第二十話 知らない天井
瞼が、ゆっくりと開く。
視界いっぱいに広がるのは、見知らぬ白い天井だった。
……どこだ。
ぼやけた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
耳に届くのは、規則正しい機械音。
ピッ……ピッ……ピッ……
鼻をくすぐる機械油と薬品の匂い。
カブト山はゆっくりと視線を巡らせた。
壁一面を埋め尽くす計器。
無数のモニター。天井から垂れ下がるケーブル。
棚に並ぶ工具と、見慣れた設計図。
そこで、不意に記憶がよみがえる。
――ここは!?
ダイジョバナイ博士の研究室。
自分が二度目に生まれた場所。
鋼鉄の肉体を授かり、初めて目を開けた場所。
懐かしい景色だった。
「……あっ」
小さな声が聞こえた。
目を向けると、白衣姿の青年が、目を見開いたまま立ち尽くしている。
ふわふわとした金髪。
ずり落ちた丸眼鏡。
その頬には、涙の跡が幾筋も残っていた。
「カブト山……?」
震える声。
次の瞬間。
「カブト山ぁっ!!」
ダイジョバナイ博士が転ぶような勢いで駆け寄ってくる。
工具を蹴飛ばし、椅子を倒し、それでも構わず一直線に。
その目からは、次から次へと涙が溢れていた。
「よかった……! よかったよぉ……!」
博士は震える手で、そっとカブト山を抱き上げる。
その腕は小刻みに震えていた。
まるで壊れ物を扱うように。
そこで、カブト山は違和感を覚えた。
――博士が俺を持ち上げた!?
妙に体が軽い。
腕を動かそうとする。
動かない。
脚を踏ん張ろうとする。
感覚がない。
視線を下へ落とした。
そこにあったのは、自分の胴体ではなかった。
首の断面。
そこから何本もの太いチューブや色とりどりのケーブルが伸び、装置へと繋がっている。
自分には――首から下がなかった。
残っていたのは、頭部だけ。
ダイジョバナイ博士の腕の中で、生かされているだけの存在。
その瞬間、敗北の記憶が一気によみがえる。
山嵐。
最後の張り手。
砕けた炉心。
そして――
ゴトリ
土俵へ転がる、自分の首。
「……っ」
言葉が出ない。
博士はそんなカブト山をぎゅっと抱き締めた。
「ごめんね……」
声は涙で震えていた。
「助けられたのが……頭だけで、ごめんね……」
博士は泣きじゃくりながら、何度も、何度も謝り続けた。
その温もりが、失われた体の代わりにカブト山へ確かに伝わっていた。
「……博士」
かすれた声が、静かな研究室に落ちた。
ダイジョバナイ博士は涙をぬぐい、優しく顔を向ける。
「自分の……体は」
その問いに、博士の表情が曇る。
言葉を選ぶように唇を噛み、しばらく俯いていた。
やがて、小さく首を振る。
「胸の炉心が……壊れちゃったんだ」
博士の声は弱々しかった。
「あの炉心は、カブト山専用に作った一点物なんだよ。あれが砕けた以上……あの体は、もう動かせない」
研究室に沈黙が落ちる。
機械の電子音だけが、静かに響いていた。
「……そう…….ですか……」
カブト山は静かに答えた。
驚きはなかった。
最後の一撃を受けた瞬間から、どこかで理解していたことだった。
終わった。
自分の土俵人生は。
積み重ねてきた稽古も。
勝ち取ってきた番付も。
横綱へ挑み続けた日々も。
すべて、あの土俵で――終わったのだ。
胸の奥に、重たいものが沈んでいく。
悔しい。
負けたことではない。
山嵐に負けることなら、何度も経験してきた。
悔しいのは――
「自分は……」
言葉が途切れる。
あの瞬間が、脳裏によみがえる。
削られ続ける装甲。
近づいてくる敗北。
そして……恐怖。
気づけば、張り手ではなく、自分の顔を守るように腕を上げていた。
まるで、命乞いをするように。
「……自分は、自分に負けました」
その一言は、自分自身へ突きつける判決。
山嵐に敗れたのではない。
恐怖に呑まれた、自分に敗れた。
その悔いが、胸の奥で消えずに燻り続けていた。
博士は何も言わなかった。
ただ静かにカブト山を見つめる。
やがて、ふっと微笑む。
「……でもね」
その一言に、カブト山が目線を上げる。
博士は両手で頭部をそっと抱え直すと、慎重に作業台の上へ置いた。
まるで宝物を扱うような優しい手つき。
「ダイジョーブ、まだ、終わりじゃないよ」
そう言い残し、博士はゆっくりと立ち上がる。
白衣の裾を揺らしながら、研究室の奥へ歩いていく。
博士は、研究室の最奥で立ち止まった。
そこには、大きな布が一枚掛けられている。
長年、誰にも見せることなく隠され続けてきた何か。
博士は布の端を握る。
そして――
「せーのっ!」
バサァッ!!
布が勢いよく宙を舞った。
その下から現れたのは、一基の巨大な円筒型カプセルだった。
天井近くまで届くほどの高さ。
半透明の強化ガラスでできたその内部は、淡い緑色の液体で満たされている。
気泡が、静かに浮かび上がる。
コポ……コポ……
生命を育む胎内のような静寂。
その中心に人影があった。
液体の中で静かに浮かぶ、一人の男。
四肢をゆるく伸ばし、まるで眠っているかのように目を閉じている。
口元には呼吸用のマスク。
そこから一本の太いチューブが伸び、カプセル上部の装置へと繋がっていた。
逞しい胸板。
引き締まった腕。
鍛え抜かれた脚。
その肉体には、一切の金属がない。
血の通った、生身の身体。
カブト山は息を呑んだ。
「……え」
視線が、その顔へ吸い寄せられる。
目が閉じられた顔をまじまじと見つめる。
「……まさか」
思考が追いつかない。
無いはずの胸の奥が激しく脈打つ。
博士は静かに振り返る。
涙を浮かべたまま、小さく笑った。
その瞬間、カブト山の双眸が、かつてないほど大きく見開かれた。
「これって……」
震える声が漏れる。
信じたい。
だが、信じられない。
目の前に浮かぶ人影を見つめたまま、ようやくその言葉を絞り出した。
「……俺!?」




