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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第2章 臆病者たちの一歩
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第19話 突きつけられた現実

(……来た)

(学校だ)

(2日ぶり)


冷たいステンレスの引き手をつかみ、教室のドアを横に引く。

温かい空気が、冷え切った頬を撫でた。


(濃い2日間だったな)

(1年後の約束とかしたしな)

(昨日とか、たなこのデモ配信見て、炒飯作って、もみじ山行って)

(全部、ほんとにあったことなんだよな)


自分の席へと足を踏み出そうとしたところで、前方の扉から入ってきたばかりの姿と視線がぶつかった。


(あ)


「……あ」


互いに歩みを止め、見つめ合う。教室の喧騒が、そこだけすうっと遠のいた気がした。


「……おはよう」

「……おはよう」


短い挨拶だけを交わし、逃げるように視線を外してそれぞれの席へ向かう。


(なんか)

(制服だと別の人みたいだな)

(いや、同じ人なんだけど)

(……顔、熱い)


鞄を机のフックに掛け、椅子に腰を下ろす。途端に、隣から聞き慣れた大声が降ってきた。


「よー、おっす。……顔赤いべ。大丈夫が?」

「朝、寒かっただけ」

「んだが」


棟方はそれ以上深く追及してくる様子もなく、ドカッと音を立てて自分の席に座り込んだ。


「代休、どんだった?」

「……まあ、普通」


「ほーん。わ(オレ)は実家さ行ってだ。めー(うまい)もんいっぺ(たくさん)食った」

「何食ったんだ?」


「やぎにぐ。けやぐ(ともだち)の農家がらもらったやづ」


(農業高校の奴の休みは格が違う)


―――


朝のホームルーム。

喧騒が残る教室の前方で、工藤先生が教壇に立った。


「連絡事項だ。第1回進路調査票を配る」


前の席から、書類の束が回ってくる。

自分の分を取って後ろへ回した。


「来週月曜までに提出。保護者欄も忘れずに記入してこい。以上だ」


先生の短い宣告に、クラスのあちこちから面倒くさそうな声が漏れる。

手元に届いたばかりのプリントに視線を落とした。


(進路希望……4年制大学、短大、専門学校、就職、その他)

(興味のある分野……志望する学部・学科……)


文字の羅列を指でなぞる。


(保護者欄まである)

(あたしの場合、専門学校に丸して、美容系って書けばいいのかな)

(……結構項目いっぱいあるな)


ため息をつきかけた時、隣からカリカリと軽快な音が聞こえてきた。

御珠がすでにペンを走らせている。


(はえーな)


首を伸ばして手元を覗き込む。

『興味のある分野』の欄には、堂々とした文字で『雪杜と咲良を幸せにすること』と書かれていた。


(分野じゃねーだろそれ)

(あとで雪杜に直されるんだろうな)


呆れつつ視線を動かすと、棟方が調査票をさらっと一瞥し、そのまま机の中へ無造作に突っ込むところだった。


「もう書くこと決まってんのか?」

「就職。農業。それだげだべ」


(強い)

(迷いゼロだ)


ふと斜め前に目を向けると、湊がプリントを机に置いたまま、じっと見つめていた。


(湊は……)

(何も書いてないな)

(いろいろ相談したいな……)

(将来も、一緒にいるために……)


ペンの後ろで頬をつっつきながら、そんなことを考える。


「めんどいよー。お嫁さんじゃいけないかな」


プリントとにらめっこしていた光莉が、机に突っ伏しながらぼやいた。


「それ、最強だな」


―――


1時間目。

授業中。


先生の単調な声が教室に響いている。

黒板の文字をノートに写しながら、ふとカバンの中に突っ込んだままの調査票が頭をよぎった。


(専門学校……美容系……)

(書くこと自体は決まってる)

(でも学費、どんくらいかかるんだろ)

(いよいよちゃんと調べないとダメか……)


チョークが黒板を強く叩く音で、ふっと現実に引き戻される。

先生の解説が再び耳に入ってきた。

手元のノートに視線を落とし、シャープペンシルを握り直す。


(兄は高卒で就職した)

(大学は無理だって言ってた)

(専門学校なら2年だし、4年大よりは安いだろうけど)


無意識のうちに、ノートの端へ意味のない波線を引いていた。


(……でも、いくらだ)


先生が板書を続ける乾いた音が響く。

授業中にこれ以上考えても、どうせ答えは出ない。


(帰ったら調べよ)


―――


晩飯も風呂もとっくに済ませ、パジャマ姿で自室のベッドの上に胡座をかく。

手元で光るスマホの画面を見つめた。


(やるか)


検索窓に『美容専門学校 学費』と打ち込み、表示されたリンクを上から順に開いていく。


(美容科、理容科、何が違うんだ?)


スクロールする指を止め、別タブでさらに検索をかけた。


(美容科が美容院で、理容科が床屋な。そう書いとけっての)


鼻を鳴らし、再び元のページに戻って学費の項目を詳しく追っていく。


(入学金……授業料……施設設備費……教材費……)

(初年度の教材費が高いな)

(実習用具に教科書、練習用のマネキン)


画面の情報を、開いたノートに次々と書き出していく。

シャーペンが紙を擦る音が、ふっと止まった。

導き出されたトータルの数字に目を疑う。


(……)

(にひゃく……)

(にひゃくごじゅう……)

(万?)


慌てて別の学校のページを開く。

そこを閉じ、また別のページへと飛んだ。


(どこも、だいたい同じくらいだ)

(安くても200万……高いと300万近い)


スマホを持つ手が重くなり、そのまま膝の上に力なく置いた。


(……)

(そっか)

(そんなかかるのか)


仰向けに倒れ込み、ぼんやりと天井の木目をなぞる。


(湊が言ってたな。下手すれば4年大より金がかかるって)

(4年大と比べてみよう)


上半身を起こし、再びスマホを手に取って『篠見公立大学 学費』と検索する。


(同じだ。だいたい250万。美容学校は4年大と同じくらい)

(ただし、美容学校は2年先に卒業できる)

(美容師になった場合の給料も調べよう)


検索ワードを切り替え、初任給の相場をざっと確認する。


(初任給16万……まあ、そんなもんなのか?)

(250万全部借りたとしても、実家住まいなら、一応やっていける……か)


ふと、すでに家を出ている兄の顔が浮かんだ。


(兄は高卒で就職して出ていったなぁ)

(車も買ってたな。中古だけど)

(盆に帰ってきてた時に、もっと詳しく話聞いとくんだった)


無操作のままのスマホが、手の中でぼんやりと光り続けている。


(美容師、一応なれそうだけど)

(でも……)


タイムアウトで、すっと画面が暗転した。

黒いガラス面に、不安げな自分の顔が映り込んでいる。


(……湊は、どうするんだろう)

(遠くに行ったら……やだな……)

(追いかけて、実家離れたら、きついよな……)


スマホの画面を下にして裏返し、今度こそ布団にバフッと倒れ込んだ。


(……答えが出ない)

(とりあえず、寝よ)


―――


翌日。

昼休みの教室内。


弁当を食べ終え、にぎやかになった空気を眺めながら短く息を吐いた。


(昨日、一晩考えたけど答えは出なかった)

(みんな、どうするつもりなんだろ)


ふと目に入った大きな背中へと近づいていく。


「なあ、進路調査票、もう書いた?」

「昨日のうぢに書いだべ。就職。農業」


「実家継ぐのか?」

「んだ。わ(オレ)は最初っからそのつもりだべ」


「迷わなかったのか?」

「なんも(全然)。わ(オレ)、家継げってずっと言わいじゅー(れてる)し」


胸を張って答える棟方の顔は、どこまでも清々しい。


(強い……)

(こういう奴が一番強いよな)


揺るがない決意に少しだけ圧倒されながら、次はスマホを弄っている光莉に声をかけた。


「光莉は?」

「んーまだ。迷ってるんだよねー」


「何と何で迷ってんだ?」

「それが何にも決まってないんだよね。やりたいこと、特にないし」


「そういやなんで農業高校来たんだ?」

「えーそれ聞いちゃう?」


悪戯っぽく笑う光莉の様子に、つい肩の力が入る。


(あ、これ重そうなヤツだ)


「いや、いい……」

「えー、ウチ頭悪いしー。ここなら勉強しなくても入れたしー」


(御珠、一生懸命勉強してたぞ……)


「なんだ。そんな理由かよ」


拍子抜けして肩を落とす。


(全然重くなかった)


くだらない会話を切り上げ、窓際で外を眺めている御珠の元へ向かった。


「御珠、進路もう決めたのか?」

「ふむ。まだじゃ」

「そっか」


「ちょうど雪杜も調査票を出されておっての。今宵、咲良も含め、三人で相談するつもりじゃ」

「なんか重そうな会議になりそうだな」


「何になろうと、妾は雪杜のそばにいるだけじゃよ」

「雪杜、果報者だな」


迷いのない翠の瞳を見つめ返す。


(こいつなら、地球の裏でもついていくんだろうな)


御珠から離れ、最後におとなしく本を読んでいる湊の机に手をついた。


「湊は?進路」

「……僕は弘大の農学部、考えてる」


「フラワーショップは?」

「バイトでいつでもなれるみたいだし、花を研究する方向に行こうかなって」

「なるほどなぁ」


「でも入るの難しそうなんだよね。一般入試だと僕の学力だと厳しいから、推薦狙う形になると思う」

「クラス1位なのに難しいのか?」

「本来普通科から行くようなところだし」


少しだけ困ったように笑う顔を見て、胸の奥で小さく計算を弾く。


(弘前か。隣の街ならギリギリ付き合っていけそうだな)


「ね。ムナっち、お嫁さん募集してない?」

「は!?よ、嫁とか早えすぎるべ!」


教室の反対側から、やけに明るい光莉の声と、裏返った棟方の声が響いてきた。


(光莉、ムナっちのこと好きなのかなぁ)

(からかってるだけにも見えるけど)


そのやり取りをぼんやり眺めていると、控えめな声に引き戻された。


「……華蓮は、やっぱり美容専門学校?」

「一応……」

「……そっか」


湊の視線が、わずかに下を向く。


(「そっか」かぁ……)


―――


翌日、金曜・昼休み。

いつものように机をくっつけて、御珠、光莉と三人で弁当のフタを開ける。


卵焼きを箸でつつきながら、正面に座る御珠に声をかけた。


「会議どうなった?進路決まったか?」

「三人で農大に行くことにしたのじゃ」


「農大って県立の?」

「そうじゃ。そこなら妾でも入れると分かっての」


御珠は得意げにふんすっと胸を張り、箸を持ったまま続ける。


「雪杜と咲良と三人で通うことにしたのじゃ」

「は!?あの二人進学校だろ!?」


「うむ。最初は妾も“やめよ”と申したのじゃがな……

 “こんなはずではなかった”と嘆く妾を、雪杜が優しく抱きしめてくれての……」


御珠の頬がほんのりと赤く染まり、うっとりとした表情で宙を見つめる。


「三人でいる方が大事じゃと。はぁ……雪杜……」


「は!?なに惚気てんだよ!」

「なにそれ!ドラマみたい!いいなぁ」


光莉が身を乗り出し、目をキラキラさせて騒ぎ立てる。


「てか、御珠っち農大いくならウチもそうしよっかなぁ」

「お前もそんな簡単に……」


呆れてため息をつき、手元の弁当箱に視線を落とす。


(あたしは……)

(あたしだけ、違う方向だ)


―――


御珠たちの賑やかな席を離れ、自分の席で静かに過ごしている湊の元へ足を向けた。


「御珠、農大だって」

「そっか」


湊の視線が手元のノートに落ちる。

周囲の笑い声だけが、私たちの間を通り抜けていった。


「……昨日、弘大のこと調べてみたんだ」

「おう」


「やっぱりガチ研究っぽくて、やっていけるか自信なくなった……」

「でも研究する方向に行こうって?」


問いかけると、湊は少しだけ困ったように眉尻を下げた。


「そうなんだけど……」


(何か言えない理由あるみたいだな)


「……じゃあ、どうするんだ?」

「だから、迷ってる……」


語尾が弱々しく消えていく。


「……そっか。あたしも調べた。美容専門学校」

「……どうだった?」

「2年で、250万から300万くらいかかるんだって」


湊の目がわずかに見開かれる。


「……そっか」


(また「そっか」だ)

(責めてるわけじゃないのは分かる)

(でも、なんか)


胸の奥に、言葉にできないもやもやとした重たさが居座る。


「……華蓮の家、大丈夫そう?」

「……分かんない。たぶん奨学金借りることになると思う」


「前、借金だって言ってなかった?」

「そうだけど、他に方法ないし……」


俯いたまま答えると、湊もまた視線を落とした。


「……そっか」


吐き出した息が、どこにも行き場をなくして床に落ちる。

重苦しい空気を取り払うように、廊下から午後の授業を知らせる予鈴のチャイムが響き渡った。


「……午後、農場だな」

「うん」


「着替えにいくか」

「うん」


短く頷き合い、私たちは重い足取りで教室を後にした。


―――


その夜。

夕食の片付けが終わり、母の家事もようやく一段落した頃合いを見計らって居間へ顔を出した。


テーブルの向こうでは、少し酒の入った父がテレビを眺めている。


「母さん。これなんだけど」


進路調査票をピラリと広げて見せた。


「あら。もうそんな時期なのね」


母はプリントを覗き込み、目を細める。


「渉《わたる》ってどうしたんだ?」

「渉も最初は進学考えてたわ……」


母は少しだけ目線を泳がせ、口ごもる。


「でもね……」


隣で缶チューハイを傾けている父の方をちらりと見た。


「俺がバカで稼ぎが低いからな。すまんな」


「『大学費用は出せそうにない、行くなら奨学金で』って言ったの。

 そしたら、じゃあ就職するって」


「あの子ったら、実家から通える範囲でも就職できただろうに、わざわざ家を出ていって」


愚痴っぽくこぼす母の言葉を、父が鼻で笑って遮る。


「どうせ女でも連れ込みたかったんだろ」


父の身も蓋もない発言に、母は苦笑いを浮かべた。


「まあ、否定はできないけど、車のローンもあるし、苦労かけるのが申し訳なくて……」

「なるようになる。俺がそうだった」


(だから、うちは貧乏なんだよ!)


喉まで出かかった文句をぐっと飲み込む。親に向かって言えるはずもない。


「そっか……あたしも就職した方がいい?」

「華蓮に任せるわ。学費は出せないけど、家に住むなら食費とかは気にしなくていいから」

「ありがとう」


短く返した言葉とは裏腹に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


(……なんか、泣きそう)

(やめろ、そういうのは)


鼻の奥がツンとするのを誤魔化すように、わざと乱暴にプリントをテーブルに置く。


「じゃあ、ここになんか適当に書いといて」


調査票の隅にある保護者欄をトントンと指差した。

すぐに『娘にすべて任せます』と書かれたプリントを受け取り、背を向ける。

自室へ向かう階段を上りながら、小さく息を吐き出した。


(母ちゃんはあんな父ちゃんのどこが良かったんだ?)

(まあ、顔は悪くないけど、顔は)

(なんだかんだで中古だけど持ち家だし、子供三人育ててるし、すごいことなんだろうけど)


―――


自室のベッドの端に腰掛け、膝の上で組んだ手を見つめる。


(明日、どうするか決めてなかったな)

(電話……するか)

(でも、昼間なんか微妙な空気で終わったし)


手探りでスマホを引き寄せ、湊とのトーク画面を開いた。


(……電話しづらいな)

(こんなの初めてだ……)


迷いを断ち切るように、緑色の通話ボタンをタップして耳に当てる。

コミカルな呼び出し音が鳴り、二回目あたりで途切れた。


『……もしもし』

「あ、出た。明日どうする?」


スピーカー越しの微かなノイズに耳を澄ませる。


『うん。どうしよう……』


(なんか元気ないな)


何も聞こえない時間が長引く前に、思い切って踏み込んだ。


「昼間のことか?」


電話の向こうで、小さく息を呑む気配がした。


『うん……』


(あたしもいい加減覚悟決めなきゃな)

(このまま自然消滅とかやだし)

(火曜日まであんなにラブラブだったのに……)


フリースのシーツをぎゅっと握りしめ、自分を奮い立たせる。


「明日、ちゃんと話そう」

『分かった……』


「とりあえず、公園でも行くか。紅葉きれいなとこ探しといてよ」

『うん』


相槌を打つ声は、やっぱりまだ少し沈んでいる気がした。


「じゃ、詳細決まったら連絡して」

『うん。おやすみ』

「おやすみ」


通話終了の短い音が鳴り、画面が暗くなる。

スマホを枕の横に放り投げ、部屋の電気を消した。真っ暗な天井を見上げる。


(覚悟、決めなきゃ……)

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