第二十六話 決着
二人は土俵の中央で動かない。
互いの視線だけが鋭く嚙み合っている。
目で会話する、相手の考えを読むといった類の眼差しではない。
ただただ自分という存在を相手にぶつける、そういった圧のある目だった。
行司が軍配を構える。
「見合って、見合って」
その声が土俵へ落ちる。
仕切り線を挟んで、およそ七十センチ。
ほんの一歩にも満たない距離。
だが、その狭間には誰一人踏み込めない世界がある。
獣の闘気と鋼の意志。
目には見えぬ二つの力がぶつかり合い、空気が陽炎のようにゆらりと歪む。
館内は静まり返っていた。
数千人の観客が息を止める。
誰も瞬きをせず、誰も声を出さない。
土俵の上には、二人だけの世界があった。
「はっけよい――」
行司の声が鋭く響く。
山嵐の眼光がさらに獰猛さを増した。
獲物へ飛びかかる寸前の猛獣。
牙を隠そうともせず、その本能をむき出しにする。
対するカブト山。
青く、静かに。
刃のように研ぎ澄まされた瞳。
炎のような激しさだけではない。
何度砕かれても、なお折れなかった鋼だけが宿す青い輝き。
二人は、一歩も動かない。
だが、その一瞬は永遠にも等しい。
「――のこったッ!!」
その瞬間、世界が弾けた。
ドォォォオォォンッ!!
轟音が館内に響き渡る。
二つの巨体が真正面から激突する。
その衝撃は、まるで雷そのものだった。
頭蓋を打ち抜き、背骨を貫き、腰を砕き、足の指先まで一瞬で稲妻が駆け抜ける。
「――っ!」
視界が白く弾けた。
鼓膜が震え、世界から音が消える。
膝が笑う。身体が吹き飛べと叫ぶ。
だが、引かない。
足裏を土俵に深く食い込ませる。
たとえ砂粒一つすらも譲らぬとばかりに大地を掴む。
目の奥がちかちかと瞬く。
意識が遠のく。
落ちる。いや
――意識を保て、次が来る!
そう思うよりも早く、身体が動いていた。
横綱の右肩がわずかに沈む。
右腕がしなる。
――かち上げ
知っている。
何度も見た。何度も喰らった。
頭ではない。
魂がその軌道を覚えている。
カブト山の左腕が跳ね上がる。
バギィイン
肘から先が横綱の右腕へ噛みつくようにぶつかり、かち上げを受け止めた。
重い。鋼鉄の鉈を打ち込まれたような衝撃。
それでも、防ぐ。
そして――来る。
左。
暴風のように薙ぎ払う横綱の必殺の張り手。
その腕が振り抜かれるより、一瞬早くカブト山は腰を落とした。
地を蹴り、額を突き出す。
先ほどの立ち合いを超える突撃槍のような一撃。
ゴッッ!!
頭突きが山嵐の胸へと炸裂した。
二人の身体が弾かれるように離れる。
土俵の中央に、わずかな間合いが生まれる。
白い砂がふわりと舞い、ゆっくりと落ちていく。
誰も動かない。いや、動けない。
カブト山は静かに息を整えた。
そして――
両腕をゆっくりと持ち上げる。
肘を開き、掌を前へ向け、低く腰を落とす。
その構えを見た瞬間、山嵐の瞳から、わずかに熱が消えた。
「……その技は」
低く、吐き捨てるような声。
そこにあったのは怒りでも警戒でもない。
それは――失望。
山嵐もまた、静かに両腕を持ち上げる。
寸分違わぬ構え。
『百裂張り手』
鏡に映したように、二人は同じ姿勢で向かい合う。
館内がどよめく。
誰もが思い出していた。
あの日、土俵を埋め尽くした張り手。
そして、最後には一方的に叩き潰された惨劇を。
また、繰り返すのか。
そんな空気が館内を覆う。
二人は同時に一歩踏み出した。
砂が跳ねる。
その瞬間、山嵐が牙を剥いた。
「もう死んでるだろうがぁぁぁぁッ!!」
咆哮が館内を震わせる。
次の刹那、二人の腕は――光の奔流となる。
パァンッ! パパァンッ!!パァァンッ!!!
乾いた破裂音が幾重にも重なる。
上下左右に張り手が張り手を迎え撃ち、張り手が張り手を弾き飛ばす。
腕が残像を引き、空気が裂ける。
一発一発が流星となり、
無数の軌跡が土俵を埋め尽くした。
張り手の流星群。
その中心で、獣は牙を振るい、鋼は折れぬ意志を振るう。
一見して互角。
激しく打ち合う両者に館内は息をのむ。
だが、やはりほんのわずか。
ほんの紙一枚分だけ山嵐が上回る
パァンッ! パァンッ! パパァンッ!!
鋭い張り手が一発、また一発とカブト山を捉える。
肩が揺れ、頬が弾ける。
踏み締めた足が、じり、と砂を削った。
少しずつ。少しずつ。
カブト山の身体が削られていく。
観客の脳裏に、あの日の光景がよみがえった。
また同じだ。
また百裂張り手で押し切られる。
誰もがそう思った。
鋭い張り手が一発、また一発とカブト山を捉える。
だが――決定的に違う。あの日とは。
どれだけ張り手の豪雨にさらされても、カブト山の瞳は微塵も揺るがない。
張り手の嵐の中、その目に浮かぶは恐怖ではない。
恩人たちの顔だった。
パァンッ! パァンッ! パァンッ! パァンッ!
白衣を翻し、笑うダイジョバナイ博士。
回しを差し出すタコス山。
優しく微笑む発火女将。
「おかえり」と抱き締めてくれたミント山親方。
打ち込まれる衝撃のたびに、胸の奥で、一人、また一人と顔が浮かぶ。
そして静かな研究所の奥。
白い布に包まれ、静かに横たわる鋼鉄の身体。
もう動くことのない。
もう帰ることのない。
かつての自分。
刹那、カブト山の瞳の奥で、青い焔がさらに燃え上がった。
そして、踏み込む。百裂張り手の嵐へ。
自ら、さらにさらにより深く。
「おおぉぉぉおおおッ!!!」
咆哮とともに、カブト山の張り手が変わる。
流星群のように降り注いでいた無数の掌が、一つの軌道へ収束していく。
今まで積み重ねてきた稽古も。
砕かれた鋼鉄の身体も。
親方から託された回しも。
博士から受け継いだ元結も。
仲間たちの想いも。
そのすべてを乗せるように。
大事に、丁寧に。
一つへ束ねる。
そして、ついに流星は彗星へと至る。
轟ッ――
彗星となった一撃が、山嵐の張り手を突き破る。
真っ直ぐ横綱の喉元へ――
ズガァンッ!!
鈍く、腹の底まで響く衝突音。
横綱の巨体が大きくのけ反る。
ついにその腰が――ゆっくりと落ちた。
館内がどよめく。
やった、ついに勝ったと誰もが思った。
カブト山自身も。だが――
「……やっと、つかまえたぜ」
低く、喉の奥で獣が笑うような声。
その声を聞いた瞬間、カブト山の背筋を氷のような悪寒が駆け抜ける。
視線を落とす。そこには
ギリッ!
腰の淡い緑の回しへ、深々と食い込む右手。
まるで鋼鉄の杭を打ち込むように。
五本の指が布ごと握り潰すように回しを掴んでいた。
山嵐は、まだ膝をついていない。
倒れてもいない。
その姿勢のまま、獣のように牙をむいて笑う。
『右上手』
横綱 山嵐唯我独尊、最強の形。
その右手が一度回しを捉えたならば、逃れた者は一人としていない。
それは幾多の強豪を土俵へ沈めてきた、絶対の勝ち筋。
横綱必勝の形だった。
だが、まだ完成はしていない。
山嵐の左手が動く、カブト山の前褌へと。
右上手。そして左前褌。
その両手が揃った瞬間――横綱必勝の形は完成する。
館内の誰もが息を止めた。
その時カブト山が両目を見開き、動く。
右足をスッと後方へと抜く動き。
それと同時に、身体を回転させながら真下へと投げ出した。
客席がどよめく。
まるで自ら土俵に倒れこむような捨て身の動き。
だが、カブト山は信じていた。
――山嵐は離さない。この男は……一度掴んだ獲物を決して逃がさない
その剛腕を、執念をカブト山は誰よりも知っている。
だからこそ信じた。
カブト山を逃さぬよう力の入る右腕。
結果的に、それはカブト山を一瞬支えることになる。
回転しながら沈みこむ身体と横綱の右腕の間に、ほんのわずかな隙間が空いた。
――ここだ!
カブト山はその隙間に左腕をねじ込む。
指、前腕、そして肘まで。
そして――
ガシッ
回しを掴む。この形は――
『左下手』
右上手と対を成す、もう一つの形。
ついに両雄は、互いの回しを引き合う。
互いの呼吸が伝わるほどの間合いで、二人は一歩も動かない。
だが、土俵の空気は最高潮に張り詰めていく。
呼吸すら飲み込まれるような静寂の中、横綱はゆっくりと右上手を引きつけた。
鍛え抜かれた右腕が大関のまわしを深く抱え込み、盤石の形を作る。
その瞬間、大関もまた左下手を深く差し込み、腰を落として食らいつく。
横綱の右上手。
大関の左下手。
右四つでも左四つでもない、ねじれた相四つ。
山嵐の右手は大関の背中まで届くほど深く入っている。
指先でまわしを巻き込み、親指を立てるようにして握り込む。これ以上ない上手。
対するカブト山の左下手も浅くはない。
脇を締め、肘を自らの腹に密着させて下から抱え込む。
相手の腰を持ち上げるには十分な深さだった。
山嵐の左足が俵に触れている。
また、カブト山の右足も俵を噛んでいた。
土俵際。
一瞬で勝負が決まる最も危険な位置。
静寂が張りつめる。
額に浮かんだ一筋の汗が、ゆっくりと頬を伝う。
誰も動かない。誰も息をしない。ただ、熱気だけが肌にまとわりついていた。
汗は顎先まで流れ、わずかに揺れる。
――ぽたり。
一滴が土へ落ちた。
その小さな音を合図にしたかのように、山嵐の瞳が鋭く細まる。
唇だけがわずかに動いた。
「……来い」
低く押し殺した声。
挑発でも、威嚇でもない。
ただ、自分の前に立つ強者を受け止めるためだけの静かな覚悟。
それに呼応するようにカブト山の目が鋭く光る。
次の瞬間、両者の足が同時に動く。
横綱の右上手投げ。
大関の左下手投げ。
まるで鏡写しのように、互いの腰が切れ、上体がひねられる。
二人の巨大な肉体が同時に宙へ浮きかけ、観客席からどよめきが起こる。
力と力。
技と技。
意地と意地。
二人は投げ合ったまま、一瞬、完全に均衡する。
土俵際。
俵がきしむ。
あと半歩。
どちらかが折れれば終わる。
山嵐の顔が鬼のように歪む。
その右腕に力を、積み重ねてきた歳月の重みをこめる。
誰よりも強くなりたかった。
ただ、その一心だけで己を鍛え上げた。
血を吐くような稽古を重ね、痛みも苦しみも踏み越えてきた。
勝ち続けた。
強者を倒し、さらに強者を倒し、その果てにたどり着いた場所――そこは誰も並び立つ者のいない頂だった。
歓声は届く。
称賛も浴びる。
だが、その高さには、語り合える相手はいなかった。
――孤高。
それでも男は歩みを止めなかった。
いや、止められなかった。
頂に立ったからではない。
頂の、その先にある何かを信じ続けていたからだ。
孤独を背負い、誇りを背負い、数え切れぬ執念を背負って。
横綱 山嵐唯我独尊は静かに右腕へ力を込める。
その腕に宿るのは筋力ではない。
強さだけを求め続けた、一人の武人の人生そのものだった。
「ぐおおおおおおおおッ!!」
地鳴りのような咆哮が館内を震わせた。
同時に右上手が唸る。
渾身の上手投げ。
空気を引き裂くほどの勢いだった。
しかし、その瞬間。
カブト山の目も燃え上がる。
回しを掴む左腕に力をこめた。
その拳を握り締めた瞬間、胸の奥から今までの記憶が次々と蘇る。
始まりは、復讐だった。
憎しみだけを燃料に、力だけを求めた。
人であることさえ捨て、機械の身体を手に入れてまで前へ進もうとした。
勝つためなら何でもする。
その思いだけが、自分を動かしていた。
だが、その道は真っ直ぐではなかった。
逃げた日もある。
稽古をさぼり、楽な方へ流れた日もある。
遠回りをして、自分を見失ったこともある。
ようやく手に入れた機械の身体さえ失った。
何度も終わったと思った。
何度も、ここまでだと思った。
それでも――挑戦することだけは、決してあきらめなかった。
転んでは立ち上がり、壊れては歩き出し、笑われても前へ進み続けた。
その道の途中で、気づいた。
いつの間にか、自分は一人ではなくなっていた。
背中を押してくれた親方。
無茶苦茶な発明ばかりしながらも、最後まで信じてくれた博士。
笑顔で迎えてくれる女将。
いつでも励ましてくれたタコス山。
そして、声を枯らして応援してくれた人々。
復讐だけを見ていた男の拳は、いつしか、たくさんの想いに支えられる拳へと変わっていた。
大関 カブト山機太郎は静かに左腕へ力を込める。
その腕に宿るのは怒りではない。
ここまで歩ませてくれた、すべての仲間への感謝。
その想いが、一筋の力となって左腕に宿っていた。
「うおおおおおおおおッ!!!」
負けじと咆哮を轟かせる。
二人の咆哮が、土俵を震わせた。
右腕と左腕。互いのすべてを込めた投げが、同時に炸裂する。
筋肉がきしみ、骨が悲鳴を上げる。
回しを握る指先が白く染まり、両者は一歩も譲らぬまま全身をねじり上げた。
どちらが勝つのか、誰にもわからない。
勝敗は、神のみぞ知る。
やがて、均衡は静かに崩れだす。
二つの巨体が、ゆっくりと傾き始めた。
なおも互いを離さず、最後の最後まで力を絞り尽くしながら――
そして――
ドォォォンッ!!
地を揺るがす轟音。
大量の土が舞い上がり、視界は茶色い煙に包まれた。
客席がどよめく。
行司も、審判も、誰一人として動けない。
土煙の向こうにある結末を、ただ息をのんで待つ。
ゆっくりと。
ゆっくりと煙が晴れていく。
最初に姿を現したのは――片膝をつき、荒い息を繰り返すカブト山だった。
右拳を土につき、それでもなお倒れまいと身体を支えている。
その視線は、静かに前を見据えていた。
そして、その先には――
仰向けに大の字となり、国技館の天井を見上げる横綱 山嵐の姿があった。
その胸が、大きく一度だけ上下する。
横綱は仰向けのまま、ゆっくりと首だけを動かした。
その視線の先には、片膝をつき、肩で荒く息をする男。
そして、ふっと口元が緩んだ。
まるで、すべてを出し尽くした者だけが浮かべられる笑みのように。
「……お前の勝ちだ」
その一言は、土俵際に落ちる一滴の水のように静かだった。
そして、続ける。
「――カブト山」
これまで「ブリキ野郎」としか呼ばなかった男が、初めて一人の力士としてその四股名を呼ぶ。
敗者の悔しさではなく、すべてをぶつけ合った強者への敬意が込められていた。
一瞬――世界から音が消えた。
誰もが、その言葉の意味を噛み締める。
静寂は、ほんの一呼吸。
次の瞬間。
うおおおおおおおおおおおおおおッ!!!
国技館を揺るがすほどの歓声が爆発した。
観客は総立ちになり、割れんばかりの拍手と叫び声が渦となって土俵へ降り注ぐ。
行司は震える手で軍配を高く掲げる。
「勝負ありッ!」
その軍配は、まっすぐカブト山を指していた。
決着。
長き死闘の、ついに訪れた終幕。
歓声と共に、一枚、また一枚と座布団が宙へ舞う。
やがて無数の座布団が一斉に投げ上げられ、国技館の天井へ向かって弧を描く。
それはまるで、夜空を駆け抜ける無数の流星。
勝者を祝福し、敗者を称え、歴史に刻まれる一番を見届けた人々の想いが、色とりどりの軌跡となって土俵の上を流れていった。
ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
ありったけの感謝を(*´ω`*)
最後、山嵐は回しに仕込んだ毒で殺すか、人工衛星からのフォトンレーザーで丸焦げにするか、古代の神々への祈りで塩の柱に変えるか悩んでいましたが、この形へと落ち着きました。
思い起こせば、最初の二話で終わらすはずだったのが、気づけばこんなに長く物語は続いてしまいました。
一番気に入っているシーンは二十四話の新生カブト山入場シーンです。
一番苦労したのは、毎回同じ場所で同じ相手と戦わないといけないという点でした。
次がラストでエピソードになります。
ファイアーエムブレムっぽくしようとしたので、ぜひ最後までお付き合いください。




