第二十七話 エピローグ
歴史に残るあの一番から、幾年もの歳月が流れた。
ダイジョバナイ博士の名は、いまや世界中に知れ渡っている。
メカ大関の開発で培われた生体工学技術は、人を戦わせるためではなく、人を救うための技術へと生まれ変わった。
事故で脚を失った人のための義足。
難病に苦しむ患者を救う再生医療。
博士が生み出した数々の技術は、多くの人々に希望を与え、彼は生体工学の権威として世界中を飛び回る日々を送っている。
それでも、忙しい合間を縫っては日本へ帰ってきて、ふらりとミント山部屋へ顔を出すらしい。
両手いっぱいに、誰も頼んでいない怪しげな発明品を抱えながら。
そのたびに部屋は大騒ぎになり、女将に怒られ、親方にため息をつかれ、それでも最後は皆で笑っていた。
タコス山は、その後、関脇まで番付を上げた。
誰もが大関、いや横綱を期待した。
だが、運命は少しだけ意地悪だった。
度重なる怪我が、その行く手を何度も阻む。
土俵を離れては戻り、戻ってはまた怪我をする。
そんな相撲人生だった。
それでも、タコス山は最後まで笑っていた。
持ち前の明るさと親しみやすい人柄は、土俵の外でも多くの人に愛され、テレビCMやバラエティ番組へ引っ張りだことなる。
特に子どもたちからの人気は絶大で、街を歩けば「タコス山だ!」と笑顔が集まった。
最近では、たわしのCM出演が決まったらしい。
本人は「なんで俺なんスか!」と笑っていたそうだ。
ミント山部屋もまた、大きく姿を変えていた。
ミント山親方のもとには、多くの若者が集まり、部屋はかつてないほどの活気に満ちている。
厳しい稽古の声。
ちゃんこの湯気。
弟子たちの笑い声。
そして、その中心にはいつも親方と女将がいた。
厳しく叱り、優しく見守る親方。
そんな親方を支え、弟子たちを家族のように迎える女将。
二人が築いたその部屋には、今日も変わらず笑い声が響いている。
横綱 山嵐唯我独尊は、あの歴史的一番を最後に土俵を去った。
取組後の記者会見。
詰めかけた報道陣を前に、山嵐は何の躊躇いもなく自らの髷へ静かに鋏を入れた。
長年、横綱として歩んできた証が、音もなく畳へ落ちる。
会場は静まり返っていた。
誰も言葉を発せない。
その沈黙の中、山嵐は穏やかな笑みを浮かべ、最後にこう言った。
「――我が相撲人生に、一片の悔いなし」
その言葉を残し、平成最強と呼ばれた横綱は土俵を後にした。
引退後、山嵐が選んだ舞台は総合格闘技だった。
世界中の強者を求め、日本を飛び出し、海の向こうへ。
その豪快なトラッシュトークは試合前から観客を熱狂させ、ゴングが鳴れば一歩も引かず前へ出続ける。
相手がどれほど巨大でも、どれほど強くても山嵐は決して後ろへ下がらない。
その闘志は相撲時代と何一つ変わらなかった。
日本人初のヘビー級世界王者――
その夢には、まだあと一歩届いてはいない。
それでも世界中のファンは知っている。
「山嵐の試合に外れなし」と。
今日もまた、世界のどこかで歓声が響く。
その中心には、土俵を降りてもなお最強を目指し続ける、一人の男が立っている。
そして、この男――
再び、国技館。
館内を埋め尽くす観客の熱気が、場内を震わせていた。
枡席では、ちゃんこや幕の内弁当を口へ運んでいた手が、気づけばぴたりと止まる。
箸を持ったまま見入る者。
湯気の立つ茶を置くことすら忘れる者。
歓声が波のように押し寄せ、館内を揺らす。
数千という視線が、一点へ吸い寄せられる。
東の花道。
その奥から誰一人として目を離せなかった。
実況席から、張りのある声が館内いっぱいに響き渡る。
「さあ、本場所も結びの一番となりました!」
落ち着いた口調を心がけているはずなのに、その声は自然と熱を帯びていた。
理由は、自分でも分かっている。
これから土俵へ上がる、あの男のせいだ。
あの日。
国技館を揺るがした、あの伝説の一番。
歴史に刻まれた死闘を、この目で見届けた者であれば、誰だって胸が熱くなる。
実況席に座る彼も、その例外ではなかった。
今日もまた、あの男を呼ぶ瞬間だけは、どうしても声が一段高くなってしまう。
「東からは――第六十代横綱!」
その瞬間――
ズシン。
静かな足音が、花道の奥から響いた。
たった一歩。
それだけで館内の空気が揺れる。
力任せに踏み鳴らした音ではない。
長い歳月を土俵で積み重ねてきた者だけが刻める、重く、揺るぎない足音。
一歩。
また一歩。
歓声は次第に大きくなり、やがて大波となって国技館を包み込む。
幕の奥から、その姿がゆっくりと現れる。
幾多の激闘を刻んだ傷跡。
鋭く研ぎ澄まされた眼光。
そして、数え切れぬ死闘を越えてなお揺るがぬ風格。
やがて、一人の男が土俵へ姿を現した。
実況が、その名を叫ぶ。
「横綱――カブト山ァァ機太郎ォォォッ!!」
うおおおおおおおおおおおおおおッ!!
その名が呼ばれた瞬間、国技館が揺れた。
割れんばかりの歓声。
鳴り止まない拍手。
枡席からも、溜席からも、二階席からも、惜しみない声援が一斉に降り注ぐ。
万雷の喝采が、一人の横綱を迎え入れていた。
横綱――カブト山機太郎。
幾多の激闘を越え、多くの人々の想いを背負い、この場所へたどり着いた男。
歓声はなおも鳴り止まない。
その姿を一目見ようと、誰もが立ち上がり、その名を叫び続けていた。
◇
土俵の中央。
二人の視線が、静かにぶつかる。
相対するは、西の横綱――黒峰。
カブト山より一回りは大きい巨体。
その口元には、余裕とも挑発ともつかぬ薄い笑みが浮かんでいた。
だが、その皮一枚下では、獣のような闘志が抑えきれずに滲み出ている。
一歩踏み出せば、理性の鎖など容易く引きちぎって襲いかかってくる――そんな危うさを纏った男だった。
カブト山は、その眼を見つめる。
静かに燃える殺気。
強者だけが放つ、飢えにも似た圧。
その姿は、どこか懐かしかった。
かつて土俵で命を削り合った、一人の横綱。
山嵐唯我独尊。
あの男を、ふと思い出させた。
行司が静かに軍配を構える。
「見合って……見合って……」
張り詰めた声が土俵へ落ちる。
土俵の中央。
二人の視線が、音もなく絡み合った。
そこには言葉も、挑発もない。
ただ互いのすべてをぶつけ合おうとする、武人だけが知る静かな覚悟があった。
立ち合いまで、あとわずか。
真剣の切っ先を互いの喉元へ突きつけ合うような、肌を刺すほどの緊張が土俵を支配する。
館内から音が消える。
数千人の観客が、固唾をのんでその瞬間を待った。
「はっけよい」
行司の声が土俵に響く。
黒峰は、ゆっくりと拳を握り締めた。
ミシッ――
骨が軋むような音が、こちらまで聞こえてきそうだった。
全身を巡る力を、その一対の拳へ凝縮していく。
今にも飛びかからんとする猛獣。
対するカブト山は、静かに腰を落とした。
重心を沈め、両足で土俵を掴む。
呼吸は乱れない。
視線も揺れない。
ただ、じっと待つ。
横綱として、目の前の強者を真正面から受け止めるために。
「のこったッーー!!」
ドゴォォンッ!!
次の瞬間、国技館を轟音が貫いた。
まるで二台の大型トラックが正面から激突したかのような衝撃。
土俵の砂が爆ぜ、茶色い土が弾け飛ぶ。
足元から伝わる振動に、客席までもがびりびりと震えた。
そして――
カブト山の身体が、大きく後退する。
一歩。
二歩。
土俵を踏みしめるたびに砂が跳ね、深い足跡が刻まれていく。
黒峰の突進は、まるで山そのものが動いているかのような重さだった。
――力は、相手が上か
その事実を、カブト山は立ち合いの一撃だけで理解した。
土俵を踏みしめる足がずるりと滑り、身体が大きく後退する。
館内がどよめいた。
誰もが息を呑む。
新横綱が、立ち合いでこれほど押し込まれるとは思っていなかった。
だが――
カブト山の瞳から闘志は、欠片も失われていなかった。
むしろ、その青い焔はさらに深く、静かに燃え始める。
そして。
口元が、ゆっくりと吊り上がった。
獲物を見つけた獣のように。
――ならば
「望むところだ」
小さく漏れた声は、歓喜にも似ていた。
胸の奥が高鳴り、血が熱を帯びる。
獣のような鋭い光が、その瞳に宿る。
カブト山は黒峰を見据え、腰を落とした。
右腕をゆっくりと前へ突き出し、五指を開く。
腹の底から息を吸い込み、獣のように咆哮した。
「くらえッ!! ロケット――」
―― fin ――




