第二十五話 対峙
西の土俵際。
横綱・山嵐唯我独尊は腕を組んだまま、東の花道を見つめていた。
冷め切った視線。
興味などないと言わんばかりの目。
カブト山がゆっくりと土俵へ上がる。
一歩。
また一歩。
山嵐は鼻で小さく息を鳴らした。
「……」
姿形など、どうでもいい。
身体が機械だろうが、生身だろうが関係ない。
見るべきは、ただ一つ。
そいつがどんな目をして土俵へ上がってくるか、だ。
山嵐の視線がすっと持ち上がる。
そして、カブト山の瞳を捉えた。
「――!?」
その瞬間。
山嵐の眉がぴくりと動く。
青く静かに燃える闘志。
恐怖に呑まれていたあの日とは違う。
そして、何より――
(あの目……以前どこかで……)
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
何年も前。
まだ前頭だった頃。
何度か稽古で顔を合わせ、土俵でも向かい合った一人の力士。
何度潰しても最後まで消えなかった、あの目。
「……そうか」
山嵐は小さく呟く。
点と点が一本の線になる。
機械の身体に覆われ、気づかなかっただけだ。
あの立ち合い。
あの間合い。
あの諦めの悪さ。
そして何より――その目。
山嵐の口元が、わずかに歪んだ。
呆れたように。
それでいて、どこか納得したように。
「そうか」
もう一度だけ呟く。
「お前だったのか」
ほんのわずかに笑う。
その笑みは嘲笑ではない。
長年の疑問が解けた者の笑みだった。
「……ブリキ野郎」
呼び方は変わらない。
だが、そこには納得とわずかに期待の色が混じる。
――だが……まだ足りない
山嵐の口元がゆっくりと吊り上がる。
瞳には冷徹な光が宿る。先ほどまでの冷めた目ではない。
獲物を値踏みするような猛獣の目だった。
◇
東西の力士が土俵へ上がる。
塩が撒かれ、白い砂が弧を描く。
館内を埋め尽くしていた歓声はすでに静まりきっていた。
固唾を呑み込み、数千人の視線が土俵の中央へ集まる。
「――おいっ」
低く響く声が落ちる。
カブト山は動きを止め、ゆっくりと振り返る。
腕を組んだまま立つ横綱山嵐唯我独尊がまっすぐこちらを見据えている。
温度を感じさせない眼差し。
「いつもの体はどうした」
山嵐の口が開く。
視線がゆっくりとカブト山の全身をなぞる。
「そんな貧相な体になっちまって」
吐き捨てるような声。
あの日まで土俵を軋ませていた鋼鉄の巨体は、もうそこにはない。
カブト山は答えない。ただ真っすぐ山嵐を見返す。
沈黙。その数秒は何分にも感じられる。
「……それとも」
ジャリっと踵が土俵を削る音がし、山嵐が一歩前へ出る。
その瞬間、土俵の空気は張り詰めた。
カブト山の視線が落ちる。
その先には腰に締められた淡い緑色の回し。
親方から託された一枚。
その布へ、右手をそっと伸ばす。
「また」
山嵐の眼光が鋭さを増す。
獣が獲物に牙を突き立てるような圧。
カブト山の指先が回しに触れる。
スッと布目を確かめるようになぞる。
「その首……叩き落とされてぇのか」
その言葉が満ちた瞬間、館内の空気は凍り付く。
誰も声を上げられず、息すらしていないようだった。
あの日の光景が脳裏をよぎる。
だが――
パァァンッッ!!
その空気を切り裂くように乾いた音が、館内へ鋭く響いた。
カブト山の右手が、回しを力強く打つ音。
その一打で胸に残っていた迷いを振り払うように。
その一打で己を奮い立たせるように。
そして、その乾いた音は、凍りついていた館内へ火を投げ込むようだった。
カブト山はゆっくりと顔を上げた。
その瞳にはもう揺らぎはない。
恐怖がないわけではない。
だが、それすらも受け入れ、なお、より強く青く輝く闘志をその目に宿す。
山嵐がそのカブト山の目を見た瞬間、
グゥルルルル……
低く、腹の底を震わせるような音が響く。
最初、山嵐には何の音か分からなかった。
館内のどこかで鳴ったものだと思った。
だが、もう一度。
グゥルルルル……
喉の奥が震え、胸が鳴る。
そして、ようやく気づいた。
――俺……か……
唸っていたのは自分だった。
獣が獲物を前にした時に漏らす、本能の声。
意識して出したものではない。
止めようとしても止まらない。
山嵐はカブト山の瞳から目をそらさない。
恐怖は消えていない。だが、それでも逃げず、折れずに戻ってきた。
むしろ――あの日よりも深く、静かに強く燃えている。
その瞳により純度の高い闘志を見た瞬間、山嵐の口元が凶暴に吊り上がる。
「……そうか」
小さく呟く。
胸の奥で何かが歓喜していた。
血が湧き、骨がきしみ、肉が脈打つ。
身体中の細胞が、目の前の男と戦えと叫んでいる。
――間違いない。今、目の前にいる男こそ――俺がこれまで出会った中で最高の獲物だ
その確信とともに、山嵐の喉から再び低い唸り声が漏れた。
グゥルルルル……
それは横綱の声ではない。
強者だけが放つ獣の咆哮。
山嵐は牙をむくように笑う。
獣の意志を宿す男。
鋼の意志を宿す男。
二つの魂がついに土俵の中央で激突する。




