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第九話 奥の手4

 

行司が軍配を構える。

  

「見合って、見合ってぇぇぇ」

  

土俵の中央。

二つの巨体が微動だにしない。

館内を埋め尽くしていた歓声も、いつの間にか消えていた。

誰もが息を呑んでいる。

 

山嵐の目が細まる。

先ほどまで浮かべていた嘲るような笑みはもうない。

ふざけた空気も消え失せていた。

獲物を前にした猛禽類。

そんな言葉が自然と頭に浮かぶ。

鋭い眼光。

わずかな動きも見逃さない視線。

獲物が動く、その瞬間だけを待っている。

 

「はっけよい――」 

 

対するカブト山。

顔は怒りで固まっていた。

眉間には深い皺。

見開かれた赤い眼。

固く結ばれた口元。

まるで仁王像だった。

 

 プシュゥゥゥ……。

 

肩から蒸気が漏れる。

 

 プシューッ。

 

肘関節からも白煙が吹き上がった。

熱気が揺らめき、胸部炉心が赤く脈打つ。

 

互いの視線がぶつかり合う。

 

「のこったぁぁぁぁっ!!」

 

その瞬間、土俵が爆ぜる。

 

 ドンッ――!!

 

爆発したような轟音が国技館を揺らす。

砂が舞う。

一人と一機。

二つの巨体が、まったく同時に踏み込んだ。

  

速い。

観客の目には、ほとんど同時に飛び出したように見えた。

 

山嵐の口元がわずかに歪む。

  

――来る。

 

これまで何度も見てきた。

怒りに任せた一直線の突進。

頭からぶつかってくる鋼鉄の立ち合い。

だから山嵐は迷わない。

右肘をわずかに引く。

必殺のかち上げ。

顎を打ち抜き、流れを奪う得意の形だ。

 

だが――来ない。

頭が。

 

「なっ――」

 

山嵐の目が見開かれた。

 

 パァンッ!!

 

乾いた音が響く。

横綱の顔がわずかに揺れた。

 

「なに!?」

 

一瞬だけ山嵐の動きが止まる。

だが衝撃は終わらない。

 

 ズパパパパパパパァンッ!!

 

顔に、肩に、胸に。

次々に衝撃が走る。

一発ではない。

二発でもない。

何発も。

何十発も。

まるで豪雨のように。

 

観客席からどよめきが起こる。

 

「なんだあれ!?」

「は、速すぎて見えねぇ!」

 

実況席のアナウンサーも思わず立ち上がる。

 

「張り手だぁぁぁっ!!」

  

そう。衝撃の正体は、カブト山の張り手。

だが今までの張り手ではない。

カブト山の姿勢は、これまでとはまるで違っていた。

極端な前傾姿勢。

鋼鉄の巨体が前へ倒れ込む寸前まで重心を移している。

 

 ギギッ。

 

一歩。

 

 ギギギッ。

 

また一歩。

歩みそのものは決して速くない。

むしろ遅いくらいだった。

 

だが――

腕だけが違う。

 

 パァンッ!!

 

張り手が飛ぶ。

 

 パパァンッ!!

 

もう一発。さらにもう一発。

腕が戻る。

捻る。

流れる。

そして次の掌へ繋がる。

回転が加速していく。

まるで巨大な車輪だった。

 

止まらない。

止められない。

 

張り手の連鎖が、次の張り手を生み続ける。

 

 ズパパパパパパパァンッ!!

 

国技館に乾いた音が響き渡る。

カブト山の赤い眼光が燃える。

 

「これが――」

 

一歩。

  

「必殺――」

 

さらに一歩。

掌が唸る。

 

「百裂張り手だあぁぁぁっ!!」

 

轟く咆哮。

 

観客席が揺れた。

 

百裂張り手観音。

あの寺で見た無数の掌。

引き、捻り、流れ、重なり。

一撃のためではない。

次の一撃へ繋ぐための掌。

 

速さと重さ。

本来なら両立しない二つを成立させるための軌跡。

それが今、鋼鉄の腕によって再現されていた。

  

 パァンッ!!

 

張り手が顔を打つ。

 

 パァンッ!!

 

肩を打つ。

 

 パァンッ!!

 

胸を打つ。

 

山嵐は受ける。受け続ける。

だが、横綱の顔から余裕が消えていた。

張り手をいなし、腕で防ぎ、体で受ける。

それでも衝撃が積み重なる。

一発一発は耐えられる。しかし、一発で終わらない。

次が来る。

その次も来る。

さらに来る。

終わらない。

山嵐の足がじりりと下がる。

また半歩。

さらに半歩。

気づけば。

横綱は後退していた。

 

観客席がどよめく。

 

「押されてるぞ!」

「山嵐が!?」

 

信じられないものを見る目だった。

 

無敗の横綱。

土俵の王者。

その山嵐唯我独尊が、じわり、じわりと土俵際へ追い込まれていく。

そしてついに

俵が、横綱のかかとのすぐ後ろまで迫っていた。

 

歓声が上がる。

 

「いけぇぇぇっ!!」

「押し切れぇぇぇ!!」

 

国技館が揺れる。

観客たちは総立ちだった。

 

花道の脇では、タコス山が拳を突き上げている。

 

「いくっス、大関!!」

 

興奮のあまりアフロ髷がぶるぶる揺れた。

 

一方。

ミント山親方は何も言わない。

ただ、真剣に土俵をカブト山を見つめている。

握り締めた拳に力が入っていた。


カブト山の赤い眼光が燃える。


「これで――」


一歩踏み込む。


「とどめだぁっ!!」


右腕が唸る。

百裂張り手の連撃から繋がる渾身の一撃。

勝負を終わらせるための張り手。


館内の誰もが。実況席も。観客も。タコス山も。

カブト山の勝利を確信した。


だが――。


 ガッ。


鈍い音。

突き出された右腕が途中で止まる。


「なっ――」


カブト山の目が見開かれた。

山嵐だった。

俵を背負ったまま。

横綱は右腕を振り上げ、飛んできた張り手を外へ弾いていた。


次の瞬間、山嵐が動く。

今まで防戦一方だった男とは思えない速さ。

弾かれた右腕。そして、伸び切った左腕。

その隙へ身体ごと潜り込む。


 ガシィッ!!


太い両腕が閉じる。

カブト山の両腕が脇へ抱え込まれた。

 

「しまっ――」


遅い。

完全に入られた。

密着。張り手の間合いが消える。

百裂張り手が最も力を発揮する距離を、一瞬で潰された。


そして。

山嵐がゆっくり顔を上げる。

口元が裂けるように――笑っている。

その唇の端から赤いものが垂れている。

張り手で切れたのだろう。

口の中いっぱいに溜まった血。

横綱はそれを――

 

 ぷっ。

 

吐き出した。

赤い飛沫が空中へ散り、血煙が舞う。


白い砂。赤い血。

そして、獣のように笑う横綱。

その目には狂気が浮かぶ。

 

「まぁまぁだな」


山嵐は口元をさらに吊り上げた。

獲物を仕留める直前の肉食獣の笑み。


次の瞬間。

横綱の両肩が、ぐっと盛り上がる。

分厚い僧帽筋が鎧のように膨れ、首筋の血管が浮き上がった。

抱え込んだカブト山の両腕を、そのまま力任せに捻じり上げる。


 ギギギギギ……ッ!!


鋼鉄の関節が悲鳴を上げた。

肩部装甲が軋み、内部フレームが限界を訴える。

火花が散る。胸部炉心が激しく明滅した。


「ぐあぁぁぁぁぁぁっ!!」


国技館に絶叫が響く。

観客席から悲鳴が上がった。

ミント山親方が思わず立ち上がる。

タコス山の顔から笑みが消えた。


さっきまで優勢だったはずだ。

土俵際まで追い詰めていた。

あと一撃だった。

たった一撃で終わるはずだった。

それなのに


――また、負けるのか


カブト山の視界が白く弾ける。

諦めかけたその時、視界を黒い何かが横切る。

 

 バシィンッ!!

 

乾いた音が国技館に響いた。

山嵐の顔が大きく横へ流れる。

 

「ぐっ……!?」

 

横綱の足が一歩よろめいた。

その隙に、カブト山は締め上げられていた両腕を引き抜き、強引に距離を取る。

土俵上に緊張が走る。


何が起きた。

誰も理解できていない。


観客席がざわつく。

実況席も言葉を失っていた。


カブト山自身も同じだった。

荒い蒸気を吐きながら構えを取る。

そこで気づく。


頭が重い。


妙な違和感がある。

恐る恐る視線を上へ向けた。


「……な」


声が止まる。


髷だった。

自分の髷が、ありえない長さまで伸びている。

黒々とした髷は蛇のようにしなり、その先端は――掌の形になっていた。


五本の指を備えた張り手そのもの。

先ほど山嵐を打ったのは間違いなくそれだった。

 

「な、なんだこれ……」

 

ざわめきが大きくなる。

観客たちの視線が、一斉にカブト山の頭へ集まった。

カブト山が呆然と伸びた髷を見つめていた、その時だった。


 ――ピピッ。


頭の奥で、小さな電子音が鳴る。

次いで、聞き覚えのない機械音声が流れた。

 

 『生命の危険を感知しました』

 『これより、迎撃システムを発動します』

 『モードチェンジ』

 

カブト山の目が見開かれる。


 ――なんだ!?


聞いてない。こんな機能は聞いていない。

 

観客席がざわつく。

実況席も騒然となる。

そして、ダイジョバナイ博士のメガネがキラリと光った。

機械音声とダイジョバナイ博士の声が重なる。


 「『モード――〈千裂張り手観音〉』」


その瞬間だった。


 バンッ!!


頭上で何かが弾けるような音が響く。

カブト山の大銀杏が、爆発したように解けた。


黒髪が一気に広がる。

無数の髪が空中へ舞い上がり、ゆらゆらと揺らめいた。


風もない。

それなのに生き物のように蠢いている。


そして――


観客たちは気づく。

一本。また一本。

髪の先端が変形していくことに。


指、掌、張り手。


髪の一房一房の先端が、髷と同じ形を取り始めていた。

細い腕のように伸び、その先に小さな掌が開く。


十。

二十。

三十。


数えきれない。

無数の掌が頭部から生え広がっていく。

まるで黒い蛇の群れだった。

あるいは、

神話に語られる怪物――メデューサ。

その名を知る者なら、誰もが同じものを連想しただろう。


土俵中央に立つカブト山の背後で、無数の掌がゆらゆらと揺れている。

観音の後光にも見えた。

だが同時に、ひどく禍々しい。


静まり返った国技館。

誰も声を出せない。

行司ですら軍配を握ったまま固まっていた。

やがて――


「ひぃっ」


観客席のどこかから悲鳴が漏れる。

カブト山は、自身の周囲で揺らめく無数の掌を見上げた。

数えるのも馬鹿らしくなるほどの張り手が、頭から生えている。


仕組みはわからない。

いつこんな機能が搭載されたのかもわからない。

だが――

 

「これなら……」

 

蒸気が漏れる。

赤い炉心が脈打つ。


「これならいける」


土俵の向こうへ視線を向ける。

横綱、山嵐唯我独尊。

それと同時に、カブト山に合わせるように無数の掌が一斉に向きを変える。

山嵐の表情が初めて崩れる。

驚愕。

横綱の目が見開かれた。


カブト山の赤い眼光が鋭く光る。


「今日がキサマの命日だ」


低い声が響く。

カブト山が前へ出る。

その背後で揺れる無数の張り手と共に。


観客席が総立ちになる。

実況席のアナウンサーが絶叫した。


「で、出たぁぁぁぁっ!!ギリシア神話からメドゥーサの土俵入りだぁぁぁぁ!!」


カブト山はただ前へ出る。

一歩。また一歩。

そして――吠えた。


「くらえぇぇぇぇっ!!」

 

胸部炉心が眩く輝く。

 

「千裂張り手ぇぇぇぇぇぇーーーッ!!」

 

無数の掌が、一斉に前に出た。

数え切れない掌が空間を埋め尽くす。

百裂張り手観音。

あの日、本堂で見た掌。

その残像。軌跡。極意。

だが今、カブト山が放とうとしているものはそのさらに先だった。


百を超え、千へと至る。


土俵上を埋め尽くす千の張り手の奔流が横綱・山嵐唯我独尊へ襲いかかる。

張り手の渦が山嵐を呑み込まんとしたその時だった。 

 

「髪結い不十分~~」


行司の声が響く。

静寂。

カブト山が止まる。

山嵐が止まる。

観客が止まる。

掌達が行司にふりかえった。


「ただいまの決まり手、髪結い不十分~」


伸びた髷だけがゆらゆらと揺れていた。



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