第2話 シャンプーはお客様のために
凍えるような冬の風が、火照った頬を撫でていく。
光莉の小さくなっていく背中を見送ってから、あたしは隣を歩く湊を見上げた。
(このまま解散も、なんかもったいねーな)
(金はねーけど……)
「なぁ、湊。うち来るか?なんもねーけど」
「え、いいの?」
湊が目を丸くして、瞬きを繰り返す。
「昼、袋麺くらいなら出せるぞ」
「じゃ、じゃあ……お邪魔しよっかな……」
湊は控えめに、こくんと首を縦に振った。
その仕草がなんだか小動物みたいで、口元が緩みそうになるのを慌てて引き締める。
(よし。飯代浮いた……じゃなくて)
(湊がうち来るの、代休の時以来か)
並んで歩道を歩いていると、さっきまで少し弾んでいた湊の足取りが、徐々に重くなっていくのに気づく。
ちらりと横顔を盗み見ると、視線が泳いでいて明らかに落ち着きがない。
「どうした?」
「あの……ご家族は……」
「親は仕事。弟がたぶんごろごろしてる」
「お、弟さん……」
湊の喉仏が、ごくりと上下に動いた。
マフラーに埋もれた顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「大丈夫だって。あいつクソ雑魚だし。あたし弱味握ってるし」
(あいつ、まだパンツ持ってるのかな)
(うげ。考えたら気持ちわる)
春先に起きた、あの忌まわしい下着泥棒事件。
ドアの向こうで慌てふためいていた隆の、あの情けなくて生々しい反応を思い出して、思わずぶるりと肩を震わせた。
「だ、だって……前の時は誰もいなかったし。
彼女の家族に会うの、初めてだし……」
湊はマフラーの端をぎゅっと握りしめ、足元の雪溜まりを見つめている。
(あー、そういやそうか)
(あの時は二人きりで……炒飯作って……韓国ドラマ見て……)
(……思い出すな、あたし)
急に顔に熱が集まってくるのをごまかすように、あたしはわざとらしく息を白く吐き出した。
(母さんは4時くらいに帰ってくるよな)
(その前に帰せばいっか)
(ま、でも――)
「へーきへーき。うちの家族みんな緩いから、見つかっても取って食ったりしないって。
なんなら晩飯食ってけって言うと思うぞ」
「そ、そういうことなら……」
軽く背中を叩いてやると、湊は少しだけ肩の力を抜き、あたしの歩幅に合わせて付いてきた。
―――
玄関のドアを開けて、中に入る。
「ただいまー」
「お、おじゃまします……」
後ろに続く湊が、脱いだ靴をしゃがみ込んで律儀にそろえている。
(前も思ったけど、育ちがいいんだよなー、こいつ)
リビングのドアを開けると、ソファに寝転がってスマホをいじる隆の姿があった。
「やっぱりいた」
「おかえ……り……」
体を起こした隆が、あたしの後ろにいる湊に気づいて動きを止めた。
「誰?」
「あたしの彼氏。かわいいだろ」
胸を張って言ってやると、湊が慌てて頭を下げる。
「た、田中 湊です!は、初めまして!」
「坂本……隆です……」
隆は、胡乱な目で湊の顔をじっと見つめた。
「……ごゆっくり」
そして何事もなかったかのように、再びスマホに視線を落とす。
(リアクションうっす!)
(ま、騒がれるよりマシか)
「昼、袋麺でいいか?」
「あ、僕も手伝……」
キッチンへ向かおうとする湊を手で制する。
「客は座ってろって。テレビでも見てろ」
湊がおずおずと、ソファの端にちょこんと腰を下ろした。
それを見た隆が、弾かれたように顔を上げる。
「え!?ここにいんの!?部屋にいけば!?」
「まあ、そう言うなって。お前の分も作ってやるから。麺できるまで相手しとけ」
「あ、あの……よろしくお願いします……」
「……ぐ」
露骨に嫌そうな顔をする隆を放置して、あたしは台所へ向かった。
鍋に水を張り、コンロの火をつける。
(さて、麺は3人前……)
リビングの方からは会話の声が聞こえてこない。
バラエティ番組の笑い声だけが虚しく響いている。
(……しーん、としてんな)
(「相手しとけ」って言ったのに、仕事しろよ)
しばらくすると、ぼそぼそと声が聞こえ始めた。
「……あの、田中……さんは、同じ学校ですか?」
「え、えっと、そうです」
(なんで敬語対敬語なんだよ)
(いきなり二人だけにしたのはハードル高すぎたか)
再び訪れる沈黙。
テレビから流れるCMの軽快な音楽が、やけに耳につく。
「……姉ちゃんの、どこがいいんすか」
「え」
(は!?)
鍋に入れかけたかやくを、危うく小袋ごと落としそうになる。
「……えっと、その……たくさんあって……
まず、優しいところとか……」
(おいやめろ!真剣に答えるな!)
(聞こえてんだよこっちは!)
顔にぶわっと熱が集まるのがわかる。
「あれが?優しい……?」
「あと、笑った顔が……」
「麺できたぞー!!」
あたしは大声を出して半ば強引に会話を断ち切り、熱い丼をお盆に乗せてリビングへ運んだ。
(危ねー。心臓に悪い会話しやがって)
テーブルに丼を並べ、三人で向かい合って食卓を囲む。
「いただきます」
「……す」
(「いただきます」くらいちゃんと言え)
ずるずると麺をすする音が響く。
「お、おいしいです」
「袋麺だぞ。味付けはメーカーの努力だ」
「もやしとか卵入ってるし、ちゃんとしてるよ」
ニコニコしながら麺をすする湊を見て、隆が小さく舌打ちした。
「……姉ちゃんのくせに」
「あ?なんか言ったか」
「別に」
(こいつ……)
あたしは隆を軽く睨みつけてから、残りの麺を口に放り込んだ。
―――
食後。
どんぶりを片付け終え、リビングに居座る。
(さって、この後どうすっかな)
視線の先で、隆がやたらと落ち着かない顔をしている。
早くどっか行って欲しそうに、何度もこちらをチラ見してきた。
(まぁ、うちらもこいつの前だといちゃつけねーしな)
「部屋いく?」
「う、うん」
あたしの提案に、隆が露骨にほっと息を吐き出した。
「静かにね」
「な!なに言ってんだ!死ね!」
苛立ちに任せて、隆のすねを思い切り蹴り飛ばす。
「いで!くっそ!おっぱじめるなよ!」
(するか!バカ!)
「くそっ!くそっ!早く行くぞ!」
あたしは湊の腕をひっつかみ、ずかずかと足音を立てて2階へ上がる。
後ろを振り返ると、湊は目を丸くして困惑したまま引きずられていた。
―――
自分の部屋のドアを乱暴に開け、湊を中に押し込む。
「ま、適当に座れよ」
「……」
湊は部屋の真ん中に立ったまま、きょろきょろと視線を動かした。
ベッド。机。壁に貼ってあるポスター。
ゆっくりと部屋を一周するように観察している。
(お、おい。そんなじろじろ見るなよ)
(……散らかってなかったよな?)
不安になって見つめていると、湊がすん、と小さく鼻を鳴らして息を吸い込んだ。
よく見ると、その頬がほんのりと赤く染まっている。
(今、匂い嗅いだな?)
(嗅いだよな!?)
「おい、座れって」
「あ、う、うん」
促されて、湊はカーペットの上にちょこんと正座した。
それでもまだ、視線があちこちに泳いで落ち着かない様子だ。
(……なんか、そわそわしてんな)
(まさか、隆の言った通りに――)
(って、ねーよ。こいつに限って)
(期限だって決めたんだし)
あの約束があるんだ。
変な期待をしても仕方ない。
「テキトーにくつろいでろよ」
そう言いながら、ふと自分のジャージの袖が視界に入った。
(……あ)
(あたし、ジャージのまんまじゃん)
(汗かいたし……いまさらだけど、なんか気になってきた)
「わりぃ、あたしシャワー浴びてくる」
「え」
急に自分のニオイが気になり始め、居ても立ってもいられなくなる。
「汗くせーだろ、あたし。すぐ戻るから」
「え、あ、う、うん……」
湊が目を白黒させて戸惑うのを横目に、あたしはタンスへ向かった。
(……一応、かわいいパンツ履いておくか)
湊からは見えないように体をずらし、そっと引き出しを開けて替えの下着を抜き取る。
急いで中身を隠し、バタンと引き出しを閉めた。
「勝手に引き出しとか開けんなよ」
「あ、開けないよ!?」
必死に首を横に振る湊を残し、あたしは部屋を出て階段を降りた。
(いきなり部屋に放置は信用しすぎかな)
(でも、早く汗流したいし)
(汗流したら、すぐ出よう)
―――
脱衣所で急いで服を脱ぎ捨て、シャワーでざっと汗を洗い流す。
(ふー、さっぱりした)
適当な部屋着に袖を通し、タオルで濡れた髪を押さえながら急ぎ足で階段を上る。
ドアノブを回し、勢いよく部屋を開けた。
「お、おかえり……早かったね」
スマホを見ていた湊が、ビクッと肩を跳ねさせて顔を上げる。
「ん。カラスの行水ってやつ」
スマホを両手で握りしめたまま、湊の姿勢は妙に硬直していた。
(……ずっとその体勢だったのか?)
(律儀なやつめ)
「わりーな、待たせて。髪だけ乾かすわ」
ドライヤーを手に取り、カーペットに座り込む。
スイッチを入れると、ゴオオという単調な音が部屋中に満ちた。
濡れた髪を指で梳きながら、温風を当てていく。
(……ん?)
ふと、強い視線を感じた。
ちらっと横目で確認すると、湊がこっちをじっと見つめている。
「……」
こくり。
湊の喉仏が動き、かすかな音が聞こえた気がした。
(……見てる)
(めっちゃ見てる)
(風呂上がり、部屋着、濡れ髪……)
(なんか誘ってるみたいになってんな、これ)
(べ、別にそんなつもりじゃ)
(ただ汗流したかっただけで)
ドライヤーの排気音だけが、やけにうるさく響く。
湊ははっと我に返ったように、スマホに視線を落とした。
その耳の先まで、真っ赤に染まっている。
(気まずい!)
(この空気、どうすりゃいいんだよ!)
(……そうだ)
耐えきれず、あたしはドライヤーのスイッチをバチンと切った。
「なぁ、湊」
「な、なに」
「湊もシャワー浴びるか?」
(なに言ってんだあたし!)
自分の口から出た言葉に、血の気が引く。
「……え」
「あ、いや、その」
(違う。そうじゃない。いや違わないけど)
しどろもどろになりながら、必死に言い訳をひねり出す。
「お前も稽古で汗かいただろ。ジャージのままだし」
「あ……そ、そっか。そうだよね」
湊は自分のジャージの袖を引っ張り、納得したように頷いた。
「で、でも、着替えとか、ないし……」
「あー……」
(それもそうか)
ホッとしたような、残念なような。
複雑な気持ちで息を吐く。
「こんなことなら着替え持ってくればよかったな……
明日は持ってくるね」
「お、おう」
(え、明日も来るの確定!?)
予想外の宣言に心臓が大きく跳ねたが、あたしは動揺を隠して、再びドライヤーのスイッチを入れた。
とりあえず、この濡れた髪を乾かし終えることに集中した。
―――
髪を乾かし終え、コンセントからドライヤーを抜く。
「なんかあたしだけさっぱりしちゃって悪いな」
「いいよ。自分ちだもんね」
「さって、何すっかな」
「うーん」
二人して顔を見合わせる。
(そうだ)
「なぁ、髪だけでも洗わないか?」
「え?髪だけ?」
「そう。ついでに顔も洗ってさ。さっぱりしようぜ」
「そ、そうだね。髪だけ洗おうかな」
湊は少し迷った後、こくりと頷いた。
「おうおう。洗ってやんよ。んで、髪触らせろよ」
「髪を?触る?」
「ああ。あたし美容師志望だぞ。前から人の髪触ってみたかったんだ」
「え!?僕、実験台!?」
大げさに肩をすくめる湊の背中を、バンバンと叩く。
「なー。いいだろ。ウィッグなしでもかわいくしてやんよ」
「じゃ、じゃあお願いします……」
「おう。任せとけ。
じゃあ、風呂場に行こう」
―――
二人で連れ立って階段を降りる。
リビングからは、隆が格闘ゲームのボタンをガチャガチャと連打する音が響いていた。
洗面所を抜け、風呂場に入る。
あたしは気合を入れて部屋着の袖をまくり上げた。
湊はジャージの上着だけを脱ぎ、薄手のTシャツ姿になる。
「ほれ、そこ。バスタブに頭突っ込め」
「こ、こう……?」
湊がバスタブの縁に手をつき、おそるおそる浴槽へ頭を突き出した。
(美容室だと上向きなんだけどな)
(家だとこうするしかねーか)
シャワーヘッドを手に取り、お湯の温度を確かめる。
「いくぞー。熱かったら言えよ」
「は、はい……」
湊の後頭部に、そっとシャワーの束を当てる。
「熱くないですかー、お客様ー」
「だ、大丈夫です……」
緊張でカチコチになっている湊の肩が、微かに震えていた。
「かゆいところはございませんかー」
「あ、その、まだ洗ってな……」
「ノリ悪いぞお客様」
「え、ええ……」
十分に髪を濡らしてから、手のひらにシャンプーを押し出す。
しっかり泡立てて、指の腹でわしゃわしゃと洗っていく。
(お、頭の形、いいな)
(髪が細いから、泡立ちもはやい)
「……ん……
なんか、気持ちいい……」
「だろ?あたし、うまいだろ」
(他人の頭洗うとか初めてだけど)
調子に乗って胸を張りながら、さらに指を動かす。
わしゃわしゃ。
わしゃわしゃ。
浴室には、お湯が跳ねる音と、きめ細かい泡の音だけが心地よく響いていた。
すると、背後のドアがガラリと開く。
不審に思った隆が、そーっと顔を覗かせていた。
「は!?お前らなにやってんの!?」
「なんだよ。お前も洗ってやろうか?」
「いらねーよ!風呂に一緒に入ってるかと思って焦っただろ!」
「お前がいるのにそんなこと出来るわけないだろ」
真っ赤になった隆を、鼻で笑ってやる。
「いなきゃやるのかよ!」
隆は「なーんだ」とぼやきながら、バタンとドアを閉めて出ていった。
「い、一緒に……お風呂……」
「ま、そのうちな」
「え!?」
「な、なんだよ。長く付き合ってればそういうこともあるかもしれねーだろ」
(なに言ってんだあたし!)
顔から火が出そうになり、勢いよくシャワーの蛇口をひねる。
「……」
「ほら、流すぞ!」
動揺を誤魔化すように、じゃあじゃあと勢いよく泡を流していく。
白い首筋を、温かいお湯がいくつもの筋になって伝い落ちていった。
お湯を止め、傍らにあったタオルを投げて渡す。
「タオル。ほれ」
「あ、ありがと……」
湊は頭からタオルをかぶり、わしわしと乱暴に水分を拭き取る。
やがて、バスタブから顔を上げた。
濡れた前髪の隙間から、潤んだ黒い瞳がこちらを覗き込んでいる。
「……さっぱりした」
(……濡れ髪、破壊力あるな)
(さっきのあたしを見た湊、こんな気分だったのか)
胸の奥がキュンと鳴って、慌てて視線を逸らした。
「よ、よし!乾かすぞ!部屋戻んぞ!」
―――
二人で足早に二階の部屋へと戻る。
湊をカーペットの真ん中に座らせ、後ろからドライヤーの温風を当てた。
「よーし、ここからが本番だ」
「お、お手柔らかに……」
濡れた髪に指を差し込み、優しく梳きながら乾かしていく。
(さらさらだけど、細いな……)
(ふんわりさせるには、根本から立ち上げて……)
髪が完全に乾いたところでドライヤーを置き、戸棚からスタイリング剤を手に取った。
(まず前髪下ろして、目の上ギリギリで流して――)
湊のおでこにかかる前髪を、指先で慎重に整えていく。
(……ん)
(長さが、足りねー)
(じゃあトップをふんわりさせて、丸いシルエットに――)
手のひらでわしゃわしゃと髪を揉み込み、必死に形を作ろうとする。
(……足りねー!)
(襟足もサイドも、つまむ髪がねーんだよ!)
「か、華蓮?なんか手つき、必死になってない?」
「しゃべんな。いま勝負どころだ」
ぐっと唇を噛み締め、角度を変え、分け目を変え、あれこれと試行錯誤を繰り返す。
何度目かの手直しの末、ついにあたしの手はピタリと止まった。
「……」
湊の頭を真上から見下ろしたまま、深く、重い息を吐き出す。
「……すまん、湊。あたしの負けだ」
「え?」
机の上にあった手鏡を拾い上げ、湊に渡す。
鏡の中に映っていたのは――ちょっとだけ垢抜けた、普通の男子高校生の姿だった。
「あ、なんかいい感じじゃない?」
「そうじゃねーんだよ」
あたしはその場にどすんと座り込み、不貞腐れたようにあぐらをかいた。
「かわいくしてやるって言っただろ。もっとこう……ふわっと、丸く、かわいくよ。
でも、長さがねーんだ。どうやっても。
校則で切ってる髪じゃ、女子の『かわいい』までは届かねー。
悔しいけど、腕でどうにかなる問題じゃなかった」
「……」
湊は手鏡を持ったまま、じっと中の自分を見つめている。
「……髪は女の命って、ほんとだね。
ウィッグかぶるとさ、鏡見た瞬間、自分でも『女の子だ』って思えるんだ。
髪の毛が女の子を作ってるんだって、改めて実感したよ」
(……こいつが言うと、重みが違うな)
(ずっと、その「命」を借り物で補ってきたんだもんな)
少し寂しそうな横顔から、目が離せなくなる。
「でも」
湊は手鏡を持ったまま、こてんと小さく首を傾けた。
「これはこれで、気に入ったよ。
なんか……ちゃんと、僕だし」
「……そうか」
(……ま、いっか)
(本人が気に入ったんなら、美容師としては勝ちなのか?)
(いや、負けは負けだ。精進しろ、あたし)
気を取り直して、湊の肩をぽんと叩く。
「次はもっと勉強しとくわ。道具もそろえる」
「次もあるんだ」
「当たり前だろ。お前はあたしの練習台なんだから」
「実験台から昇格した……」
ふふっ、と湊が吹き出し、あたしもつられて声を上げて笑った。
ふと窓の外を見ると、冬の短い日差しが、もう西へ傾き始めている。




