第十四話 ミント部屋女将 発火女将
ゲーム機がカブト山の手から滑り落ち、畳に当たって乾いた音を立てた。
そのままカブト山の体は前に崩れ、うつぶせに倒れ込む。
ぴくりとも動かない。
右の後頭部には、深く食い込んだキセル。
静まり返った空気の中、ゆっくりとその上から声が落ちてきた。
「あんた! 取組前にいつまでもなにやってんだい」
よく通る女の声。
怒気は強くないが、逆にそれが底の深さを感じさせた。
畳の上に影が落ちる。
女は、キセルを軽く引き抜いた。
メキ、と嫌な音がして、カブト山の頭が少し跳ねる。
「……」
カブト山の指がかすかに動いた。
痛みが遅れて広がってくる。
「っ……」
苦しそうに息を漏らし、ようやく顔をわずかに持ち上げる。
ぼやけた視界の中、上に立つ人物を捉える。
「あ……」
かすれた声。
「お、女将さん……違うんす......これはちょっとした息抜きというか......」
その言葉を聞き、女の額に青筋が浮かぶ。
女は無言でキセルを持ち上げ、それを一気に振り下ろした。
メコリ
鈍い音がして今度は頭の左側がひしゃげる。
普段は赤くぎらつく眼光がスッと白くなり、今度はあおむけに倒れた。
「口答えするんじゃないよっ」
女の名は――発火。ミント山部屋の若女将だ。
紺の作務衣の袖を肘までまくり上げ、首には白い手ぬぐい。
黒髪は後ろでひとつにまとめられているが、忙しさのせいか何本かの後れ毛が額に張り付いている。
化粧気がほとんどない。それでもよく通る目元と快活な笑顔が妙に人を安心させる。
部屋の誰より声が大きく、誰より世話焼きで、そして誰より力士たちの腹の減り具合を把握している。
そして、怒らせると口と手が同時に出る。
そんな女将だった。
一方で、空気を読まず――いや読んでいながらさらりと逸らすように、ダイジョバナイ博士が口を開いた。
「あ、ハッカさん」
にこやかな声。
「新しいキセル型スチームネブライザー、どうですか?」
女将の表情がぱっと明るくなる。
「おや、いいねぇあれ」
さっきまでの鋭さが嘘のように緩んだ。
「ありがとうね。おかげで鼻も喉もすっきりさ」
嬉しそうにキセルをくるりと回す。
「煙も出ないしねぇ。なんてったって――」
にやりと笑う。
「硬くて頑丈だしね」
その言葉を聞き、カブト山は素早く飛び起き、話題を変えた。
「そういえば、親方は一緒じゃないんですか」
一瞬、妙な間が空くが女将は軽い調子で答える。
「今朝、ちょっと入院することになってさ」
さらりと言い、女将は部屋の隅に置かれた湯呑みを手に取る。
「ほら、この前から調子悪いって言ってたじゃない。とうとう我慢できなくなったみたいよ」
まるで天気の話でもするように、あっけらかんとしている。
「大したことないわよ。どうせ薬もらって寝てりゃ治るって」
湯を注ぐ音が、やけにくっきりと響いた。
カブト山は何も言えなかった。
ただ、拳を握る手に力がこもる。ミシリと鋼鉄の指がきしむほどに。
いつも心配ばかりかけていた。
いつも自分に代わって頭を下げていた。
増えていく胃薬の空き箱。
心労を抱えていたのはわかっていたはずだ。
でもそれを見せない優しさに甘えていた。
――俺だ、俺のせいだ、俺が不甲斐ないせいで......
そんな心中を察したように女将はカブト山の肩に手を置いた。
先ほどとは違う優しいまなざし。声にもどこか気遣いの色が含まれる。
「いいかい、カブ。あんたが気にすることじゃないよ。あの人がいつも言ってんだ。『あいつは俺の若いころに似てる』ってさ」
「......親方」
「期待されてるんだよ。あんたはあんたらしい相撲を取りな」
「はいっ」
気合の入った返事をし、パンっと両手で自分の頬を叩く。
頬がジンと熱くなる。だが、それ以上に胸の中は熱くたぎっていた。
自分らしい相撲、それが何かは今でもわからない。
でも、次の取組でそれを掴める気がした。
根拠なんてない。
それでも、不思議とそう思えた。
――ひやっ。
突如、カブト山の頬に冷たい何かが押し当てられた。
「うおっ!?」
びくりと肩を震わせ、後ろを振り返る。
そこには二つの缶を持ったダイジョバナイ博士。
こころなしどこか焦っているように見えた。
「忘れてた、カブト山。これ飲んで!」
カブト山の手に二つの缶が押し付けられる。
すでに開けられた二つの缶にはそれぞれ別のラベルが張られている。
『エナジーオイル けもの味』
『エナジーオイル エレキ味』
――けもの味!?エレキ味!?
ラベルを見ても味が予想できない。
『エナジーオイルミントちゃんこ味』のトラウマがよみがえってくる。
飲むのを躊躇し、おずおずと博士に尋ねた。
「あのー、これって――」
「早く、早く、間に合わなくなっちゃうよ」
ダイジョバナイ博士は缶を持つカブト山の手を掴み、無理やり二本同時に飲ませる。
ゴクゴクゴク――
次の瞬間、
「んごぽぅ!!?」
カブト山が本日二度目のブラックアウトを起こす。
飲んだ瞬間、脳に雷が落ちたような衝撃を受ける。
口の中だけではなく、体中がしびれる感覚。
それと同時に、鼻を突き抜ける異常なまでの獣臭。
イノシシ10頭を油で一週間煮込みました、そんな宣伝文句が脳裏に浮かんだ。
そのあとを追いかけるように、もはや無駄と言っていいほどの濃厚なちゃんこの旨味。
電気椅子に座らされ、イノシシの拷問官に無理やりちゃんこを食わされる――そんな存在しない記憶が浮かんでは消えていく。
ワアァァァァァ――!!
その時、土俵から歓声が聞こえてきた。その音で意識を戻す。
勝負の時は近い。
右手の親指で口からあふれたオイルを拭いとる。
味はともかく気合は入った。
決意を固め、花道へと進む。
その背中に二つの声がかけられた。
「カブト山、負けないでね」
「カブ、自分の相撲を貫きなっ」
気合は十分。歩く足取りにも力が入る。
頭の中には、ここにはいない恩人の顔。
――親方、待っていてください。必ず......必ず勝ってみせます。




