第十七話 横綱 山嵐唯我独尊
勝負を終えた力士たちが、それぞれの控室へと戻っていく。
敗れた力士の部屋には、自然と重い沈黙が落ちる。
誰も大きな声を出さず、付き人も必要以上に口を開かない。
畳に腰を下ろした力士はうつむき、ただ時間だけがゆっくりと流れていく。
一方、勝者の控室は違う。
安堵の笑みがこぼれ、親方は「よくやった」と肩を叩く。
付き人たちも慌ただしく動き回りながら、どこか足取りは軽い。
勝利がもたらす高揚感は、部屋全体を明るく照らしていた。
――それが、普通だ。
だが、この男の控室だけは違った。
今場所十四日目。
すでに十四連勝。
優勝も目前という圧倒的な成績を残しているにもかかわらず、部屋を包む空気は、敗者の控室にも劣らぬほど重苦しい。
薄暗い控室に、重い足音が響く。
次の瞬間、男の蹴りが木製の椅子をとらえた。
ドガッ!
鈍い音とともに椅子は飛び、壁へ激突する。脚が一本、乾いた音を立てて折れた。
男――横綱 山嵐唯我独尊は荒く息を吐く。
「……ふざけるなっ!」
吐き捨てるような怒声。
男は息を荒げたまま、今度はテーブルへと歩み寄る。
両手で端をつかみ、何のためらいもなく持ち上げる。
筋肉が軋み、テーブルは宙を舞った。
激しい音を立てて床へ叩きつけられ、テーブルは真っ二つに割れる。
それでも山嵐の怒りは収まらない。
壁に拳を叩きつける。
鈍い衝撃音。
拳から血がにじんでも、まるで痛みなど感じていないようだった。
――まただ、今日も同じだ。
歯を食いしばる。
土俵に立てば、相手は決まって同じ顔をする。
最初は威勢よく現れる者もいる。
だが、山嵐の姿を見た瞬間――その目に浮かぶのは、闘志ではない。
怯えだ。
その目を見た瞬間にわかってしまう。
こいつも戦うつもりがない、と。
取り組みが始まっても、攻めてこない。勝とうとしない。
距離をとり、守り、どうすれば大怪我をせずに終われるか、それだけを考えている。
中には開始早々、わざと隙をさらして倒れる者までいた。
そんな奴らを見るたびに、山嵐は胸の奥が冷えていくのを感じていた。
勝利、また勝利。そして誰もが賞賛する。
さすがだ、圧倒的だ、最強だと。
そんな言葉が飛び交う。
だが、山嵐には何一つ響かなかった。
――こんなものは勝負じゃない。
相手は最初から心が折れている。
技をぶつけ合い、読み合い、限界まで競い合う。
そのために鍛えてきた。
血が滲むほど鍛錬を積み、命を削るような稽古を重ねた。
強くなりたかった。
誰よりも強い相手と、本気でぶつかり合うために。
なのに現実はどうだ。
自分の顔を見ただけで、誰も戦おうとしない。
恐怖だけを浮かべて終わる。
「……あんなツラで、俺の前に立ちやがって」
低く、吐き出すように呟いた。
散乱した控室を見渡す。
それはまるで、自分の心の中を映したようだった。
『最強』
誰もが憧れるその称号は、いつしか男から戦う相手を奪っていた。
拳を握る。
血がぽたりと床へ落ちる。
その音だけが静まり返った部屋に響く。
山嵐は目を閉じ、小さく笑った。
その笑みは勝者のものではない。
飢え続ける獣のような、渇きと苛立ちだけを宿した笑みだった。
荒かった呼吸も、少しずつ落ち着いていく。
だが胸の奥の苛立ちは消えない。
静まり返った部屋の中で、ふと一つの顔が脳裏をよぎった。
「……ブリキ野郎」
思わず漏れたその一言に、自分でも驚く。
――そうだ、あいつは、あいつだけは他の連中とは違う。
相撲の定石を平気で裏切ってくる。
予測の斜め先の行動。
戦うたびに、新しい顔を見せる男だった。
そして何より――あの目だ。
他の連中のような恐怖は、一度も映ったことがない。
どれだけ追い詰められても。
どれだけ傷だらけになっても。
どれだけ絶望的な状況でも。
その瞳だけは、決して死ななかった。
むしろ燃え上がる。
殺してやる、そんな声が聞こえてきそうなほどの闘志を宿した目。
山嵐は小さく息を吐く。
口元が、わずかに緩む。
さっきまでの苛立ちに歪んでいた表情とは違う。
渇望が入り混じった笑み。
拳をゆっくりと開く。掌についた血は乾き始めている。
だが胸の奥でくすぶっていた熱は、再び静かに燃え始めていた。
「……あいつだけか」
そう呟いた直後、胸の奥で何かが引っかかった。
――違う。本当に、あいつだけだったか。
男は眉をひそめる。
記憶の底に沈んでいた光景が、水面へ浮かび上がるように輪郭を帯びていく。
「……いや」
もう一人いた。
あの目をした男が。
山嵐はゆっくりと肩で息をしながら、視線を床に落とす。
散らばった椅子の残骸の模様が、過去の断片を呼び覚ますようだった。
数年前。
まだ名も知られていなかった一人の男。
飛び抜けた才能があったわけではない。
体格も平凡。
力も、速さも、特別秀でてはいない。
取組を見ても、強いと感じるような華はなかった。
だが、不思議な男だった。
誰よりも稽古場にいる。
朝早くから四股を踏み、誰もいなくなった夜まで一人で柱にてっぽうを繰り返す。
汗が塩の結晶となり、手の皮が破れても、翌日にはまた同じように稽古をしている。
才能がないことを、本人が一番よく知っていた。
だからこそ、人の何倍も積み重ねるしかない。
そんな男だった。
山嵐は何度かその姿を目にしていた。
言葉を交わした記憶はほとんどない。
だが、取組になると自然と目で追ってしまう。
理由は一つ。
あの目だ。
土俵に立った瞬間、空気が変わる。
普段の穏やかな表情は消え失せる。
静かに相手を見据えるその瞳には、炎が宿っていた。
勝ちたい。
絶対に勝つ。
そのためなら、持てるものをすべて出し切る。
そんな覚悟が、言葉にしなくても伝わってきた。
才能ではなく、執念で立っている男だった。
だから印象に残っていた。
そして――
山嵐の表情が曇る。
「……あの日か」
雨上がりの夕方だった。
石造りの階段は濡れて滑りやすくなっていた。
ちょうど通りかかったときだった。
視界の端で人影が揺れた。
「っ!」
短い息。
足を滑らせた男の身体が、階段を転げ落ちる。
鈍い音が、一段、また一段と響く。
ゴン。
ガン。
最後に、嫌な音がした。
倒れていたその男は、苦しそうに息をしていた。
足が、不自然な方向を向いている。
周囲が騒ぎ始める。
誰かが医者を呼びに走る。
山嵐は、その場に立ち尽くしていた。
やがて担架で運ばれていく、その背中を見送ることしかできなかった。
その事故で選手生命は絶たれた。
数カ月後、正式に引退が発表されたと聞いた。
山嵐は壊れた椅子の破片を拾い上げる。
指先でなぞりながら、小さく呟く。
「……くだらねぇ」
ぽつりと漏らす。
感傷。
懐かしさ。
喪失。
そんなものが胸をよぎった自分自身が、ひどく気に食わなかった。
「ちっ」
胸の奥に滲んでいた感情を乱暴に押しやるように、床へ舌打ちとともに吐き捨てる。
その音が静かな部屋によく響いた。
山嵐は乱暴に髪をかきむしる。
感傷なんてものは、ここにはいらない。
思い出だの、後悔だの、そんなものに意味はない。
ゆっくりと首を回し、散らかった部屋を一瞥する。
その視線には、もう先ほどの揺らぎは残っていなかった。
勝負は勝負。
そこにあるのは、ただ一つ。
奪うか、奪われるか。
余計な感情など、刃を鈍らせるだけの錆に過ぎない。
必要なのは――戦う意思。
それだけだ。
山嵐は拳を強く握りしめる。
「……そうだろ、ブリキ野郎」
返事はない。
だが、山嵐の口元がゆっくりと吊り上がる。
獣が獲物を見つけたような獰猛な笑み。
その笑みには、これから始まる戦いを想像して胸を躍らせるような凶暴さがあった。
だが、その奥底には――。
ほんのわずかに。
ほんの一瞬だけ。
誰にも気づかれないほど淡く、寂しさが滲んでいた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ここから最終シーズンへと入っていきます。
結構長いのですが、何卒最後までお付き合いよろしくお願いいたします。




