第4話 ひかりのいる場所
12月29日、午前。
市民体育館。
台車に柔道用マットを積んで、アリーナへ運ぶ。
(昨日より、さらに人手が減ったな)
「本日は五人でござるか……」
周りを見渡しながら、久我がぽつりとこぼす。
「なんか、ちょっと静かだね」
それに同意するように雪杜が呟くと、咲良が苦笑交じりに肩をすくめた。
「ムナっちと光莉ちゃん、二人で声のボリューム八割だったからね」
「あはは……」
曖昧に笑う湊の横顔を見つめながら、あたしは小さく息を吐いた。
(笑えねーんだよな、それ)
アリーナの隅にマットを敷いていく。
広い体育館に、五人分の足音だけが響く。
(ちょっと前まで、御珠がいて、30人くらいで大騒ぎしてたのにな)
「はいはーい、湿っぽいのなし!」
パンパン、と咲良が手を叩いて空気を切り裂く。
「男子はサーキットとミット!女子は受け身の続き!」
「う、うむ!拙者、本日も覚醒するでござる!」
「ぼ、僕も頑張る」
「じゃ、始めよっか」
男子たちが少し離れた場所へ移動していくのを見送ってから、あたしたちもマットへ上がった。
ばしん、と咲良が綺麗な受け身を取る。
「お、いいじゃん。顎も引けてる」
「ふふん。昨日の今日で上達してるでしょ」
「じゃ、次は足払いな。光莉があたしにやったみたいに、手を払って――」
言いかけて、口が止まる。
(……光莉、か)
「……華蓮ちゃん?」
「あ、わりぃ。えっと、手を払って、軸足のくるぶし狙って――」
ごまかすように手振りを交えたけれど、咲良はマットの上に正座して、こちらをじっと見上げていた。
「ね。光莉ちゃんのこと、考えてたでしょ」
「う」
(顔に出てたか)
視線を逸らして、首の後ろを掻く。
「……あいつ、心配だな。
昨日の帰り、『よいお年をー』って、変に元気でよ」
「うん……私も気になってた」
咲良が膝の上で両手を組む。
「電話でもしてみる?」
「いや……」
(電話じゃ、あいつ絶対『元気だよー』で終わらせる)
脳裏に浮かぶのは、あの空き家。
石油ファンの熱気と、婆ちゃんの家のにおい。
「居場所に心当たりがあるから、行ってみるわ」
「え、ほんと?一緒に行く?」
「――いや。
あたしにだけ教えてくれた場所だから。まずは一人で行ってみるよ」
咲良は少し俯き、体育館の冷たい床に視線を落とした。
それから、ゆっくり頷いた。
「そう……わかった。
なんかできることあったら、言ってね。すぐ動くから」
「おう。頼りにしてる」
隣の男子チームから、ドス、と重いミットの音が響く。
「ナイス。今の良かったよ」
「ほ、ほんと?」
雪杜に褒められて照れている湊の声を聞いて、あたしは軽く頬を叩いた。
(……よし)
(午前中はちゃんと稽古。それからだ)
「ほら咲良、続きやんぞ。かかってこい」
「昨日の光莉ちゃんみたいなこと言う……」
―――
11時。稽古終了。
マットを片付け、あたしたちはロビーに集合した。
「では、また明日でござる」
「お疲れ様でしたー」
「ばいばーい」
久我、雪杜、咲良が出口へ向かって歩き出す。
去り際、咲良がこちらを振り返り、小さく『お願いね』の口の形を作った。
あたしは黙って頷き返す。
自動ドアの向こうへ三人が消え、ロビーには湊と二人きりになった。
「……あー、湊。わりぃ」
「ん?」
首を傾げる湊に向かって、あたしは申し訳なさを滲ませながら切り出した。
「きょうの午後、用事できた」
「えー」
唇を尖らせて、湊がリュックの肩紐をきゅっと握りしめる。
「せっかく着替え持ってきたのに」
(う)
(そうだよな。昨日「明日は着替え持ってくるね」って言ってたもんな)
ちくりと、胸の奥に罪悪感が刺さる。
(今度こそシャワー浴びる気満々だったやつ……)
「すまん。また今度。
今度な。絶対」
「……うん」
湊が不安そうに、こちらの顔を覗き込んでくる。
「なんか、大事な用事?」
「ん。まあ……ちょっとな」
「そっか。
じゃあ、引き止めない。気をつけてね」
微笑む湊の顔を見て、あたしは小さく息を吐き出した。
(察しがいいんだよな、こいつは)
(聞かないでいてくれるとこも、ずるい)
「おう。じゃ、また明日」
「うん。また明日」
体育館の外に出て、駅の方へ向かう湊の背中を見送る。
見えなくなってから、あたしは反対方向へ歩き出した。
(……さて)
見上げる冬の空は、重たい鈍色の雲に覆われている。
あたしは昨日、光莉が消えていった住宅街の角を曲がった。
―――
住宅街のはずれ。
記憶を頼りに歩く。
(確か、この角……で、この細い道)
(あった)
古い平屋。
光莉の、婆ちゃんの家。
庭先まで来ると、中からくぐもった音が聞こえる。
(……掃除機?)
(いるな。掃除してるっぽいな)
引き戸が半分ほど開いていて、覗こうと思えば中が見える。
(一応インターフォン押しとくか)
インターフォンを押す。
反応がない。
鳴らない。
(壊れてんのか?)
もう一度押す。
無音。
掃除機の音だけが、ずっと続いている。
(これ換気してんのか?)
(……不用心だな)
「……おじゃましまーす」
がらり、と開けて中へ入る。
灯油のにおい。古い畳のにおい。
廊下の先、居間で光莉が掃除機をかけている。
昨日と同じジャージ姿だ。
「おーい」
光莉がびくっと肩を跳ねさせて振り返る。
手元のスイッチを切り、急に家の中が静かになった。
その顔を見て――
(――は?)
目が真っ赤に腫れている。
頬に、乾いた涙のあとが幾筋も走っている。
なのに。
「あれ?さかもっち、どうしたの?」
いつもの声で、へらっと笑った。
「……お前が心配で来たんだよ」
「えー、なにそれ。さかもっちやさしー」
ふざけた調子で笑う光莉を見て、あたしは奥歯を噛み締めた。
(……なんだよ、これ)
「なあ。お前、いつからここにいんだ」
「え、なに?今朝からだよ?」
わざとらしく首を傾げる光莉の足元に視線を落とす。
「昨日と同じ服だろ」
「そんなー、ジャージとか毎日着るもんじゃん」
光莉は笑みを崩さず、掃除機のハンドルを握り直した。
(嘘つけ)
(泊まったんだろ、ここに)
冷え切った家の中。
一人きりで、どうして。
(それより――)
「じゃぁ……じゃぁなんで、お前、そんな顔してんだよ!」
「ええ?そんな顔って、どんな……」
光莉は不思議そうに首をかしげた。
その目から、涙がひとすじ、こぼれ落ちた。
本人は、気づかないふり。
そのまま掃除機のスイッチを入れる。
ごおお、とモーター音が部屋を満たした。
泣きながら、掃除機をかけ続ける。
「お前、なんで……なんで!」
靴を蹴り脱いで、冷たい廊下を駆ける。
モーター音を響かせる掃除機ごと、あたしは光莉をきつく抱きしめた。
「どうしたっていうんだよ!何があったんだよ!」
光莉の手から、ハンドルが滑り落ちる。
本体が畳の上で唸り続けている。
「ウチ……」
光莉の膝から、すっと力が抜けていく。
あたしも一緒に、古い畳の上にへたり込んだ。
「華蓮……華蓮ぅ……」
(「華蓮」って……お前、初めて呼んだな、それ)
光莉はあたしの服にしがみついて、声を上げて泣き出した。
子供みたいな、しゃくり上げるような泣き方だった。
「おう。おう、いいから。
誰も見てねーから。全部出せ」
足を伸ばして、掃除機のスイッチを爪先で切る。
静かになった家に、光莉の泣き声だけが響く。
(背中、ちっちぇーな……)
(昨日まで、こんなの一人で抱えて笑ってたのかよ)
―――
しばらくして。
ファンヒーターの前に二人で並んで座る。
光莉の目は真っ赤なままだが、呼吸は落ち着いていた。
「……ごめんね、さかもっち」
(……もう「さかもっち」に戻ってやがる)
「謝んな。で……話せるか?」
「ん……」
光莉はファンヒーターの緑のランプを見つめたまま、ぽつぽつと話し出す。
「……ウチんちさ。お母さんと、二人なんだ。
母子家庭ってやつ」
(……初めて聞いた)
(前に「あんま仲良くない」とは言ってたけど……そういうことか)
小さく頷いて、先を促す。
「……そっか」
「お父さんは、ウチが小さい頃に離婚して、いない。
で……いま、そのアパートに、お母さんが連れ込んだ男がいるんだ」
「男」
「うん。ずっといる。年末だから、仕事もないみたいで。
だから、帰りづらくてさ」
光莉はきゅっと自分の膝を抱え込んだ。
「……その男の目が、怖いの。
ウチのこと、じーっと見るんだ。値踏みするみたいに」
背筋がぞっと冷たくなる。
(――おい)
「……昨日は」
恐る恐る聞いてみる。
「ここに泊まった」
「……」
沈黙を打ち破るように、光莉が声を上げた。
「あはは。バレちゃったね、同じ服」
力なく笑って、色褪せた部屋を見回す。
「でもね。もうすぐここも、住めなくなるんだ」
「なんで」
「雪積もって、埋まっちゃうから」
「……そっか」
「だからこの時期は、いつも大掃除して、雪が溶けるまでは放置なの。
毎年やってる。婆ちゃんちの、冬支度」
光莉はゆっくりと天井を見上げる。
「きっといつか、雪で潰れちゃうんだろうな……
ウチじゃ、屋根の雪下ろしとか無理だし。
そしたら、この家、どうなるんだろ」
(家の心配してる場合かよ、お前は)
光莉の肩を掴んで、顔をこちらに向けさせる。
「――それより、今だろ」
「え」
「お母さんの男の、目が怖いって……そっちだろ、今やばいのは」
「……うん」
光莉は膝を抱えたまま、小さな声で続けた。
「二人きりになったら、やばいかも」
「マジか……。お母さんに言えば」
「たぶん、お母さんも分かってる」
「え」
(分かってるって)
(娘を売ろうとしてるってのか!?実の母親が!?)
信じられない思いで、光莉を見る。
「じゃ、じゃぁ、お前……」
「うん。きょうも、ここに泊まる」
光莉が部屋の隅を指さす。
そこには畳まれた布団と、パンパンに膨らんだスクールバッグがあった。
「そんな……いつまで……」
「わかんない。できる所まで、かな」
光莉はまた、へらっと笑う。
「大丈夫だよ。電気もあるし。水も出るし。でっかい灯油タンクあるから、風呂だって沸かせるんだよ」
(くっそ……!)
(だとしても許されるわけないだろ!)
(16の女子が、誰もいねー空き家で、雪に埋まるまで一人って……)
あたしは勢いよく立ち上がった。
「――うち来いよ」
「……え?」
「うち来い。布団くらいある」
「え、でも、さかもっちんち、家族……」
「うちの家族は緩い。昨日、湊で実証済みだ」
「や、それとこれとは……迷惑、じゃん……」
「迷惑かどうかは、うちの母さんが決める。お前じゃねー」
「うぅ……」
光莉が言い返せずに唸った、その時。
ぐぅぅ、と。
盛大に腹の音が鳴った。
――あたしのだ。
「……ぷ」
「わ、笑うな!」
(そういや、昼食ってねぇ)
(稽古終わりで、そのまま来ちまったからな……)
「あはは……ごめんね、ウチのせいで昼抜きじゃん」
「お前のせいじゃねーよ。あたしが勝手に来たんだ」
光莉はよいしょ、と立ち上がる。
「カップラーメンでも食べる?お湯ならすぐ沸くよ」
「……ん。もらう」
光莉が押し入れの襖を開ける。
段ボール箱の中に、カップ麺の買い置きがぎっしり詰まっているのが見えた。
(……)
(こいつ、マジで籠るつもりだったんだな。ここに)
「随分と備蓄してんな」
「ふっふー。特売で買ったんだー」
(自慢げに言うことかよ……)
台所へ移動し、カセットコンロにヤカンを載せて湯を沸かす。
「ガスはないから、これなんだ」
しゅんしゅんと鳴るヤカンから、二人分のカップ麺にお湯を注ぐ。
光莉が蓋の上に割り箸を乗せた。
「三分待ちねー」
ファンヒーターの前に戻り、並んで座る。
「……なんかさ。ラーメン、多いね、ウチら」
「あ?」
「ほら、前ここ来た時も、とんこつ食べた後だったじゃん」
「あー」
(クリスマスの日か。ムナっちの相談された時な)
「今度は替え玉、我慢しなくていいやつ食べよーね」
「カップ麺に替え玉はねーだろ」
「あはは」
三分経って、蓋を剥がす。
湯気と共に、安っぽくて旨そうな匂いが立ち上った。
「「いただきます」」
ずず、と二人ですする。
「……うめー」
「うまいねぇ」
古い家に、麺をすする音だけが響く。
窓の外には、もう昼を過ぎた冬の光が差し込んでいた。
光莉がふと箸を止めて、おずおずと切り出した。
「……ねぇ。何泊くらいしていいの?」
「……好きなだけ」
「ほんとに?」
「ああ」
ほんとにずっといられたら、いつか大変なことになる。
親のこととか、学校のこととか。
そんなことは分かっている。
「少なくとも冬休みの間はずっといていいぞ」
「ありがと……」
光莉の目から、また涙が落ちた。
再び麺を啜る音が響く。
あたしたちは汁まで飲み干して、手を合わせた。
「ごちそーさん」
「おそまつでしたー」
光莉が空になったカップを重ねる。
「ね、掃除、もう少しだからしちゃっていい?」
「ああ。あたしも手伝うよ」
「ありがとう!」
光莉が掃除機の続きを、あたしは雑巾で拭き掃除を担当する。
言われた通り、棚と、窓のサッシと、仏間の敷居を拭いていく。
(……ほんとに隅々までやるんだな)
(毎年こうやって、一人でやってたのか)
「あ、そこの写真立ても、そーっとお願い」
「ん」
棚の写真立てを持ち上げて、下を拭く。
ガラスの向こうでは、畑を背景に、婆ちゃんと、泥だらけのちっちゃい光莉が笑っていた。
(……この写真か)
(ほんとに、優しそうな顔してんな)
そっと、元の位置に戻す。
角度まで、さっきと同じになるように。
やがて、掃除機の音が止まった。
「……よし、こんなもんかな」
光莉が部屋の真ん中で腰に手を当てて、ぐるりと見回す。
「はい、これにて冬支度、完了でーす」
「お疲れさん」
「二人だと早いねぇ。いつも丸1日かかるのに」
「毎年一人でやってたのかよ」
「うん。……ま、今年は途中で泣いてたから、余計進んでなかったけど」
「……自分で言うな、そういうの」
「あはは」
雑巾を綺麗に洗って干してから、あたしはリュックを背負った。
「よし。じゃ、行くぞ」
部屋の隅の、パンパンのスクールバッグを顎で指す。
「ほら。荷物これだけか?」
「あ、うん」
「ファンヒーター消せ。火の始末だけはちゃんとしろ」
「……うん」
光莉がファンヒーターの電源を切る。
温風が止まって、部屋の空気が少しずつ冷え始めた。
光莉はもう一度、部屋をぐるりと見回す。
「……お婆ちゃん。また来るね」
小さく、そう言った。
それから、こっちを向いて、ちょっと笑う。
「っさ、行こっか」
「……おう。
……また来ような。雪、溶けたら」
「うん」
玄関を出て、光莉が念入りに鍵をかける。
ガチャリ、という金属音が、静かな冬の路地に響いた。
―――
夕方。あたしの家。
玄関のドアを開けて、見慣れた上がり框をまたぐ。
「ただいまー」
「お、おじゃましまぁす……」
背後で光莉が、借りてきた猫のように縮こまっている。
(お前も緊張すんのかよ)
物音に気づいて、台所から母さんが顔を出した。
あたしは肩越しに親指で後ろを指す。
「母さん。こいつ、光莉。クラスの友達」
「も、桃瀬 光莉です!いつもさかもっ……華蓮さんにお世話になってて……!」
ガチガチに強張った声で頭を下げる光莉を見て、思わず呆れそうになる。
(「華蓮さん」て。無理すんな)
「あら。彼氏の次はお友達?」
からかうような母さんの言葉に、あたしは首を振って、真顔を作った。
「ああ。――で、さ。
こいつ、家に居づらい事情があるんだ。
しばらく、うちに泊めてやりたい」
母さんの口元から、からかいの笑みがすっと消える。
(……茶化して済む話じゃねーの、伝わったか)
母さんは無言のまま、光莉の顔をじっと見た。
泣いたあとの残る目元。
パンパンに膨らんだバッグ。
そして、隣に立つあたしにも分かる、かすかにこもったような灯油と汗の臭い。
「……そう」
それだけ言って、母さんはくるりと背を向け、台所へ戻っていった。
水道の蛇口を捻る音が聞こえてくる。
「光莉ちゃん、鍋、嫌いなものある?」
「え……あ、な、ないです」
戸惑う光莉を置いてけぼりにするように、台所から淡々とした声が響く。
「そう。じゃあ今夜はお鍋ね。
華蓮、客間に布団出しといて」
「――いや、あたしの部屋に敷くわ」
「あら、そう」
包丁がまな板を叩くトントンという音が、心地よく響き始めた。
「え、いいの?」
「文句あんのか」
「……ないでーす」
(一人で寝かせたら、また余計なこと考えるだろ、こいつ)
光莉は靴も脱げないまま、玄関に立ち尽くしていた。
信じられないものを見るように、台所とあたしを交互に見比べる。
「……え、それだけ?」
「それだけだ」
「なんも、聞かないの……?」
「言ったろ。うちの家族は緩いんだよ」
鼻で笑って答えると、再び台所の方から声が飛んできた。
「先にお風呂入ったらどう?
その下着も洗っておいてあげるわよ」
「え……」
光莉が、はっと息を呑んで口元を押さえる。
目の縁にじわりと涙が盛り上がって――ぐっと、喉の奥で飲み込んだのがわかった。
「……おねがい、します……」
光莉の絞り出すような声が震えている。
あたしは小さく息を吐いた。
(……うちのかーちゃん、あったけーだろ)
自慢の母だ。
誇らしい気持ちが、胸の奥を満たしていく。
「ほら、上がれよ。寒いだろ」
光莉はこくんと頷いて、そっと靴を脱いだ。
―――
風呂上り。居間。
光莉は借りたスウェット姿で、ちんまりと座布団の上に正座している。
食卓の真ん中で、土鍋が白い湯気を立てていた。
仕事から帰った親父が、上座であぐらをかきながら口を開く。
「……で、その子が光莉ちゃんか」
「も、桃瀬 光莉です!お、おじゃましてます!」
「ん。ゆっくりしてきな」
それだけ言って、親父はテレビのリモコンに手を伸ばし――少し動きを止めてから、電源を切った。
黒くなった画面を見て、あたしは瞬きをする。
(あ。親父がテレビ消した)
(野球ニュースの時間なのに。珍しー)
茶碗に手を伸ばした隆が、ため息まじりに口を挟む。
「……で、姉ちゃん。今度は女連れかよ」
「うるせー。黙って食え」
隆の頭を軽く小突くと、光莉が愛想笑いを浮かべた。
「弟くんだ。よろしくね」
「どうも……」
隆が何か言いかけて――光莉のかすかに赤い目元と、あたしの顔を交互に見比べ、静かに口を閉じた。
それ以上何も聞かずに、自分の皿へ白菜を取る。
(お前も、たまには空気読めるんだな)
「はい、光莉ちゃん。取り皿」
「あ、ありがとうございます……」
母さんが、光莉の皿に豆腐と鶏肉と春菊を手際よくよそっていく。
「熱いから、ゆっくりね」
「はい……いただきます」
光莉はふーふーと息を吹きかけて冷まし、そっと口へ運んだ。
「……ん。
おいしい……」
目を細める光莉に、母さんが微笑みかける。
「お鍋はね、人数多いほうがおいしいのよ」
「ん。今日のは、いい味だ」
「鶏肉うめー」
「お前、肉ばっか取んな」
隆の箸をお玉で弾き飛ばしていると、ふと、湯気の向こうで光莉が動きを止めているのに気づいた。
「……あった、かい」
ぽろ、と涙が落ちる。
一粒。また一粒。取り皿の中へ。
「あったかいよぅ……」
(――光莉)
誰も、何も言わない。
母さんは黙ってコンロの火を少し弱め、隆は黙ってポン酢の瓶を光莉の前に滑らせた。
親父は無言のまま、光莉の皿に葛切りを足してやる。
「……おかわり、たくさんあるからね」
「ん。遠慮するな」
光莉は涙をぬぐいもせずに、こくこくと頷いた。
「……はい。
いっぱい、食べます……」
あたしはお玉で、光莉の皿に鶏肉を足してやる。
「ほら。冷めるぞ」
「……うん」
(泣いてるのは、鍋が熱いから。そういうことにしといてやる)
窓の外は、凍えるような冬の夜。
あたたかな湯気の中で、光莉がまた一口、鍋をすする。
(ゆっくり食え)
(ここは、あったけーぞ)
―――
夜。あたしの部屋。
ベッドの横に、光莉の布団を敷いた。
「なんか、修学旅行みたーい」
「昨日とかよく眠れてないんじゃないか?疲れてるだろ。さっさと寝るぞ」
「うん……」
電気の紐を引いて明かりを消す。
部屋の中が、常夜灯のオレンジ色の薄闇に包まれた。
「……ねぇ、さかもっち。起きてる?」
「……なんだよ」
「今日は、ありがとね」
「気にすんな」
隣で、光莉が布団の中でもぞもぞと寝返りを打つ音がした。
「ふふ。
ね、ね。修学旅行っぽく、恋バナしよ」
「二人しかいねー修学旅行があるかよ。
いいから寝ろよ」
寝袋のように布団を被った光莉の方へ顔を向ける。
「えー。じゃあウチから質問ね」
「おい。話聞いてるか」
「――湊っちとは、どこまでいったの?」
「ぶっ」
顔が一気に熱くなるのを感じて、慌てて口元を布団で覆った。
(き、昨日の寝込みキスのこと、思い出しちまっただろうが……!)
「……え、なにその反応。え、なんかあったの?」
「ねーよ!なんもねー!」
「ふーん?暗くてよかったねぇ、さかもっち。顔見えなくて」
「〜〜っ、寝ろ!」
布団を頭まで引っかぶると、隣から楽しそうな声が響く。
「あはは」
光莉の笑い声が、少しずつ静かになっていく。
時計の針が進む音だけが、部屋に響き始めた。
「……ねぇ。
ウチね、ほんとは、わかってるんだ」
「……なにが」
「ムナっちのこと」
仰向けのまま、天井の染みを見つめる。
「ムナっち、御珠っちのことが好きなんだよ、きっと」
(……そう、なのか?あいつが?)
(御珠と闘いたいだけの脳筋にしか見えねーけど……確証もねーしな)
「……まだ、決まったわけじゃねーだろ」
「いーの、いーの。
ウチ、自分からは告白しないって決めてるから。
……振られるの、もうやだし」
(中学で何があったんだよ)
重い言葉に、胸の奥がチクリと痛む。
(こいつの傷、思ったより深いとこにあるんだよな)
「……そっか」
(頑張れとか、当たって砕けろとか)
(そういうの、いま言う言葉じゃねーよな)
再び、音もしない静けさが部屋を満たす。
どれくらいそうしていただろうか。
「……ねぇ。さかもっちはさ。
家の畑、手伝って、って言ったら……手伝ってくれる?」
(婆ちゃんの畑、か)
「……手伝うに決まってるだろ」
布団の中で小さく身じろぎする。
「そっか。ありがと」
隣の布団から、小さく鼻を啜る音が聞こえてきた。
「……あたしだけじゃねぇ。御珠だって、湊だって、それこそムナっちだって、手伝うに決まってんだろ。
ムナっちが誰を好きかは関係ねぇ。あいつは誰にだって、困ってたら手を差し伸べる」
「うん……だから好き」
(……)
ため息を飲み込んで、目を閉じる。
(重症だな、こりゃ)
「……でもさ。
今日、来てくれて、うれしかった。
玄関でさかもっちの声した時ね」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉は、夜の空気に溶けていく。
「お婆ちゃんが連れてきてくれたのかなって、ちょっと思った」
「……そう、かもな」
「ふふ。なにそれ、肯定するんだ」
照れ隠しに寝返りを打ち、背中を向ける。
「うるせー」
光莉が、ふぁ、と小さくあくびをする気配がした。
「ほら、もう寝ろ。……明日、稽古来るか?」
「んー……考えとく……」
とろとろと溶けていくような、微睡みの中の声。
「……ね、華蓮」
「ん?」
「……おやすみ」
「……おう。おやすみ」
すぐに、スースーという小さな寝息が聞こえてきた。
(……また「華蓮」って呼んだな)
(寝る時だけは、素になるのかよ。……ま、いいけど)
ゆっくりと天井を見上げる。
(家の問題は、なんも解決してねー)
(母親の男のことも、婆ちゃんの家のことも)
(あたし一人じゃ、どうにもなんねーことばっかだ)
(……あたしにできるのは、この場所を提供するくらいだ)
隣の寝息は、規則正しく続いている。
(……きょうのところは、これでいい)
(ゆっくり寝ろ、光莉)
常夜灯のオレンジが、ひどく眩しく感じられた。
あたしはそっと起き上がると常夜灯も消して、真っ暗になった中で静かに目を閉じた。




