、睫毛を震わせた。その微かな震えは、フォークナー子爵の目には「初めての朝食に戸惑い、高貴な主人の威圧感に気圧された新入りの畏怖」として映ったはずだ。子爵は、満足気に目を細め、一口ワインを啜ると、翻って奥の私室へと消えていった。
朝食の後、再び部屋に閉じ込められたエドワードは、朝日でよりその冷たい全貌を明らかにした部屋の隅々を調べた。
豪華なマホガニーの衣装ダンス。その一番下の引き出しを完全に引き抜いたとき、隠されていた「前任者」の執念が姿を現した。湿った木の匂いが漂う引き出しの底板に、鋭利な何かで力任せに削り取られた、生々しい傷跡。
「卌 卌 卌 ||」
5つずつの束が3つと、途切れた2本の棒。合計17。
指先でなぞれば、その溝の深さから、前任の少女がどれほどの恐怖と、生き延びたいという渇望を込めてこの木を削ったかが伝わってくる。
その数字のすぐ横には、震える手で彫られたであろう、掠れた文字が残されていた。
『お願い、今夜は私じゃないと言って』
それはスミスに向けた命乞いか、あるいは神への絶望的な問いかけか。
18回目の満月の日に「14番」としての命を散らした少女の、これが唯一の遺品だった。
チリン……
エドワードが顔を上げると、首の鈴が嘲笑うように鳴った。
ドレスの裏地の緋色の「14」と、この引き出しの底の「17」。
2つの数字が、エドワードに突きつける。ここは美しき休息の場などではなく、順番を待つだけの屠殺場なのだと。
(……17、か)
エドワードは、前任者の絶望が刻まれた木肌を強く指でなぞった。
エドワードはその数字の横に、自分の爪を立てることはしなかった。代わりに、鏡の中の「エディス」の姿の自分を冷徹に見据える。
「あいつの記録はここで終わりだ。……あとの数字は、俺が奴の喉笛でカウントしてやる」
鏡の中の「エディス」に向かって、そう誓った直後だった。静寂を切り裂くように、廊下から重々しい靴音が近づき、鍵が回る嫌な音が部屋に響いた。
扉が開くと、そこには朝の陽光を遮るように立つ、セバスチャン・フォークナー子爵の姿があった。その後ろには、大きな革鞄を抱え、怯えたように肩をすくめた老人が控えている。
「14番。機嫌はどうかな?」
フォークナー子爵は優雅な手つきでシルクハットを脱ぎ、エドワードの返事も待たずに、値踏みするような視線をその全身に走らせた。
「君に、特別な贈り物をしようと思ってね。次の満月の夜――君がこの湿地帯を駆けるための、世界に一つだけのブーツだ」
フォークナー子爵は顎で合図を送った。老職人が跪き、震える手で採寸の準備を始める。
「さあ、その椅子に座りなさい。……足を出しなさい、エディス」
エドワードは内側の煮えくり返るような嫌悪を、無垢な少女の困惑へとすり替え、おずおずと片足を出した。フォークナー子爵の細い指が、エドワードの足首を検品するように掴む。
(……この指を、今すぐ叩き切ってやりたい)
エドワードの思考とは裏腹に、フォークナー子爵はその足の曲線を恍惚とした視線でなぞっていた。
「素晴らしい。前任者よりも、君の足首はしなやかで力強い。これなら、泥濘の中でも私を存分に愉しませてくれるだろう」
職人が巻尺で寸法を測る間、フォークナー子爵はエドワードの耳元で、毒を注ぐように囁いた。
「……満月の夜、君は誰よりも美しく泥を跳ね上げ、私から逃げ惑う。その瞬間のために、最高の革を用意させた。……楽しみだね、14番。君がいつ、その誇り高い瞳を絶望に染めるのか」
フォークナー子爵は満足げに目を細め、職人を連れて部屋を去っていった。再び閉ざされた扉の向こうから、彼の高笑いが遠ざかっていく。
鍵が閉まる音が響いた瞬間、エドワードは膝をつき、激しい嫌悪感に肩を震わせた。スミスの指が触れた足首が、火傷をしたように熱い。だが、エドワードが顔を上げたとき、その瞳には湿地の霧さえ焼き尽くすような冷徹な炎が宿っていた。
「……追い回して、絶望させて、泥を舐めさせる。それがあんたの『狩り』か。いいだろう。望み通り、泥まみれになってやる。……あんたを狩り返すためなら、安い代償だ」
数時間後、エドワードのもとに「洗濯物」の回収が訪れた。
無表情なメイドたちの後ろで、見慣れた、しかし今は「洗濯女の助手」の顔をしたウィルが動いている。重い洗濯籠を抱えたウィルが、無表情な年配の洗濯女の後ろについて回廊を歩く。籠の中には、少女たちが脱ぎ捨てた湿ったケミズやドロワーズが山積みだ。
エドワードは、緋色の「14」が刺繍されたケミズとドロワーズをウィルに渡した。ケミズには、縫い目に細工をし、暗号が記されている。
『奴は次の満月の夜、少女たちを湿地帯で狩るつもりだ。ハル、猟犬を仕込め。ウィル、湿地帯の地図を描け。俺が奴を、物理的に地に這わせてやる』
ウィルはケミズの細工に気付くと、一瞬だけ、籠の中の布に指を這わせ、了解の合図を送った。
数日後。ウィルはいつになく重い籠を抱え、シーツの交換に現れた。スミスが「週に一度の清拭」を命じるこの日は、部屋の隅々までリネンが入れ替わる。そのシーツの巨大な布の波に紛れ込ませて、ウィルは武器となる地図をエドワードの元へ滑り込ませたのだ。エドワードは、いつものように部屋の外側から鍵がかけられると、ウィルがリネンの束に忍ばせた、手書きの「湿地帯の地図」を広げた。それは、ウィルが洗濯女の助手として働く合間に屋敷の境界を歩き回り、泥の深さ、底なし沼の配置、そして唯一の「硬い地面」を割り出した命の縮図だ。
「(……ここは、一歩間違えれば俺も沈む。だが、奴は馬だ)」
エドワードは、地図上の特定の地点に指を止めた。霧が深く、馬が速度を上げれば視界が効かなくなる急カーブ。そこには、ウィルが夜陰に乗じてピアノ線を張る予定の場所がある。
(ハルが仕込むアニスの香りで、猟犬を俺だけに集中させる。子爵は犬が俺を追い詰めたと確信し、勝利の悦びに浸りながら馬を飛ばすはずだ……。その加速が、奴の命取りになる)
「俺はお前の獲物じゃない。お前に地獄を見せるために、這い上がってきた復讐者だ」
首元の銀の鈴が、チリン……と鋭く鳴った。それはもはや悲鳴ではなく、獲物の喉笛を切り裂くための、合図の鐘のようだった。
ついに満月の夜が訪れた。部屋に届けられたのは、出来立ての特注ブーツと、スミスからの奇妙な指示だった。
「ドレスを脱ぎ、衣装ダンスにある『紡績工場の服』に着替えろ。それが一番、私の獲物に相応しい」
スミスの悪趣味な演出だ。かつて自分が絶望を与えた「工場の少女」の姿で、無惨に狩られる様を見たいのだろう。だがエドワードは、その動きやすい作業着の下に、ウィルから受け取ったアニスのサシェを忍ばせた。
外に出ると、25人の少女たちが怯えた顔で集まっていた。同じ貴族風に結い上げた髪に、揃いの特注ブーツ。服だけが、いつもの全員同じ色形のドレスではなく、それぞれがここに前に着ていたであろう、紡績工場の作業着だった。
そこへ颯爽と現れたフォークナー子爵は鮮やかな真紅のジャケットに白い乗馬ズボンという、伝統的なキツネ狩りの正装に身を包んでいた。手には銀の装飾が施された猟銃がある。
「さあ、遊びの始まりだ。逃げなさい、少女たち。私の愛犬たちが君たちの匂いを欲しがっている」
フォークナー子爵が角笛を吹くと、少女たちはわっと駆け出した。エドワードもその中に混じり、駆けながらウィルから渡されたアニスのサシェを握りつぶして、自らの体に香りをなすりつけた。フォークナー子爵の猟犬たちは、少女たちの揃いの香油の匂いを追うように仕込まれているが、ハルが隠れて仕込んだ通り、これでエドワードだけを追跡するはずだ。狙い通り、猟犬たちは他の少女を無視し、狂ったようにエドワードを追いはじめた。
「ははは! いいぞ、14番! 実にいい逃げっぷりだ!」
スミスは馬を駆り、喜々として追いかけてくる。エドワードはウィルの地図通り、霧の中に隠れた硬い地面を縫うように走った。
振り返る余裕などない。訓練された何十頭もの猟犬たちが、足音をたてて背後に迫ってくる。
馬上のフォークナー子爵は、愛犬たちの追跡ぶりを眺めて陶酔している。
「あぁ……見てごらん、14番!今夜、犬たちは君を選んだようだ。可哀そうな14番、今日、君の死は、私のスポーツの最高級のトロフィーになるんだ!」
エドワードは、バシャン、と泥の中に倒れ込んだ。
「残念だね、そこは行き止まりだよ、14番」
エドワードは恐怖の顔でフォークナー子爵を見つめながら、ずりずりと後ろに這いずった。
「無駄だよ、14番。命運はここで尽きたんだ」
スミスが馬をゆったりと進めながら、両手で銃を構え、勝利の絶頂で指を引き金にかけた、その瞬間――。ピアノ線が、馬の前脚を捉えた。
凄まじい落馬の音。スミスは無様に投げ出され、倒れた馬の下敷きになって絶叫した。
「ぐあぁっ! 足が……! 貴様、何をした!?」
泥だらけの14番が、ゆっくりと立ち上がる。その瞳には、もはや怯える少女の面影はない。
「お前の台本通りにはいかない、フォークナー子爵」
フォークナー子爵は狂乱し、折れた足の痛みに耐えながら猟銃を引き寄せた。
「黙れ! 泥人形が……! その生意気な顔ごと、沼に沈めてやる!」
銃口がエドワードの眉間を捉えた瞬間。
「そこまでだ、フォークナー子爵!」
霧の向こうから、松明の光と共に警官隊が姿を現した。先頭に立つのは、サリヴァン警部だ。手には、使い古されたリボルバー。サリヴァンは、馬の下敷きになって叫ぶ男を、まるで道端に落ちている汚物でも見るような目で見下ろした。
「これほどの凶行、言い逃れはできませんな。……いやはや、危ないところでしたねぇ、伯爵閣下」
「……遅い。こっちは泥まみれだ」
エドワードが冷たく言い放つと、サリヴァンは帽子を直しながら、困ったように笑った。
「これでも馬を飛ばして精一杯頑張ったんですよぅ。……さあ、フォークナー子爵。あなたの『狩り』は、これでおしまいです」
泥の中で悶えるフォークナー子爵を、エドワードは見下ろした。子爵は、エドワードが警官隊を呼び込んだことに気が付いたのだろう。激高し、「貴様ッ!何者だ!」と尋ねた。
「エドワード・レスフォード伯爵だ」
その声は、震える少女のものではなく、少年伯爵としての低く重みのある声だった。
「あなたがこの世にいる時間は、もう残り少ないでしょう。……すぐに忘れることになるでしょうが、冥土の土産に覚えておくといい」
「まさか、あり得ない……」
ジョン・スミスとして、少女たちを骨折り伯爵のために献上していたフォークナー子爵は、先代レスフォード伯爵が死んだこと、そして本物のエドワード・レスフォードがこのような少女ではないことを知っていた。かつての獲物の誰かが自分たちに牙をむいた。そう分かったとたん、フォークナー子爵の顔は屈辱と怒りで真っ赤になり、我を忘れてエドワードにとびかかろうとしたが、警官たちに取り押さえられた。それでもなお、子爵は憎々しげにエドワードを睨みつけていたが、そのまま引き立てられていった。
松明の明かりが霧を焼き払い、静まり返っていたマッシュは、にわかに捜査の喧騒に包まれていた。
「兄ちゃん!」
「兄さん!」
霧の向こうから、ハルとウィルが駆け寄ってくる。二人の顔もまた、工作と誘導のために泥だらけだったが、その瞳には勝利の光が宿っていた。三人は言葉を交わさずとも、互いの無事を確認し、深く頷き合った。
彼らの背後では、警官たちが本格的な遺体捜索を開始していた。
ガチリ、と金属音が響く。
捜査員たちが操る三爪の錨が、湿地帯の底なしの泥へと投げ込まれた。
「……かかったぞ! 引き上げろ!」
泥を滴らせ、鈍い音を立てて引き上げられたのは、かつてフォークナー子爵が獲物となる少女たちに履かせた、無数の小さなブーツだった。
ひとつ、またひとつ。泥に埋もれていた「沈黙の証言者」たちが、松明の光の下に晒されていく。
フォークナー子爵が「スポーツ」の名の下に隠蔽してきた地獄が、エドワードたちの知略と、サリヴァンの冷徹な実務によって、今、白日の下に引きずり出されたのだ。
サリヴァンの背後から現れたキングズリー警部補が、感嘆の溜息を漏らした。
「素晴らしい。……実に素晴らしい少年たちだ! 自ら体を張ってこれほどの凶行を暴き出すとは。このような若き少年貴族がいる限り、大英帝国の未来は明るい!」
「少年貴族、ね」
エドワードたちが偽りの少年貴族だと知るサリヴァンはため息を漏らした。今、この凶行を暴き立て、喜びを分かち合っている三姉妹が少年に偽装し続けられる時間はそう多く残されていないだろう。
(……いつまで踊り続けられるものか。この、嘘まみれの舞踏会を)
サリヴァンは松明の光を背に、ゆっくりと歩き出した。
霧は深く、夜はまだ明ける気配を見せなかった。




