第十五話 自分の相撲
館内に割れんばかりの歓声が響いた。
東の花道。
その奥、暗がりの向こうから二つの赤い眼光と共に巨大な影が姿を現す。
――ズシン。
床が揺れた。
鋼鉄の巨体が進むたび、花道の空気が震える。
――ズシン。
また一歩。
巨大な何かが、その質量すべてを大地に預けるようにして進んでくる響きだ。
観客席の床がわずかに揺れ、手にした飲み物が微かに波打つ。
プシューッ!プシューッ!
肩の排気口から白い蒸気が勢いよく噴き上がり、まるで息遣いのように周期的に繰り返された。
熱気を含んだ白煙が広がり、スポットライトに照らされる。
その姿は歩く要塞。
メカ大関 カブト山機太郎だ。
会場の熱気は最高潮に達し、客席のあちこちから歓声が飛ぶ。
「おおおおおっ!」
「メカ大関だ!」
「やっちまえー!」
しかし――。
実況アナウンサーの声が途中で止まった。
「さあ、本日の結びの一番! 東方よりメカ大関の入場――」
言葉が続かない。
思わず目を見開く。
「……おや?」
隣の解説者も眉をひそめた。
「どうしました?」
「いや……あれは……」
カメラがメカ大関の上半身へと寄っていく。
観客たちの視線も同じ方向へ吸い寄せられた。
メカ大関は無言のまま歩き続ける。
ズシン。ズシン。
その姿を見た観客たちの歓声が、徐々にざわめきへと変わっていった。
「なんだ?」
「頭……」
「おい、見ろよ」
メカ大関の頭部。
本来なら滑らかな金属装甲に覆われているはずのそこが、見るも無惨にへこんでいた。
右側が陥没している。
左側も潰れている。
シルエットでみると、トランプでいうクラブのマークのような有様である。
プシューッ。
へこんだ隙間から蒸気が漏れる。
火花まで散った。
バチッ。
実況アナウンサーが思わず身を引く。
「だ、大丈夫なんでしょうかメカ大関!?」
「大丈夫には見えませんね……」
解説者が即答した。
客席のざわめきがさらに広がる。
そんな周囲の反応など気にも留めず、メカ大関は前進を続ける。
ズシン。ズシン。
その足取りに迷いはない。
だが、ボコボコに潰れた頭部が、逆に不気味だった。
まるで壊れているのに動いている。
そんな異様な迫力がある。
実況席にも緊張が走る。
「きょ、今日はいつもと様子が違います!」
「ええ」
解説者が真顔でうなずく。
「何があったのかは分かりませんが……」
そこで言葉を切った。
メカ大関が土俵下までたどり着く。
ギギギッ
音をたて、首が動く。
潰れた頭部がゆっくりと持ち上がった。
ビゴーン
両目の赤い光が一際強く輝き、客席を見渡す。
その瞬間。
館内がしんと静まり返った。
誰もが思った。
――いつものメカ大関じゃない。
◇
土俵の上。
張り詰めた空気の中、カブト山は横綱と真正面で向かい合っていた。
観客のざわめきも、行司の声も、どこか遠くに聞こえる。
視線はまっすぐ横綱に向いている。
だが、意識の奥では――別の光景が浮かんでいた。
胃を抑え、苦しんでいるミント山親方の姿。
(親方……)
蒸気が、わずかに、プシューッと漏れる。
無意識に圧が上がっているのかもしれない。
いつも弱々しく笑いながら親方は言っていた。
『いいか……余計なことは考えるな』
ひび割れた声。
けれど、その言葉だけは真っ直ぐだった。
『自分の相撲をとるんだ』
その言葉が何度も頭の中で再生される。
(自分の……相撲……)
今日はその言葉に重みを感じる。
「さーいしょーはグー」
唐突に、間の抜けた声が土俵の静寂を切り裂いた。
――思考が一瞬、停止する。
「な……」
小さな戸惑いの声が漏れる。
だが、反射的に右腕を持ち上げ、指の関節が収縮し――
グーの形を作る。
「じゃーんけーん」
次の瞬間にはもう動いていた。
「ぽいっ」
ブン、空気を切るようにカブト山はそのまま拳を前に突き出した。
その対面で、横綱はあまりにも自然な動きで手を開いている。
パー。
ぴたりと止まる時間。
行司が固まる。実況が沈黙する。観客席から、ぽつりと誰かがつぶやく。
「あ、負けた」
混乱したカブト山は己の手と横綱の手を交互に見比べる。
――え!?え!?何の意味が??
「……くくっ」
鼻で小さく笑う音が、静まり返った土俵にやけに大きく響いた。
「わりぃわりぃ、間違えちまった」
横綱 山嵐唯我独尊は肩をすくめ、いかにも軽い調子でそう言った。
(間違い……?何を?何と??)
メカ大関の思考はまだ追いつかない。
観客席も一瞬、意味を測りかねて静まり返る。
その沈黙を楽しむかのように、横綱はゆっくりと右手を持ち上げた。
そして――
スッ、と指を伸ばす。
その指先が向いたのは、メカ大関の頭部。
歪み、膨れ上がった、あの異様なシルエット。
「そんな頭してるからよ……」
ニヤリと口角が上がる。
「サザエさんと間違っちまったぜ」
一秒。
完全な静止が訪れた。
行司の扇が止まる。
実況席の口が半開きのまま固まる。
観客の息が詰まる。
そして次の瞬間。
「だーーはっはっはっ!!」
腹の底から絞り出すような、豪快な笑い声が土俵を揺らした。
横綱は腹を抱えるほどに笑っている。
「ら、来週のサザエさんは……ってか」
遅れて、客席のあちこちからくすくすと笑いが漏れ始める。
「……たしかに……」
「似てるかも……!」
「どこかで見たと思ったらサザエさんかよ……!」
笑いは波のように広がり、やがて場内全体を満たした。
さっきまでの張り詰めた空気が、嘘のように崩れていく。
下を向き、自分の頭を手で確認するカブト山。
――サザエ……さん……
照明の明かりで土俵に自分の影が落ちる。
影のシルエット――言われてみれば、もはやもうソレにしか見えない。
笑い声が渦となる。
カブト山の肩が震えていた。
ピィィィィーーー!!!
突如、甲高い蒸気の音が笑い声を切り裂く。
観客も思わず音のする方に目を向けた。
そこには肩を怒らせ、関節から蒸気を噴き上げるメカ大関。
顔は紅潮を通り越し、赤く発光していた。
鋼鉄の額には青筋が浮かぶ。
そして、その瞳。
いつものような熱を帯びた闘志ではない。
勝利を求める者の輝きでも、逆境に抗う者の意志でもなかった。
瞳の奥に灯っていたのは、底知れない暗い炎。
そして――。
恩人である親方の姿が、記憶の彼方へと押し流されていく。
『自分の相撲をとれ』
何度も背中を押してくれた、その言葉も。
己を支え続けてきた教えも。
今はもう、どこにも届かない。
まるで濁流にのみ込まれる枯れ葉のように、意識の底へ沈んでいった。
残ったのは、復讐だけ。
メカ大関はゆっくりと顔を上げる。
赤く燃える瞳には、もはや土俵も勝敗も映っていない。
映っているのは、ただ一人。
討つべき相手だけだった。
その瞳を見て山嵐唯我独尊は不敵に笑う。
「そうだ、それでいい」
先ほどの嘲笑とは違う笑み。
満足げに、愉快気に。
己の飢えを思う存分満たす、その瞬間を待ちわびているかのように。




