第二十三話 継承
今場所、八日目。
中日。
本来なら、場所の折り返しに差しかかり、館内にはどこか慣れた空気が漂い始める頃だった。
だが――
大関・カブト山の控室だけは違う。
優勝決定戦を前にした控室ですら及ばないほどの、張り詰めた空気がそこにはあった。
聞こえるのは、遠く土俵から響く歓声だけ。
その音さえ、この部屋へ入った途端に飲み込まれてしまうようだった。
部屋の中央。
カブト山は静かに腰を下ろしていた。
生身となった肉体。
傷だらけの肉体。
肩に巻かれた白い包帯へ、ゆっくりと手を伸ばす。
するり
包帯が解け、床へ落ちた。
露わになった肩には、最近できたであろう傷跡が一本薄く残っている。
カブト山は何も言わない。
ただ、その肩をゆっくりと回した。
痛みはない。
――動く。問題ない。大丈夫だ
そう自分に言い聞かせるように、一度深く息を吸う。
そして。
右手を、静かに握り締めた。
ギュッ――
拳に力を込める。
筋肉が軋み、関節が鳴る。
その時だった。
わずかに。
本当にわずかに、拳が震えた。
「……」
カブト山はその震えを見つめる。
止めようとしても、止まらない。
恐怖か。
緊張か。
あるいは、その両方か。
あの日、山嵐の前で自分は心を折った。
その記憶は、この肉体になっても消えてはいない。
拳の震えは、その証だった。
カブト山はゆっくりと目を閉じる。
震える拳を、さらに強く握り締める。
爪が掌へ食い込む。
痛みが走る。
それでも震えは、まだ止まらなかった。
カブト山は震える拳を見つめたまま、ぎりっと奥歯を噛み締める。
「……くそっ!」
短く吐き捨てる。
その声は、自分自身を叱りつけるようだった。
考えるな。
怖がるな。
気持ちを切り替えろ。
そう言い聞かせるように、大きく息を吐く。
カブト山は足元に置かれたスポーツバッグへ手を伸ばした。
ごそごそと中を探る。
着替え。テーピング。タオル。
その奥からお目当ての一本を引っ張り出す。
銀色のアルミ缶。
そこには、これでもかというほど派手な文字で書かれていた。
『エナジーオイル ちゃんこ味』
横綱級の文字サイズで描かれた「ちゃんこ味」の四文字が、妙な存在感を放っている。
カブト山は慣れた手つきでプルタブへ指をかけた。
プシュッ
小気味よい音とともに缶が開く。
どこか香ばしい、ちゃんこ鍋を思わせる香りがふわりと漂った。
「……よし」
小さく呟き、缶を口元へ運ぶ。
その瞬間――
「ダメだよ、カブト山っ!!」
控室の空気を切り裂くような声が響いた。
勢いよく楽屋の引き戸が開く。
バァン!!
白衣を翻しながら、ダイジョバナイ博士が飛び込んできた。
肩で息をし、額にはうっすら汗。
どうやら全力で走ってきたらしい。
博士は缶を指差しながら、必死の形相で叫ぶ。
「それ飲んじゃダメぇぇぇぇっ!!」
カブト山は缶を持ったまま目をぱちくりさせる。
「……博士?」
「下痢が止まらなくなるよ!」
博士は青ざめた顔で叫んだ。
「その身体でそんなの飲んだら!」
「……え?」
カブト山の動きが止まる。
博士は缶をひったくるように取り上げ、胸に抱えた。
「それはメカ大関専用!」
「機械の消化器官を前提に調整した高粘度エナジーオイルなんだから!」
「生身で飲んだら腸が大暴れするよ!」
「そ、そんなに……」
カブト山の顔が引きつる。
博士は慌てて白衣のポケットをごそごそ探り、一本の黒い缶を取り出した。
「今飲むなら、こっち!」
カブト山へ差し出される。
黒を基調とした缶。
中央には金色の文字で、これでもかというほど大きく書かれていた。
『エナジーちゃんこ オイル味』
「…………」
「…………」
控室に沈黙が流れる。
(オ……オイル味!?)
カブト山は思わず缶と博士の顔を見比べた。
「博士」
「うん?」
「ちゃんこ味じゃなくて……?」
博士は得意げに人差し指を立てる。
「オイル味!」
「逆……?」
「前のはオイルベースでちゃんこ風味」
「これはちゃんこベースでオイル風味!」
「完全に別物!」
博士は胸を張った。
「人体用!」
「……そういうものですか。」
よく分からない。
だが博士が真剣なので、きっとそうなのだろう。
カブト山は観念してプルタブを開けた。
プシュッ
湯気にも似た香りが立ちのぼる。
缶をゆっくり口元へ運ぶ。
ごくり。
一口。
「……!」
目が見開かれる。
懐かしい。
舌の上に広がったのは、毎日のように飲んでいたあの味。
エナジーオイル ちゃんこ味。
機械の身体だった頃、稽古の前も後も飲み続けた思い出の味とまったく同じだった。
「博士……これ」
ダイジョバナイ博士はにやりと笑う。
「同じ味になるように作ったからね」
「身体は変わっても、いつものルーティンは変えたくなかったんだ」
その言葉に、カブト山は思わず笑みを浮かべる。
もう一口。
もう一口。
飲み進めるたびに、胸の奥へ熱が灯っていく。
さっきまで身体にまとわりついていた緊張が、少しずつ溶けていくようだった。
「……よし」
缶を握る手に、もう震えはない。
博士は満足そうにうなずいた。
その時だった。
コン、コン
控室の引き戸が静かに叩かれる。
返事を待たず、戸がゆっくりと開いた。
「失礼しますッス」
最初に姿を現したのは、弟弟子のタコス山。
その後ろには、心配そうな表情を浮かべる発火女将。
そして。
二人に支えられるように、一人の男がゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。
「……親方!」
ミント山親方だった。
以前よりも頬はこけ、体つきも一回り細く見える。
長く胃を患い、入院生活を送っていたせいだ。
それでも、その眼差しだけは変わっていなかった。
カブト山は言葉を失う。
胸の奥が、締めつけられる。
(……俺のせいだ)
もちろん、直接の原因ではないのかもしれない。
それでも。
自分がもっと強ければ。
もっと立派な相撲を取れていれば。
親方に、あんな顔をさせることはなかった。
そう思わずにはいられなかった。
「……親方」
声が震える。
「すみません……俺――」
最後まで言えなかった。
ミント山親方が、一歩前へ出る。
タコス山と女将の支えをそっと離れ、自分の足でゆっくりと歩く。
そして、何も言わずに、カブト山の前へ立った。
「……」
親方は静かに両腕を広げる。
次の瞬間、ぎゅっとカブト山を力いっぱい抱き締めた。
「お、おやかた……?」
あまりにも突然で、カブト山は動けない。
親方の腕は痩せていた。以前ほど力強くはない。
それでも、その抱擁はどんな張り手よりも温かかった。
「……おかえり」
耳元で、小さくそう呟く。
その一言だけだった。
責める言葉はない。
叱責もない。
失望もない。
ただ、帰ってきてくれたことを喜ぶ声だけがあった。
その温もりに触れた瞬間、カブト山の中で張りつめていたものが、一気にほどける。
「……っ」
唇が震え、視界が滲む。
親方はゆっくりと腕を離した。
控室に静かな空気が戻る。
その様子を少し離れた場所から見守っていた女将が、そっと微笑んだ。
そして隣に立つ弟弟子の肩を軽く叩く。
「ほら、タコ」
「……あ、はい」
タコス山は慌てて抱えていた風呂敷を両手で持ち直す。
緊張した面持ちのまま、カブト山の前へ歩み寄った。
「大関……これ」
差し出された風呂敷を受け取る。
ずしり、と手に重みが伝わる。
カブト山はゆっくりと包みをほどいた。
現れたのは、一枚の回し。
淡い緑色。
深い緑でも、鮮やかな黄緑でもない。
どこか優しく、それでいて力強さを感じさせる色だった。
「これって……」
思わず呟く。
その色には、見覚えがあった。
親方が静かに笑う。
「ああ」
ゆっくりとうなずく。
「俺が現役の頃、締めていた回しと同じ色だ」
その一言に、カブト山の目が大きく見開かれた。
「……!」
「縁起を担ぐなんて柄じゃねぇがな」
親方は照れくさそうに鼻をこする。
「お前には、この色が一番似合うと思ってよ」
カブト山は何も言えなかった。
ただ、両手で回しをそっと持ち上げる。
指先に伝わる布の感触。
ずしりとした重み。
それは布の重さではない。
親方が現役時代に積み重ねてきた日々。
部屋を背負ってきた誇り。
そして、自分へ託された想い。
そのすべてが、この一枚に宿っているようだった。
胸の奥が熱くなる。
鼓動が速くなる。
ドクン。ドクン。
まるで、この回しが「土俵へ行け」と語りかけてくるようだった。
カブト山は回しを胸に抱き寄せる。
自然と口元がほころぶ。
「……ありがとうございます」
短い言葉。だが、その声には決意が宿っていた。
今日、この回しを締める。
親方の想いも、部屋のみんなの想いも。
そして、自分を土俵まで運んでくれたもう一人の自分の想いもその腰に結んで。
「……あっ!」
その時だった。
ダイジョバナイ博士が何かを思い出したように声を上げる。
「僕からも!」
白衣のポケットへ勢いよく手を突っ込む。
ごそごそ
右のポケット。違う。左のポケット。
「あれ?」
胸ポケット。
「あった!」
博士はぱっと顔を輝かせると、勢いよく手を突き出した。
「じゃーん!」
その掌に乗っていたのは、一本の紐だった。
何の変哲もない、細い元紐。
力士が髷を結うための、小さな紐。
「……!」
カブト山の瞳が揺れる。
見覚えがある。
何千回、いや何万回と結ばれてきた紐。
朝の稽古も、本場所も、横綱へ挑んだあの日も。
いつも自分の髷を支えていた一本の紐。
「メカ大関の身体から持ってきたんだ」
博士は照れくさそうに笑う。
「ごめんね」
少しだけ目を伏せる。
「あの身体から持ってこられたの……これくらいしかなくて」
その声には、少しだけ悔しさが混じっていた。
カブト山は静かに手を伸ばす。
そっと、壊れ物を扱うように、博士の掌から元紐を受け取った。
柔らかい布の感触。
何度も締められ、何度も汗を吸い、何度も土俵へ上がってきた一本。
その重みは、布とは思えないほど重い。
「おぉ……ぉおおぉ……」
言葉にならない声が漏れ、紐を持つ手が震える。
だが、さっきまでの震えとは違う。
恐怖ではない。
緊張でもない。
もっと奥底から込み上げてくる何か。
鋼鉄の身体で生きた日々。
勝利も。
敗北も。
流した汗も。
受けた傷も。
そのすべてが、この一本の紐に宿っている気がした。
カブト山は元紐をぎゅっと握り締める。
胸の奥が熱い。
熱くて、苦しいほどだった。
「おおぉおおおぉおお!!!」
だが、これだけはわかる。
これは手が震えているのではない。
魂が、震えているのだ。
◇
ダイジョバナイ博士は、カブト山の後ろへ静かに回り込んだ。
すでに結い上げられた髷。
その髷をしばらく見つめた後、手元の紐へと目を移す。
メカ大関だった頃、幾度となく髷を結び続けてきた元紐。
博士はそれを両手でそっと持ち上げた。
「少しだけじっとしててね」
カブト山は静かに目を閉じる。
博士の指先が髷へ触れる。
新しい元結。その上からもう一本を重ねるように結んでいく。
二本が一つになる。
過去と今が、この髷の中で繋がっていく。
きゅっきゅっ
まるで壊れ物を扱うように、優しい手つき。
結び終えると、博士は形を整え、小さく満足そうにうなずいた。
「よしっ」
その声はどこか誇らしさが滲んでいた。
博士は少し照れたように笑う。
「ボクの国にね」
ゆっくりと口を開く。
「昔から伝わる詩があるんだ」
少し遠くを見るような目になる。
「カブト山を見るといつもその詩を思い出す……」
博士は髷へそっと手を添えた。
そして、穏やかな声で続ける。
「それはね――」




