第十八話 広い控室
結びの一番を迎える控室。
いつもなら、誰かの笑い声や、茶碗のぶつかる音、くだらない言い争いが渦巻いている場所だ。
親方が湯呑を片手にくだらない冗談を言い始め、タコス山の大げさに最近あった失敗談を話し、そしてダイジョバナイ博士が新しい発明やゲームの話をする。
騒がしいし、うるさい。
それなのに、不思議と居心地のいい空間だった。
だが今日は違う。
壁掛け時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
親方は入院中。
タコス山は病院で足のギブスを外すため外出中。
そしてダイジョバナイ博士。
あの人がいないのが、一番この静けさを際立たせていた。
朝から「緊急の用事がある」と言い残して出て行ったきりだ。
理由は知らない。どうせ大したことじゃないのだろうが、いないとなると妙に気になる。
広い控室にぽつん、と取り残されたのはカブト山一人。
しばらく立ち尽くしてから、やることもなく腰を下ろす。
目の前には、いつも遊んでいるゲーム機が置いてあった。
ピコッ。ピコッ。
電子音だけが部屋に響く。
画面の中では敵をなぎ倒し、次々と高得点を叩き出していく。
普段ならダイジョバナイ博士が横から覗き込み、「あーあ、まだまだだね」などとダメ出しを始めるところだ。
弟弟子なら「大関! 俺にもやらせてほしいっす!」とコントローラーを奪いに来る。
親方は「場所中くらいゲームやめんか」と小言を言いながら、気づけば後ろで観戦している。
そんな声は、今日はどこにもない。
ピコッ。ピコッ。
ゲームは面白い。
いつも通り面白いはずなのに、なぜか今日は夢中になれない。
気づけば操作する手が止まっていた。
カブト山は小さく息をつき、電源を切る。
静寂が戻る。
耳が痛くなるほどの静けさだった。
「……静かすぎるな」
誰に聞かせるでもなく呟いた声だけが、ぽつりと畳の部屋へ落ちていった。
その時だった。
――ワァァァァァァッ!!
土俵の方から、大きな歓声が響いてきた。
壁越しでも伝わってくる熱気。
観客のどよめきに続いて、割れんばかりの拍手が鳴り響く。
カブト山はゆっくりと顔を上げた。
「……そろそろか」
静かな控室に、ぽつりと呟きが落ちる。
足元に置いてあったエナジーオイルを手に取り、プルタブを起こす。
プシュッ――
乾いた音が静寂を裂いた。
缶を口に運ぶと、炭酸が喉を駆け抜ける。
甘さと刺激が、眠っていた身体を内側から叩き起こしていく。
最後の一滴まで飲み干すと、空になった缶を握りつぶした。
すぅっと息を吸い込む。
そして――
パンッ!!
両頬を勢いよく叩く。
乾いた音が控室に響き、緩んでいた空気が一変した。
ぼんやりとしていた表情は消え、獲物を見据えるような鋭い眼差しへと変わる。
勝負師の顔だった。
「……行くか」
短く言い残し、大関は立ち上がる。
畳を踏みしめ、控室の戸を開ける。
廊下へ出ると、歓声はさっきよりもはっきりと聞こえた。
一歩、また一歩。
迷いのない足取りで花道へ向かう。
その背中には、先ほどまでの物足りなさも静けさも、もう残ってはいなかった。
◇
タッタッタッタ――
軽快な足音が、花道へと続く長い廊下に響き渡る。
白衣を翻しながら、一人の青年が全力で駆けていた。
ダイジョバナイ博士だ。
額には汗がにじみ、乱れた金髪が跳ねる。
息を吸うたびに胸が焼けるように痛む。それでも足を止めない。
「はぁっ……はぁっ……!」
必死に前だけを見据え、廊下を駆け抜ける。
その時――
ワァァァァァァァッ!!
花道の方角から、大歓声が湧き起こった。
博士の表情が強張る。
この歓声は知っている。
メカ大関が花道へ姿を現した時に起こる歓声だ。
つまり――
「……間に合わなかった……か」
力なく漏れた独り言は、誰に届くこともなく静かな廊下へ消えていく。
「ふうぅ……」
膝に両手をつき、深く体を折る。
肩を大きく上下させながら、息を荒く吐いた。
滴り落ちた汗が、廊下の床にぽたりと染みを作る。
その直後だった。
――ワァァァァァァァァァァッ!!
先ほどをさらに上回る、割れんばかりの歓声が国技館を震わせた。
博士ははっと顔を上げる。
その瞳が、花道の先を真っ直ぐ見据えた。
「……もうすぐ……もうすぐだよ、カブト山」
博士は花道の先を見つめたまま、小さく呟く。
その声は歓声にかき消されるほど弱く、それでも確かな想いだけは滲んでいた。
ゆっくりと目を細める。
口元には、柔らかな笑みが浮かぶ。
まるで長い年月をかけて待ち続けた瞬間が、ようやく目の前まで来たことを喜ぶような笑顔。
だが、その笑みの奥には、ほんのわずかな寂しさも宿っていた。
手を伸ばせば届くはずなのに、もう以前と同じ場所には戻れない――そんな諦めにも似た感情が、瞳の奥で静かに揺れている。
嬉しそうに。
そして、どこか寂しそうに。
博士はただ、花道の先にいるカブト山を見つめ続けていた。




