第十九話 怪物を超えるのは怪物
土俵が、唸っていた。
否――唸っているのは土俵ではない。
鋼鉄の体に鋼の意思を宿す男――メカ大関、カブト山機太郎。
東の仕切り線にしゃがみ込んだ鋼鉄の巨体。
その全身から、低く濁った駆動音が漏れ続けている。
ギギ……ギィィィ……
まるで獣が喉を鳴らしているようだった。
肩部装甲の隙間から蒸気が細く噴き出し、赤熱した胸部の炉心が明滅する。
張り詰めた静寂の中、その機械音だけが異様な存在感を放っていた。
対する西。
横綱 山嵐唯我独尊は微動だにしない。
巨大な山がそのまま人の形をとったように。
その闘気は肌を刺すほどに鋭く、重く、獰猛さを増していく。
縄張りに踏み込んだ獲物を見つけた猛獣のように。
観客は誰一人として声を上げられない。
静寂。
沈黙。
――その一瞬が、永遠にも思えた。
やがて、両者の拳が、同時に土俵へ触れる。
行司の軍配が、わずかに揺れた。
その刹那――世界が弾ける。
◇
――ゴオォォンッ!!
轟音が国技館を揺らした。
立ち合いの衝撃で巻き上がった砂煙が、土俵を白く包み込む。
「ぐっ――がっ――!!」
カブト山の巨体が衝撃に押されるように後退した。
重い足が土俵を削り、踵が砂を深くえぐる。
これまで幾度となく繰り返された両者の立ち合い。
その激突は、常に互角だった。
ぶつかれば互いに弾かれ、押し込めば押し返す。
鋼鉄と獣。
その均衡だけは、誰も疑わなかった。
だが――
砂煙が晴れる。
そこに立っていた横綱・山嵐唯我独尊は、一歩たりとも動いていなかった。
立ち合いの開始位置。
その両足は、まるで土俵に根を張った大樹のように据えられたまま。
後退の跡など、どこにもない。
カブト山の双眸が大きく見開かれた。
――なっ......!!
これまで幾度となく挑み続けてきた。
何度ぶつかっても、最後に立っていたのは横綱山嵐だった。
勝てない。
届かない。
その現実は嫌というほど知っている。
だからこそ、稽古をし続けた。
体を鍛え、技を磨き、己を極限まで高めた。
それでもなお、一度も勝てなかった相手。
その絶対王者が――
さらに強くなっている。
――あり得ない!
頂点に立つ者は、守る戦いを強いられる。
その強さを維持するだけでも至難の業だ。
なのに、この男は違った。
誰よりも高みにいるはずなのに、なお、その先へ進んでいる。
自分が追い続けてきた相手は待ってなどいなかった。
挑戦が追い付こうとするその間にも。
横綱 山嵐唯我独尊は、一歩、また一歩と、誰にも届かない頂へ歩み続けていたのだ。
――くっ、だが......
カブト山は構えを変える。瞳の闘志はまだ消えていない。
その構えから繰り出されるは、烈風山豪傑寺 百裂張り手観音から着想を得たカブト山の必殺技。
『百裂張り手』
引き、捻り、流れ、重なり。
一撃のためではない、さらに次の一撃へ繋ぐ張り手。
あの山嵐をあと一歩のところまで追いつめた唯一無二の技。
百裂張り手の構えを見た山嵐の眼が細められる。
「その技は――」
カブト山が前に出る。
その一歩は、これまでの踏み込みとは違った。
上体をいつも以上に深く倒し、重心を前へ預ける。
前へ出る速度よりも、崩れないことを優先した足運び。
踏み込むたび、体幹が一本の芯となって全身を支え姿勢が乱れない。
前進するためではない。
張り手を打ち続けるための構えだった。
山嵐は、フンっと鼻で笑う。
その表情に焦りはない。
口角がわずかに吊り上がる。
「――もう覚えた」
静かな声だった。
だが、その一言は土俵の空気を一変させる。
次の瞬間。
山嵐がゆっくりと腰を落とした。
右足を半歩前へ。
重心を低く沈め、肩を開く。
肘の角度。
拳の位置。
踏み込みの幅。
そのすべてが、どこか見覚えのある形を描いていく。
カブト山の瞳が揺れた。
――まさか!?
目の前に立つ横綱の構えは、まるで鏡だった。
前傾姿勢。
一本の芯が通った体幹。
連打を打ち続けるためだけに最適化された足運び。
張り手を放つ直前の、あの独特の重心。
どこを見ても。
どこを切り取っても。
そこに立っているのは、もう一人のカブト山だった。
いや、それ以上の......。
長年積み重ねてきた技を、一目見ただけで己のものへと昇華した怪物。
その事実がカブト山の背筋を冷たく駆け上がっていく。
「百裂張り手ぇぇーー!!」
カブト山の咆哮が国技館を揺らした。
踏み込みと同時に、両腕が弾け、張り手が残像を描く。
あまりの速さに腕は幾重にも分裂し、無数の軌跡が夜空を駆ける流星のように山嵐へ降り注いだ。
百の光。
百の一撃。
まさに流星群。
逃げ場など、一寸もない。
だが――
横綱 山嵐唯我独尊は笑った。
そして、ゆっくりと一歩踏み出す。
山嵐の両腕から放たれた張り手は、カブト山と寸分違わぬ軌道をとる。
速度も。
角度も。
間合いも。
まるで鏡写しだった。
「なっ――!」
カブト山が息を呑む。
次の瞬間、
土俵の中央で、二つの流星群が激突した。
ズババババババババァァァァン!!
張り手と張り手がぶつかるたび、火花のように砂が弾け飛ぶ。
空気が裂け、衝撃波が幾重にも重なり合う。
右と左。
左と右。
百の連打が、百の連打を迎え撃つ。
流星と流星が正面から衝突したかのような光景。
土俵の中央は、もはや拳ではなく閃光だけが乱れ飛ぶ世界となる。
観客の目には、二人の腕など映らない。
見えるのは、無数の光跡が交差し、ぶつかり合い、砕け散る一瞬一瞬だけ。
誰も声を上げられない。
ただ、息をすることすら忘れ、その神域の攻防を見届けるしかなかった。
◇
パンッ!! パンッ!! ズパパパパンッ!!
二つの百裂張り手が、土俵の中央で激しく火花を散らす。
右が弾けば左が迎え撃つ。
左を払えば右が食い込む。
無数の張り手が交差し、炸裂音だけが国技館を埋め尽くす。
観客の目には、勝敗の兆しなど見えない。
無数の張り手が空中で交錯し、観客の目には勝敗などまるで見えない。
互角。
誰もがそう思った。
だが――
ギィ……
微かな異音が混じる。
メカ大関カブト山の胸部装甲に、一筋の擦過痕が刻まれた。
次の一発で、その傷はさらに深くなる。
パンッ!!
胸部装甲がへこむ。
パンッ!!
頬の外装が削れ、火花を散らす。
パンッ!!
鋼鉄の破片が土俵へと転がった。
対する山嵐は変わらない。
百発、二百発と張り手を受けながら、その肉体には決定的な傷一つ刻まれない。
削られているのは、一方だけだった。
ほんのわずか。
一発では気づかないほどの差。
しかし、そのわずかな差が積み重なる。
一枚。
また一枚。
鉋で木を削るように。
砥石で刃を研ぐように。
山嵐の百裂張り手は、確実にカブト山の鋼鉄を削り取っていく。
それでも、カブト山は崩れない。
崩せない。
その身に積み重ねてきた鍛錬が。
何千、何万という稽古の果てに手にした実力が。
横綱の猛攻を、紙一重で食い止め続ける。
だからこそ、この勝負は終わらない。
一瞬で叩き潰される弱者ではない。
だが――
だからこそ、終わりはゆっくりと訪れる。
一発ごとに削られ。
一秒ごとに摩耗し。
その鋼鉄の肉体は、確実に死へ近づいていく。
逃れられない。
覆せない。
押し返しているはずなのに、押し負けている。
打ち返しているはずなのに、削られていく。
その現実が、じわじわとカブト山の思考を侵食していく。
一撃で倒される方が、どれほど楽だっただろう。
少しずつ。
少しずつ。
自分という存在が削り取られていく感覚だけが、鮮明に伝わってくる。
――負けるっ!
その考えが頭をよぎる。
――違う!まだ戦える、まだ終わっていない!!
そう思考を立て直す。
バキッ!
肩の装甲がへこむ。
バキッ!
腕の装甲が砕ける。
バキッ!
頬の装甲が弾け飛んだ。
◇
観客席の最前列で、誰かが息を呑んだ。
「……うそ。」
かすれた声が漏れる。
カブト山は確かに横綱に一度も勝ったことはない。
だが、こんな凄惨な姿は誰もが見たことがなかった。
「やめて......」
ぽつりと女性の声が落ちる。
その一言を皮切りに、場内のあちこちから悲鳴が漏れ始めた。
「もうやめてくれ!」
「カブト山ぁ!!」
「壊れちまう……!」
誰かが立ち上がる。
両手で口元を覆い、目を逸らす者もいる。
それでも、誰一人として土俵から目を離せなかった。
希望を捨てきれないからだ。
もしかしたら。
次の一発で流れが変わるかもしれない。
次の一瞬で、逆転が始まるかもしれない。
そんな願いだけを胸に、誰もが祈るように見つめ続ける。
しかし――
パンッ!!
その願いを嘲笑うように、また一枚、装甲が剥がれ落ちた。
悲鳴は、さらに大きく国技館へ響き渡った。
◇
バキッ
――負ける
バキッ
――負けてしまう
その言葉がやがて形を変えていく。
――怖い
一撃。
――怖い
もう一撃。
――怖い、怖い、怖い、怖い
押し返せない。
止められない。
覆せない。
何も......できない。
――怖......い......!!!
その瞬間、不意に張り手が止む。
「おい」
低い声が響く。
「なんだ、その手は」
カブト山の思考が止まる。
――手? 何を言ってる?? 俺は百裂張り手を......
そこで気づいた。
自分の両腕が、顔の前で弱々しく持ち上がっていることに。
掌は外へ向けられ。
肩はすくみ。
肘は折れ曲がっている。
それは攻撃の型ではない。
張り手でもない。
これではまるで――
「......命乞いか」
山嵐が、吐き捨てるようにつぶやいた。
「ち、違――」
反射的に否定しようとした。
その瞬間、怒号が土俵を震わせた。
「テメェもか、ブリキ野郎!!!」
その声に、場内が凍りつく。
山嵐は怒っていた。
誰の目にもわかるほどに。
だが、その怒りは激しく燃え上がる炎ではない。
底なし沼のように静かで、どこまでも深く黒い怒りだった。
その双眸には、燃え滾る憤怒と――それ以上に濃い失望が宿っている。
まるで、心の底から信じていたものに裏切られた人間の目。
怒っている。
それなのに、その怒りの奥には諦めにも似た色が滲んでいた。
山嵐の目、その言葉は、百裂張り手のどの一撃よりも深く、鋭く、カブト山の胸を貫いた。
カブト山の思考回路が軋む。
否定したい。
違うと言いたい。
自分は命乞いなどしていないと叫びたい。
なのに......
顔の前で震える両腕が、その言葉を許さなかった。
恐怖に押し上げられたその姿勢が、何より雄弁に真実を語っている。
「俺は...」
その言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
バキっ
山嵐の左の張り手が、容赦なく顎を打ち抜く。
鋼鉄が軋み、カブト山の視界が激しく明滅した。
世界が白く弾ける。
平衡感覚が消え、思考が一瞬だけ空白になる。
「俺の前から――」
山嵐が大きく踏み込む。
全身の筋肉が唸りを上げる。
その右腕に宿るのは、先ほどまでの百裂張り手とはまるで別物の力だった。
流れるような連撃ではない。
純粋な怒り。
抑えきれない激情を、そのまま叩きつける一撃。
「消えろっ!!」
咆哮とともに、右の張り手が炸裂する。
バリィィィン!!
重厚なガラスが砕け散るような甲高い破砕音が、国技館中に響き渡った。
衝撃は胸部装甲を突き抜け、カブト山の炉心へと達する。
一瞬。
炉心が淡く光を放ち――
砕けた。
全身から力が抜け、膝が折れる。
カブト山は糸の切れた人形のように、その場へ崩れ落ちようとしていた。
山嵐は静かに右腕を掲げる。
掌を開いたその手は、もはや張り手の形ではない。
指先を揃えたその姿は、まるで一振りの刀。
ゆっくりと振り上げられた腕が、迷いなく振り下ろされる。
それは勝者の追撃ではなかった。
長き戦いに終止符を打つための一太刀。
まるで介錯をするような静かな一撃だった。
――ゴトリ。
乾いた音が土俵に響く。
静寂。
誰も息をしない。
転がったものを見つめたまま、場内は凍りつく。
土俵の上には、首と胴体が切り離されたカブト山が、静かに横たわっていた。




