第8話 鍋いっぱいのけの汁
電話が終わった後もあたしは部屋のベッドでゴロゴロしながら、スマホをいじっていた。
窓の外で、車が停まる低いエンジン音が聞こえた。
続いて、玄関の重い戸がガラガラと開く音。
『あー!兄ちゃん帰ってきた!』
階下から隆の馬鹿でかい声が響く。
(お)
あたしはスマホを放り出し、急いで部屋を出て階段を下りた。
玄関では、兄の渉が肩に積もった雪をバサバサと払っていた。
足元には見慣れた大きなボストンバッグが転がっている。
「おー、ただいま」
「おかえり。……遅かったな」
あたしが声をかけると、渉は冷え切った手をこすり合わせた。
「高速、途中から地吹雪でよ。ノロノロ運転。
途中で諦めて下道いったわ」
奥から顔を出した母さんと親父が、ほっとしたように息を吐く。
「まあ、大変。早く上がってちょうだい」
「無事に着いたならいい」
「兄ちゃん、土産は!?」
「お前はそれかよ」
呆れながらも、渉は提げていた紙袋を隆の胸に押しつけた。
「ほら。菓子」
「よっしゃ」
中身を覗き込んで喜ぶ弟から視線を外し、渉があたしを見て目を丸くする。
「華蓮。おめー、なんか背ぇ伸びたか?」
「伸びてねーよ。成長期終わってるぞ」
「そうか? ……つーか、なんかかわいくなった?」
「う、うるさい!」
突然の指摘に声がひっくり返ったあたしの横から、隆がニヤニヤしながら口を挟んだ。
「こいつ、彼氏できたんだって」
「あー、なるほど」
「うっせ!うっせ!そっこーバラすな!」
「よかったな」
渉の大きな手が伸びてきて、あたしの頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「さ、触んなよ!」
あたしは真っ赤になって、バシっとその手を払いのけた。
「おーおー、彼氏以外には触らせないってか。すまんすまん」
「あー、くそっ!」
「はいはい、玄関で立ち話しないの。ごはんにするわよ」
母さんの明るい声が、冷えた土間に響いた。
―――
居間のこたつの上は、皿が並びきらないほどの惨状になっていた。
豪快に盛られた寿司の桶。
真っ赤に茹で上がったカニ。
刺身の盛り合わせ。
母さんの煮しめ。
そして、部屋中に匂いを漂わせる大鍋のけの汁。
「うおー、カニだ。カニ!」
「毎年言ってんな、それ」
はしゃぐ隆に軽口を叩いていると、母さんが手際よく椀にけの汁をよそって配り始める。
「おっ、来た来た」
「はい、お父さん。……渉も」
「おー、これこれ」
椀を受け取った親父が、火傷しそうなほど熱い汁をひと口すすって、深く目を細めた。
「……うめぇ」
「今年のは華蓮が半分刻んだのよ」
「マジか。華蓮が」
渉も椀に口をつけ、親父とまったく同じ顔で息を吐いた。
「……うめぇ」
(二人して同じこと言うな)
(照れんだろ)
あたしは黙ってカニの脚に手を伸ばした。
食事も進み、親父が缶ビールを渉の膝に放り投げた。
「飲むか」
「いや、俺まだ19」
「かてぇこと言うな。大晦日だぞ」
「お父さん。だめ」
母さんの鋭い声に、親父はあっさりと引き下がった。
「……そうか」
代わりに、親父が渉のコップに黄色い液体をなみなみと注ぐ。
「なんでオレンジジュースなんだよ」
「他にねぇ」
(親父、飲み相手ほしかったんだろうな)
(顔にはぜんぜん出てねーけど)
オレンジジュースを片手に不満そうな渉を見て、あたしはこっそり息を吐いた。
隆が、太いカニの脚を両手で持ちながらドヤ顔を向けてきた。
「YouTubeで身の外し方勉強したんだ」
「ほう」
隆がパキパキと器用に殻を折ると、赤い身だけがズルンと綺麗に取り出された。
「おー。できた」
「なんだそれ!あたしにも教えろよ!」
「へっへー、自分で動画見ろ」
「んだよ!ケチ!あのことバラすぞ!」
あたしの脅しに、隆の肩がビクッと跳ねる。
「っは!?な、なんのことだよ!」
(はは。一生脅してやろ)
あたしが下着泥棒の一件を思い出してほくそ笑んでいると、渉が怪訝な顔をした。
「なんだ?華蓮とエロいことでもあったか?」
「は!?実の姉だぞ!?」
「おえ、キモ!死ね!」
あたしと隆が同時に声を上げると、渉はケラケラと笑った。
「相変わらず口がわりーな」
テレビから流れる賑やかな笑い声の中、母さんが渉に問いかけた。
「渉、明日はゆっくりできるの?」
「いや、昼には出る」
「あら、もう帰っちゃうの」
母さんの手元で、箸の動きが少しだけ止まる。
「工場、正月も止まんねーからな」
「三が日は交代で回すんだわ」
「……そうか」
刺身をつまんでいた親父が、短く応じた。
(一泊だけかよ)
カニの身をほじりながら、あたしは心の中で呟く。
「渉のとこ、大きい工場だからねぇ」
「兄ちゃん、正月ないの?」
「ないな。まぁ、手当つくからいいわ」
「うわ、大人だ」
「うるせ」
―――
少しだけ静かになったこたつで、あたしはずっと気になっていたことを口にした。
「なあ。一人暮らしって、どうなん?」
「お?興味ある?」
「いや……金とか。どんくらいかかんのかなって」
渉がいぶかしげに眉を寄せる。
「どうした急に」
「べつに。……ただ聞いただけ」
渉はオレンジジュースをひと口飲み、視線を天井に向けた。
「家賃は安いぞ。俺んとこ4万くらいだな。築古だけどな。
けど、細々したのが地味に効く。電気、ガス、水道、ネット。
毎月ぎりぎりだ」
「へー」
淡々と語る現実に、思わず相槌が漏れる。
「あと、飯な。最初は頑張って自炊しようとしたけど、1ヶ月でやめた」
「早ぇーよ」
「作る気力ねーんだって。夜勤明けとか」
(光莉の母さんも言ってたな。家に帰って飯が出て来るのがありがたいって)
光莉のアパートの惨状が、頭の隅をよぎる。
「……で、いまが一番こえーとこだ」
「なんで」
「家が寒い」
(……あ)
「帰ってストーブつけて温まるまでが地味にきつい」
「タイマーとかねーのか?」
「タイマーセットして急に残業なったらどうするよ。誰もいねー部屋温めるほど無駄なことねーぞ」
「なんか大変だな」
(この家、帰ったら勝手にあったけーもんな)
(考えたこともなかった)
黙々と刺身を食べていた親父が、低い声で割り込んできた。
「……灯油代、覚悟しとけ」
「え」
「安いアパートは断熱がスカスカだ。入れても入れても寒い」
「1月、2月は灯油だけで一万は飛ぶと思え」
親父の容赦ない宣告に、渉の動きが止まった。
「……マジで?」
「マジだ」
「あと、寒い日は蛇口から水を細く出して寝るのよ。凍るから」
母さんのトドメの言葉に、渉が目を見開く。
「……そんなん、聞いてねーぞ」
「いま言ったわ」
「……」
(兄貴、顔ひきつってんじゃん)
「灯油買いに行くのくっそめんどいんだよな……
うちもでっけー灯油タンク欲しー」
「あれは戸建て用だ」
親父に一蹴され、渉は大きなため息をついた。
「……はぁ、嫁と家が欲しい」
「まずは彼女だろ。早く連れてこい」
「それは追々……」
(まだいねーのか)
ごまかすように頭を掻く兄に呆れつつ、あたしはこたつのぬくもりに足を入れる。
「まぁ……大変だけど、いいこともあるぞ」
「そうなん?」
「全部、自分で決めれるからな」
(……)
不意に投げられた言葉に、あたしの胸が小さく跳ねた。
「……で?」
「あ?」
「華蓮はどっか行くつもりか?」
渉のまっすぐな視線に、あたしは少しだけ目をそらす。
「……まだ、決めてねー」
「そうか」
渉はそれ以上深くは聞いてこなかった。
「決めたら早めに言え。金は先に要る。
敷金だの家電だの、最初にドカっと持ってかれっからな」
「払ったの俺だけどな」
「……」
親父の鋭いツッコミに、渉が黙り込む。
「……お、おう」
あたしも曖昧に頷いた。
「あー、まさか彼氏と住むとか言い出さねーよな」
渉が意趣返しとばかりに鋭い質問を投げてきた。
「……」
(湊と……同棲……)
頭の中に、海辺の公園での会話がフラッシュバックする。
『きっとお金なくて苦労するよ?』
(一緒に住むみたいな言い方してたな……)
あたしが黙り込んでいると、渉の声が急に大きくなった。
「え、マジで一緒に住むつもりかよ。
かー、若けーなー」
「同棲は早すぎると思うの」
「父さんは賛成だ」
「んだよ!何も言ってねーだろ!」
外野の勝手な盛り上がりに怒鳴り返しながら、あたしは手元のコップをきつく握った。
(……くそ)
(灯油代。誰もいねー、寒い部屋)
(……なんも知らねーな、あたし)
(……兄貴も、知らねーみたいだけど)
―――
それからしばらくして。
テレビの音が少しだけ遠く感じる頃には、親父の顔はすっかり茹でダコのように赤くなっていた。
「お父さん、それ何本目?」
「3本目」
「もう。紅白始まったばっかりよ」
母さんの呆れ声に、親父は上機嫌でビール缶を揺らす。
「大丈夫だ。……母さんも飲め」
「もう……じゃあ少しだけ」
母さんが差し出したガラスのコップに、親父がビールを注ぐ。
「……あ、多い多い」
「いいだろ、大晦日だ」
母さんは少しだけ口をつけ、ふうと静かな息をついた。
「……おいしい」
(母さんも飲むんだ。珍しい)
さらに時間が経つと、母さんの頬もうっすらと紅潮していた。
「ねえ、お父さん。覚えてる?」
「なにを」
「私たちが最初に年越しした時のこと」
母さんの声は、いつもより少しだけ甘く、ふわふわとしていた。
「ああ。……あのアパートもボロかったな」
「そうそう。石油ファンが全然あったまらなくてね。
二人でくっついてないと寒くて寒くて」
(二人で、か)
「けの汁も、鍋いっぱい作れなかったな」
「小っちゃい鍋でね。スーパーで出来合いの具だけ買ってきてね」
母さんが、昔を愛おしむようにくすくすと笑う。
「あの時、お父さん言ったのよ。『いつか鍋いっぱいに作る』って」
「……言ったか?」
「言ったわよ」
「……そうか」
親父は照れ隠しのように立ち上がり、母さんの椀にけの汁をよそった。
「増えたな」
「……ふふ。増えたわね」
母さんが、そっと親父の広い肩に頭をあずけた。
「うわ、出た。酔うといつもこれ」
渉がすかさずヤジを飛ばす。
「ほっとけほっとけ」
隆がこたつに顎を乗せたまま笑った。
「見んな。目ぇそらせ」
あたしもそれに乗る。
「姉ちゃんが見てんじゃん」
「見てねーよ」
隆の頭を小突きながら、あたしは視線をテレビの画面に向けた。
(……見てた)
(増えたのは、具だけじゃねーだろ)
台所のコンロを占領していた、あの巨大な鍋を思い出す。
(小っちゃい鍋の時は、二人だったんだよな)
(今は、五人で囲んでる)
こたつの中の足の多さに、今更ながら気づく。
(……あたし、いつからこれを「普通」だと思ってたんだろ)
(毎年、同じ日に、同じもん食って)
(親父が飲みすぎて、母さんが呆れて)
(兄貴にからかわれて)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように温かかった。
(……当たり前じゃ、ねーんだな)
テレビでは、きらびやかな衣装を着たアイドルが賑やかな歌を披露している。
(光莉ん家も、いま飯食ってるかな)
(母親と、二人で)
(うちの煮しめ、食ってくれてるかな)
窓の外の暗闇の向こうを想像する。
(……量、増えるといいな。あいつんちも)
(何年かかっても、いい)
―――
「華蓮。そろそろじゃないの?」
「……ん」
母さんの声にハッとして、あたしは壁の時計を見上げた。
針は22時40分を指している。
「あ、やべ。あたし行くわ」
立ち上がったあたしを、渉が面白そうに見上げた。
「お。どこ行くんだ?」
「初詣」
「ほう。彼氏と?」
渉のニヤニヤした顔に、あたしはわざとぶっきらぼうに返す。
「……そうだよ。悪いかよ」
「悪くねー。全然悪くねー」
(この顔むかつく)
「兄ちゃん、姉ちゃんの彼氏な、めっちゃかわいいんだぞ」
「ほう。かわいい?」
余計なことを言う隆を睨むが、すでに遅かった。
「そう。なんか女みたいなかわいい小動物系」
「へー。お前そんなのが趣味だったのか」
「いーだろ別に!」
(……趣味とかじゃねーんだよ)
「写真とかないのか?」
渉の言葉に、あたしの動きがピタリと止まる。
(そういやプリクラあったな……でも――)
「ない」
「なんだよー。見せてくれてもいいだろ」
(女装して女友達みたいになってるヤツしかねーんだよ)
とても見せられる代物じゃない。
「うるせー。また今度な」
「湊くん、いい子よぉ」
「……ふん」
(親父、なんだよその「ふん」)
(さっき「賛成だ」とか言ってただろ!)
「今度、兄ちゃんにも会わせろよ」
「やだよ。絶対やだ」
「なんでだよ」
「絶対おもしろがるだろ、お前」
渉の口角が、隠す気もなく上がっている。
「当たり前だろ」
「ほら見ろ」
あたしは急いで廊下に出た。
「気をつけてね。滑るから」
「おう。……門限は、まぁ、いい。今日は」
「え、いいのかよ」
「元日だぞ。……たまには、な」
(親父、酔ってんな)
「送ってくか?俺、飲んでねーし」
「歩いてすぐだっての」
「そうか。……足元、気ぃつけろよ」
「わかってるって」
(……こいつ、こういうとこは変わんねーな)
「姉ちゃん、おみくじ引いてきて」
「自分で引け」
こたつから隆が手だけ振ってくる。
「行かねーし」
「じゃあ大凶な」
「ひでぇ!」
騒がしい声を背に、あたしは厚手の上着を着て、ぐるぐるとマフラーを巻いた。
玄関の土間に降り、ブーツに足を入れる。
「華蓮」
「ん?」
奥から、母さんの静かな声が聞こえた。
「よいお年を」
(……)
あたしはドアノブに手をかけ、振り返らずに答えた。
「……おう。よいお年を」
重い戸を開けると、頬を刺すような冷たい空気が流れ込んできた。
外は風もなく、街灯の下で雪が静かに降り続いている。
(吹雪いてなくてよかった)
(行くか)
あたしは足元の雪を踏みしめ、春原神社へ向けて歩き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本編『神愛 ─ 永遠の刹那 ─』の時系列が追いつくまで、一時休載いたします。
よろしければ、休載中は本編の高校生活をお楽しみください。
本編:https://ncode.syosetu.com/n3006ll/
なお、カクヨムにて続きを先行掲載しております。
先の展開が気になる方は、こちらからご覧ください。
カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/2912051597511951262/episodes/2912051607078139000




