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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第3章
60/63

第5話 押せない指

12月30日、午前。


市民体育館のアリーナ入口は、底冷えする空気が漂っている。

きしきしと車輪を鳴らしながら、台車にマットを積んで体育館へ運ぶ。


「おっはよー!」

「おっすー」


光莉と、あたしの明るい声が体育館へ響いた。


「ひ、光莉さん!?」

「おお!復活でござるか!」


マットの端を持っていた湊が目を丸くし、久我が大げさに身を乗り出す。

その横から、咲良がにやにやと顔を出した。


「あれれー?おっかしいなー。

 『みんな、良いお年をー』じゃなかったっけー?」


「うぐっ」


図星を突かれた光莉が、言葉を詰まらせて視線を泳がせる。

そして、なぜかあたしの方を指差した。


「……さかもっちが寂しいからどうしてもって」

「は!?あたし!?」


(まぁ、寂しかったのは事実かもな)


口に出して認めるのは癪だけど、昨日の夜の鍋や、布団の中での会話が頭をよぎる。

あたしは小さく息を吐いて、顔を背けた。


「だな。来てくれてありがと」


「え!?」

「え!?」


光莉と咲良の声が見事にハモった。

体育館の床を擦るシューズの音が、キュッと鳴る。


「……なんか照れるじゃん」


頬を掻きながらモジモジする光莉。

そんなあたしたちを、咲良がジト目でじっくりと観察してくる。


見かねた雪杜が、苦笑交じりに割って入った。


「まあまあ。

 でも、来てくれてよかったよ。

 急に静かになっちゃってたからさ」


「えへへー。ウチがいないと締まらないでしょ」


「言うようになったな、おい」


(……顔色は、悪くない)

(昨日、うちでたらふく食って寝たからな)


昨日の泣き顔はすっかり鳴りを潜めている。

咲良がパンッと手を叩いて、空気を切り替えた。


「はいはーい、じゃあ再開!女子は護身術の続き!

 光莉ちゃん、昨日の練習の成果、見せてあげる」


「楽しみー」


―――


暖房の効かないアリーナの隅。

敷き詰めた柔道用マットの上で、咲良が手招きする。


「さぁ、かかってこい!」

「いくよー」


勢いよく光莉が咲良に飛び掛かる。

咲良は涼しい顔でその手を払いのけ、滑らかな動作で足をひっかけた。

ばしん、と重い音が響き、光莉がマットの上に転がる。


「やった!」

「咲良っち、すごーい!」


「受け身も取れてたな。よし」

「そこ褒めるとこ?」


仰向けのまま目を丸くする光莉を見下ろして、あたしは腕を組んだ。


(笑ってる)

(大丈夫そうだな、きょうのところは)


口元が少しだけ緩むのを、慌てて引き締める。


と、アリーナの反対側、男子グループの方から、ドス、と鈍い衝撃音が響いた。

視線を向けると、湊のミット打ちが、雪杜の構えたリュックミットに鋭く突き刺さっているところだった。


「田中氏、また鋭くなってるでござる……!」

「ほんと。タオル増量しないと……。リュックに穴空きそうだし」


雪杜が腕をさすりながら、リュックの表面を確認している。


(あたしの彼氏、強くなってんな)

(……ふふん)


誇らしい気持ちが胸の奥で膨らんで、あたしは誰にも見られないように、小さく息を吐き出した。


―――


休憩時間。

自販機が並ぶラウンジの丸テーブルに、あたしたち女子三人で腰を下ろした。

ガラス越しに見えるアリーナでは、男子たちが自主練を続けている。


「はー、疲れたー!やっぱ体動かすの最高だねー!」


いつもの調子で、光莉が大きく背伸びをする。

その明るい声に被せるように、咲良が低い声で切り出した。


「……さて、何があったか話してもらおうかな」


「……」

「……」


冷えた空気がテーブルに降りる。

光莉の伸びていた腕が、ゆっくりと下ろされた。


「華蓮ちゃん。昨日、光莉ちゃんのとこ行ったんだよね」

「……まぁな」


咲良のまっすぐな視線に、あたしは短く返す。


「で、今朝は一緒に体育館に来た」


咲良が事実を並べて畳みかけてくる。


「さかもっちと意気投合しちゃって、なんかお泊りすることになってね……」


引きつった笑いを浮かべる光莉。

しかし、咲良の表情は一切崩れない。


「……私さ、これでも一応、応援隊の隊長なんだよね。

 ほんとのこと話してくれないのは悲しいかな……」


(まぁこいつには隠しきれないか)


咲良の言葉には、確かな真剣さがこもっていた。

これ以上ごまかすのは逆効果だ。


「光莉……咲良は、口は堅い。信じていいぞ」

「……うん」


自販機で買った温かい缶ココアを、光莉は両手でぎゅっと包み込んだ。


「あのね。……ウチの家のことなんだけど」

「うん。聞くよ」


咲良が相槌を打つと、光莉はポツポツと話し始めた。


「ウチ、母子家庭でさ。お母さんが最近、彼氏をアパートに連れ込んでて。

 その男の目つきが……その、ウチを見る目が、やばくて。

 で、たぶんお母さんも、気づいてて……見て見ぬふりしてる」


「……」


光莉の言葉が落ちるたび、周囲の温度が下がっていくような錯覚を覚えた。

咲良は黙って聞いている。


「だから年末、ずっとお婆ちゃんの空き家に籠っててさー。

 でも、さかもっちに見つかっちゃって。

 いまは、さかもっち家に泊めてもらってるってわけ。えへへ」


努めて明るい声を作って笑う光莉に、あたしはたまらず口を挟んだ。


「えへへ、じゃねーだろ」

「だってさー、重く話したら重くなるじゃん」


無理して作ったような笑顔のまま、光莉は肩をすくめる。


「……」


(咲良、固まってんぞ)


テーブルの向かい側で、咲良がピクリとも動かなくなっていた。


「さ、咲良っち?」


不安げに覗き込む光莉の声で、ようやく咲良が瞬きをした。


「……ごめん。ちょっと、言葉が出なかった。

 光莉ちゃん、それ、笑い話じゃないよ。全然」


普段のからかうような態度は消え失せ、厳しいほどの真顔になっている。


「……うん。知ってる」


光莉の視線が、手元のココアへ落ちた。

咲良は自分の缶をテーブルに置き、まっすぐ光莉に向き直る。


「ねえ。うちにも泊まりに来て」

「え?」


「華蓮ちゃんちに、ずっとは気まずいでしょ。交代でいこ。

 うち、部屋余ってるし。お母さんには私から話すから」


矢継ぎ早に飛んできた提案に、光莉は目を丸くした。


「え、いや、でも……

 ウチと咲良っちって、まだ知り合って何回かしか会ったことないのに……」


「関係なくない?

 友達が困ってる。泊める。以上。なんかおかしい?」


咲良の迷いのない言葉が、静かなラウンジに響く。


「……」


光莉は俯いた。

ココアの缶を握る手に、ぎゅっと力がこもるのが見える。


「……なにそれぇ。

 こんな重い話聞いてさ。普通、めんどくさ、って引くでしょ……」


震える声がこぼれ落ちた。

咲良はふっと表情を和らげる。


「引かない友達がここにいるけど」

「ここにもいるぞ」


あたしもすかさず言葉を乗せた。


「〜〜っ、もー!」


光莉は乱暴に袖でぐしぐしと目元を拭った。

少し赤くなった目で、あたしたちを交互に見る。


「……ありがと。ほんとやばくなったら、頼らせてもらうかも。

 さかもっち家が、姉弟喧嘩で崩壊したときとか」


「うちを何だと思ってんだ」


いつも通りの軽口が戻ってきたことに、少しだけ肩の力が抜けた。


「ふふ。よし、じゃあ休憩終わり!後半戦!」


咲良が勢いよく立ち上がり、パンッと両手を打つ。


(……咲良のこういうとこ、強いよな)

(考えるより先に、手が出るっつーか)


アリーナへ向かって歩き出す咲良の背中を、あたしは眩しいものを見るような気持ちで追った。


―――


壁掛け時計の針が11時を指し、年内最後の練習が終わった。

アリーナの隅で、久我が大の字になって床に倒れ込んでいる。


「お……終わった……終わったでござるぁぁ……!」

「し、慎平くん、大丈夫……?」


荒い息を吐く久我を、湊がおろおろと覗き込む。


「9日……9日間でござるよ、田中氏……

 12月22日から、一日も欠かさず……拙者、サーキットを回し続けたでござる……」


「お疲れ様。

 御珠の地獄の筋トレから始まって、大変だったもんね」


雪杜が労いの言葉をかけると、久我はゾンビのようにがばっと上体を起こした。

そして、ジャージの裾をめくり上げる。


「見てくだされ、この腹筋!うっすら割れてきたでござる!

 拙者、覚醒の兆しでござるよ!」


(いや、9日で割れるわけあるか)


「ほんとだ、ちょっと割れてる!すごーい」


咲良が褒め讃える。


「ふふふ、もっと称えてよいでござるぞ」


(こいつもなんか目標あんだろうな)

(本人が割れてると思うのは自由だ)


得意げにふんぞり返る久我を見て、あたしは小さく息を吐いた。


咲良がパンッと柏手を打って、全員の視線を集める。


「はい、じゃあ年内の練習はこれにて終了!おつかれさまー!」


「「おつかれさまー」」


疲れた顔に、それぞれ安堵の色がにじむ。


「次は年明け、4日でござったな」

「お正月食べ過ぎないでねー」

「心得た」


―――


全員で協力してマットを片付け、ロビーへと向かう。

自動ドアを抜けようとしたその時、受付の奥から職員の声が飛んできた。


「あの、天野さん」

「えっ!?僕!?」


「ええ。天野 雪杜さん」

「な、なんでしょう……」


ビクッと肩を跳ねさせた雪杜が、恐る恐るカウンターに近づく。


「天野 御珠さんへ伝えてください。年が明けたら、出入り禁止は解除です」

「ほんとですか!?伝えます!ありがとうございます!」


(御珠、解禁か!)

(これで年明けから、別の技教えてもらえるかもな)


パッと雪杜の顔が明るくなり、あたしも心の中でガッツポーズを作った。

だが、職員の表情は厳しいままだ。


「ただし」

「……はい」


「試合は禁止です」

「……」


雪杜が押し黙る。

さらに職員の追撃は続いた。


「あと、ミット打ちも禁止します」

「え!」


横で聞いていた湊が、たまらず声を上げる。


「音の苦情が来ています。本格的にやるなら、ボクシングジム等をご利用ください」

「はい……」


(え、ジム!?あたしは金ないぞ!)


月謝なんて払えるわけがない。

焦るあたしの横で、咲良が一歩前に出た。


「あの、もしかして護身術も……」

「マットの使用は、ぎりぎり許可します」

「よかった」


「ただし、受け身は静かに行ってください」

「……」


(受け身って、静かにできるもんなのか?)


それはもう受け身じゃなくないか、というツッコミをなんとか喉の奥に飲み込む。

あたしたちの間に、休み明けからどうしよう、という動揺がさざ波のように広がった。

それを見て、職員が少しだけ声を和らげる。


「……皆さんが真面目に運動されているのは、分かっています。

 ここは、皆の施設ですので。……うまく、付き合ってください」


「……はい。ありがとうございます」


雪杜が深く頭を下げ、あたしたちもそれに倣った。

ロビーを離れ、出口へ向かう途中。


「とりあえず、よかったね、御珠ちゃん」

「……ん?」


隣を歩く咲良が、自分の胸元に向かって話しかけているのに気づいた。


「……おい。誰と話してんだ?」

「え?」


「……あ。ほら、あれだよ。念、送っといた」

「念て」


咲良は首から下げた勾玉を指先でつまんで見せる。


「この勾玉にね。話しかけると届くの。私の念、結構すごいんだから」

「そういうもんなのか?」


(……なんだそりゃ)

(通信機でも仕込んでんのか?)


訝しげに目を細めるあたしの横で、雪杜が愛想笑いを浮かべた。


「あはは……」


(笑ってごまかすなよ、雪杜まで)


釈然としないまま自動ドアを抜け、外に出る。

灰色の空から、ちらちらと冷たい小雪が舞い落ちていた。


「あのさ、さかもっち。

 今夜も泊めてもらうじゃん?で、その前に、一回うちのアパート寄りたいんだよね」


「アパート?」

「着替えとか、下着とか。さすがに借り物ばっかじゃ限界でさー」


マフラーに顔を埋めながら、光莉が上目遣いで言ってきた。


「……大丈夫なのかよ、それ」


「へーき、へーき。お母さん、昼はパートだし。

 あの男も、昼間は大体いないから。

 ささっと取って、ささっと出る」


(「大体」って何だよ、「大体」って)


嫌な予感しかしない。

あたしは即座に決断した。


「……付いてく」

「え、いいよー。荷物取るだけだって」

「付いてく。決定な」


「あ、じゃあ私も行くー」


咲良もすぐに手を挙げる。


「ええ?大袈裟だって、二人ともー」

「いいのいいの。散歩、散歩」


(咲良も同じこと考えてんな)


光莉を一人で行かせるわけにはいかない。

咲良と視線で合意を取る。


すると、後ろで聞いていた湊がおずおずと手を挙げた。


「あ、あの……僕も、行こうか?」


「ん。いや、いい。

 女子の荷物取りに行くだけだからよ。下着とかあるし」


「ぼぼ、僕、外で待って……や、やっぱりいいです」


(真っ赤になってやんの)


慌てて顔を覆う湊を見て、あたしは思わず口元を緩めた。

男子陣とはここでお別れだ。


「じゃ、僕らは先帰るね」


雪杜は去り際、咲良とじっと目を合わせた。


「――気をつけて」

「うん」


(ん?)

(……なんだ、今の間)


雪杜の言葉に、いつも以上の重みを感じた。

ただの荷物取りのはずなのに。


首を傾げるあたしの前で、久我が元気に手を振る。


「では拙者も御免!よいお年をでござるー!」


「……華蓮。何かあったら、連絡して」

「おう。サンキュな」


湊に短く返事をし、あたしたち三人は雪が舞う道を歩き出した。


―――


光莉の家は、二階建ての古いアパートだった。

錆びついた外階段には、うっすらと雪が積もっている。


「ここの二階だよー。……よし。

 二人はここで待ってて。5分で戻るから」


「おう。急がなくていいぞ」


見送ると、光莉はカンカンと音を立てて外階段を上がっていく。

二階の一番奥のドアに鍵を差し込み、中へ消えた。


(……ま、母親もいねーんだ。すぐ済むだろ)


吐く息を白くしながら待っていると、隣の咲良がのんきな声を出した。


「……華蓮ちゃんちってさ、お風呂広い?」

「は?普通だけど」

「じゃあ光莉ちゃん、うち来たら喜ぶかなー。うち、追い焚きが――」


――ブブッ。


咲良の言葉を遮るように、彼女のポケットでスマホが震えた。


「ん」


咲良がポケットからスマホを取り出し、画面を見る。


「……っ」

「?どうした」


顔を上げた咲良を見て、あたしは息を呑んだ。

さっきまでの緩んだ表情が消え失せ、さあっと血の気が引いている。


「華蓮ちゃん。

 逃げる準備、して」


「は?」

「いいから。走れるようにしといて」


(何言って――)

(つーか、なんだよその顔)


ただごとじゃない。

全身の筋肉が強張った、その瞬間。


――ドガッ!!


二階から、壁が震えるほどの轟音が響き渡った。

何かが倒れたような、重くて暴力的な音。


「っ!?」


バンッ、と弾け飛ぶようにドアが開く。

中から飛び出してきたのは、着替えも持たない光莉だった。


「逃げて!!」


靴も履かず、靴下のまま外階段を駆け下りてくる。

その背後の暗がりから、腹の底に響くような男の怒鳴り声が追ってきた。


「――待てコラァ!!」

「走れ!!」


あたしは光莉の腕を掴み、咲良と共に雪道を蹴った。

背後で、再びドアが乱暴に跳ね開く音がする。


「てめぇ!!待てっつってんだろうが!!」


「なんなのあれ!!」

「クソ男!!」


振り返る余裕なんてない。

背後から、階段をドスドスと下りてくる乱暴な足音が迫る。


(追ってきてる!大人の男の足――)

(撒けるか?いや――)


「交番!三丁目の!」

「りょーかい!」


雪の積もり始めた道を、無我夢中で全力疾走する。


息が白い。

冷たい空気が流れ込み、肺が焼けちぎれるように痛い。


(なんで咲良、先に分かった?)

(スマホ見た瞬間、顔変わって――)

(――いや、後だ!考えるのは後!)


―――


三丁目の交番。

勢いよくガラス戸を開けて飛び込むと、奥で書類を見ていた若い警察官がガタッと立ち上がった。


「どうした!」


鋭い声に、隣で息を切らしていた光莉が泣きそうな顔で縋りつく。


「お、追われてて……男の人に……」


「こいつの家に、男が。襲われかけたんです」


光莉の震える背中を庇うように、あたしも必死に声を張り上げた。

若い警察官の顔つきが、スッと険しいものに変わる。


「落ち着いて。中へ。……おい、応援」


奥にいたもう一人の警察官が、素早く無線機を手に取る。


(はあっ、はあっ……)

(心臓、痛え……)


光莉は、ストーブの前に置かれた丸椅子に座らされている。

その肩は、まだ小刻みに上下していた。

そこへ。


「あーっ、いたいた」


入口の引き戸が開いた。

そこに、あの男が立っていた。

にこにこと、薄気味悪く笑いながら。


「もー、探したよ光莉ちゃん。急に飛び出すから」


(……こいつ)

(さっきまで「待てコラ」つってた口で――)


「あなたは?」


警察官が鋭い視線を向ける。


「あ、どうもすいませんねぇ、お騒がせして。

 いやー、お恥ずかしい。ただの親子喧嘩ですよ、親子喧嘩」


「親子?」


「この子の母親と、お付き合いさせてもらってて。一緒に住んでるんです」


男はヘラヘラした態度のまま続ける。


「まあ、父親みたいなもんですよ。反抗期でねえ、この子」


(……ふざけんな)


男の言葉に、光莉の肩がびくっと跳ねた。


「ほら光莉ちゃん、帰ろう。お母さん心配するよ?」


男が一歩、光莉に近づく。


「――そこまで。離れて」


警察官がすかさず、男と光莉の間に割って入った。


「ええ?いや、家族の話ですよ?

 なんだったら母親に電話してくださいよ。俺がこの子の面倒見てるって言いますから」


「……」


(警官、迷ってるな)

(そりゃそうだ。片方は「襲われた」、片方は「親子喧嘩」)

(証拠、なんも――)


ふと、光莉を見る。

光莉が、自分のスマホを両手で強く握りしめていた。


光る画面に指を伸ばして――止まっている。

その指先が、小刻みに震えていた。


(……光莉?)


覗き込むと、画面が見えた。

ボイスメモ。再生ボタン。


(――録ってたのか)


光莉の指が、ボタンの上で震え続けている。

押せない。


「光莉ちゃーん。ね、帰ろ?」

「……っ」


あたしは、光莉の隣に膝をついた。

震える手に、そっと自分の手を重ねる。


「……光莉。

 大丈夫だ。あたしがいる」


「……さかもっち」


「勇気、出せ」


光莉が、ぎゅっと目をつぶる。

息を、ひとつ。


――ぽち。


『お、あいつがいない時に帰ってくるとかラッキー』


男のゲスな声が響き、交番の空気が一瞬で固まった。


『ウチ、着替え取ったらすぐ出ていくから』

『まあまあ、そう急ぐなよ。なあ光莉ちゃん、母さんには黙っててやるからさぁ』


『……何の話』

『分かるだろ?服なんか後でいいから、こっち来いって』


スピーカー越しの声に、男の顔から笑みが消える。


『っ、来ないで――』


ガタッ、という椅子の倒れる音。

揉み合うような衣擦れが流れる。


『おら、おとなしく――うおっ!?』


――ドガッ!!


さっき外で聞いたのと、同じ轟音。

何かが倒れる音。

そして、慌ただしく走り去る足音。


『いっ……てぇ……このガキ……待てコラァ!!』


プツリと、再生が終わる。


「……な、なんだこれ!?」


男が、引きつった声を漏らした。


「……」


沈黙する警察官に、男がさらに声を荒らげる。


「お、俺じゃない!合成だ、そんなの!今どき簡単に作れるでしょ!

 大体こいつが先に手ぇ出したんですよ!

 俺、突き飛ばされて!被害者ですよ俺は!」


(――言った)

(今、自分で「突き飛ばされた」っつった)

(合成の音声に、なんでお前が突き飛ばされてんだよ)


男の墓穴に、警察官の目がスッと冷たくなった。


「……ふうん。突き飛ばされた。

 合成の録音で?」


「……あ」


「詳しい話を、署で聞こうか」


青ざめる男をよそに、警察官が手で制する。


「ちょ、ちょっと待って、違うんですって、これは――」


表にパトカーが数台停まる音がした。

応援にきた警察官たちが次々と入ってきて、男を両脇から挟むように立つ。


「離せ!おい!俺は何もしてない!」


喚く男が、そのまま引きずられるようにパトカーに押し込まれていく。


(……ざまーみろ)


別のパトカーから、女性の警察官が降りてきた。

まっすぐ交番に入ってくると、光莉の前に目線を合わせてしゃがみ込む。


「光莉ちゃん、だね。よく頑張ったね。

 詳しくお話を聞きたいから、一緒に署まで来てもらえるかな。お母さんにも連絡するから」


「……はい」


「それと、後日、児童相談所の人からもお話があると思う。怖いことじゃないからね」

「……はい」


(児童相談所……)

(そうか。そういう話に、なるのか)


あたしたちの手の届かない場所へ、光莉が連れて行かれてしまう感覚。

女性警察官が、立ち上がってあたしたちを振り返った。


「君たちは、お友達?」

「はい。一緒にいました」


隣に立つ咲良が、迷いなくはっきりと答える。


「名前と連絡先だけもらえるかな。……うん、ありがとう。きょうはもう帰っていいよ」


手帳にメモを取り終えた女性警察官の言葉に、あたしは思わず声を漏らした。


「え、光莉は?あたしら、待ってちゃ――」


身を乗り出して食い下がるあたしを、大人の落ち着いた声が制止する。


「時間かかるからね。付き添いはお母さんが来るから、大丈夫」

「……」


正論で遮られ、それ以上言葉が出なかった。

促されるまま、光莉がパトカーの後部座席に乗せられる。


窓が少しだけ開き、光莉がこっちを見て、小さく手を振った。

無理やり作った、いつものような笑顔で。


(……あの顔、やめろって)


赤いランプを回しながら、パトカーが雪の街へと走り去っていく。


「……なんだよ。

 ここから先は大人の話、ってか」


「……華蓮ちゃん」


「分かってる。分かってるけどよ」


空を見上げると、雪がさっきよりも少しだけ強くなっていた。


(……ここから先、あたしに何ができる)

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