第7話 山桜と、あの日の面影
「今日の遠足について確認する。山道はきちんと整備されているが油断しないように。以上」
朝のホームルーム。
工藤先生の短すぎる説明が終わるなり、教室の空気が一気にふわりと浮き足立った。
みんな、そわそわと落ち着きがない。
かくいうあたしの隣でも、藍色の髪を揺らして、一人飛び跳ねんばかりに目を輝かせている奴がいる。
「山じゃ!野山じゃ!」
「いぢばんのりで着いでけら!」
御珠の謎のテンションに呼応するように、棟方が大声で宣言した。
教室のあちこちから、どっと遠慮のない笑い声が弾ける。
「うるさい。並べ」
工藤先生の低く冷たい一喝。
その瞬間、はしゃいでいた御珠と棟方が、ぱたりと電池が切れたように直立不動になった。
小さくため息をつきながら、あたしたちはぞろぞろと移動し、校門前に列を作り始める。
ふと、背中に嫌な気配を感じて振り返った。
遠くの校舎の陰。
先日、御珠にアゴを砕かれかけた環境科学科の佐竹が突っ立って、じっとこちらを見ている。
(……まだ懲りてないのか)
あたしは小さく息を吐き、視線を切った。
まっすぐ前を向く。
今は隣でリュックを背負ってうずうずしている、この厄介な同級生の面倒を見るのが先だ。
ただ、それだけ。
―――
住宅地特有の、あの乾いたアスファルトの匂いが消えた。
いつの間にか足元はジャリジャリとした砂利道に変わり、見上げれば木漏れ日が揺れる山道に入っている。
「これは何という草じゃ。妙に毒々しい色をしておるが……」
突然、列を外れて道端にしゃがみこんだ御珠が、地面の一点を指差した。
小さな紫の花が、鮮やかすぎるほど毒々しく咲いている。
「あ……それ、ヒメオドリコソウです。見た目はすごく毒っぽいんですけど……実は食べられるんです」
近くを歩いていた田中が、少し身を乗り出し、目を輝かせて解説を加える。
「なんと!あの紫が!?」
「は、はい……だから昔から山菜として……その、あんまり知られてないんですけど……」
「そなた、物知りじゃの!」
「は、はい……好きなだけで、その……詳しいっていうほどじゃ……」
御珠にまっすぐ見上げられて、田中の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
耳まで茹で上がっている彼に、御珠はさらに追い打ちをかけるように頷いた。
「いや、立派じゃ。自信を持つのじゃ」
(気づいたら三人で止まってる)
あたしは立ち止まって二人を待つ。
園芸部でもそうだったけど、御珠はこういう「何かに詳しい奴」に対しては、素直に敬意を払うところがある。
「こっからが本番だべ!」
前を歩く棟方が、気合を入れるように砂利を蹴った。
道は徐々に傾斜を増し、本格的な登山道へと姿を変えていく。
「まだ着かないの……」
「足が……もう無理……」
周囲からはクラスメイトたちの恨み節に似た吐息が漏れ始めた。
そんな中、一人だけ呼吸一つ乱さず、涼しい顔で坂を登っていくやつがいる。
「木々の声が聞こえるのじゃ。根を張り、天へ伸びんとする意志――」
あたしは肩で息をしながら、その後ろ姿を必死で追う。
(さすがに苦し)
たまらず、ずっと口元を覆っていたマスクを取り去った。
(……空気うま)
ひんやりとした山の空気が、火照った肺に染み渡っていく。
「もうちょい……ペース……落として……」
「なんじゃ、情けないのぅ……少しは木々の言葉に耳を傾けぬか」
(フィジカルお化けと一緒にすんな)
睨みつけようと顔を上げたところで、振り返った御珠とばっちり目が合った。
「お?素顔が半分出ておるぞ」
御珠が目を丸くしてあたしの顔を覗き込み、ふわりと意地悪な、でも無邪気な笑みを浮かべた。
「そなた。やはり綺麗じゃの」
「いちいちつっこむなっての」
カッと顔が熱くなるのを感じて、あたしはそっぽを向いた。
山の登りで息が上がっているせいだ、ということにする。
やがて、少し開けた中腹に差し掛かった時。
御珠がぴたりと足を止めた。
視界の端に、淡いピンク色がぱっと弾けるように現れる。
街中の桜はとっくに散っているのに、ここでは今が満開の見頃だった。
荒々しい山の緑の中に、そこだけが別の世界のように咲き誇る山桜。
「……綺麗じゃの」
普段の尊大な態度が嘘のような、静かな声。
さっきまで死にそうになっていたクラスメイトたちが、疲れも忘れてざわめきながら一斉にスマホを取り出す。
あたしも、荒い呼吸を整えながら、その花弁を見上げた。
(……綺麗)
言葉にしてしまったら、この静かな空気が壊れてしまう気がして。
あたしはただ、隣で桜を見つめる御珠の横顔を、視界の隅に留めていた。
―――
急な上り坂を抜け、視界が一気に開けた。
吹き抜ける風を浴びながら、足を止める。
(ここって……)
どこかで見たことのある景色が、頭の隅に引っかかった。
見晴らしのいい広場と、遠くまで見渡せる山の連なり。
記憶の底から、ふいにある光景がフラッシュバックする。
『弁当神事じゃ』
それは、小さな丘の上。
ひらひらとした巫女服を着た、小さな女の子が、弁当箱を天高く掲げている姿。
(……ここ。小学校の遠足で来たあの公園じゃないか)
そうだ。
あの日、この場所で。
あたしは初めて、天野 御珠というおかしな存在を遠目に見かけたんだ。
ゆっくりと、隣で風に髪を揺らしている御珠の横顔を盗み見る。
あの日の小さかった姿と、今の大人びた横顔が重なって、そして微妙にずれる。
何かを言いかけて、やめた。
口を開けば、柄にもないことを言ってしまいそうだったから。
ただ、小さく一呼吸だけ。
(……なんであたし、ここにいるんだっけ)
視線を外して、周りを見渡す。
御珠は遠くの稜線を静かに見つめている。
少し離れたところでは、田中がしゃがみこんで嬉しそうに草を摘んでいる。
棟方のテンションの高い大声が、こだまとなって山に響き渡っていた。
それを見て。
(……まあ。悪くないか)
あたしは、誰にも聞こえないように心の中で呟いた。
―――
山頂での自由時間が始まり、あちこちでレジャーシートが広げられて、わちゃわちゃとした昼食の時間が始まった。
「あ、坂本さんマスク取ってる」
ふいに、近くに座っていた田中が声を上げた。
「ご飯も食べるし別にいいだろ」
「なんか新鮮……」
(そんな見るな)
まじまじと見つめてくる田中も、なぜか少し顔を赤らめている。
登りの途中で外したままだったけれど、見慣れない素顔を直視されるのはどうにも居心地が悪い。
気を逸らすように視線を向けると、棟方が田中の手元を覗き込んでいた。
「おめ、そんきしか食わねんだが!?」
棟方の大声に釣られて見ると、田中の手には小さめの弁当箱。
中には色とりどりのおかずが、几帳面に綺麗に並んでいる。
「っ……見ないでよ!」
田中が慌てて弁当箱を抱え込んだ。
「じょんずにでぎでるでばな。自分で作ったんだが?」
「……うん」
耳まで真っ赤にして俯く田中に、あたしは小さく息を吐いた。
(……ほんと女子みたいだな)
そんなやり取りの横で、隣の御珠がどこからどう見てもドヤ顔で、立派な弁当箱を天高く掲げた。
「雪杜が作った弁当じゃ」
「それって……許嫁の?」
近くに座っていた女子の一人が、興味津々といった様子で尋ねてくる。
「そうじゃ。妾のために早起きして作ってくれたのじゃ」
(また惚気てる)
あたしは呆れながら、自分のおにぎりの包みを開けた。
だが、別の女子が少し言いにくそうに口を開く。
「でも、彼女いるって……」
「……」
にぎやかだった場に、すっと冷ややかな沈黙が落ちる。
(これはまずい)
「それは――」
あたしが慌ててフォローに入ろうとした瞬間、御珠がすっと手を出してそれを制した。
「よい」
「いいのか、御珠」
「よい」
御珠は静かに首を振り、その場にいた数人の女子たちへ真っ直ぐに向き直った。
「妾が子を成せぬのは、聞いたのであろ?」
女子たちが気まずそうに目を逸らしながら、それでも小さく頷く。
「妾は雪杜の幸せを願っておるのじゃ」
その場に、ふっと風が吹き抜けた。
ざわめいていた周囲の音まで遠のいていくような、妙な静寂が広がる。
「妾では……家族を持てぬ。いつか雪杜はそのことで傷つき、きっと後悔する」
御珠の小さな唇から漏れた「後悔」という言葉の重みに、あたしは思わず息を呑んだ。
隣で田中が、摘んでいた草を握りしめたまま固まっている。
「咲良は、妾が認めた女子じゃ。
妾は咲良も好きじゃ。雪杜も好きじゃ」
御珠の声は、どこまでも澄んでいて、一点の曇りもない。
「両方……大好きなのじゃ」
視線を落とした御珠の、長い睫毛が微かに震える。
いつもの尊大さが、どこにもなかった。
ただ、必死に何かを願っている、一人の女の子の声だった。
「だから……どうか……妾のことを……おかしいと思わずにいてくれぬか……」
少し潤んだ瞳で訴えかける御珠の切実な声。
さっきまで面白半分で見ていた女子の一人が、たまらず目頭を押さえている。
別の女子もすっかり目を赤くしていた。
「天野さん……」
「いままで変な目で見てごめんね」
「よい。妾が特殊なのは自覚しておる」
すっと顔を上げた御珠が、柔らかく笑う。
「じゃが……どうか、温かい目で見守っておくれ」
「もっと天野さんのこと知りたい!」
「ウチも!」
「うむ。何でも聞くのじゃ」
御珠は嬉しそうに、ふわりと笑った。
(こいつ……やっぱすげぇな)
あのヒリついた空気を、一瞬で完全に自分の味方につけてしまうなんて。
感心していたその時。
「ねぇねぇ。じゃあなんでそんなしゃべり方なの?」
空気が完全に緩んだ瞬間を狙ったかのような、無邪気で鋭い追及が飛んできた。
「う、うーむ。それはじゃな……」
(いきなりそこ聞くのか)
(このギャル、ぐいぐいくるな)
「長くなるゆえ、また今度の……」
「えーなんでもって言ったのにー」
口籠る御珠に、ギャルが食い下がる。
あたしはたまらず、低い声で割って入った。
「本当に長いぞ」
「え、坂本っちは知ってるの?」
(坂本っち……)
「まあな」
あたしは努めて真顔を作り、相手の目をまっすぐに見据えた。
「こんなところでついでに聞くような話じゃねえ」
(こればっかりはオプチャにも流れてなかったな)
あたしの纏ったただならぬ気配を察したのか、さっきまで無邪気だったギャルの口数がぴたりと止まる。
「すまぬの……」
御珠が申し訳なさそうに眉を下げる。
「そっか……」
少しだけシュンとした後、そのギャルは空気を戻すように、努めて明るい声を上げた。
「じゃあ聞かせてもらえるようにもっと仲良くなる!
咲良さんのことも教えてほしー!」
その提案に、御珠の顔がパッと明るくなる。
「ふむ。そうじゃな。咲良か。
あやつはなかなかの骨のある女での――」
嬉々として語り始める御珠を見て、あたしは密かに息を吐き出した。
(ふぅ。なんとか神様ごっこは回避できた)
(あれはいきなり聞かされても信じられない話だ)
やれやれと肩をすくめる。
気がつけば、御珠はすっかりクラスメイトの女子たちに囲まれ、雪杜や咲良の惚気話を嬉しそうに語り続けていた。
―――
登りよりも下りの方が、足へのダメージは蓄積していく。
膝が笑い出しそうな疲労感の中、ただ一人、藍色の髪を揺らす同級生だけが、来た時と全く同じ軽快なステップで山道を下っていた。
「なかなかの山であった。満足じゃ」
振り返り、ドヤ顔でうなずく御珠。
少し離れたところで列を誘導していた工藤先生が、その様子を見て明らかに引いた顔をしている。
そんな中、不意に前の方から短い悲鳴が上がった。
「っ、」
「どした!?」
声の主は田中で、どうやら砂利で足を滑らせ、軽く捻ってしまったらしい。
彼が痛みに顔をしかめた瞬間、隣を歩いていた棟方が即座にその場に屈み込んだ。
「乗れ」
「む、棟方くん!下ろして!僕、歩けるから!」
「黙って乗ってれ!」
真っ赤になって抵抗する田中を無視して、棟方はひょいと彼を背負い上げる。
「ひゅー!」
「棟方イケメンー!」
その鮮やかな手際に、疲労困憊だったクラスの空気がどっと沸き立った。
「棟方は頼もしいのじゃ」
御珠も満足げにうんうんと頷いている。
あたしは、そんな彼らの背中をぼんやりと眺めていた。
(……棟方。田中の守護神みたいだな)
なんだかその光景が妙に可笑しくて。でも。
なぜか、棟方の背中で小さくなっている田中から、視線がなかなか離れなかった。
(……別に。そういうわけじゃないけど)
自分でもよくわからない感情に蓋をするように、少しだけ歩調が遅くなる。
帰り道の後半、すっかり平坦な道に出たところ。
ふと、視界の端に環境科の列が見えた。
その中に混じって、佐竹の姿がある。
また睨んでくるかと思いきや、今朝とは違う、少し驚いたような顔であたしを凝視していた。
どうやら、あたしがマスクを外していることに気づいたらしい。
『マスク女はブサイク』なんて書き込んでいた奴の、なんとも間抜けな顔。
だけど。
(……どうでもいいか)
脳裏に浮かんだのは、山頂から見下ろしたあの開けた景色。
そして、御珠やクラスメイトたちの笑い声。
あんな小物の反応なんて、今のあたしには本当にどうでもよかった。
小さく息を吐き、視線を切る。
あたしは前を向いて、また歩き出した。
―――
予定通りの時刻に学校へ到着し、夕方の校庭で解散となった。
「お疲れ。GW、羽目を外し過ぎるな。以上」
朝と同じく、工藤先生の短すぎる労いの言葉で遠足はあっけなく幕を閉じた。
「帰ったら雪杜に全部話すのじゃ!」
誰よりも歩き回っていたはずなのに、御珠は疲れを微塵も感じさせない。
藍色の髪を弾ませながら、張り切ってさっさと帰路についていく。
その後ろ姿を見送りながら、あたしもリュックを背負い直して歩き出した。
正門を出る直前。
ふと視界の先に、田中と棟方が並んで歩いていく姿が見えた。
足を引きずる田中に、棟方が何か世話を焼いているような、そんな背中。
あたしはすぐに視線を外し、まっすぐ前を向いた。
「……GW、何すっかな」
誰に言うでもなくぽつりとこぼした、その時。
ピコン、とジャージのポケットの中でスマホが短く鳴った。
「お?」
立ち止まって画面を開くと、LINEに新着の通知が来ている。
莉子:GW集まらない?
短いその一文を見つめる。
高校に入ってから少しだけ疎遠になっていた、懐かしいあいつらの顔が次々と脳裏に浮かんだ。
(みんなどうしてっかなぁ)
疲れ切っていたはずの足取りが、ほんの少しだけ軽くなる。
あたしは画面を見つめたまま、ふっと口元を緩めて、自分の家へと歩き出した。




