第二十二話 お前はもう死んでいる
夕刻、土俵の熱気がようやく引き始めたころだった。
館内にはまだ人が残っている。
「今日も休場か……」
誰かが漏らしたひと言に、周囲が小さくうなずく。
七日連続。
カブト山の名前は、この場所が始まってから一度も土俵に上がっていない。
花道の奥は静かなまま。呼び出しの声にもその名は響かない。
誰もが理由は知っている。
前場所千秋楽、あの横綱との一番で受けた痛烈な敗北。
いつかは勝てるとどこか信じていた。
だが、埋めることのできない力の差を見せつけられた。
あの日、土俵に転がった首。
胴体だけが力なく崩れ落ちた光景。
今も忘れることができない。
敗北。圧倒的敗北。
頭ではわかっている。
それでも。
それでも、あの豪快な立ち合いを見たくて足を運んだ客には、どうしても埋められない物足りなさがあった。
「まぁ、仕方ねぇけどさ……」
「やっぱりカブト山がいないと締まらねえな」
「このまま休場で終わる気じゃねぇだろうな」
売店の前でも、出口へ向かう通路でも、そんな会話ばかりが聞こえてくる。
だが、その言葉に責める響きはなかった。
むしろ心配する声が大半だった。
それでも――
寂しい。
その一言に尽きた。
その空気が変わったのは、午後六時過ぎ。
翌日の取組表が張り出された瞬間だった。
「出たぞ!」
誰かが叫ぶ。
人の流れが一斉に掲示板へ押し寄せた。
係員が「押さないでください!」と声を張り上げるほどの勢い。
一番上から順番に視線が走る。
前頭。
小結。
関脇。
そして——
大関 カブト山 機太郎
一瞬。
誰も声を出さなかった。
まるで文字の意味を理解する時間が必要だったかのように。
「……え?」
「メカ大関……出るのか?」
「復帰だ!」
その一言で空気が爆発した。
「本当だ!」
「マジか!」
「うおおおっ!明日の券まだあるのか!?」
あちこちで歓声が上がる。
まだ本人が姿を見せたわけでもない。
ただ名前があっただけだ。
それなのに、観客の顔はみるみる明るくなっていく。
待っていたのだ。
皆、その名を。
だが、本当の騒ぎはその次だった。
掲示板を見ていた誰かが叫ぶ。
「おい!相手見ろ!」
再び視線が集まる。
そして場内の熱気が一段跳ね上がった。
そこに記されていたのは――
横綱 山嵐 唯我独尊
前場所、大関を完膚なきまでに打ち砕いた男の名。
館内のあちこちで同じ言葉が飛ぶ。
「いきなりかよ……」
「よりによって横綱か」
「七日休んでだぞ……」
因縁。
その二文字だけでは語り尽くせない。
歓声にざわめきが混じる。
だが、ざわめきは次第に期待へと変わっていった。
七日間、沈んでいた空気が嘘のように。
売店では翌日の弁当の予約をする客が増え、駅へ向かう人波も興奮したまま歩いていく。
「あした絶対見る」
「仕事休むかな」
「この一番だけでも価値がある」
誰もが笑っていた。
七日間閉ざされていた扉が開く。
敗北の続きを書くために。
明日、東の花道からカブト山が現れる。
そして土俵の向こうには、あの日と同じ横綱山嵐が待っている。
観客たちはまだ見ぬその一番を思い浮かべながら、自然と笑みを浮かべていた。
勝つか負けるかは分からない。
だが確かなことが一つだけある。
明日、この場所で一番大きな拍手を受ける力士は誰か。
その答えは誰もがわかっていた。
◇
夕刻。
横綱 山嵐唯我独尊は無言で鬢付け油の匂いが漂う控室に座っていた。
支度部屋の空気は静かだった。
付け人たちも余計な話はしない。
ただ遠くから聞こえてくる館内のざわめきだけが、波のように押し寄せては引いていく。
そのとき、廊下の向こうが妙に騒がしくなった。
「本当らしいですよ」
若い付き人の声。
「明日から出るそうです」
別の声が続く。
「しかも横綱と組まれたとか――」
そこで全員がしまったという顔になる。
横綱が聞いていた。
部屋に沈黙が落ちる。
横綱の眉がわずかに反応した。
「誰がだ」
付け人は唾を飲み込む。
「……カブト山関です」
その一言で。
部屋の空気が、わずかに止まる。
座布団に胡坐をかいていた山嵐唯我独尊の瞼が、ゆっくりと開いた。
「……ほぅ」
低く漏れた声。
一瞬。ほんの一瞬だけその瞳に何かが宿る。
期待か、あるいは――
しかし、その光はすぐに消えた。
「……けっ」
山嵐は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。
「何しに戻ってきやがった」
付き人は返す言葉を失う。
山嵐は立ち上がり、壁へ立てかけてあった浴衣を肩へ羽織る。
その横顔に浮かぶのは、侮りではない。
怒りとも違う。
あの日、土俵で見せたあのどす黒い感情が、今も燻っていた。
「あいつは……」
山嵐は低く呟く。
「死んだも同然だ」
静かな声だった。
だが、その一言には揺るぎない確信が込められている。
部屋が静まり返る。
付き人は息を呑み、何も言えない。
山嵐は窓の外へ目を向けた。
暮れ始めた空を見つめながら、小さく鼻を鳴らす。
「……死んだ奴に興味はねぇ」
その言葉は残酷なほど淡々としていた。
だが、その冷たさの奥底には、ほんのわずかな苛立ちが滲んでいる。
廊下へ出る。
歓声が聞こえる。
観客は明日の取組で沸いている。
敗れた者の復活。
再戦。
雪辱。
そんな物語を期待しているのだろう。
山嵐は鼻を鳴らす。
物語など興味はない。
奇跡などもっと嫌いだ。
強い者が勝つ。
ただそれだけ。
それだけなのに――
「……くだらねぇな」
そう吐き捨てて歩き出す。
だが、歩みはほんの一瞬だけ止まった。
脳裏に浮かぶのは、あの日土俵で見た、命乞いのように震える両腕。
「……ちっ」
舌打ちを一つ。
山嵐はその記憶を振り払うように、歩き出した。
2003年以降、休場からの途中参戦は廃止されたようです。




