第十話 タコス山 百々須戸
控室の空気は、どこかこもったように静かだった。
畳に置かれた深い青の座布団と簡素なちゃぶ台、壁際に積まれた荷物。
その片隅で、二人は肩を並べて座っている。
手元には、それぞれ一台ずつの携帯ゲーム機。
小さな画面の中で、鮮やかなエフェクトが弾けていた。
「......うそ......だろ」
乾いた声を漏らしたのメカ大関 カブト山機太郎。
画面には無情にも「PERFECT」の文字。
隣でダイジョバナイ博士が小さく笑う。
「今の、最後まで何もできなかったね」
「いや、だって......今のは......!」
言い訳しかけて、カブト山は口をつぐむ。
実際、何もできなかったのだ。
再戦のカウントが始まる。
「今度は本気でいく......!」
そう言って、カブト山は姿勢を正し、指に力を込める。
だが試合開始の音が鳴った瞬間――
「はい、ここ」
ダイジョバナイ博士の短い一言と同時に、キャラクターが掴まれ、放り投げられる。
そして、そこから逃げ場のない連続攻撃。
博士の使う忍者のキャラが三体に影分身し、襲い掛かる。
画面の端に追い詰められ、浮かせられ、叩き落とされ、また拾われる。
カブト山の侍を模したキャラクターは、まるでおもちゃのように弄ばれた。
「ちょ、ちょっと待って、抜けられないんだけどこれ!?」
ボタンを必死に連打するが、入力が通っている気配がない。
「三体の同時攻撃だからね」
軽い調子で解説しながらも、ダイジョバナイ博士の指は一切止まらない。
数秒後。
また「K.O.」。
控室に、電子音だけが響く。
「......また負けた」
カブト山は膝の上にゲーム機を置き、項垂れた。
「これで何連敗?」
「えーっと、たぶん......8? いや10くらい?」
あっけらかんと答えるダイジョバナイ博士。
その顔には罪悪感のかけらもない。
「一回くらい勝たせてくれても......?」
「ダメダメ、真剣勝負じゃないと面白くないしね」
きっぱりと言い切られ、カブト山はムキになる。
「もう一回、もう一回だけお願いします」
メカ大関はあきらめない。
リベンジマッチをしようとしたその時、控室のドアが、ぎい、と鈍い音を立てて開いた。
二人が同時に顔を上げる。
そこには二人の見知った男がいた。
アフロヘア―を強引に髷にした、たわしのようなシルエット。
派手な柄のアロハシャツを羽織り、
首にはなぜか数珠とヘッドホンを同時にぶら下げる独特のスタイル。
だがいつもと違うのは、その脇にしっかりと松葉杖が挟まれていた。
男の名は――タコス山百々須戸。
「いやー、足.......やっちゃいました」
軽い調子でそう言って、タコス山はへらりと笑う。
片足をかばいながら、ぴょこん、ぴょこんと不器用に中へ入ってきた。
先日の山嵐との取組。
今場所調子が良かったタコス山。意気揚々と横綱に挑むが派手に投げられた。
持ち上げられ、地面に叩きつけられたタコス山は自力では立てずに病院へ運ばれたのだ。
「タハハ......ほんと、間抜けっすよね」
空いた手で後頭部をぽりぽりと掻く。
その仕草はいつも通りで、まるで大したことではないとでも言いたげだった。
カブト山は思わず立ち上がる。
「タコ.......それ......大丈夫なのか?」
「全然全然、ヒビ入っただけっす、全治2週間って言われました」
軽く言ってのけるが、その言葉とは裏腹に動きはぎこちない。
タコス山は近くの椅子に腰を下ろすと、ふう、と短く息を吐いた。
それでもすぐに、いつもの調子に戻ろうとする。
「いやー、あれっすかね。こないだのお賽銭、ちょっとケチっちゃったからですかね」
へへへ、と歯を見せて笑う。
「バチが当たったっていうか......いや、ほんと調子良かったんすけど.......」
軽口は続く。
場の空気を軽くしようとしているのが、かえって浮き上がるほどに。
ダイジョバナイ博士はきょとんとした顔でその様子を見ていた。
カブト山も、どう返していいのか分からず、曖昧に笑うしかない。
「まあでも、大丈夫っす。すぐ戻れますし」
へへ、へへへ――
笑い声が、少しだけ乾く。
「ほんと、俺――」
そこで、ふっと声が止まった。
次の瞬間だった。
ぽたり、と。
膝の上に、小さな水滴が落ちる。
「あ......」
自分でも驚いたように、弟弟子が瞬きをする。
ぽた、ぽた、と続けて落ちる。
「なんだ......これ」
呟いた声は、さっきまでの軽さを完全に失っていた。
気づけば、頬を伝っている。
こらえようとしたのか、ぐっと口元が歪む。だが、それで止まるものではなかった。
「......っ」
息が詰まる。
視線が宙をさまよい、焦点が合わなくなる。
「大したこと、ないって......思ってたんですけど......」
言葉が途切れ途切れになる。
喉の奥から、押し殺したはずのものがせり上がる。
「なんか......急に......」
ぼろぼろと、大粒の涙が零れ落ちる。
隠すこともできず、ただ流れ続ける。
さっきまで笑っていた顔が、崩れていく。
どうにもできないまま、歯を食いしばる。
「......悔しいな......」
ようやく絞り出した一言は、ひどく小さかった。
控室は、一瞬で静まり返る。
さっきまで響いていたゲームの電子音さえ、遠くに感じるほどに。
カブト山は何も言えず、その場に立ち尽くす。
ダイジョバナイ博士も、ただじっと見ているしかなかった。
軽口でごまかそうとしていたものが、全部剥がれ落ちる。
その場に残ったのは、どうしようもなくむき出しの感情だけだった。
控室の静けさの中で、タコス山の嗚咽だけがかすかに響いていた。
「......悔しい......悔しい......」
絞り出すような声で、何度も同じ言葉を繰り返す。
握りしめた拳は白くなり、肩は小刻みに震えている。
見ていられなくなったのか、カブト山が一歩踏み出した。
「......タコ......」
低く、しかしはっきりとした強い声。
「大丈夫だ、怪我を直したら戻ってくればいい」
その言葉には、どこか励ましのようなものが込められていた。
少しでもこの場の空気を変えようとするような――そんな不器用な優しさ。
だが、タコス山はゆっくりとかぶりを振った。
「......違うんす」
涙で濡れた顔のまま、息を整えようとする。
しかしうまくいかず、言葉は震えたまま続く。
「そうじゃ、ないんす......」
大関と博士は顔を見合わせる。
何が違うのか分からず、ただ黙って彼の次の言葉を待つ。
タコス山はしばらく俯いていたが、やがて途切れ途切れに口を開いた。
「俺……」
喉が鳴る。
「俺は......びびっちまったんす」
その言葉に、空気がわずかに張りつめる。
タコス山はぎゅっと拳を握り締めた。
骨が軋むんじゃないかと思うほど、強く。
「横綱に......」
ぽつり、と落とされる言葉。
その場にいた二人は、反射的に息を呑んだ。
「やる前は絶対倒してやるって思ってたんス」
震える声。けれど、どこか諦めきれないものが滲んでいる。
「でも、いざ向かい合ったら......」
そこで言葉が詰まる。
ぎゅっと結ばれた口元が歪む。
「......怖ぇって......足、動かなくなって......」
拳がわずかに震える。
「......もう、気持ちで負けてたっていうか......」
そのまま、視線が落ちる。
「そんな自分が......情けなくて......」
声がすっと落ちた。
さっきまでの激しい嗚咽ではなく、底に沈むような、静かな悔しさ。
控室は完全に音を失う。
ゲーム機の画面も、誰も触れないまま暗くなっていた。
カブト山は、言葉を探して口を開きかけるが――何も出てこない。
ダイジョバナイ博士もまた、ただじっとタコス山を見つめている。
勝ち負けとは違う何かが、そこにあった。
簡単に励ませるようなものではない、もっと重い何かが。
タコス山は、握り締めた拳をそのまま膝の上に落とした。
その手は、まだかすかに震えている。
カブト山は、しばらく何も言えずにタコス山の前に立っていた。
握り締められた拳、震える肩、絞り出される声——その全部が、自分の記憶と重なる。
ゆっくりと息を吐き、少しだけ目を伏せた。
「......分かるよ」
ぽつりと落ちた言葉に、タコス山の肩がわずかに揺れる。
「その気持ち、痛いほど分かる」
静かな声だったが、曖昧さはなかった。
ダイジョバナイ博士もカブト山を見る。
さっきまでゲームで連敗していた姿とは違う、どこか別の空気をまとっている。
「向かい合うとさ。ああ、これは無理かもしれないってな」
控室の蛍光灯が、やけに白く二人を照らす。
「足がすくむ気持ちも、逃げたくなる感じも——全部、一緒だ」
タコス山の握り拳が、わずかに緩む。
カブト山はそこで顔を上げた。
「でもな、タコ」
カブト山は視線を落とし、一度唇を嚙みしめた。
「次の取組――」
「俺の背中を――しっかりその目に焼き付けておけ!」
その言葉に飾り気はない。だが、静かに響いた。
タコス山が顔を上げる。
涙で滲んだ目に、わずかな驚きが宿る。
ダイジョバナイ博士がカブト山の腕をつかむ。
「次の取組、負けられないね」
「......博士」
「カブト山......アレを使おう」
「アレ......ですか」
ゴクリと喉が鳴る。
「タコス山の弔い合戦だ」
「ハイッ」
「いや、死んでねーっス」
取組の時間が、否――漢が漢に背中で語る時が近づいてきた。




