第17話 彼氏の部屋で
火曜日。午前10時。
自転車を玄関脇に止め、目の前の建物をまっすぐに見上げた。
(これが、湊の家……綺麗な家だな)
(やっぱ昨日のは社交辞令だった)
スカートの裾を軽く払い、少し乱れた前髪を指先で整える。
(そこそこ遠かったな)
小さく息を吐き出して、玄関のチャイムを鳴らした。
ピンポーン、という電子音が家の中に吸い込まれていく。
カチャリと鍵の開く音がして、ゆっくりと扉が開いた。
「おはよう」
「お、おはよう……」
顔を出した湊の視線が、あたしの私服をまじまじと捉えて止まる。
(おうちデートなのに、スカートは攻めすぎたかな……)
「か、かわいいよ……」
「ありがと……」
急に頬が熱を帯びるのを感じて、視線を足元に逃がした。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
靴を脱いで、少し緊張しながら家の中へと足を踏み入れる。
「こっちだよ」
湊の背中を、少し距離を空けてついていく。
そのまま廊下を進み、リビングの前を通り過ぎた。
(あれ?リビング過ぎちゃったぞ?)
湊は立ち止まることなく、階段に足をかけて上り始める。
(え!?もしかして部屋に案内されてる!?)
(いきなり押し倒される!!?)
心臓の音がうるさく跳ね上がり、思わず両手で胸元を隠すように身構えた。
2階の廊下の奥、ひとつのドアの前で湊が立ち止まる。
「えっと。僕の部屋……」
「いきなり押し倒したりしないよな?」
湊が振り返って、思い切り目を丸くした。
「え!?1年は我慢なんじゃ……」
「だ、だよな」
湊が慌てて両手を振るのを見て、あたしも少しだけ肩の力を抜いた。
「華蓮に見せたいものがあって」
(あー、なるほど!あれだ!!)
湊がゆっくりとドアノブを回し、扉を押し開ける。
「どうぞ」
―――
案内された部屋に入ると、まず目に飛び込んできたのは机の上に並ぶ本格的な機材だった。
さらに、机全体を覆うように巨大な段ボール製の防音ブースが鎮座している。
「おおー!!なんだよこれー!!かっけー!!」
あたしは吸い寄せられるように机へ飛びついた。
(マイク、ミキサー、ポップガード……これ全部、たなこの!!)
黒光りする機材の数々に、自然と胸が高鳴る。
「これ全部配信に使ってんの?」
「うん。このマイクで声当てて、ここ通してボイチェンかけて……」
湊が細い指先で一つ一つの機材をなぞるように説明してくれた。
「この段ボールのやつ、例の手作りの?」
「そう。きょうは誰もいないけど、一応準備してみたよ」
「すげー!すげー!」
興奮のあまり、段ボールの壁をぺたぺたと触りながら弾んだ声を上げてしまう。
(これで、こないだ愛してるとかやってたのかよ!)
つい数日前、あたし一人のために開かれた花言葉の配信が不意に脳裏に蘇った。
あの時の甘い言葉を思い出し、一気に顔へ熱が集まるのを感じる。
あたしは照れを誤魔化すように、機材の方へ身を乗り出した。
「なぁなぁ、実際に配信してるとこ見たい」
「うん。そう言うと思って準備してた」
湊はふわりと笑って、デスクに向かい、手慣れた様子で機材を操作し始める。
スマホをアームに固定し、ソフトを立ち上げていく。
(手慣れてんなぁ)
「準備できた。限定で始めるから、LINEにURL送るね」
「うん」
すぐにスマホが震え、URLが届く。
画面をタップするとYouTubeが開き、見慣れた『たなこ』のアバターが映し出された。
湊が口を動かすと、スピーカーからあの穏やかな声が流れ出す。
『……こんにちは。たなこです』
「うぉぉー!!」
『っちょ、テンション高いって!』
思わず叫んだあたしに、画面の中のアバターが慌てたような顔をする。
「目の前にたなこがいるんだぞ!黙ってられるかよ!」
震える指でコメント欄をタップし、素早く文字を打ち込んだ。
コメント:かわいい
『ふふ。コメントありがとうございます』
画面の中のたなこが、ふわりと柔らかく微笑む。
「ぐは」
(鼻血でそう)
そのままの勢いで、頭に浮かんだ言葉を送信する。
コメント:鼻血でそう
『膝枕して、止まるまで待ってあげるね』
(ああ、後ろから抱きしめたい!)
甘すぎる破壊力に耐えきれず、あたしは膝から崩れ落ちた。
「ギ、ギブ……」
「ちょっと!大丈夫!?」
あたしの異変に気づいた湊が、慌てて振り返り、駆け寄ってくる。
床に座り込んだあたしの肩に手をかけ、覗き込んでくるその顔が近くて。
(ああ、湊、かわいいなぁ……)
(このまま……)
気づけば、あたしは立ち上がりながら湊を強く抱きしめていた。
首筋のあたりに顔を埋め、すんすんとその匂いを嗅ぐ。
(ああ、なんか……)
「か、華蓮!しっかりして!」
湊の抵抗を押し切るように、そのままベッドの方へ体重をかけた。
「ダメだって!」
パチン、と。
頬に軽い衝撃が走る。
だいぶ手加減された、小さなビンタだった。
「え」
「ダメだよ華蓮!昨日約束したばっかりだよ!」
「え、あたし……」
弾かれたように身体を離す。
(って男の方がブレーキ踏むのかよ!)
自分の頬をさすりながら、急速に冷静になっていくのがわかった。
「ごめん……痛かったよね……」
「い、いや。悪いのあたしだし……」
(やばかった。いま完全に……)
(御珠と一緒に寝た時のあの感じだった)
変なスイッチが入りかけていた自分に気づいて、背筋が冷たくなる。
「とりあえず落ち着こっか。座って座って」
「あ、ああ」
促されるまま、あたしは床にペタンと座り込んだ。
「僕、飲み物でも持ってくるね」
「うん」
湊が部屋を出ていき、一人になってようやく心臓の音が落ち着いてきた。
深く息を吐いて、ぐるりと部屋を見渡す。
(花の本、いっぱいあるんだな)
(ちゃんと片付いてる)
本棚には植物図鑑や園芸の雑誌が整然と並んでいる。
(あたしの部屋より全然きれいだ)
(配信セットの存在感がすげーけど)
そんなことをぼんやり考えていると、ドアが開く音がした。
お茶の入ったグラスを二つ持った湊が戻ってきて――ぴたりと足を止める。
「ん?」
湊の視線を辿って、ハッとした。
あたしは床の上で、スカートの裾をガバッと広げたまま、思い切りあぐらをかいていた。
「うおっ!」
慌てて両足を閉じる。
「見た!?」
「……っ見てない!」
湊はさっとそっぽを向いたが、その耳まで真っ赤に染まっている。
どう見てもバッチリ見た顔だ。
「さ、サービス成功……」
御珠の言葉を借りて強がってみたものの、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。
「えっと、お茶……」
「ありがと……」
差し出されたグラスを受け取り、冷たい水出しのお茶を一口飲む。
冷たい喉越しに、ようやく全身の熱が引いていく気がした。
「落ち着いた?」
「あ、うん」
「ふふ。あんなに興奮してくれるの、ちょっと嬉しかった」
「えっと、ごめん……そうだよな。1年我慢するって言ったもんな」
俯いて謝ると、湊が苦笑する気配がした。
「華蓮の目の前での配信は禁止だね」
「だな。VTuberは手が届かないからいいんだってことが分かった」
そこからは、グラスを傾けながらの他愛ない会話に戻った。
「これ、もう使わないのか?もったいなくないか?」
デスクの上の立派な機材を見上げて尋ねる。
「うーん。どうしようか迷ってて。使わないなら、売れるうちに売ろうかなって」
「そっか……売っちまったらもう見れなくなるのか……」
「売るのはミキサーとマイクだけだよ。声は僕だけど配信はできるよ?」
「え?そうなのか?」
(湊の、生の声で、たなこの顔で……)
想像してしまい、また胸の奥がソワッと鳴る。
「そ、そのうち試すね。遠隔で……」
「あ、ああ。隣はダメだ」
変な空気になりかけたその時、あたしのお腹がぐうっと派手な音を立てた。
「……」
「……そろそろお昼にしよっか」
「……炒飯だな」
気まずさを誤魔化すように立ち上がり、あたしたちは連れ立ってリビングへと向かった。
―――
キッチンに並んで立つ。
「材料は昨日のうちに買ってきたんだ」
「よし。本物の炒飯、楽しみにしてるぞ」
期待を込めて腕を組む。
湊が冷蔵庫を開け、がさごそと中を探る。
取り出してきたのは、真っ赤なキムチの袋だった。
「……えっと」
「なんだ」
「キムチ炒飯にします」
予想外の宣言に、思わず声が漏れる。
「……は?」
「キムチ炒飯です」
湊は真顔で繰り返した。
「ずりーぞ!!」
「炒飯は炒飯だよ」
「キムチ炒飯とかうめーに決まってんじゃん!」
反則級の食材に抗議するあたしから、湊がスッと視線を逸らす。
「……でも、僕のレシピで作るって言ったし。
華蓮に美味しいもの食べて欲しかったし……」
「なっ……!」
(そんなこと言ったらなんも言えねーだろ!)
モジモジとした姿でそんなことを言われ、あたしはぐっと言葉を飲み込む。
「じゃあ、食べる……」
「うん。作るね」
湊が嬉しそうに微笑み、フライパンを火にかけた。
まずはひき肉とキムチを一緒に炒め始める。
ごま油とキムチの焦げる香ばしい匂いが、キッチンいっぱいに漂ってきた。
(……ぐは、これだけでうまそう)
炒めた具材を一旦別皿へ移し、湊は次にご飯を炒め始める。
そして、その上から溶き卵を回し入れた。
「へー、卵が後だとこうなるのか」
「ご飯粒を卵が覆うから美味しくなるんだよ」
「楽しみ」
フライパンの中で黄金色に染まっていくご飯を眺める。
湊が手際よく塩コショウで味を調え、別にしておいたひき肉キムチを一気に投入する。
強火でザッと炒め合わせると、食欲をそそる音が響いた。
「はい!お待ちどうさま!」
「おお。うまそう!」
湯気を立てる炒飯が、二つの皿へ綺麗に盛り付けられる。
出来立ての皿を運び、居間のテーブルに向かい合って座る。
「「いただきます」」
スプーンですくい、一口、口へ運ぶ。
(……)
(……うんま)
ピリッとした辛味と旨味が口いっぱいに広がった。
「キムチとかずりーぞ」
「おいしい?」
「……おいしい。でも」
湊がスプーンを止めて、首を傾ける。
「でも?」
「番外戦だ。あたしが負けたわけじゃない」
「番外戦」
「次は正攻法で勝負だかんな」
負け惜しみ気味に指を突きつけると、湊は目を細めた。
「……ふふ。わかった」
スプーンを進めながら、ふと、ある重大な事実に気づく。
(……あ)
(キムチ……口……)
(この後ソファでいちゃいちゃするよな)
(キスとか……)
咀嚼する手がピタリと止まる。
(キムチ食べた口でキス……)
口内に残る強烈なニンニクの風味を感じながら、あたしはじっとりと目の前の湊を睨みつけた。
「どうしたの?」
「……ガムとかある?」
「一応あるけど」
湊がスプーンを止めて、視線をこちらに向けた。
「歯ブラシ持ってくるんだった……」
「……」
あたしの言葉に、湊もようやく事の重大さに気づいたらしい。
スプーンを持ったまま押し黙る。
「デリカシーなくてごめんね……」
「いいって。んなこと言ってたらなんも食えなくなるじゃん」
気まずそうに肩を落とす湊に、あたしは慌ててフォローを入れた。
「二人で同じもの食ってるならきっと気にならないって」
「そうなのかなぁ……」
「うまいからよし!」
「うん」
なんとか明るく締めくくり、あたしたちは臭いものって美味しいよなと笑い合いながら、キムチ炒飯を平らげた。




