表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/9

第五話 ミント山親方

生放送での珍反則負けから二か月後。


取組前の支度部屋では、相撲協会の面々にぺこぺこと頭を下げる一人の男の姿があった。

 

男の名は、ミント山 爽風。

カブト山が所属するミント山部屋の親方だ。


もともと曲がっていた背中は、頭を下げるたびにさらに丸まり、まるで古びた弓のように軋んで見える。

薄くなった頭頂部が、照明の白い光を弱々しく反射した。

額には脂汗がにじみ、ぺたりと張りついた数本の髪が、情けなく揺れている。


「どうか……どうか、お願いします……」


声はかすれ、息を吸うたび喉が鳴った。

両手を膝の前で擦り合わせながら、相撲協会の面々へ向けてまた深く頭を下げる。

一度下げて終わりではない。

誰かが小さく咳払いをするたび、視線が動くたび、その男は条件反射のように再び頭を下げた。

そのたびに、背広の肩が小刻みに震える。

畳に落ちた影まで縮こまって見えた。

協会の人間たちは無言だった。

腕を組む者。露骨に面倒そうな顔をする者。湯呑みに口をつけたまま視線すら向けない者。


その沈黙が続くほど、ミント山親方の頭は低くなっていく。

ついには、額が畳につく寸前まで折れ曲がっていた。


「――次は、ないからな」


最後にそう吐き捨てると、先頭にいた男がゆっくり立ち上がった。

畳を踏む足音は重く、やけに静かな部屋に鈍く響く。

黒い羽織の裾が揺れ、その後ろを他の協会の面々も無言のまま続いていった。


誰一人、親方を振り返らない。


ある者は鼻を鳴らし、ある者は露骨に顔をしかめたまま、出口へ向かう。

去り際、小柄な男が机の上の湯呑みを乱暴に置いた音だけが不自然に大きく響いた。


ドアが開く。

冷たい廊下の空気が流れ込み、親方の薄い頭を撫でた。


それでも親方は、顔を上げなかった。

背中を丸めたまま、畳に額がつきそうなほど深く頭を下げ続けている。


「……ありがとうございます……ありがとうございます……」


誰も聞いていない礼の言葉が、かすれた声で畳に落ちた。

やがて、協会の人間たちの足音は遠ざかり、完全に消える。

静まり返った部屋には、古い扇風機の回る音だけが残っていた。

 

遠ざかっていた足音が完全に消えたのを確認すると、恐る恐るといった様子で顔を上げる。


「……行ったか」


小さく漏らした声には、張り詰めていた糸が切れたような疲れが滲んでいた。

親方はゆっくりこちらを振り向く。

さっきまで床につきそうなほど低かった頭が持ち上がると、薄くなった頭頂部が照明に照らされる。


その顔には、情けなさと安堵が入り混じったような苦笑いが浮かんでいた。


親方は猫背のまま、とぼとぼと歩いてくる。

足取りは重く、草履を擦る音が畳にだらしなく響いた。

途中、後頭部をぽりぽりとかきむしる。


「いやぁー……まいった、まいった」


乾いた笑い声。

だが、その笑いには覇気がなく、無理やり口角を上げているのが丸わかりだった。


「歳食うとなぁ、怒鳴られるだけで寿命縮むわ……」


そう言ってまた苦笑する。

さっきまで必死に頭を下げ続けていた余韻が、まだその肩に重たく残っていた。

 

「……すみません」


低い声が、部屋の隅から聞こえた。


振り向くと、メカ大関 カブト山が立っていた。

巨体を小さく縮こませるようにして、視線を落としている。


「自分のせいで……」


言葉はそこで止まった。

握り締めた拳に力が入る。悔しさと申し訳なさを、飲み込もうとしているのがわかった。


親方は数秒、黙ってカブト山を見る。

それから、ふっと口元を緩めた。


「なーに、いいってことよ」


軽い調子だった。

親方は頭をぽりぽりとかきながら、大関の腹をぽんと叩く。


「協会に頭下げんのも親方の仕事だ。お前が気にすることじゃないよ」


そう言って笑う。

さっきまであれほど情けなく見えていた苦笑いとは違う、どこか人懐っこい笑顔だった。

だが、カブト山はまだ俯いたままだ。


「でも……」


「でもじゃない」


親方は言葉を被せるように言った。

その声は穏やかだったが、不思議と土俵際みたいな強さがあった。


「お前は前だけ見てりゃいいんだよ。頭下げる役は、もう俺みてぇなハゲ親父がやっとくからさ」


最後はわざとおどけるように言って、薄くなった頭をぺちんと叩く。

その瞬間だけ、カブト山の口元が少しだけ緩んだ。

しばらく沈黙が流れたあと、カブト山がぽつりと口を開いた。


「……それにしても」


まだどこか納得しきれていない顔のまま、親方を見る。


「どうやって説得したんですか」


あれだけ怒気を孕んでいた協会の面々だ。

普通なら、あんな簡単に引き下がるとは思えなかった。


ミント山親方は「あー」と気の抜けた声を出し、また頭をかいた。


「なーに、簡単なことだよ」


そう言って、部屋の隅に置かれた座布団へどっかり腰を下ろす。

座った瞬間、「よっこいしょ」と年寄りくさい声が漏れた。

 

「回しが脱げたことは事実だ、だけどな......」


「力士のアレがあんなに小さいわけがない、あれはただのちょっと飛び出た小ネジだってな」

 

「――え!?」

 

「協会の連中も『確かに』って言ってたぜ」

 

――小......ネジ......

 

カブト山の目からすうっと光が消えていく。

次の瞬間、どさっとその巨体が膝から崩れ落ちた。

畳が鈍く揺れる。

 

――嘘だろ......俺が......小ネジ......


両手を畳につき、魂が抜けたみたいにうなだれる。

先場所までの大関らしい威圧感はどこにもない。


親方はそんな様子を横目でちらりと見た。

だが、特に気にした風でもなく湯呑みを持ち上げる。


 ずずっ――。


静かな音を立てて、お茶をひと口すすった。


「それでおとがめなしってわけよ」 

 

親方の言葉が耳に入ってこない。

目の前が真っ暗になり、頭と体が自然と強制シャットダウンに移ろうとしたその時、

カブト山の肩に、親方の手が、ぽんっと置かれた。

 

「お前は俺の若いころに似ている」

「自分の相撲道を信じろ」

 

カブト山は、ゆっくりと顔を上げた。


目の前には、湯呑みを片手に持ったままの親方がいる。

薄くなった頭をぼりぼりとかきながら、どこか照れくさそうに笑っていた。


「……親方」


かすれた声だった。

親方の言葉が、胸の奥へじわりと沈んでいく。


――頭を下げるのは親方の仕事。

――お前は前だけ見てりゃいい。

――自分の相撲道を信じろ。


ぶっきらぼうで、雑で、少しふざけている。

けれど、その言葉のひとつひとつに自分を守ろうとする気持ちが滲んでいた。


しかし、カブト山は知っている。

最近、親方が胃薬を手放せなくなったことを。


朝も。

稽古のあとも。

夜、誰もいない部屋でも。


机の引き出しには、開いている胃薬の箱が何個も転がっていた。

湯呑みの横には、飲み忘れた錠剤が一粒だけ残っていることもあった。


以前より白髪も増えた。

ため息の回数も増えた。

それでも親方は、弟子たちの前ではなるべく笑っていた。


――全部、自分のせいだ。


そう思った瞬間、胸の奥が鈍く軋む。

カブト山は、笑う親方の顔をじっと見つめていた。


薄くなった頭。

曲がった背中。

くたびれた背広。

胃を押さえる癖。


決して立派には見えない。

むしろ、情けないくらいだ。


だが――。


自分は、この人に拾われた。

どこにも行き場のなかった、自分を。


土俵を降り、世間からもはみ出し、

機械のカラダを手に入れたはいいものの、ただ力だけを持て余していた頃。

周囲からは化け物みたいな目で見られ、自分でも、自分が何者なのかわからなくなっていた。


機械の体。

異形の力。

壊れた相撲人生。


あの頃の自分は、人でも力士でもなく、ただの得体の知れない何かだった。


そんな自分に、親方は言ったのだ。


「おう、ウチで飯食うか?」


まるで野良猫でも拾うみたいな気軽さで。


カブト山は今でも覚えている。

ちゃんこ鍋の湯気。

親方の汚い笑い声。

部屋中に転がっていた開きっぱなしの雑誌。

そして、やたらとしょっぱかったちゃんこの味を。


あの日からだった。


もう一度、土俵に上がろうと思えたのは。


博士は力をくれた。

砕けた肉体を繋ぎ、鋼鉄の腕を与え、もう一度立ち上がるための力をくれた。


だが――


親方は、居場所をくれた。

「メカ大関 カブト山」として笑われる場所を。

馬鹿みたいに飯を食って、馬鹿みたいに稽古して、馬鹿みたいに生きていける場所を。


厳しくて。

うるさくて。

酒臭くて。

でも、誰よりも土俵を愛している。


まるで、親父みたいな人だった。

 

カブト山の胸の奥で、何かが静かに熱を帯びる。

握った拳に、ゆっくり力がこもった。

 

――ひやっ。


突如、カブト山の頬に冷たい何かが押し当てられた。


「うおっ!?」


びくりと肩を震わせ、顔を上げる。

そこには、ぼさぼさの金髪に、青い瞳。

銀色のゴーグルを額にずらした男――ダイジョバナイ博士が立っていた。


白衣の裾をひらひらさせながら、にかっと笑っている。

手には一本の金属缶。缶の表面には、やたら元気なミント色の文字でこう書かれていた。


『エナジーオイル ミントちゃんこ味』


「カブト山、これでも飲んで元気出しなよ」


博士は軽い調子で缶を押し付ける。


カブト山は無言で受け取った。

数秒だけラベルを見つめる。


――ミント……ちゃんこ味……?


脳が理解を拒否するが、断る気力も残っていない。

ぷしゅっと缶を開け、そのまま一気に流し込む。


 ゴク、ゴク、ゴク――。


次の瞬間。


「んぶぉっ!?」


カブト山の巨体が跳ねた。


鼻に突き抜ける異常な清涼感。

そのあとを追いかけるように、濃厚なちゃんこの旨味。

さらに遅れて、機械油みたいな後味が舌を殴ってくる。


脳が混乱した。


「ど、どうかな!? 今回はミントと塩ちゃんこを黄金比で混ぜてみたんだ!」


博士が目をきらきらさせながら詰め寄ってくる。

完全に子供の顔だった。


カブト山は口を押さえたまま数秒固まり、やがて震える声で言った。


「……さ、最高っす」


「でしょー」


恩人の期待は裏切れない。

味はともかく、エナジーオイルが染みわたり体に活力と爽やかさが走る。


博士はぐいっとカブト山の腕を掴むと、興奮した様子で語りだした。


「今度の奥の手はすごいよ!」


博士の目が怪しく輝く。


「前は音声認識だったでしょ? でも相手にタイミングがバレちゃうからねぇ!」


「は、はぁ……」


「だから今回は!」


博士は腕を組み、胸を張る。


「肘にボタンをつけたんだ!!」


「ボタン!?」


「そう! 相手に見えないように、肘をこう……ぐいっと押し込むと発動する仕組みさ!」


博士は身振り手振りを交えて説明する。

途中から完全に楽しくなっている。


「ダイジョーブ!今度の作戦は完璧だよ!」


わははは、と高笑い。


カブト山は無言で肘を見る......嫌な予感が脳裏をかすめるが、それを振り払った。

 

廊下の向こうから、ざわめきが聞こえてくる。


観客の歓声。

呼び出しの声。

太鼓の音。


取組の時間が近づいていた。


カブト山は静かに立ち上がる。

その巨体が動くたび、関節部の金属が低く唸った。


ぎゅ、と拳を握る。


視線を上げると、そこにはミント山親方がいた。

湯呑みを片手に、「おう、気楽に行け」とでも言いたげな顔で笑っている。

だが、その目の下にはうっすら隈が浮かんでいた。


もう一人。


ダイジョバナイ博士。

白衣の裾をばたばた揺らしながら、「肩のボタンは自爆するから気をつけてね!」とよくわからない注意事項を叫んでいる。


カブト山は二人の顔を交互に見た。


博士は、自分に力をくれた。

壊れた体を繋ぎ止め、鋼鉄の肉体を与え、もう一度立ち上がるための可能性をくれた。


親方は、自分に居場所をくれた。

土俵を。ちゃんこの湯気を。

こんな姿でも生きていていい場所を。


胸の奥で、熱が燃える。


これは、ただの復讐じゃない。


笑われた意地。

踏みにじられた誇り。

それだけで終わる戦いではなかった。


この身を拾ってくれた二人の恩義に報いるため。


――これはもう、俺一人の戦いじゃない


カブト山の目に、静かな闘志が宿る。


「……行ってきます」


低く響く声。

親方はニヤリと笑い、博士はブンブンと手を振る。

 

メカ大関 カブト山は、土俵へ向けて歩き出した。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ