第6話 帰る場所
雪の降る道を、あたしたちは並んで歩いていた。
なんとなく足が向いたのは、光莉のアパートに戻る道だ。
「……光莉ちゃん、どのくらいかかるんだろ」
「さあな。あの男の聴取もあんだろ」
「なんか凄いことになっちゃったね」
「ああ。どうすっかな」
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
画面には、光莉からのメッセージが表示されていた。
光莉:アパート開けっ放しなんだよね
華蓮:マジか
光莉:中入っていいから留守番しててくれると嬉しい
華蓮:いいぞ
画面から顔を上げ、咲良にも画面を見せる。
「……だとよ」
「うん。光莉ちゃん、警察官にいっぱい囲まれて疲れて帰ってくるんだよね。不安にならないように待ってよう」
「ああ……でもその前に。腹減ったな」
「……怒涛の展開すぎて忘れてた」
途中のコンビニに寄って、適当なパンと飲み物を買う。
アパートの前に戻ってきた。
カンカンと冷たい音を鳴らしながら外階段を上がる。
二階の奥。
冷え切ったドアノブを回すと、抵抗なく開いた。
「おじゃましまーす……」
足を踏み入れた途端。
もわ、と重い暖気が顔に当たった。
「……あったけ」
(……暖房つけっぱなしか)
部屋の中は、ひどく荒れていた。
ちゃぶ台がひっくり返り、上に載っていたものが床に散乱している。
カーテンレールは半分外れて垂れ下がり、冷蔵庫の上にあったであろうオーブントースターが無残にも床に転がっていた。
中のパンクズが、フローリングに散っている。
(……あの男が、つけてた暖房だ)
(ここでぬくぬくしながら、光莉の帰りを――)
胸の奥がざわざわとする。
「……気持ちわりぃ」
「……うん」
咲良の視線が、床の一点に止まった。
(……ここで)
(ここで、光莉は)
「……これ、って」
「……足払い、だな。
男がすっ転んで、この様だ」
「……」
咲良が静かに息を呑む。
あたしは、ひっくり返ったちゃぶ台を元に戻そうと手を伸ばした。
(とりあえず、片付け――)
「あ、華蓮ちゃん、それ。
……直しちゃって、いいのかな」
「あ?」
伸ばしかけた手を止める。
「ほら。その……警察とか、また見に来るかもだし」
「……あー」
(そうか。これ、現場ってやつか)
ゆっくりと手を下ろした。
「……これ見ながら飯食うのか?」
「……なんかシュールだね」
「貴重な体験だな」
あたしたちは散らかった床の隅に座り込み、ぼそぼそとパンをかじった。
パンを食べ終わる。
「さてと」
咲良が立ち上がり、スマホを取り出した。
「ちょっと最終兵器召喚してくる」
「は?最終兵器?」
「うん。御珠ちゃん」
「はぁ??」
あたしの疑問を置き去りにして、咲良が外へ出ていく。
(……)
荒れた部屋に、一人。
(……静かだな)
(つーか、さっきから引っかかってんだよ)
(アパートの前。咲良のスマホが震えて、それから物音がした)
(順番が、逆じゃねーのか?)
トースターのパンクズを見つめる。
(咲良は、何を見て「逃げる準備」なんて――)
がちゃ、とドアが開く音で思考が途切れた。
「おまたせ。『すぐ行く』って」
「御珠呼んでどうすんだ?」
「御珠ちゃんにしか出来ないことしてもらう」
「御珠にしか?」
――それから、わずか15分後。
ピンポーンとインターフォンが鳴った。
「きた」
「え?もう?」
咲良が小走りで出迎える。
「待ってた」
「邪魔するぞ」
玄関から御珠が入ってくる。
「早えーな!
お前、どうやって来た!?」
「走って来たのじゃ」
「走って……」
あまりの堂々とした返答に、言葉を失う。
(……こっから5キロくらいあるだろ。どんな速度で走ってきたんだよ)
御珠は部屋に入ると、ぴたりと立ち止まった。
散らばった床。
ひっくり返ったちゃぶ台。
垂れたカーテン。
転がっているトースター。
翠の瞳が、ゆっくりと部屋中を見回す。
「……」
「……御珠?」
「――これを、あの娘、一人で切り抜けたか」
御珠は、ちゃぶ台の前にしゃがみ込んだ。
「上出来じゃ。妾の教えた通り。
……いや、教えた以上じゃな」
その小さな背中に声をかける。
「これ、片付けねーほうがいいらしいぞ」
「うむ。そのままにしておくのがよかろう」
「ああ」
御珠がゆっくりと立ち上がる。
「母に、見せる」
「え?」
「言葉で聞き流せるものも、目で見れば流せぬ。
娘がこの部屋で何と戦うたか――あれの母は、見るべきじゃ」
御珠の横顔を、まじまじと見つめた。
(こいつ、最初からそのつもりで……)
「……御珠ちゃん。お説教だね」
「うむ」
小さく頷く御珠に、思わず確認する。
「よその家の親に、か?」
「うむ」
「大人だぞ?」
「それに何の問題があるのかの?」
堂々と言い切る御珠に、呆れ声が漏れる。
「マジか」
「……私も、それがいいと思う」
咲良が静かに言った。
「警察は男を捕まえてくれた。でも、お母さんのことは、誰も何も言ってくれないから」
咲良の言葉に、胸の奥が冷える。
(そうだ。あの母親は、何も裁かれない)
(「知らなかった」って顔して、終わりだ)
(誰かが言わなきゃ、この部屋も、なかったことになる)
深く息を吐き出す。
「……分かった」
(……最終兵器か)
三人で、荒れた部屋の隅に座る。
光莉と母親が帰るまでの間、あたしは二人に、昨日のことを話した。
祖母の空き家で、鍵もかけずに泣きながら掃除をしていた光莉を見つけたこと。
カップ麺を積み上げて、一人で年を越すつもりだったこと。
連れ帰って、風呂に入れて、飯を食わせたこと。
話しているうちに、昨日の光莉の泣き顔がよみがえって、あたしはみっともなく泣いた。
「……よくやったのじゃ、華蓮」
御珠が、静かにそう言った。
あたしが場所を知っていたから、光莉はあたしにだけ居場所を教えたから——だから間に合ったんだと。
褒められると調子が狂う。
あたしは「別に」とだけ返して、そっぽを向いた。
ただ、じっと帰りを待つ。
窓の外が、ゆっくり暗くなっていく。
―――
すっかり日が落ちた頃、窓の外を車のヘッドライトが横切った。
重いエンジン音が響き、外でパトカーが停まる音がする。
続けて、ドアが開閉するくぐもった音が聞こえた。
「……来たぞ」
そっと呟く。
カン、カンと冷たい金属音を響かせながら、二人分の足音が外階段を上がってくる。
会話の声は聞こえない。
がちゃりと、抵抗なくドアが開いた。
「……え。
電気……なんで――」
玄関に現れたのは、光莉と見知らぬ女性――光莉の母親だ。
「……あ。
御珠っちもいる」
母親が戸惑ったように目を瞬かせる。
「な、何……あなたたち、誰……」
「えっと、家が開けっ放しなんで、留守番頼んでた友達……」
光莉が母親に簡単に説明する。
「よう。おかえり」
とりあえずおかえりと言うと、御珠が静かに立ち上がった。
「初めてお目にかかる。天野 御珠と申す。光莉の友じゃ」
「……は?」
母親の顔に怪訝な色が浮かぶ。
「ええと……何、その喋り方……」
御珠は母親の困惑など意に介さない。
「ぬしに、話がある」
「……悪いけど、今それどころじゃないの。
きょうは、色々あって……疲れてるの。
留守番してくれたのはありがたいけど、後日ちゃんと――」
「今、じゃ」
低く響いた声には、有無を言わさぬ圧力がこもっていた。
「……」
母親が息を呑む。
「その前に――」
御珠が、すっと横にどいた。
隠されていた部屋の惨状が、母親の視界に開ける。
ひっくり返ったちゃぶ台。
散らばった床。
半分外れて垂れ下がったカーテン。
無残に転がるオーブントースター。
「……え」
玄関先で、母親の足がぴたりと止まった。
「……何、これ。
なんで、こんな……」
光莉は何も言わず、うつむいている。
「……」
御珠の静かな声が、冷えた部屋に響いた。
「ぬしの娘が、この部屋で、男から逃げた跡じゃ」
「……」
「掴みかかられ、咄嗟に払い倒し、靴も履かずに飛び出した。
ぬしが仕事に出ておる、昼日中のことじゃ」
「……」
母親は、呆然と散らばった床を見つめている。
へこんだオーブントースターを見つめたまま、微動だにしない。
「まずは家に上がれ」
促されるまま、母親と光莉が靴を脱いで上がってくる。
こちらに向けられた母親の目には、はっきりと苛立ちの色が乗っていた。
(……自分の家なのに、命令されてキレてるっぽいな)
光莉が、不安そうに母親と御珠を交互に見比べる。
あたしと咲良は、邪魔にならないよう部屋の隅に寄った。
散らかった部屋には座る場所もなく、三人は立ったまま対峙する形になる。
張り詰めた空気の中、母親が口を開いた。
「で、何なの」
「ぬしは、あの男が娘に向けておった情欲の目に、気づいておったな?」
「……なんの、話」
「気づいておって、目をつぶった。違うかえ?」
母親の声が、僅かに震えを帯びて高くなる。
「……ちょっと。
あなた、さっきから何様のつもり?
何を、子供が、偉そうに」
対する御珠は、微塵も怯むことなく見返した。
「では誰の話なら聞くのじゃ。天皇か?大統領か?」
「っく……何なのよ……」
「子供の言葉じゃから聞かぬ、と申すなら」
御珠が一歩、母親に詰め寄る。
「ぬしは今まで、娘の言葉を、いくつ聞き流してきたのじゃろうな」
痛いところを突かれたのか、母親が言葉に詰まる。
「……」
(……御珠、怒ってるな)
(容赦ねえ)
母親は唇を噛み締め、感情を吐き出すように叫んだ。
「……あんたに何が分かるのよ。
女手ひとつで子供育てるのが、どれだけ大変か。
働いても働いても足りないの。誰も助けてくれないの。
やっと……やっと少し、楽になれると思って……」
「その『楽』の代金は、誰が払うのじゃ」
「っ……」
母親が声を詰まらせる。
「仕方ないじゃない!
35歳のこぶ付き女なんて、誰も貰ってくれないのよ!」
悲痛な叫びも、御珠の刃のような言葉に切り裂かれる。
「その代わりに娘を差し出すという訳か。
ぬしはいつの時代を生きておるのじゃ。
そのような物がまかり通ると本気で思うておるのか?」
「なんとでも言えばいいわ。子供のあなたに、私の気持ちなんて分かるわけない」
「確かにぬしの生活は楽になるのかもしれぬ。その代わり、娘は自分の家で息を殺して暮らす。
娘の犠牲の上にできる『楽』が、本当に楽だと思うておるのか?」
「……」
「娘は、祖母の空き家に逃げ込み、カップ麺を積み上げて、冬を越すつもりでおった」
「……え」
母親の顔から、さっと血の気が引いた。
「知らなんだか。ぬしの娘には、帰る家がなかったのじゃぞ。
この年の瀬に。誰もおらぬ家で。一人で。
十六の女子が、一人空き家に閉じこもる恐怖が想像できようか」
母親が弱々しく首を振る。
「……そんな……だって、友達の家に泊まるって……」
「言えるはずがなかろう。
『あの男が怖い』と、一度は申したのではないか?ぬしは、なんと返した」
「……」
母親が、すがるように光莉を見た。
だが光莉は、真っ直ぐに母親を見据え、決して目を逸らさない。
「……『考えすぎ』って、言った。
『いい人だから』って」
「……光莉……」
「ウチ、あの時、分かったんだ。
あ、お母さんは、ウチよりあの人を取るんだって」
「ちがっ……違う、そんなつもりじゃ……」
「ならば、どういうつもりじゃったのか、聞かせてもらおうかの」
「……」
母親の口が微かに開いて、また閉じた。
言い訳を探すように視線が泳ぐ。
「……出ぬか」
冷ややかな声が落ちる。
「そうじゃろうな。『そんなつもりじゃなかった』の先は、いつも空っぽじゃ」
「……っ、うるさい……」
ぽつりと漏れた呟きが、次の瞬間、爆発したように弾けた。
「なによ……あの家に逃げ込んだ、って……
あの家が……いやだったのよ!!」
(……っ)
(急に、どうした)
堰を切ったように、母親が捲し立てる。
「母さんは微妙に老けてるし!父さんはもっと老けてる!
おまけにお爺ちゃんに、お婆ちゃん!年寄りばっかり!
授業参観のたびに、子供ながらに笑われるのが嫌だった!
いつもまずそうな漬物ばっかり出て来るし!
家も古いし、和式便器とか、恥ずかしくて友達も呼べないじゃない!」
「……」
(……この話、光莉は知ってたのか?)
ふと光莉の顔を見る。
それは、初めて聞く真実に戸惑う表情だった。
御珠が小さく頷く。
「……ふむ。
老けた母、と申したな」
「そうよ!だって同級生のお母さんはみんな――」
母親の言葉を遮るように、光莉が静かに口を開いた。
「……お婆ちゃん。
40歳で、お母さんを産んだんだよ」
「……そうよ。だから老けてた」
「ウチ、お婆ちゃんから聞いてたもん。『光莉のお母さんは、40でやっと来てくれた宝物だ』って」
「……」
母親が言葉を失う。
光莉の声が、震え始めていた。
「40歳で、お母さん産んで。
70歳まで、ウチのお守りまでして。
畑やって、ごはん作って……最後まで、ちゃんとお母さんの帰り、待ってた。
こんなに一生懸命だったのに、老けてるからやだって……」
光莉の大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……私は……私、は……」
母親が両手で顔を覆う。
「光莉には……『お母さん、若くて綺麗だね』って、言われるようになって欲しかった……
あんな家じゃなくて……若いお母さんで、自慢の、お母さんで……」
「お母さん……」
母親もまた、嗚咽を漏らしながら崩れ落ちそうになっていた。
「……だから……だから早く、家を出たかったのよ……
光莉を産む時、母さんと大喧嘩した……『絶対うまくいかない』『家にいろ』って……
それでも……それでも反対を押し切って出てきたのよ!
今更、どうやって帰れって言うの……!」
「もう意地なの!帰ったら、私の失敗を認めることになるの!」
「意地、か」
御珠が、散らばった床をゆっくりと指さした。
「ぬしが意地を通した果てがこれか」
「……」
御珠の言葉は、酷なほどに静かだった。
「それにな。
ぬしが意地を張っておる相手は――もう、この世におらぬ。
勝ちも負けも、とうに終わっておるのじゃ」
「分かってたわよ!とっくに私の負けだって!」
ついに母親が床に膝をつき、深くうなだれた。
「母になって初めてお母さんの偉大さが分かった。
和式便器だとか、漬物がまずいとかそんなちっぽけなことで文句を言ってた自分がバカだったって。
家賃のかからない家があるだけで勝ち組だった。
毎日帰ればご飯が出て来ることがどれだけありがたいか……
年とか、関係ない。優しい母親なだけで十分だった」
「老けてるとか……言って……ごめん……なさい……
なんで……なんで、あの時……素直に、家に帰ってれば……」
母親は顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れた。
(……「心が丸裸にされちゃう」って、咲良、言ってたな)
(こういうことかよ)
あたしは部屋の隅で、ただ圧倒されていた。
御珠の声は、少しだけ温度を取り戻していた。
「まだじゃ。
まだやり直せるではないか。
母の偉大さを知ったぬしなら、まだやり直せる」
「……もう、35よ……」
泣き濡れた顔を上げ、母親が自嘲するように零す。
「若くもない……綺麗でもない……今更、何をやり直せって言うのよ……」
「ぬしの『もう』は、ぬしの母の『まだ』の、五年も手前じゃ。
血は争えぬ。ぬしにも、まだ、できることは山ほどあろう」
「……」
「のう、光莉の母よ」
御珠の声が、ふっと低くなった。
怒鳴るでもなく、ひどく静かに。
「妾には、親がおらぬ」
「……え?」
「顔も知らぬ。声も知らぬ。物心ついた時には、一人じゃった」
(……御珠)
あたしの胸が、きゅうっと締め付けられる。
「親に守られるということが、どういうことか、妾は知らぬ。
じゃが――親を求める子の心なら、誰よりも知っておるつもりじゃ。
子はな。親を選べぬのじゃ」
「どれほど聞き流されても、どれほど後回しにされても、子が最初に手を伸ばす先は、親なのじゃ。
光莉は、ぬしに手を伸ばした。一度は、確かに。
ぬしは、その手を握らなんだ」
「……」
「妾は、欲しくても親がおらぬ。
差し伸べてもらえる手すらないのじゃ。
ぬしには差し伸べる手があるのに、もったいないとは思わぬかえ」
「……っ」
母親の目から、再び後悔の涙が溢れ出した。
「……ごめ……
ごめん……光莉、ごめんね……
怖かったよね……ずっと、怖かったよね……
お母さん、気づいてた……気づいてたのに……ごめん……」
光莉は、何も言わなかった。
「……」
ただ、ジャージの裾を掴んで、拳をぎゅっと握って立っている。
(……光莉)
(駆け寄って抱きつく、なんて簡単にできるかよ)
(そういうもんだよな)
冷えた部屋に、長い沈黙が降りた。
やがて。
「……お母さん」
光莉はしゃがまない。
立ったまま、母親を見下ろして言った。
「ウチ、まだ許してない」
「……うん」
「『ごめん』だけなら、誰でも言えるし」
「……うん……」
母親が乱暴に涙を拭い、顔を上げた。
「……仕事、増やす。
パートじゃ足りないなら、掛け持ちでも、夜勤でも、何でもする。
男の人に頼るの、もうやめる。
……頼るなら……次は、ちゃんとした人を、ちゃんと探す。
……今度こそ、ちゃんとする。
ちゃんと、お母さんやる」
震える声に、嘘はないように聞こえた。
「……」
光莉が、ずっと握りしめていた拳を、ゆっくりとほどく。
「……じゃあさ。
……一緒にお婆ちゃんちに住もうよ」
「……え」
(ま、それが合理的だよな)
(多少不便なんだろうけど)
「家賃かからないよ。
ご飯は頑張ってウチが毎日作るよ」
「……光莉、あんた……」
母親が息を呑む。
「あの家、ちょっと不便だけど、ちゃんと住めるよ。
冬は寒いけど……トイレも和式だけど……それでもウチ、ずっとあそこで生きてきたんだ。
お母さんがいなかった分」
「……っ」
「……だから、来なよ。
『ちゃんとお母さんやる』んでしょ。
なら、ウチの家で、やってよ」
「……」
母親はうつむき、長いこと黙り込んだ。
「……お母さんが、あの家に住んでいいのかな。
……お婆ちゃん、怒らないかな」
「……怒んないよ。
お婆ちゃん、ずっと待ってたもん。お母さんのこと」
「そっか……
そっかぁ……」
母親がまた顔を覆う。
今度の泣き声は、さっきまでの絶望とは少し違う響きを持っていた。
「……よい」
御珠がしゃがみ込み、母親と目の高さを合わせた。
「泣けるうちは、やり直せるのじゃ。
――励めよ、母」
「……はい」
(大人が、高校生に「はい」っつってる)
(変な画だけど……変じゃねえんだよな、これが)
母親がよろよろと立ち上がる。
床に転がっていたオーブントースターを持ち上げ、茫然と見つめた。
完全に歪んでしまっていて、明らかにもう使えそうになかった。
「……片付けなきゃ、ね」
「うむ。それは、ぬしの仕事じゃ」
「……ええ」
母親は、あたしたちの方へ向き直ると、深く頭を下げた。
「……娘が、お世話になりました」
光莉に向き直る。
「光莉は……きょうも、お婆ちゃんち?」
「ううん。昨日からさかもっちの家にお世話になってる」
母親がはっとして、あたしを見た。
「あなたが……さかもっち?」
「あ、はい」
(さかもっち……)
変なところであだ名が出てきて、調子が狂う。
「ありがとう。……ごめんなさいね、親が、こんなで」
「……いえ」
気まずさに、あたしは目を逸らして付け足した。
「光莉がいると、うち、賑やかで助かってるんで」
「……そう」
母親が、もう一度光莉に向き直る。
「……光莉。今夜も、お友達の家?」
「……うん。
荷物だけ、まとめてく」
「……そう。そうよね」
母親は、言いつけるようにではなく、願い出るように言った。
「……明日。話をさせて。
二人で。ちゃんと」
「……うん。また明日ね」
―――
光莉が奥の部屋でボストンバッグに荷物を詰める間、あたしたちは玄関先で待った。
母親は、散らばった床のものを、ひとつずつ拾い集めている。
「おまたせー」
ボストンバッグを提げて出てきた光莉に声をかける。
「持つよ、それ」
「へーきへーき」
ドアを閉める寸前、光莉が一度だけ、部屋を振り返った。
「……行ってきます」
「……いってらっしゃい」
背中越しに聞こえた母親の声は、ひどく震えていた。
―――
アパートを出て、大通りの交差点まで歩く。
ここで、御珠と咲良とは反対方向だ。
「じゃ、私たちこっちだから。
光莉ちゃん。うちに泊まる話、生きてるからね。年明けにおいで」
「うん。……咲良っち、きょう、ありがと」
白い息を吐きながら、光莉が頭を下げる。
「光莉よ」
「御珠っち……あのさ、ウチ――」
「よい。何も言うでない」
御珠が背伸びをして、光莉の頭にぽんと手を置いた。
「ぬしは、ようやった。
習うた通りに逃げて、助けを呼んだ。満点じゃ」
「……えへへ。
……ウチ、御珠っちの弟子で、よかった」
「うむ。誇るがよい」
御珠が満足げに頷くのを見て、あたしも密かに息を吐いた。
(あたしの思いつきで始めたことだけど、こいつに護身術習っておいてほんとよかった)
ふいに、翠の瞳がこちらを向いた。
「華蓮よ」
「ん」
「光莉を、頼んだぞ」
「……おう」
小さく頷いてから、ずっと気になっていたことを口にする。
「つーかお前、ほんとにどっから湧いたんだよ。早すぎだろ」
「ふふん。友の一大事とあらば、妾は風よりも速いのじゃ」
「答えになってねー」
「では、また会おうぞ。よいお年を、じゃ」
「よいお年をー」
二人が並んで、雪の道を歩いていく。
小さくなっていく背中を見送る。
(結局、全部あいつが持っていっちまったな)
(大人にあそこまで堂々と説教かませるってすげーな)
―――
夜。
あたしの部屋。
昨日と同じ場所に、光莉の布団が敷いてある。
部屋の明かりを落とし、最後に豆電球も消して、部屋を真っ暗にした。
「……ふぁ。疲れたぁ」
「疲れたろ。寝ろ寝ろ」
毛布を引き上げながら、適当に返す。
「……ねぇ、さかもっち」
「なんだよ」
「……お母さん、泣いてたね」
「……ああ」
暗闇の中で、光莉の声だけがぽつりと響く。
「ウチさ、お母さんの泣いた顔、初めて見たかも。
お婆ちゃんのお葬式でも、泣いてなかったのに」
「……」
かける言葉が見つからず、黙って続きを待った。
布団の擦れる音がした。
光莉が寝返りを打ったらしい。
「……ねぇ。さかもっちはさ。
交番で、ウチの手、握ってくれたじゃん」
「ん……ああ」
「あの時ウチが、なんで押せなかったか、分かる?」
「……そりゃ、あの男が目の前にいて、怖――」
「ちがうよ」
「……」
即座に否定され、口をつぐむ。
「あの男はさ、もう、どうでもよかったの。捕まれ、って思ってた。
怖かったのは……」
布団の中で、光莉が小さく息を吸い込む音が聞こえた。
「これ押したら、全部終わるんだ、って」
「……終わる?」
「警察が動くじゃん。男は捕まるじゃん。
そしたら、お母さんのことも、全部調べられる。
『お母さんは知ってたんですか』って、絶対聞かれる。
……ウチの家、終わるんだって」
「……」
喉の奥が、ひやりと冷えた。
「押さなきゃ、まだ『何もなかった』にできたんだよ。
あの男の言う通り『親子喧嘩でした』って言って、帰って……
今まで通り、お婆ちゃんちに逃げて、我慢してれば……壊さずに、済んだんだ」
(……)
(そんなこと、考えてたのかよ)
(あたしはただ、証拠出せば勝てる、くらいにしか――)
光莉の静かな吐露が続く。
「あの一秒でね、ぐるぐる考えたの。
押したら、ウチがお母さんを裏切ることになるのかな、とか。
お母さんに、一生恨まれるかな、とか」
「……」
何も言えない。
ただ、天井の闇を見つめることしかできない。
「……でもさ。
さかもっちが、手ぇ握ってくれて……
『あたしがいる』って言ったじゃん」
「……言ったな」
「あれで思ったの。……あ、壊れても、ウチ、ひとりじゃないんだって。
だから、押せた」
「……」
心臓が嫌な音を立てた。
(……なんだよ、それ)
(あたし、そんな重いもんに手ぇ添えてたのかよ)
シーツの擦れる音。
「だからね、これ、お礼。
……ありがと、華蓮」
「……っ」
(――今)
(「さかもっち」じゃ、なかった)
名前で呼ばれたのは、これで二度目だ。
胸の奥がギュッと締め付けられる。
「……別に。あたしは何もしてねー。
押したのは、お前の指だ」
「……ふふ。そういうとこだよねー」
暗闇の中で、光莉が小さく笑う気配がした。
ふと、声のトーンが変わる。
「……あのさ。それでね、警察でね、聞いたんだ。ウチだけ」
「ん?」
「児童相談所の人が、年明けに来るって」
見えない顔の方へ、少しだけ顔を向ける。
「それでね……場合によっては、その……
『一時保護』ってのが、あるかもって」
聞き慣れない単語に、眉をひそめる。
「……一時保護って」
「ウチを、いったんお母さんから離して……施設みたいなとこで、預かるやつ。
お母さんが『ちゃんと子供を守れる親か』を、児相の人が調べて決めるんだって」
「……」
(決める……って)
(本人たちじゃなくて、か)
それがいかに重い手続きか、嫌でも理解できた。
「守ってくれる制度なんだよ?分かってるよ?
けどさぁ……」
光莉の声が、少しだけ揺れた。
「なんで、ウチの住むとこ、知らない大人が決めるんだろって。
悪いの、ウチじゃないのに。
なのに、ウチが、どっか行かされるかもって……変じゃない?」
「……」
その不条理さに、返す言葉が見つからない。
「だからさ。
ウチ、言ったんだ。お婆ちゃんちに住もうって。
引き離される前に……ウチの家は、ウチが決めるって。
……そう思ったら、勝手に口から出てた」
(……あれ、そういうことだったのか)
(勢いなんかじゃねー。こいつなりの、先手だ)
「……でもさ。児相の人が『ダメ』って言ったら、全部パーじゃん。
お母さんが、ほんとに変われなかったら、それもパーじゃん。
……ウチにできること、もう何もないんだよね。
あとは、待つだけ」
「……」
布団の中で強く握りしめた拳が、じわりと汗ばんでいる。
(「大丈夫だよ」なんて、言えるかよ)
(児相がどう決めるかなんて、あたしが知るわけねー)
薄っぺらい慰めなんか、こいつには通用しない。
「……そうだな。待つだけだ」
「……そこは嘘でも『大丈夫だよ』でしょー」
不満げな声に、鼻で笑って返す。
「嘘つけるかよ、こんな話で。
けど、一個だけ確かなことがある」
「……なにー」
布団の中でモゾモゾと動く気配に向けて、はっきりと言い切る。
「児相が何て決めようが、母ちゃんがどうなろうが――
お前の泊まる場所は、なくならねー」
言葉を切って、小さく息を吐いた。
「うちと、咲良んち。二軒あんだ。
婆ちゃんちも入れりゃ三軒か。
なんなら御珠だって泊めてくれるさ」
「……」
「まずは明日だ。話合うんだろ?」
「うん。そうだね……」
しばらく、心地よい沈黙が落ちた。
「……にしてもさぁ、御珠っち、かっこよかったなぁ。
『天皇か?大統領か?』って。ふふ、なにそれって感じなのに」
「言い返せねーんだよな、あれが」
「ね。……ウチも、あんなふうになりたいなぁ」
光莉の声が、とろとろと溶けていく。
「……つよくて……やさしい……」
「……なれるだろ、お前なら。
足払い、満点だって言ってただろ」
返事の代わりに、すうっと小さな寝息が聞こえてきた。
(……寝るの早えーよ)
再び、真っ暗な天井を見る。
(男は捕まった。母親は泣いた。明日は、母娘で話す)
(けど、それで終わりじゃねぇ)
(年明け、児相が来る。光莉の家がどうなるかは、まだ誰も知らねぇ)
暗闇の中で、目を細める。
(……あたしは忘れねーぞ)
(「たぶん気づいてた」って言った時の、光莉の顔)
(一晩の涙で流していい傷じゃねぇ)
(――ま)
寝返りを打って、布団をかぶり直す。
(信じるかどうかは、光莉が決める)
(住む場所も、ほんとは光莉が決めていいはずなんだ)
(あたしが決めるのは――)
隣から聞こえる、穏やかな寝息に耳を澄ませる。
(こいつの泊まる場所を、なくさねーこと。それだけだ)
(……明日は大晦日か)
(いい年、越させてやりてーな)
ゆっくりと目を閉じる。
暗闇の向こうで、しんしんと雪の降る気配がした。




