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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第2章 臆病者たちの一歩
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第28話 殴る覚悟

冬休みも中盤に差し掛かった、12月27日の午前。

あたしたち五人は、今日も懲りずに市民体育館の入り口をくぐっていた。


自動ドアが開き、暖房の効いたロビーに入った瞬間、受付に座る職員とバッチリ目が合う。

昨日までは大きなため息をつかれていたけれど、今日の職員はただじっと、こちらを見つめているだけだった。


(……昨日までため息だったのに)

(今日は無だ。無の目だ)


「おはようなのじゃ!今日も世話になるぞ!」


空気なんて一切読まない御珠が、受付に向かって元気に一礼した。

職員は無言で小さく頷く。

その目は、少しも御珠から離れようとしない。


(挨拶しても無……)

(完全にマークされてんな、こいつ)


「ねぇねぇ、なんか受付の人、今日こわくない?」

「しっ。目ぇ合わせんな」


光莉が後ろから小声で耳打ちしてくるので、あたしは前を向いたまま短く返す。


「悪《わ》りごとしてねーのになんで小声だべ」


棟方が、話に割り込むように大声を上げた。


「したんだよ。誰かさんが柱を建てようとしたりな」


あたしの視線の先で、当の本人がケロッとした顔で振り返った。


「あれは没収されたのじゃ。もう終わった話じゃ」

「終わってねーから見られてんだよ」


呆れ果てながら更衣室へと向かう。

背中には、職員の冷ややかな視線がずっと張り付いたままだった。


(なんつーか……)

(今日なんかあったら終わるな、これ)


更衣室で着替えを済ませ、アリーナへ出る。

湊は隅のほうで、自分の手にバンテージを巻き始めていた。


「えっと、指の付け根に何周かして……」


手つきを見る限り、昨日よりはずいぶんと様になっている。


「お、自分で巻けるようになったのか」

「うん。昨日、家で練習した」


湊は少し照れくさそうに笑いながら、きゅっと包帯を引き絞った。


(……こういうとこ、真面目なんだよな)


そんな湊を見て、あたしの頬も自然と緩む。

すると、隣から大きな声が響いた。


「湊!今日もビシバシ来い!

 わも昨日の続ぎ、やるべ!」


棟方がいつになくやる気に満ちた表情で、両方の拳をバキバキと鳴らしている。


(ムナっちも気合入ってんな)

(昨日、御珠の足払い躱せたのがよっぽど嬉しかったのか)


「ふむ。良い顔じゃ、皆の衆」


御珠がマットの中央に立ち、腕を組んで満足げにあたしたちを見回した。


「では、始めるのじゃ」


―――


いつものようにアリーナの端へ移動し、二手に分かれる。

奥のマットでは湊と棟方、手前のマットではあたしと光莉だ。


準備運動を終えたあたりで、奥から重い打撃音が響いてきた。

ボスッ、ボスッ、と規則正しいリズムでリュックミットを叩く音がする。


(音、変わったよな)

(初日はペチペチだったのに)


「湊、腰が入ってきたのじゃ。その調子じゃ」

「はいっ」


湊の声には、初日のような迷いや弱々しさは微塵もなかった。


(返事まで強くなってやがる)


感心して見ていると、隣でジャージの袖を捲り上げながら声がかかる。


「ねぇねぇ、ウチらもやろー」

「おう。受け身からな」


あたしたちはマットの上で、交互に転がって床を叩く練習を始めた。

バシン、バシンと、体育館の天井にいい音が響く。


「ウチ、もう転がるの怖くなくなっちゃった」

「最初はゲホゲホ言ってたのにな」


「言ってないし!」

「言ってたんだよなぁ」


そんなふうに軽口を叩き合っていると、奥から御珠が巡回してきた。


「ふむ。二人とも受け身は及第じゃ。

 では足払いの仕上げといくかの。

 華蓮、かかってくるのじゃ」


御珠があたしに向かって、くいっと指を曲げて挑発する。


「よし……いくぞ!」


床を蹴って踏み込み、思い切り胸ぐらを掴みにいく。

初日のような、大振りのテレフォンパンチとは別物の踏み込みだ。


だが御珠はひらりとあたしの手を払い、絶妙なタイミングで足を差し出してきた。

視界が反転する。


崩されながらも、あたしは床を叩いて勢いを殺した。


バシン。


気付けば、仰向けに寝転がっている。


「~~っ、また転がされた!」


「じゃが、今のは良い受け身じゃった。

 初日のそなたなら背中を打っておったぞ」


言われてみれば、その通りだ。


(……確かに、痛くない)

(転がされてんのに、ちょっと嬉しいってなんなんだ)


「つぎウチ!ウチも転がして!」

「言い方よ」


あたしと入れ替わるように光莉が突っ込んでいき、同じように転がされる。

床を叩く音が響き、きれいな受け身が決まった。


「うむ。良し良し」


御珠は満足そうに頷くと、踵を返して奥のマットへ向き直った。


「湊。そろそろよいかの」

「え?」

「ミット相手は卒業じゃ。妾と組手といこうぞ」


その言葉に、空気がぴたりと止まった。


「く、組手!?」


湊が声を裏返らせる。


「お、ついにが!」


棟方が興奮気味に拳を握った。


湊が恐る恐るマットの中央へ進み出て、御珠と向かい合う。

あたしたちも手を止め、なんとなくその周りに集まっていた。


(湊が、組手……)

(大丈夫か?)


「ほれ。かかってくるのじゃ」


御珠が両手を軽く広げて隙だらけの構えをとる。

湊も拳を握って構えた。

だが、そこから先へ動こうとしない。


「……」


構えたまま、じりじりと足裏がマットを擦る音だけが聞こえる。


(ミットは殴れても、人は……そうだよな)


「何を遠慮しておる。

 そなたの素人パンチなど、当たるはずがなかろう」


御珠の言葉が、鋭く空気を切った。


(煽った)


「……っ」


湊の顔から、躊躇いの色が消えた。

目つきが鋭く変わり、床を強く蹴る。


「――いきますっ!」


三日間、ミットめがけて叩き込み続けた、まっすぐな左。


ゴッ!


鈍い音が、アリーナに響いた。


「え」


湊のバンテージを巻いた拳が、御珠の顔面に真正面からめり込んだ。

あたしの目の前で、御珠の顔が上へと跳ねる。


「……え」

「え!?」

「おい!?」


御珠は微動だにせず、マットの上に立ち尽くしていた。

その鼻から、つう、と赤い筋が流れる。


「み、御珠さん!?ごめんなさい!ごめんなさい、僕――」


真っ青になった湊が、震える拳を抱えて慌てふためく。


(避けられるだろ、あんなの!なんで――)

(……いや)

(……こいつ、まさか、わざと?)


「くくく。久しぶりの痛みじゃ。咲良に叩《はた》かれた時以来かの」


御珠は痛がるどころか、嬉しそうに喉を鳴らした。


(……何したら咲良に叩かれるんだよ!)


御珠は手の甲で鼻血を無造作に拭うと、ニヤリと笑う。


「よいパンチじゃったぞ。

 して――どうじゃ、人を殴った感想は」


「……っ、……」


湊は泣きそうな顔で、自分の震える拳を見つめていた。


「……気持ち悪い、です。

 痛くて……嫌で……もう、殴りたくない……」


絞り出すような声が、静かなマットに落ちる。


「うむ。それでよい」


御珠が一歩近づき、湊の細い肩にぽんと手を置いた。


「殴るとはそういうものじゃ。嫌なものじゃ。慣れるものでもない。

 じゃがな、湊よ。その嫌なものを、そなたはもう知った。

 今度は振れる。守るためなら、な」


「……はい」


湊は大きく息を吸い込み、もう一度、拳を強く握り直した。

さっきまで止まらなかった震えは、もう消えている。


(……)

(あーもう。泣きそうなの、あたしの方じゃねーか)


「御珠っち、鼻!鼻ティッシュ!」

「ん?おお、すまぬの」


光莉が慌てて差し出したポケットティッシュを、御珠が丸めて鼻に突っ込んだ。

途端に、締まらない間抜けな顔が出来上がる。


(あいつも殴れば血が出るんだな)

(番長だの化け物だの言われてるけど……ちゃんと人だった)


(……で、その鼻にティッシュ詰めてる奴が、今、湊の何かを変えたんだよな)


そんなふうに呆れ半分、感心半分で見つめていると。


――ぱち、ぱち、と。


背後から、まばらな拍手の音が聞こえてきた。

振り向くと、いつの間にか通路のあたりに人だかりができ始めている。


(げ)


―――


奥のマットから再びミットを打つ音が響き始め、稽古が再開された。

あたしたちは手前のマットに陣取り、足払いの練習に移る。


「ほら光莉、こい」

「えい!」


掛け声とともに、光莉が真っ直ぐに掴みかかってくる。

あたしは初日に教わった通りに手を払い、足を――差し出したが、空を切った。


「~っ、届かねぇ!」

「ざんねーん」


(御珠のやつ、あんな簡単そうにやるのに)


光莉の楽しそうな顔を見ながら、昨日のことを思い出す。


(……手前、って言ったよな、あたし)

(昨日、光莉に。もっと手前だって)


自分の足元へと視線を落とす。


(そうか。足を遠くに出すんじゃなくて――)

(相手が来るとこに、置いとくのか)


「光莉、もっかい!」

「はいはい。えい!」


光莉が再び踏み込んでくる。


あたしは差し出された手を外側へと払い、彼女の踏み込む先へ、先回りするように自分の足をスッと置いた。

次の瞬間、光莉の体が嘘みたいにふわっと宙に浮いた。


「わっ!?」


バシン、と激しい音が響く。

きれいに受け身をとった光莉が、マットの上に仰向けになっていた。


「……できた」

「いまのすごーい!御珠っちみたいだった!」

「できた!おい、できたぞ!」


(やべ、声出た)


ぱちぱち、と。

通路にできた人だかりの中から、まばらな拍手が聞こえてきた。


(……見られてた)


「ずるい!ウチもやる!さかもっち、来て!」

「おう!」


今度はあたしが掴みかかる番だ。


踏み込んだ先で、光莉があたしの手を払い、絶妙な位置に足を置いて待ち構えていた。

視界が跳ね上がり、体がふわっと浮く。


バシン。


気付けば、あたしは天井を仰ぎ見ていた。


「できたー!!」

「~~っ、なんでできんだよ!」


(あたし、何回転がされて掴んだと思ってんだ)


「えへへー。ウチ、天才かも」


通路の方から、また拍手が起こった。

さっきよりも明らかに量が増えている。

その音に気づいたのか、御珠が湊との組手を止めてこちらを見ていた。


「ほう!二人とも、ようやった!

 それでこそ三日間の成果じゃ!」


「ふっふっふー。ウチ、もう誰でも転がせちゃうかも」

「調子乗んな」


光莉が勝ち誇ったように鼻を鳴らすので、すかさず釘を刺す。

だが彼女は止まらない。


「ムナっちー!ちょっと来てー!」

「あん?」


(おい、まさか)


嫌な予感がして棟方を見る。


「ウチの成果、見せてあげる!かかってきて!」

「わ(おれ)に?やめどげって」

「いいからいいからー」


棟方が渋々といった様子で、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

光莉はその手を払い、意気揚々と足を置いた。


しかし、棟方の巨体は浮かない。

びくともしない。


「……あれ?」

「終わったが?」


光莉は足を引っかけた姿勢のまま、ピタリと固まってしまった。


「えい。えい」

「もちょこちぇ(くすぐったい)って」


(だよなー)


二人の間の抜けたやり取りに、ギャラリーからドッと笑い声が起きた。

気づけば、人だかりはまた少し増えている。


「ふはは。よい勉強じゃ、光莉。

 護身術は相手の勢いを利用する技じゃ。

 ゆえに、ゆっくり動く相手には効果が薄いのじゃ」


「えー、じゃぁムナっち。本気できてよ」


不満げに唇を尖らせる光莉を、御珠がピシャリと制す。


「調子にのるでない。ゆっくり動く相手ならまず逃げよ」

「ぶーぶー」


(初日に言われたやつだ)

(……ちゃんと繋がってんだな、あいつの稽古)


ふと通路へ目を向けると、人だかりはもう20人近くに膨れ上がっていた。

その中には、先日のエアロビ騒動のときに巻き込んだおばちゃんたちの顔も混ざっている。


「ほら、またあの藍色の髪の子よ」

「あらー今度は何をやるのかしら」


(常連化してんじゃねーか)

(あいつ、何やっても目立つのな)


さらに嫌な予感がして、遠くの受付に視線をやる。

例の職員が、通路の人だかりとこちらのマットを、じっと無表情で見つめていた。


(……やば)

(人、集まりすぎだろ、これ)


―――


マットの中央へ進み出た御珠が、鼻に詰めていたティッシュをポンと抜いた。


「さて。仕上げといこうかの。

 棟方よ。稽古納めじゃ」


「お、わーが(おれか)?」

「ほれ――本気でかかってこい」


途端に、体育館の空気がピリッと張り詰めたものに変わった。


「……いいんだが(のか)?」

「よい。今のぬしを、妾が測ってやろうぞ」


(うわ、始まる)


通路にひしめいていた人だかりも、水を打ったように静まり返る。


棟方が身を沈めて構えをとった。

初日のような、ただ力任せの粗削りな構えじゃない。


(顔つき、ちがうな)


鋭い踏み込み。

巨体に似合わない、小さく速いステップだった。


御珠が体を躱す。

また躱す。

――だが、躱しきれない。


バシッ、と重い音が響いた。

御珠がその腕で、棟方の拳を受けたのだ。


「え」


(受けた!?)

(避けるんじゃなくて、受けた!?御珠が!?)


「うそ!御珠っちが防御してる!」


バシッ、バシッ。

棟方が勢いに乗って畳みかける。


御珠はそれを腕で弾き、受け流しながらじりじりと後退していく。

ギャラリーからどよめきが漏れた。


(三日前は、掠りもしなかったのに)


「ふ、ふはは!よいぞ棟方!よいぞ!」


打撃を受けながら、御珠は心底楽しそうに笑っていた。

ふと隣を見ると、光莉の右手がジャージのポケットへと伸びかけている。


「おい!」

「華蓮~華蓮~っ、わかってる!わかってるから!」


光莉は自分の右手を左手で鷲掴みにし、必死に押さえ込んでいた。

全身がぷるぷると震えている。


「撮りたい……撮りたいよぉ……世紀の一番なのにぃ……」

「約束しただろ」

「してるから我慢してるのー!」


(我慢できてて偉いけど、絵面が怖ぇよ)


マットの上では、なおも激しい攻防が続いていた。

次第に、棟方の肩が大きく上下し始める。


「はぁ、はぁ……」

「どうした。もう終《しま》いか?」

「――まだだべ!」


棟方が、ひときわ深く踏み込んできた。

その瞬間、御珠の体がふっと沈み込む。


(あ、これ)

(見たことある)


御珠が床を蹴って跳び上がった。

宙で身体が反転する。

番長伝説を生み出した、あのサマーソルトキックだ。


「あーっ!」

「「「おおーー!」」」


周囲から期待に満ちた声が上がる。


――だが。


蹴りは空を切り、虚しい風切り音だけを残した。

棟方が上体を大きくのけ反らせ、紙一重で見切ったのだ。


「え」


そのまま棟方は伸びきった御珠の足を掴み、ひょいっと宙吊りにしてみせた。


くるっとひっくり返すと、空中の御珠と棟方の視線が交差する。

御珠はにかっと無邪気に笑った。


「……参ったのじゃ」


静寂が降りた。

勝負が決した事実が体育館に染み渡った直後――ギャラリーの熱が爆発した。


「「「わーー!」」」


(うわ、うるさ!)


歓声と拍手、誰かが鳴らす指笛がアリーナに響き渡る。

我に返った棟方が、慌てて御珠をそっと床に下ろした。


「わ、悪《わ》り!つい掴んでまった……」

「何を謝る。見事な一本じゃ!」


「……い、一本!?わ(おれ)が!?」

「うむ!ぬしの一本じゃ!」


御珠が棟方の太い腕を掴み、高々と天井へ掲げる。

割れんばかりの歓声が、さらに大きくなった。


(プロレスかよ!)


湊が興奮気味に駆け寄ってきた。


「ムナ、すごい!すごいよ!」

「ムナっちかっこよかった!ねぇ今の何!?なんで避けれたの!?」

「……ん。あの蹴り、何百回も見だはんで」


その言葉に、あたしたちは顔を見合わせた。


「あ」

「あ」

「来るど思ってだはんで、狙ってだ」


光莉が目を大きく見開いた。


「それって……ウチの動画!?」

「んだ」


「ウチの動画が役に立った!ねぇ御珠っち、ウチのファインプレーだったでしょ!」

「……ぬぬ。複雑じゃ」


頭を抱える御珠を見て、あたしはため息をつく。


(あの動画パンチラしてるしな)

(何百回も見たのか)


笑いながらも、ふと冷静に考える。


(……でも、あれ、わざとか?)

(宙吊りにされて、あいつ、笑ってたよな)

(まだまだ手加減してそうだったな)


マットの上では、御珠が棟方と何やら反省会を始めている。

わざわざ宙吊りのポーズまで再現して、めちゃくちゃ嬉しそうだ。


(まぁ、ムナっちもまだまだ敵わねぇって分かってそうだな)


鳴りやまない拍手。

人だかりは通路を完全に塞ぎ、ちょっとしたお祭り騒ぎになっている。


――その時。


分厚い人垣が、ゆっくりと真っ二つに割れた。

開いた道の向こうから、受付に座っていたあの職員が無表情のまま真っ直ぐに歩いてくる。


(……あ)


割れた人垣の向こうから、受付の職員がまっすぐこちらのマットへ向かって歩いてくる。

その足音に押されるように、あれほど沸いていた歓声が、近い順から波が引くように静まっていった。


(うわ、来た。来た来た来た)


職員は、マットの中央に立つ御珠の目の前でピタリと足を止めた。


「盛り上がっているところ、失礼しますね」

「おお、受付の。どうしたのじゃ」


(どうしたのじゃ、じゃねーんだよ)


能天気な声を出す御珠に冷や汗をかいていると、職員は静かに口を開いた。


「申し遅れました。私、当館の館長を務めております」


「え」

「かんちょう!?」


(受付の人じゃなかったのかよ!)


まさかの肩書きに、あたしたちは呆然と立ち尽くす。


「なんと。偉い人じゃったか」


「ええ。年末で人手が足りず、受付に立っておりました。

 おかげさまで、よぉーく見せていただきましたよ。この三日間」


(棘!棘がすげぇ!)


館長は薄く微笑んだまま、すっと指を折り始めた。


「いえ、三日どころではありませんね。

 まず先週。

 当アリーナを起点とした、無許可の大規模集団運動。

 最終日には30名超」


「あれは自然に増えたのじゃ」


「主催者の責任と言います」


次いで、館長は二本目の指を折ろうとして、痛むこめかみを押さえるように手を当てた。


「次に昨日。敷地内への、柱の……

 柱の!建立!未遂!」


(言い方で怒りが分かるわ)


「あれは良い流木じゃった」


館長の眼鏡の奥の目が、スッと細められる。


「河川敷にお戻しください。

 そして本日。ご覧の通りの騒ぎです」


そう言って館長が手で示した先には、通路を完全に塞ぐ人だかりがあった。


「通路の完全な閉塞。非常動線の妨害。加えて、施設内での」


館長の視線が、再び真っ直ぐに御珠を射抜く。


「宙返り、からの、蹴撃」

「サマーソルトキックじゃ」

「名称は伺っておりません」


(御珠、黙れ。頼むから黙れ)


冷え切った館長の声に、あたしは胃が痛くなってきた。


「当館は、市民の皆様の健康増進のための施設です。

 興行場ではありません」


「妾も健康増進をじゃな――」

「あなたの健康は増進しすぎです」


ぴしゃりと言い放たれた言葉に、隣から小さな吹き出し音が漏れた。


「ぷっ」

「笑うな」


光莉の脇腹をつついて黙らせる。

館長はすっと背筋を伸ばし、最終宣告のように冷徹な声を出した。


「……天野 御珠さん。でしたね。利用者カードで確認しました。

 誠に遺憾ながら、あなたの当館のご利用を、当面お断りいたします」


「……なんと」

「そ、そんな!」


突然の出禁宣告に、湊が悲鳴のような声を上げた。


「えー!?」

「ま、待でって!わも試合したべ!わも同罪だ!」


慌てて身を乗り出した棟方を、館長は冷めた目で見下ろす。


「あなたは唆《そそのか》された側と認識しています」


(正しい認識だ)


「解せぬ。妾は真面目に稽古をじゃな」


(心当たりしかねーだろ!)


不服そうに口を尖らせる御珠を完全にスルーして、館長はあたしたちに向き直った。


「他の皆さんの利用は構いません。節度を守っていただけるなら。

 では、そういうことで」


深く一礼し、館長は踵を返した。

そのまま去っていくかと思われた背中が、数歩歩いたところでピタリと止まる。


「……最後の試合は」


振り返ることなく、館長は静かに言った。


「見事でした」


それだけを言い残し、館長は人混みの向こうへと去っていった。


(……あの人も、ずっと見てたんだな)


「御珠っち……」

「……」


いつもならすぐに言い返すはずの御珠が、口を閉ざしたまま、しばしマットの上に立ち尽くしている。

その気まずい空気を察してか、ギャラリーの群衆も蜘蛛の子を散らすように、少しずつ体育館の奥へと消えていった。


―――


冬の昼下がり。

体育館の外へ出ると、刺すような冷たい空気が頬を打った。


吐く息は真っ白に染まり、青空へ溶けていく。

あたしたち五人は、なんとなく無言のまま駐車場の方へと歩き出した。


光莉が、ぽつりとつぶやく。


「……出禁になっちゃったね」

「僕たちのせいでも、あるのに……」


「……わのせいだべ。

 わが試合っとばしたはんで……」


重い空気を引きずるように、みんなが次々と落ち込んだ声をこぼす。


「いや、御珠が本気で来いって最初煽ってただろ」


(つーか、遠因ぜんぶあいつだしな。エアロビも柱も)


歩きながら、ふと前を行く張本人に視線をやる。


当の御珠は腕を組んで、堂々と風を切って歩いていた。

落ち込んでいる様子なんて、微塵も感じられない。


(……あれ?)


「御珠っち、大丈夫?」

「ん?何がじゃ?」

「何がって、出禁だよ!?」


驚く光莉に、御珠はケロッとした顔で頷いた。


「うむ。出禁じゃな」

「軽っ」


「なに、あの館長、良い目をしておった。

 ああいう手合いは、ほとぼりが冷めれば戻してくれるものじゃ」


(謎のポジティブ)

(でも、あの「見事でした」を聞いてると、そんな気もしてくるな)


あたしが呆れながら歩いていると、隣で湊がうつむいた。


「で、でも、明日からの稽古……

 僕、まだ全然、途中で……」


心細そうな湊の声を聞いて、前を歩いていた御珠がぴたりと足を止める。


「湊。それに皆の衆」


あたし達も釣られて立ち止まった。

御珠が振り返り、一人ひとりの顔を真っ直ぐに見回す。


「案ずるな。――基礎は教えた。

 あとは各々で頑張るのじゃ」


「……お前」


思わず声が漏れた。

御珠は静かな目で湊を見つめた。


「湊。そなたはもう、殴る覚悟も、殴られた痛みも知った。

 あとは反復じゃ。拳は裏切らぬ」


「……はい」


湊が自分の拳をぎゅっと握りしめるのを見てから、御珠はあたしと光莉へ視線を移した。


「華蓮、光莉。受け身と足払い、ようやった。

 じゃが忘れるでないぞ。ぬしらの一番の技は」


「『逃げるのじゃ』!」

「暗記してんじゃねーよ」


元気よく食い気味に答える光莉に、あたしはすかさずツッコミを入れる。


「うむ。それでよい」


「棟方」

「お、おう」


名前を呼ばれた棟方が、弾かれたように直立不動になった。


「ぬしは強い。妾から一本取った男じゃ。

 じゃからこそ、その拳の振りどころ、ゆめゆめ間違えるでないぞ」


「……」


棟方の巨体がピクリと固まる。

視線がさまよい、冬の乾いた風が吹き抜けていく音が耳に届いた。


「…………んだ。分がってら」


(……ん?)

(今の間、なんだ?)


少し違和感を覚えたあたしをよそに、御珠は満足げにぱんっと両手を強く打ち合わせた。


「うむ!では皆伝じゃ!御珠道場、これにて閉門!」

「なにそれー!修了証とかないのー?」


「ぬしらの体に刻んだわ」

「筋肉痛のことか?」

「それも含めてじゃ」


(六日間、まるごとかよ)

(濃い一週間だったな)


自然とみんなの顔がほころび、笑い声がこぼれた。

さっきまで固まっていた棟方も、いつもの人の良さそうな笑顔に戻っている。


「それにな、稽古は終わらぬぞ。

 雪杜たちの講習は今日までじゃ。

 明日からはあやつらも午前に来るじゃろう」


「え、合同になんのか?」

「うむ。妾は入れぬがな!ふはは!」


高笑いする御珠の肩を軽く小突く。


「笑いごとじゃねーだろ」


(本人が一番笑ってるのなんなんだ)


「では、妾は雪杜の元へ行くのじゃ」


くるりと背を向けて歩き出そうとする御珠を、光莉が慌てて引き留めた。


「ねぇ。きょうもお昼一緒に食べないの?」

「……」

「御珠っちきょうで最後だよね……」


御珠の足が止まり、振り返った。

少しだけ目を伏せ、それからニヤリと口角を上げる。


「……妾、出禁じゃでの。午後は暇なのじゃ。

 どれ、皆伝祝いと行くかの」


「やったー!」

「おう!でもいいのか?」


「よい。雪杜には連絡しておくのじゃ」


(あっちチーム、雪杜と咲良と忍者で三人か。寂しくなりそうだな)

(ま、明日は合同って言ってたし、一日くらいなんとかなるだろ)


「わーい。どこいこっかー」

「わ、にぐ食いてぇ!」

「ふむ。焼肉じゃな。ぬしの一本記念に」


光莉、棟方、御珠の三人が、にぎやかに店の相談をしながら先を歩いていく。

湊とあたしは、その騒がしい背中を少し後ろから見守りながら歩いていた。


「……御珠さんって、すごいね」

「ん?」

「僕、あの人に教わって、よかった」


湊は自分の拳をそっと撫でながら、穏やかに笑った。


(……ほんとにな)

(強くなりたい、なんて言って始めた六日間だったけど)

(教わったのは、なんつーか――もっとでかい何かだった気がする)


冬の澄んだ空。

真っ白な息。


前を行く三人の笑い声が、冷たい空気に暖かく溶けていく。


「さかもっちー、湊っちー、はやくー!」


(焼肉……お年玉前借りするか……)


「今行く!」


冷たいアスファルトを強く蹴って、足早に駆け出す。


少しだけ前を行く、騒がしくて、どうしようもなく大切な背中たちを追いかけて。

見上げた冬の青空は痛いほど澄み切っていて――あたしたちの笑い声は、いつまでもそこへ吸い込まれていった。









それいけ華蓮ちゃん、第2章『臆病者たちの一歩』はここまでになります。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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