第二十四話 私は
土俵が唸っていた。
否――唸っていたのは土俵ではない。
枡席を埋め尽くした何千という観客のざわめきである。
誰もが声を潜めている。大声で叫ぶ者など一人としていない。
それでも館内は低く震えていた。
幾重にも重なった囁きが梁を伝い、天井へ吸い上げられ、また降りてくる。
その響きは、遠雷が山の向こうで転がる音にも、冬の海が沖で唸る音にも似ていた。
「本当に来るのか」
「首を落とされたんだぜ」
「今度は首が三つもあるって聞いたぞ」
言葉は形を保つ間もなく、人波へ溶けていく。
誰かの期待は誰かの疑念と混じり、安堵は不安をのみ込み、館内全体が一つの鼓動を刻み始めていた。
七日。
それは番付の上ではたった七つの白星を失っただけの数字に過ぎない。
しかし、その七日間で、この館内は何度あの名を口にしたことだろう。
大関 カブト山 機太郎――
その文字だけで、ざわめきはまた一段低くうなった。
東の花道は、まだ空である。
紫の房が垂れる土俵の向こう、幕の陰には誰の姿も見えない。
だが、観客の視線だけは一斉にその一点へ吸い寄せられていた。
誰もが同じ場所を見つめたまま、瞬きさえ忘れていた。
呼び出しの声が響く。
館内のざわめきが、潮が引くように細くなる。
その静けさは沈黙ではない。
息を止めた数千人の期待が、一つの塊となって花道の奥へ注がれているのだ。
次の瞬間。
幕が、わずかに揺れた。
うなりは歓声へ変わる寸前まで膨れ上がった。
◇
呼び出しの声が、館内いっぱいに響き渡る。
東――
花道の幕が、ゆっくりと開き始めた。
「さあ皆さん、お待たせしました!」
実況席のアナウンサーが、興奮を隠しきれない声を張り上げる。
「七日間の休場を経て、ついに大関・カブト山が土俵へ戻ってまいります!」
館内の熱気が一気に膨れ上がる。
歓声、拍手、期待。
そのすべてが東の花道へ集中する。
「前場所千秋楽、横綱 山嵐との壮絶な一番で大きな傷を負い、今場所はここまで全休――しかし、本日中日、ついに復帰です!」
アナウンサーの声も自然と熱を帯びる。
「さあ、どのような姿で現れるのか!」
幕が、大きく開いた。
東の花道に、一つの影が現れる。
その瞬間だった。
「――あっ!?」
実況席から、思わず息を呑む声が漏れる。
アナウンサーの口が開いたまま止まる。
言葉が出ない。
ほんの一瞬、館内も、実況席も、時間が止まったようだった。
「えっ……?」
隣に座る解説者が小さく声を漏らす。
アナウンサーは慌ててマイクへ向き直る。
「こ、これは……」
言葉を探すが、見つからない。
実況とは、本来見たものを言葉にする仕事だ。
なのに、その役目を果たせない。
「……機械じゃ……ない??」
実況席に、短い沈黙が落ちる。
館内を埋め尽くす観客もまた、歓声を上げることを忘れたように、その姿を見つめていた。
誰もが同じものを見ている。
それなのに、誰一人として、その光景を言葉にできなかった。
◇
東の花道。
その奥より一歩、また一歩と進むにつれ、徐々にその姿があらわになっていく。
歓声がざわめきへと変わっていった。
生身の肉体。
だが、その歩みは機械であったころよりさらに重い。
まるで大地そのものを引きずるかのように。
カブト山は思い出していた。
数刻前に聞いた博士の言葉を。
静かで、重厚な足音が静かに響く。
やがて、歓声もざわめきも消えていく。
数千人の観客は、ただその姿を見つめている。
誰もが思い出していた。
あの日、横綱の張り手に装甲を砕かれ、胸の炉心を打ち砕かれ、最後には首を土俵へ転がした――カブト山の最期を。
――強く叩いてみよ
――私の心は砕けない
終わった。誰もがそう思った。
鋼は砕けたのだと。
だが――
砕けた鋼は、終わりではなかった。
――炎で焼くがよい
――私は燃えるほどに赤く輝く
炎は鋼を滅ぼさない。
より強くするために、その身を赤く染める。
幾度も打たれ。
幾度も傷つき。
削られ。
砕かれ。
それでもなお、鋼は鍛えられていく。
――暗闇に閉じ込めてみよ
――私は静かに刃を研ぐ
姿を隠していた二カ月。
自らを鍛えなおす時間。
あまりにも短く、暗闇の中を手探りで進むような日々。
それでもなお、この日のために、その刃を研ぎ続けていた。
――傷つき 削られ 錆びる日があろうとも
――なお消えぬ熱を抱き、折れぬ意志を貫く
恐怖が消えたわけではない。
夢を見て、夜中に飛び起きる日もあった。
それでも、前へ進み続けた。
何度傷つこうとも。
何度砕かれようとも。
胸の奥で燃え続ける熱だけは、決して消えない。
その熱を抱き、折れぬ意志を宿す。
――生き残った私
――私は……
花道の終わりが近づいてくる。
ゆっくりと土俵へと視線を向けた。
あの日、恐怖に染まった瞳には今や炎が灯っていた。
静かだが、より純度の高い青い焔。
大関・カブト山機太郎は、ゆっくりと土俵へ歩みを進める。
――私は 鋼だ




