第25話 逃げるが勝ち
市民体育館の受付前。
窓口の奥に座る職員がこちらをちらっと見て、それ以上何も言わずにすっと視線を書類に落とした。
(目ぇつけられてるなぁ)
(「またこいつらか」って顔だ)
「気にするでない。今回は少数精鋭じゃ」
呆れるあたしをよそに、御珠が堂々と胸を張る。
更衣室から出てきてここに集まっているのは、あたしと湊、御珠、棟方、光莉の五人のみ。
前回のあの馬鹿みたいな大人数とは大違いだ。
「今日から組手か?」
「うむ」
御珠は柔道用のマットの上に立つと、大きく腕を組んで見下ろしてきた。
「よく集まったのじゃ」
あたしたちは顔を見合わせ、こくりと頷く。
「始める前に、華蓮よ」
「ん?」
「そなた、強くなってどうしたい」
不意打ちの真面目な問いだった。
あたしは言葉に詰まり、隣に立つ湊の横顔を盗み見る。
「えっと……湊と一緒にいても、なめられないように……」
「残酷なことを申すがよいか」
喉の奥が少し乾くのを感じながら、あたしは無言で頷く。
「女は男に勝てぬ」
「え」
あまりに身も蓋もない言葉に、変な声が漏れた。
御珠は翠の瞳でまっすぐにあたしを射抜く。
「並大抵の努力では覆しようがない事実じゃ。
一度や二度の勝利はあるじゃろう。じゃがその後はどうする?
いたずらに男に勝利したばかりに、恨みを買うことになるぞ?
来る者、来る者すべて退けるつもりか?」
(急になに言い出すんだ)
眉をひそめるあたしに構わず、御珠の言葉は続く。
「奴らはしつこいぞ?男にとって女に負けるというのはそれほどの事であると心に刻め。
次は集団で来る。その時、そなたは勝てるか?」
(集団で……)
大柄な男たちに囲まれる光景が脳裏をよぎる。
抵抗も虚しく羽交い絞めにされ、なぶられる絶望感を想像し、思わず肩が震えた。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「逃げるのじゃ」
「……」
拍子抜けする答えに、あたしは口を半開きにする。
「弱そうだからと侮ってはならぬ。殺しでもせぬ限り、必ず復讐されると思え」
(物騒すぎるだろ!)
ツッコミを飲み込み、あたしは頭をかく。
「佐竹はどうであった?」
「……」
その名前で、あの不快な記憶が蘇る。
環境科学科の佐竹。
湊を盾にしてスタンガンをちらつかせた、あの胸糞悪い事件だ。
「あれは、妾の落ち度であった……妾に向かってくるだけであれば、いかようにもできたものを、人質を取るとはの」
「あれはどう考えてもあいつが悪いだろ。むしろぶん殴られてすっきりしたぞ」
「ふむ。結果的には棟方に殴られ、成敗されたが、一つ対応を間違うと湊に大けがを負わせるところであったのじゃ」
(そういや、湊を見捨てようとしてたな)
(まぁ、あの時はまだ、ちょっとした友達レベルだったし、仕方ないか……)
(御珠的には最善の判断だったんだろうな)
横目で湊を見ると、彼はずっと俯いていた。
「僕が弱いのがいけないんだ……」
「湊!それは違う!」
ギュッと拳を握りしめる湊に、あたしは慌てて声を上げる。
「弱いからこそ優しくなれる。華蓮はそこに惹かれたのじゃ。恥じるでない」
「そうだぞ」
「……」
湊は唇を噛み、少しだけ悔しそうに顔を伏せる。
(なんかさらっと、あたしの気持ち代弁したぞ?)
うっかり同意してしまった自分の言葉が、耳の中でリフレインする。
途端に顔中から火が噴き出しそうになり、あたしはバツが悪くて顔を背けた。
「よって戦ってはならぬ。逃げるのじゃ」
(今と同じじゃねーか)
呆れ果てるあたしに、御珠はしたり顔で頷く。
「そのための術を授けよう。すなわち護身術じゃ」
「なるほど」
納得しかけたところで、御珠の瞳がすっと湊の方へ移った。
「ただし、湊。そなたは別じゃ」
「え、僕!?」
「そなたは男じゃ。鍛えれば強くなれるのじゃ」
「いま弱いからこそ優しくなれるって……」
湊の反論を、御珠は手で制する。
「強いに越したことはないのじゃ。
優しいまま強くなれば最強じゃ」
反論の余地を与えない言い方に、湊は少し顔を強張らせながらも、静かに頷いた。
(そっか。それで最初から湊も呼ぶように仕向けたのか……)
御珠はパンッと一度手を叩き、全員を見回す。
「さて、修行の方針じゃ。
華蓮、光莉、そなたら二人は護身術じゃ」
「わーい。ウチも護身術」
光莉が能天気に両手を挙げる。
「湊、棟方、そなたらは実践じゃ」
「おう!おもしぇぐなってきた!」
「僕、大丈夫かな……」
棟方が腕を鳴らして笑う横で、湊は今にも逃げ出しそうな顔をしている。
「なぁ、御珠はいいのか?」
「妾は特別じゃ」
「だったらあたしも……」
食い下がるあたしを、御珠は哀れむような目で見下ろした。
「妾の域まで達したいと申すか。
死ぬ覚悟はあるかえ?」
「……」
(おまえ、どんな修行積んできたんだよ)
―――
柔道用のマットの中央。
御珠がすっと立ち、その対面に棟方がドスドスと歩み寄って拳を構える。
「まずそなたらの力量を見るかの。棟方、かかってくるがよい」
「へば、遠慮なぐ!」
裂帛の気合いと共に、棟方の太い腕が空を切る。
大振りの右ストレート。
だが、御珠は半歩だけ体をずらし、風圧だけをやり過ごした。
(速……いや、御珠が避けただけか)
「おらぁ!」
棟方は止まらない。
巨体から次々と繰り出される拳が、空気を叩く鈍い音を立てる。
だが、どれも御珠の藍色の髪すら揺らさない。
「そのような大振り、当たるはずがなかろう」
ひらり、ひらりと、御珠は蝶のように攻撃を躱し続ける。
棟方の息が上がり始めたその時、御珠の目が鋭く細められた。
「それでは不意打ちでしか勝てぬ」
大振りの拳をくぐり抜けたかと思うと、御珠の足が滑らかに棟方の足首を刈る。
ズダンッ!
重たい音が体育館に響き、棟方の巨体がマットに仰向けに倒れ込んだ。
視界が揺れたであろう棟方の顔面に、御珠の小さな拳がピタリと寸止めされている。
額からじわりと冷や汗が滲むのが、ここからでも見えた。
「ま……参った」
「床が柔らかくてよかったの。最初の足払いで頭を打って死んでおったかもしれぬぞ」
御珠は拳を下ろし、倒れたままの棟方を見下ろす。
そして、淡々とした口調で欠点を指摘し始めた。
「力任せに拳を振り回しても当たらぬ。隙だらけじゃぞ」
「……分がった」
棟方は悔しそうに顔をしかめながらも、ゆっくりと立ち上がり、素直に頷いた。
(こえーよ!絶対暗殺者だろ!)
あたしは思わず息を呑み、隣を見る。
湊はすっかり青ざめた顔で、ガクガクと膝を震わせていた。
「……僕もあれやるの?」
「無理すんな」
あたしは湊の背中を、ぽんと軽く叩いた。
―――
棟方があっけなく沈められた後、御珠は今度は湊に向き直った。
あたしたちは固唾を飲んで、その様子を見守る。
「湊よ。そなたは弱いと思うておるかもしれぬがそうではない」
「そう、なの?」
「覚悟が足りぬだけじゃ」
「覚悟?」
御珠の言葉に、湊が小さく首を傾げる。
冷たい体育館の空気が、ピンと張り詰めるのがわかった。
「そう。人を殴るという覚悟じゃ」
「……」
湊は何も答えず、視線を床に落とした。
細い指が、拳を握ったり開いたりを不自然に繰り返している。
(あ)
(これ、中学の時のこと思い出してるな)
俯く湊の顔に、暗い影が差す。
ぎゅっと唇を噛みしめる横顔を見て、あたしの胸がチクッと痛んだ。
「……僕、殴り返したこと、一回もないんだ」
(……)
「殴られても、蹴られても……やり返したら、もっとひどくなる気がして」
ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる言葉。
湊は自嘲するように、力なく小さく笑った。
「だから、ずっと……我慢することしか、知らなくて」
(知ってた。知ってたけど……)
(本人の口から聞くと……)
視界がじわりと滲む。
理不尽に虐げられてきた湊の過去が胸に迫り、あたしは悔しさで奥歯を噛み締めた。
「よく話した」
御珠が静かに手を伸ばし、湊の華奢な肩に軽く触れる。
その小さな手が、震える背中を温めるように添えられていた。
「じゃが、それは弱さではない。
殴られても殴り返さないのは、耐える強さがあったということじゃ」
「……そう、なのかな」
「じゃが今は、耐えるだけでは守れぬものがあろう」
御珠の翠の瞳が、流し目でちらりとこちらを見た。
(は!?あたしのことか!?)
急に視線が飛んできて、あたしは肩をびくっと跳ねさせる。
「……うん」
湊が、ゆっくりと顔を上げた。
握り直された両手には、さっきまでの迷いを振り払うような力がこもっている。
「覚悟だね」
「うむ」
(湊……)
決意を宿したその横顔は、少しだけ逞しく見えた。
「で、どうすれば」
「いきなり顔を殴れというのも難しかろう。よって――」
言うが早いか、御珠はピシッと棟方の方を指さした。
「棟方を殴るのじゃ」
「は!?」
突然の指名に、棟方が驚きの声を上げる。
「こやつは頑丈だでの。多少殴っても平気じゃ」
「わ、サンドバッグでねーど!」
巨体を揺らして抗議する棟方を、御珠は鼻で笑って一蹴する。
「なに、最初は掌でよい。
本気で殴る必要もない。手首の方が怪我をするでの。
あくまでも練習じゃ。殴る感覚を掴むのじゃ」
「うーん、そいだばいいばって」
ぶつぶつ言いながらも、棟方は大人しく両足を広げて腰を落とした。
「じゃぁ、早速」
「おう。来い!」
棟方が胸の前に分厚い掌を構える。
湊は恐る恐る腕を引き、ひょろりとしたテレフォンパンチを放った。
ペチン。
乾いた、なんとも情けない音が響く。
「ふむ。型から教えねばならぬか。
よく見ておれ。こうじゃ」
御珠が一歩踏み込み、軽い左ジャブを放つ。
バチーン!
「痛っで!あだまおがしーべ!」
破裂音と共に棟方が悲鳴を上げ、赤くなった掌を激しく振って痛がった。
(すげー音したぞ。ムナっち骨折したんじゃね?)
「こう構えるじゃろ?」
棟方の涙目の抗議を完全に無視し、御珠は湊への指導に移行する。
湊の背後へ回り込み、腕や腰をペタペタと触って細かく姿勢を直していく。
(これは教育……これは教育……)
頭ではわかっていても、湊の体にベタベタと触れる御珠の手に、あたしの嫉妬メーターがぐんぐん急上昇していく。
しばらくして、湊の体がなんとなく様になったファイティングポーズに収まった。
「ふむ。こんなもんかの。
そこから、こうじゃ」
御珠が手本を見せるように軽く拳を振るう。
ブンッ、と空気を切り裂く風切り音が、あたしの耳にも届いた。
「棟方の掌を良く見るのじゃ。
そして、こう」
御珠が後ろから湊の左手にそっと自分の手を重ね、殴る軌道を誘導する。
(むぐぐぐ!湊もちょっと鼻の下伸ばしてんじゃねぇ!)
ギリッと奥歯が鳴るのを堪えながら、あたしは二人を睨みつけた。
「分かった。こうだね」
ペチン!
さっきよりは少しだけ芯のある音が、棟方の掌で弾けた。
「うむ!合格じゃ!」
「まぁまぁ痛でーな。何回もでぎねーど」
「え!?そうなの!?大丈夫?ムナ」
棟方が顔をしかめると、湊は慌てて殴った手を引っ込めてオロオロし始める。
「うーむ、明日は何か用意するかの」
「本格的な防具とか欲しいよねー」
腕を組んで悩む御珠の横で、光莉がのんきな声を上げた。
―――
湊と棟方の実践組の隣。
あたしたち護身術組は、別のマットの上に移動した。
「そなたらはまずは受け身じゃ。怪我をされてはたまらんからの」
「あ、それ体育でやったー。
あの手をバシーンってやるやつでしょ。
意味あんのあれ?」
光莉が気の抜けた声で言いながら、適当に手を振り下ろす真似をする。
「ふむ。本気で取り組んでおらぬようじゃな。
ほれ。妾の手首を掴むのじゃ」
御珠がすっと右手を前に差し出した。
「え?こう?」
光莉が軽い足取りで近づき、その細い手首に手を伸ばす。
だが、光莉の指が触れるより早く、御珠の手がひらりと裏返った。
逆に光莉の手首を、蛇のように絡め取る。
「え?え?っちょ!」
光莉が素っ頓狂な声を上げた次の瞬間、御珠の足が光莉の足を軽く跳ね上げた。
視界の中で、光莉の体がふわりと宙に浮く。
御珠は掴んだ手首をくるりと回し、そのまま光莉の体をマットへと叩き落とした。
バシーン!
乾いた衝撃音と共に、光莉が背中から派手に落ちる。
「げほ!」
(っちょ!容赦ねぇじゃねーか!)
背中を激しく打った光莉が、カエルのように手足をバタつかせながら咳き込んでいる。
あたしは思わず数歩後ずさった。
「ほれ。いま、ぬしの手はどこにあった?」
光莉の左手は宙を掻いたままで、完全にフリーになっていた。
「本気で床を叩かぬから背中を打ち付けたのじゃ。
手で衝撃を逃がす。落ちる角度を変える。
受け身の大切さが、身をもって分かったであろう」
御珠が冷徹に見下ろすと、光莉は咳き込みながら何度もコクコクと頷いた。
(やべーもんの蓋開けちまった)
「御珠っちひどいよー」
光莉がマットに転がったまま、涙目で抗議の声を上げる。
御珠は悪びれる様子もなく、パンと手を叩いた。
「では受け身の練習じゃ」
あたしたちは逆らうこともできず、後ろに倒れながらひたすら床を叩く練習を繰り返す羽目になった。
―――
受け身の練習でしこたま床を叩かされた後、あたしたちは壁際に座り込んで水分補給の休憩に入った。
スポーツドリンクを飲みながら、ふと隣を見ると、御珠が体育館の窓の外をじっと見つめている。
その視線の先は、ここから遠くに見える篠見高校の方角だ。
何を思い出したのか、御珠の頬が緩み、とろけるような恍惚とした表情を浮かべている。
(これ、昨日なんかあっただろ)
ペットボトルのキャップを閉めながら、あたしはわざとらしく横目で睨みつけた。
「雪杜となんかあったか?」
「べ、別に何もしておらぬぞ!」
御珠の肩がビクッと跳ね上がり、翠の瞳が激しく泳いだ。
明らかに挙動不審な態度に、あたしは思わず鼻で笑う。
「何かしたかなんて聞いてないだろ。
んで何したんだ?」
「な、何もしておらぬ!」
ぶんぶんと首を横に振る御珠だが、耳の先まで真っ赤に染まっているのが隠しきれていない。
(御珠がこんなに焦るとか。おもしろ)
いつもの偉そうな態度はどこへやら。
狼狽える様子を眺めていると、横から光莉がニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「えーえー、御珠っち、ついにゆっきーとシちゃったのー?」
「し、しておらぬ!」
「きゃはは!御珠っち赤くなってかわいー!」
顔を覆ってしゃがみ込む御珠を指差して、光莉が腹を抱えて笑い転げる。
(まったく。何したんだよ)
あたしも呆れ半分、興味半分で御珠の藍色のつむじを見下ろした。
いたたまれなくなったのか、御珠はバッと勢いよく立ち上がった。
「休憩は終わりじゃ!続きをやるぞ!」
「えー、何シたか教えてよー」
光莉の呑気な声を背中で払い除けるように、御珠は真っ赤な顔をしてそっぽを向いた。
―――
「受け身は様になってきたようじゃの」
「転び飽きたー」
何度もマットに背中を打ち付け、光莉がジャージの裾を払いながら口を尖らせる。
「では最も簡単な護身術を教えるのじゃ」
「おう!」
「やったー!」
やっと受け身地獄から解放されると聞いて、あたしと光莉のテンションが一気に上がる。
だが、御珠はすまし顔で顎に手を当てた。
「と言ってもさっき一度見せたのじゃ」
「あの足払いか」
「そうじゃ」
棟方の巨体をあっさりとマットに沈めた、あの滑らかな技。
「華蓮。かかってくるのじゃ」
「いくぞー」
軽く手首を回し、あたしは拳を握って御珠へと飛び込んだ。
棟方がやったのと同じように、テレフォンパンチの軌道で殴りかかる。
だが、御珠の小さな手が視界を掠め、あたしの突き出した腕を軽く払ったかと思うと、同時に足元に鋭い衝撃が走った。
「え!?」
視界がぐるんと反転する。
だが、床に背中を打ち付ける痛覚は来ず、まるで羽毛のクッションにでも落とされたかのように、ふわっとマットに転がされていた。
気づけば、天井の照明を仰向けに見上げている。
(何が起きた!?)
目を白黒させていると、頭上から光莉のからかうような声が降ってきた。
「えー、御珠っち、さかもっちにはなんか優しー」
「分かったかえ?」
「は!?もう一回!何が起きたんだ??」
慌てて跳ね起き、あたしはもう一度御珠と対峙する。
「ふむ。何度でも見て覚えるのじゃ。
口での説明は難しいでの」
御珠が小さく手招きをする。
あたしは気を取り直して、もう一度勢いよく殴り掛かった。
しかし、結果は同じ。
腕を逸らされた感触があった直後には、またしても天井の照明とご対面だ。
(分からん)
まるで見えない糸で引かれたかのように、ただ転がされるだけ。
「光莉、いけ。あたし、転がされるところ見てる」
「えー、なんか怖い……」
さっきの受け身の練習で派手に投げ落とされたトラウマがあるのか、光莉が後ずさる。
「なに、次は手加減するので大丈夫じゃ」
「じゃぁ……えい!」
光莉が恐る恐る、棒立ちのままへっぴり腰でパンチを繰り出した。
「ふむ。かかってこないとやりづらいのじゃがな」
呆れたように呟きながら、御珠がぬるいパンチの軌道をかいくぐるように踏み込む。
そして、淀みない動きで光莉の足を払った。
「っきゃ!」
短い悲鳴の後、光莉の体もふわりと宙を舞ってマットに仰向けになった。
「えっ!?」
キョトンとした顔で、光莉が自分の手足を見比べる。
(見てても分かんねー)
横から食い入るように観察していたのに、どうやって重心を崩したのかさっぱり理解できなかった。
「お互いに試すのじゃ」
「えー」
「妾、あっちの指導もあるでの。忙しいのじゃ」
言うが早いか、御珠はポカンとしているあたしたちを放置して、湊と棟方がいるマットの方へそそくさと歩いていってしまった。
―――
壁の時計が11時を回った頃。
昨日までの地獄のようなエクササイズほどではないにしろ、そこそこの疲労感が体に溜まってきた。
「きょうはこの辺にしておくのじゃ」
「「ありがとうございました」」
御珠の号令に合わせて、あたしたち四人は頭を下げた。
「ふぃー。疲れたねー」
ジャージの襟をパタパタと仰ぎながら、光莉がマットの上にへたり込む。
「ああ、昨日までほどじゃねーけどな」
タオルで首筋の汗を拭い、あたしはペットボトルに残った水を飲み干した。
「つーか、これいつまで続けんだ?」
「さぁ、休み中ずっと?」
「さすがに正月は休むだろ」
(雪杜たちはいつまで続ける気なんだ?)
天井を見上げながら、あたしは小さく息を吐き出した。
「ねね。どっかになんか食べにいこうよ」
「うーん」
(昨日よりは余裕あるけど、汗くせーのに変わりねーんだよなぁ)
自分のジャージの匂いをこっそり嗅ぎ、あたしは露骨に顔をしかめた。
「むー。連れなーい。
ウチもクリスマスっぽいことしたーい」
光莉がマットの上をゴロゴロと転がりながら、駄々をこねる子供のように手足をバタつかせた。
「なんもしてねーのか?」
「う、ん……」
(マジか。意外だわ)
光莉の動きがピタリと止まり、少しだけ目が伏せられた。
体育館の冷たい空気が、さらに少し重くなった気がした。
「ウチの家、あんま仲良くないから……クリスマスとか、やらないんだよねー」
(げ、地雷踏んだか)
あたしが言葉に詰まっていると、光莉はすぐに顔を上げ、いつもの調子でニコッと笑った。
「あ、でも全然平気!ウチ、そういうの気にしない子だから!」
(無理して明るくしてる感じ、しなくもないけどな)
(汗くせーけど、ま、いっか)
「じゃ、行くか」
「わーい。さかもっち大好き!」
光莉が勢いよく飛び起きて、あたしの腕にガバッと抱きついてくる。
「湊、いいよな?」
振り返ると、リュックを背負い直していた湊が小さく頷いた。
「うん」
「ムナっちも?」
「べづにいいど」
首にかけたタオルで汗を拭きながら、棟方がぶっきらぼうに答える。
「御珠どうする?」
「妾は行かぬのじゃ」
「え」
「昼から雪杜たちと合流する約束じゃ」
(そっか。こいつ午後も運動するのか)
底なしの体力に、あたしは呆れて肩をすくめた。
「えー、御珠っちいないと寂しー」
「すまぬの。また明日の午前中じゃ。
では、の」
御珠は意気揚々と荷物をまとめ始めると、軽い足取りで体育館の出口へと向かっていった。
「んじゃ、あたしらも行くか」
「なに食うがなー」
「……ラーメンとか、どう?」
湊の控えめな提案に、あたしは財布の薄さを思い出す。
(ラーメンか。最近のラーメンたけーんだよなぁ)
(まぁ、でももうすぐお年玉だし、たまには……)
「いいな。行こう」
「とんこつ行くっしょ」
「マジか」
(汗ととんこつのダブルパンチ……)
自分の匂いと濃厚な豚骨スープが混ざり合う惨状を想像し、あたしは思わず天を仰いだ。




