第7話 大晦日、それぞれの家で
12月31日の朝。
坂本家の台所は、まるで戦場だった。
コンロは全口ふさがっていて、一番大きな鍋からはもうもうと湯気が立ち上っている。
醤油と味噌の濃い匂いが家じゅうに充満していて、換気扇がフル稼働で回っていた。
あたしはまな板の上に置かれた大根と睨み合いながら、ひたすら包丁を動かしている。
横から母さんの細かい指示が飛んでくる。
「華蓮。もうちょっと小さくね。粒を揃えて」
「揃えてるって」
(けの汁)
細かく刻んだ野菜たちをボウルに移す。
(大根、人参、ごぼう、ふき、凍み豆腐、油揚げ、こんにゃく)
(ぜんぶ。サイコロ状に。刻む)
「ごぼう終わったら、次こんにゃくね」
「まだあんのかよ」
(大鍋一杯だぞこれ。何人前作る気だ)
(うちの母さん、毎年これを平然とやってんのが恐ろしい)
玄関の方でバタバタと足音がして、隆と親父が外から帰ってきた。
「くそ!雪降り過ぎだろ!」
「あー、疲れた」
ダウンジャケットについた雪を払いながら愚痴る弟に、あたしは包丁を持ったまま声をかける。
「隆。手伝え」
「いま雪かき終わって帰ってきたばかりなんだが」
「いいから手伝え」
「えー」
露骨に嫌そうな顔をする隆を、母さんが庇う。
「隆は包丁持たせると危ないから休んでていいわよ」
「甘やかすなよ」
文句を言いつつも、あたしの手は止まらない。
冷え切った指先の感覚が麻痺してきそうだ。
リビングに腰を下ろそうとした親父が、信じられないことを口にした。
「休んだら買い物いくぞ」
「え、まだ何か買うのか!?」
「酒、寿司、肉、カニ、年越しそば」
「誰がそんなに食うんだよ」
大きなため息をついて、再びまな板に向かう。
(毎年どうせ余すんだよなぁ)
(SDGsって知ってるか?)
親父の指折り数えるリストを聞いて、隆がソファーに寝転がる。
「だりー。俺パス」
「サボるな」
階段の方からトントンと軽い足音が聞こえてきた。
振り向くと、光莉が大きなボストンバッグを提げて下りてくるところだった。
「さかもっち」
あたしは包丁を置いて、傍らの布巾で手を拭う。
「おう。……もう行くのか」
「うん。お母さん、ちょっと心配だし」
光莉はバッグの持ち手を、両手できゅっと握り直した。
「そっか。荷物、多くね?」
「んー、クソ男の脅威はもう去ったから、アパート戻っても大丈夫かなって。
お母さんはまだ許せないけど、年越しに一人にするのも気が引けるし……」
光莉の視線が少しだけ床に落ちる。
(さすがにすぐに仲直りってわけにはいかないよな……)
(それでも一緒に住むことを選んだか)
「……そっか。頑張れよ」
「うん。泊めてくれてありがとね。ほんと助かった」
顔を上げた光莉は、いつもの明るい笑顔を見せた。
「年明けはどうすんだ?雪杜たちは運動続けるみたいだけど」
「御珠っち来るならまた行きたいかも!」
「おう。じゃあ、次は1月4日だな」
「うん!」
ガスコンロの火を止めた母さんが、エプロンで手を拭きながら光莉のそばに寄っていく。
「あら、光莉ちゃん。もう出るの?」
「はい!お世話になりました!」
「ふふ。そんなかしこまらないの」
母さんは光莉の肩に優しく触れた。
「光莉ちゃん。何かあったらまたいつでも戻ってらっしゃい」
「……」
「うちは、そういう家だから」
「……はい」
光莉の声が、少しだけ震えていた。
(母さん、ずるいわ。そういうの、不意打ちで言うから)
あたしが鼻の奥のツンとした感覚をごまかしていると、母さんが思い出したように手を打った。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
台所へ戻った母さんは、タッパーをレジ袋に入れて持ってきた。
「煮しめ作ったから、持っておいき。
お母さんと、二人で食べなさい」
「……っ、ありがとうございます」
(……この人、ほんとに)
お節介焼きの母さんに呆れつつ、あたしは光莉の手元に視線を落とす。
「持てんのか、それ?」
「大丈夫。バッグに入れるから」
光莉はパンパンのボストンバッグのファスナーを開け、タッパーをぐりぐりとつっこんだ。
母さんが、ちょっと失敗したかなという顔をして頬を掻く。
(汁、少ねーし大丈夫か)
なんとかファスナーが閉まり、光莉は元気に手を振って玄関へ向かった。
「じゃっ、さかもっち、またね!」
「おう。雪すげーから、気をつけて帰れよ!」
(背中は、ちゃんと前を向いてる)
(……大丈夫だ。たぶん)
玄関の重い戸が、ガラリと音を立てて閉まった。
―――
同日、昼。
親父と母さん、そしてあたしの三人は、両手に重い買い物袋を提げて家に帰り着いた。
「ただいまー」
「おかえりー」
居間のこたつから、ぬくぬくと温まった隆が顔を出す。
「くっそ混んでた。なんで前の日に買い物いかねーんだよ」
「お前もその一人だろ」
「お前は家でごろごろしやがって」
減らず口を叩く弟を睨みつけ、あたしは大量の買い物袋を台所の床にどさりと置いた。
「じゃあ、明日は姉ちゃんが雪かきな」
「っち」
(年越しそば10袋くらいあるじゃん)
(毎食そば食うつもりか?)
袋の中身を仕分けながら呆れていると、母さんが冷蔵庫を開けながら口を開いた。
「お昼どうしようかしら」
「けの汁食いたい」
親父がすかさずリクエストするが、母さんはピシャリとはねつけた。
「あれは今夜の分。渉も帰って来てからだからだめ」
「……そうか」
目に見えて肩を落とす親父を横目に、あたしたちは適当な昼食で腹を満たした。
午後は、坂本家総出の大掃除だ。
親父が脚立に乗って蛍光灯のカバーを拭き、隆がその下で不満げに掃除機をかけている。
「うおっ」
掃除機のコードに足を引っかけた隆が、派手な音を立ててよろめいた。
「危ねえな。足元見ろ」
「親父こそ脚立から落ちんなよ」
「お前が脚立に引っかけなきゃ大丈夫だ」
男同士のしょうもない言い合いを背景に、あたしは廊下で雑巾を持ったままうわの空になっていた。
(光莉、今ごろ話してんのかな)
(部屋ちらかってるの片付けでもしてんのかな)
窓ガラスの向こうの白い景色を見つめながら、同じ板張りを無意識に何度も擦り続ける。
「姉ちゃん。そこ、もう三回拭いてる」
「うるさい。やってんだよ」
「こわっ」
隆のツッコミに反射的に凄んでみせたものの、雑巾を動かす手はどうにもぎこちない。
(……手につかねー)
ため息を吐きそうになった時、エプロンのポケットでスマホが震えた。
取り出して画面を見ると、「湊」の文字が光っている。
(お?)
あたしは雑巾をバケツの縁にかけ、少しだけ早歩きで廊下の隅へ向かった。
「もしもし」
『あ、華蓮。今、大丈夫?』
「おう。大掃除の途中だけど」
スピーカーの向こうから、湊の少し遠慮がちな声が聞こえてくる。
『えっと……今夜、凪姉が浜田さんと初詣いくみたいで――
僕たちも、いかないかって』
(凪さんと、浜田さん……)
頭の中に、大人の二人の顔が浮かぶ。
『春原神社の鳥居の前に、23時集合でどう?』
(春原神社、咲良んとこか)
(つーか浜田さん、雪杜の従兄だったな)
湊の言葉から、次々と連想が繋がっていく。
(もしかしたら雪杜と御珠も一緒かもな)
(賑やかそうだな。悪くねー)
窓の外の雪景色が、少しだけ明るく見えた。
「行く。……つか、行きたい」
『ほ、ほんと?よかった……!』
(そんな嬉しそうにすんなよ。こっちが照れんだろ)
耳に当たるスマホが少し熱く感じて、あたしは視線をそらした。
「23時な。わかった」
『うん。じゃ、また後で』
通話が切れる。
スマホをポケットにしまいながら、小さく息を吐いた。
(……初詣、か)
顔を上げると、いつの間にか母さんが廊下の向こうに立っていた。
その口元は、これ以上ないほどにやにやと緩んでいる。
「……なんだよ」
「ん?別に?
初詣、ですって?」
隠す気もないからかいの視線に、あたしは顔をしかめる。
「聞いてたのかよ」
「あらあら。声が弾んでたから、つい」
(弾んでねーよ)
心の中で毒づくが、母さんのニヤニヤは止まらない。
「深夜の外出でしょ?いいわよ、行ってらっしゃい。
湊くんも一緒?」
「……まあ」
あたしがそっぽを向くと、母さんの声のトーンがさらに上がった。
「あらあらあらあら」
「『あら』が多い」
うるさい母さんを睨みつけていると、掃除機を持ったまま隆が顔を出した。
「姉ちゃん、湊さんと一緒?」
「そうだ。お前も来るか?」
「え、行くわけねーし」
掃除機のノズルを揺らしながら弟が首を振る。
「だからモテねーんだよ」
「それ関係ある!?」
隆の悲鳴じみた声を聞き流しながら、あたしの想像は別の方向へと飛んでいた。
(湊、振袖着てきたりしねーよな)
(さすがに無理か。ちょっと見たいけど)
「華蓮」
不意に、少し低い声で呼ばれる。
振り返ると、脚立から降りた親父が真面目な顔で立っていた。
「なに?」
「深夜だぞ。一人で行くのか?」
親父の眉間に、うっすらと皺が寄っている。
「春原神社なら歩いてすぐだって。
湊も来るし、帰りはみんなで固まって帰るから」
「……そうか。夜道、気ぃつけろ」
「おう」
(親父なりに心配してんのは、わかる)
あたしは短く頷き、再び雑巾を手に取った。
「ふふ。いいわねぇ、初詣。
大晦日らしくなってきたじゃない」
母さんの明るい声が、廊下に響く。
(……そうだな)
(あと一本、電話が来れば)
バケツの冷たい水で雑巾を絞りながら、あたしは窓の外のどんよりとした冬空を見上げた。
(今日は、いい大晦日になる)
(光莉。……うまくやれよ)
―――
同日、夕方。
大掃除を終えたあたしは、自室のベッドの端に腰かけていた。
窓の外はすっかり暗くなり、しんしんと雪が降っている。
ベッドに放り投げていたスマホが震えた。
画面には「光莉」の文字。
(来た)
通話ボタンをスワイプして、スマホを耳に当てる。
「もしもし」
電話の向こうから、ゴォーという掃除機の大きな音が聞こえてきた。
『あ、さかもっち?ちょっと待ってね、今――』
『お母さーん、掃除機いったん止めてー!』
光莉の大きな声のあと、掃除機の音がプツンと止んだ。
『ごめんごめん。えへへ』
「なにしてんだよ、まだ掃除してんのか?」
『うーん、昼には終わったんだけど、なんか落ち着かないみたいで……』
(落ち着かない、ねぇ)
(……まあ、いいや)
あたしは小さく息を吐き、話を切り替える。
「朝、雪すごかっただろ」
『うんうん。膝まであったよ、うち側の道。
あ、煮しめ、ありがとね。お母さんめっちゃ喜んでた。
「こんな立派なもの頂いて」って、ずっと言ってる』
「そりゃよかった。母さんに言っとく」
(……で)
あたしは膝の上で拳を握り、本題に踏み込む。
「どうだったんだよ。話」
『……うん』
電話越しに、光莉が小さく息を吸い込む音が聞こえた。
『ウチさ。行ったらまず、玄関に袋があってさ』
「袋?」
『ゴミ袋。でっかいの、三つ。
中身、ぜんぶあの男のだった』
電話越しの声は、どこか不思議そうな響きを帯びている。
『服も、髭剃りも、なんも。全部詰めてあった』
(……)
『ウチが来る前に、お母さんが一人でやったんだって』
(……本気なんだな。あの人)
あたしはベッドのシーツを少しだけ強く掴む。
「……そっか」
『「もう戻さない」って。ウチの目、見て言った。
……ちょっと、泣きそうになった。
泣いてないけど』
鼻をすするような小さな音が聞こえた。
「そこは泣いていいだろ」
『えー、お母さんいるじゃん』
(強がるとこ、こいつらしいわ)
少しだけ声が震えているのを誤魔化すように笑う光莉に、あたしも口元を緩める。
「まぁ、よかったな」
『……うん』
不意に、電話口の光莉の声がすっと落ちた。
『でもね。ひとつ、ダメだった』
「お?」
『合鍵。……まだ、あいつが持ってんだって』
(――朝、こいつ言ってたよな)
握りしめたスマホに、じわりと汗が滲む。
(「クソ男の脅威はもう去った」って)
胸の奥がざわつくのを抑え、先を促す。
『お母さんが交換しようとしたんだけど、鍵屋さんも休みみたいで』
「……あいつたぶん留置所だろ」
『うん。捕まってる。今は。
……今は、なんだよね』
(「今は」か……)
重苦しい沈黙が、電話越しに伝わってくる。
(出てきたら、あいつ合鍵持ってんのか)
あたしは立ち上がり、窓の外の雪景色を睨みつける。
「とりあえず、ドアチェーンだけは絶対やっとけよ。
あと、絶対一人になるな」
『……うん』
「あと、なんかあったら即電話しろ。深夜でもいい。
あたし、寝起き最悪だけど出る」
『あははっ。なにそれ。
……ありがと、さかもっち』
(笑った。よし)
再び明るさを取り戻した声が、弾むように続く。
『でね。もうひとつあるんだ』
「まだあんのか」
『いい話だよ!』
スピーカーの向こうから、光莉の笑顔が透けて見えた。
『春になって、雪、溶けたらさ。
二人でお婆ちゃんちに行こうって、約束した』
(婆ちゃんち)
(あの、寒くて、誰もいなかった家に)
(今度は、母親と二人で)
窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけほころんでいる。
『住むかは、まだわかんないんだけどね。
……行こうねって。それだけ、決めた』
「……いいな。それ」
『でしょ!』
『あと、お母さんがさ。
みんなにお礼したいって』
「お礼?」
『うん。泊めてくれたり、留守番してくれたりしたから』
「なるほどな」
『特に、御珠っちにまた会いたいみたい』
「……御珠に?」
意外な名前に、思わず聞き返す。
『うん。なんか、いろいろ心に刺さったって』
「まぁ、めっちゃ泣いてたしな」
『うん。なんか放っておけないって』
(あいつも雪杜並みに人たらしだよな)
(あいつと相対すると、みんなあいつが好きになるんだよな)
昨日、光莉の母親を容赦なく問い詰めた親友の姿を思い出し、あたしはため息をつく。
「……あいつ、なんなんだよ」
『ウチもわかんない。
でも、御珠っちだしなー』
(「御珠だしなー」で片付くのが一番おかしいんだよ)
呆れていると、電話の奥から微かにあのゴォーという音が聞こえてきた。
『あ、また始めた。もういいって言ってんのに。
……ウチ、戻るね』
「おう。……止めてやれよ、それ」
『うん』
『さかもっち。……ほんと、ありがとね。
年明けたら、連絡する!』
吹っ切れたような明るい声に、あたしは小さく頷く。
「おう。無理すんなよ」
『へーき!じゃ、よいお年をー!』
「……おう。よいお年を」
ツツ、という電子音と共に通話が切れた。
あたしはスマホをベッドに放り投げ、再び窓の外を見る。
(……「よいお年を」)
(前にも、聞いたな。その台詞)
(あん時は、一人で反対方向に歩いてった)
(今日は、ちゃんと帰る場所に向かってる)
(掃除機、まだ鳴ってんのかな)
窓ガラスに触れると、ひんやりとした冷たさが指先に伝わってきた。
(やることが無くなっても、手が止まらねー母親と)
(それを「もういい」って止めに行く娘と)
(……そういう年越しも、あるんだな)




