第16話 お楽しみは一年後
空になったお皿を重ねてキッチンへ運び、シンクに張った水に浸けておく。
のそのそとリビングに戻り、ソファに深く腰を下ろした。
テーブルの上には、氷が溶けて半分になったコーラのグラスが置かれている。
「食った」
「食べたね」
「……午後、何しよっか」
「何しようねぇ」
満腹特有の気怠さに身を任せ、二人してぼんやりと天井を見上げる。
「映画とか見る?」
「あー、いいな」
「ドラマでもいいよ」
隣で湊が体を起こし、軽く首を傾げた。
「なんかあるかな……」
(でもビデオレンタル行くのめんどくせーな)
「華蓮ち、テレビでサブスク見れる?」
「うち、DVDプレイヤーしかない……レンタルショップ行くのめんどくせーな」
あたしが面倒くさそうに吐き捨てると、湊はなぜか得意げに目を細めた。
「ふふーん。いい物持ってきた」
湊は足元に置いていた自分のリュックを引き寄せ、ジッパーをジリッと開けた。
中から出てきたのは、薄くて黒いA4サイズのノートパソコンだった。
ケースから滑らせるように取り出す手つきが、やけに滑らかで板についている。
「これ、配信で使ってたやつ」
「え、なんかすげぇの出てきた」
『配信』という単語に、あたしは思わず身を乗り出して目を輝かせた。
あの『たなこ』を生み出していた機材が、今目の前にあるのだ。
「Wifiは?」
「ない」
「じゃあ、テザリングで」
「テ……テザ……」
未知の単語に舌がもつれる。
「テザリング。ノートPCにスマホの電波間借りさせるやつ」
「おう。テザリングな」
(よくわからんけど)
知ったかぶりをして頷くあたしをよそに、湊は迷いのない手つきでセットアップを始めた。
自分のスマホの画面を数回タップし、リュックのポケットから黒いHDMIケーブルを取り出す。
「テレビ借りていい?」
「いいぞ」
湊はテレビの裏側に手を伸ばし、迷うことなくケーブルを繋ぎ込んだ。
(なんか、すごい)
(こういうの全然わかんないけど、なんか、すごい)
「……なんかそういうの詳しいな」
「VTuberやって、配信機材とかいじってたんで」
横顔を見つめるあたしに、湊が事も無げに答える。
「なるほど」
テレビのリモコンをいじり、出力を切り替える。
「おー!!」
「これで何でも見れるよ」
「すげぇ!」
見慣れたいつものテレビに、パソコンの画面がそのまま映し出されている。
(やだ、この子すごい)
(あ、あ、なんか……)
不意に、腹の奥がきゅっと熱く締め付けられた。
女の子みたいに細い腕の湊が、急に『男の子』に見えてしまって、鼓動が一気に跳ね上がる。
「何見る?」
振り返った湊と視線がぶつかる。
あたしは必死に表情筋に力を入れ、平静を装った。
「よ……よくわからんから、何でもいいぞ。
そうだ。あれ、Netflixっての見てみたい」
「ネトフリね。了解」
大きく深呼吸をして、荒れそうな息をぐっと胸の奥に押し込める。
あたしの動揺に気づいたのか気づいていないのか、湊は少し照れたような顔で、トラックパッドを撫でて画面をスクロールし始めた。
―――
ソファに並んで深く座り直す。
テレビの画面には、湊のパソコンから出力された動画配信サイトのメニューが並んでいた。
トラックパッドを滑らせ、湊が次々とサムネイルをスクロールしていく。
「これとか、評判いいみたい」
「どんなの?」
湊の手元を覗き込みながら尋ねる。
「ラブロマンスって書いてある」
「じゃあそれで」
「うん」
パッドをとんと叩くと、再生が始まった。
洒落たオープニング映像が流れ、ドラマの本編が幕を開ける。
(字幕があれば見れるな)
(雰囲気あるじゃないか)
画面を見つめながら、少しだけ姿勢を崩してリラックスする。
しかし、数分後。
画面の中で、見つめ合っていた男女が急接近し始めた。
(……あ)
(これ、そういう流れか)
甘いBGMと共に、生々しい濡れ場が始まる。
テレビの大画面から流れてくるそれに、あたしは瞬きすら忘れて画面から目が離せなくなった。
(え、え、韓国ドラマえっろ!冒頭からこれって!)
(湊、これわざと選んだだろ!)
抗議してやろうと、そっと横目で隣を確認する。
視界に入った湊は、首の裏まで真っ赤にして俯いていた。
(わざとじゃない!?)
(なんてもの選んでんだよお前!)
テレビからは、やけにリアルな吐息が響き続けている。
永遠にも思える時間が過ぎ、ようやくそのシーンが終わった。
静寂が降りてきたリビングで、二人とも黙って画面の続きを凝視している。
「……」
「……韓国ドラマってエロいんだな」
なんとか絞り出すように言うと、湊の肩がびくっと跳ねた。
「ぜ、全部がそうじゃないと思うけど……」
「まぁ、掴みでエロいのぶっ込むのはよくある手法だし」
「そうだね。もうちょっと見てみよっか……」
気まずさを誤魔化すように、湊が小さく頷く。
そのまま続きを見ていると、物語は急速に動き出した。
さっきの甘い空気とは打って変わって、激しいすれ違いと葛藤のシーンが続く。
(あ、これおもしろいやつだ)
いつの間にか、気まずさは消え去っていた。
画面の中で、男が土砂降りの雨の中を走っている。
ヒロインに追いつき、その腕を強く掴んだ。
(……やるじゃないか韓国ドラマ)
女がゆっくりと振り返る。
その頬を、雨か涙かわからない滴が伝っていた。
男は何も言わず、ただ強く女を抱きしめる。
(……)
(ずるい)
(こういうのずるいんだよな)
胸の奥が締め付けられるような展開に、ふと横目で湊を確認した。
湊は瞬きも忘れたように、真剣な顔で画面をじっと見つめている。
(こいつも見入ってる)
やがて物語が終わり、画面にエンドロールが流れ始めた。
静かで切ない音楽が、リビングを優しく包み込む。
「……よかったね」
「……よかったな」
(……いいドラマだったな)
(あの主人公、バカだけど、まあわかる気もする)
やがて音楽がフェードアウトし、エンドロールが終わる。
テレビの画面が暗転し、黒い液晶に自分たちの姿がぼんやりと反射した。
なんとなく、言葉を発せずにそのままの姿勢でいる。
「……」
「……」
画面の反射越しに視線が交わり、ゆっくりと顔を向け合う。
どちらからともなく、吸い寄せられるように顔が近づいた。
(あ)
唇に柔らかな感触が触れ、気づいた時にはキスをしていた。
(……あたしから?湊から?)
(どっちでもいっか……)
湊の手が伸びてきて、そっとあたしの頬に触れる。
顔の角度が変わり、吐息が深く絡み合った。
(……あ)
(これ、ヤる前のヤツだ)
(脳が……蕩ける……)
ローテーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホが、ブブッと短く震えた。
反射的に目が開き、視界の端で光る画面の通知バーが目に入る。
御珠:暇じゃ
(くっそ!あいつも代休だった!!!)
構わず唇を押し当ててこようとする湊の肩を、あたしは両手でぐっと押し返した。
抵抗されてハッとしたのか、湊がそっと体を離す。
「……ごめん。嫌だった?」
「いや、そうじゃない……」
乱れた息を整えるあたしの脳裏に、昨日の夜の電話の声が鮮明によぎった。
『一線越えていいかはよく考えて』
(……)
(考えた。今すごい勢いで考えた)
(まだ……早い気がする……)
熱くなった頬を両手で包み込み、一つ大きく息を吐き出す。
「……やっぱまだ早いと思うんだ。
付き合って1ヶ月ちょっとだし」
少し俯いていた湊が、ゆっくりと顔を上げて頷いた。
「……うん」
「怒った?」
「怒ってない」
湊は自分の膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。
「……僕も、ちょっと焦ってたかも」
「そっか」
気まずさの抜けた、穏やかな静寂がリビングに下りてきた。
「期限、決めよっか」
「期限?」
「いつまで付き合えたら、とか決めとくと楽らしい」
「……誰情報?」
訝しげに目を丸くする湊に、あたしは小さく笑った。
「莉子」
「……莉子って、中学の時の友達?」
「そう。おでん買いに来てた。
中1から3年以上同じ彼氏と付き合ってる大先輩」
湊は納得したように、感嘆の声を漏らす。
「へー」
それから、二人してテレビの暗い画面を見つめたまま、頭をひねった。
「丸1年……どう?」
「……うん」
「1年経っても、まだ好きあってたら、その時考えよう」
「うん」
窓の外から、遠くの道路を走る車の音が微かに聞こえてくる。
「来年も文化祭あるよな」
「うん……代休だね」
「ああ。代休」
テレビの画面が切り替わり、次のエピソードの選択画面が明るく表示された。
(1年)
(長いような、あっという間のような)
(……来年のあたしたち、どうなってんだろ)
ノートPCのパットに手を当てた湊が、あたしの方を振り返る。
「続き、見る?」
「見る」
―――
壁の時計が午後3時を指した。
4時前には、母さんか弟のどちらかが帰ってくる可能性が高い。
リビングで背負い慣れたリュックを肩にかけた湊が、ゆっくりとした足取りで玄関へ向かう。
「じゃあ……また明日」
「ああ」
湊がたたきに下りて、スニーカーに足を入れる。
靴紐を結び直す背中を、あたしは無言で見下ろしていた。
「今日、楽しかった」
「……あたしも」
立ち上がった湊が、ドアノブに手をかけようとしてふと立ち止まる。
振り返ったその口元が微かに動き、すぐにまた閉じた。
「どした?」
あたしの問いかけに、湊はドアから手を離した。
そのまま一歩、また一歩と近づいてきて、あたしの唇に触れるだけの軽いキスを落とす。
(……)
「えへへ。別れるのなんか寂しくて……」
「うん……。あたしも……」
言い終わる前に、今度はあたしの方から湊の唇を塞いだ。
鼻先が触れ合う距離で、互いの息遣いが混ざり合う。
ゆっくりと体を離すと、湊の頬がほんのりと桜色に染まっていた。
「明日、すぐ会えるし。明日は湊の家でドラマの続きな」
「うん」
湊は小さく頷き、思い出したように人差し指を立てる。
「……あと、炒飯ね」
「ああ。本物の炒飯、楽しみにしてる」
「ふふ。期待しといて」
今度こそ湊はドアノブを握り、重い扉を押し開けた。
外の冷たい空気が、少し熱を持った玄関に流れ込んでくる。
日はまだ高く、オレンジ色には遠い昼下がりの光が差し込んだ。
「じゃあね、華蓮」
「気をつけて」
手を振る湊に振り返し、あたしはその小さな背中が門を抜けて見えなくなるまで、名残惜しそうに見送った。
バタン、と静かにドアが閉まる。
静寂が戻った玄関で、あたしはそのまま壁にもたれかかった。
(……)
(さっきの帰り際のキス……こっちから押し倒したくなった)
(1年も我慢できるのか、あたし)
スウェットのポケットに無意識に手を入れると、朝からずっと入れっぱなしになっていた小さな四角い感触に指先が触れた。
(来年の代休まで、出番こないよな?)
(お守り変わりに持っておくか……)
大きく息を吐き出して、玄関の天井を仰ぐ。
(明日は、あたしが行く番か)
(炒飯……楽しみだな)
―――
湊が帰った後、あたしは居間のソファに座ってぼんやりと天井を眺めていた。
ローテーブルの上には、氷の溶けきったコーラのグラスが二つ、残ったままだ。
(……来年の代休か)
(まだ先だな)
玄関の方から、ガチャリと鍵が開く金属音が響いた。
「ただいまー」
「おかえり」
パタパタと足音が近づき、仕事から帰ってきた母さんがリビングに入ってくる。
テーブルの上に残された二つのグラスを見て、それからソファに座るあたしの顔をじっと見つめた。
そのまま、何も言わずに口元をにんまりと緩める。
(……何か言え)
(そのニヤニヤをやめろ)
無言の圧力に耐えきれず視線を逸らすと、母さんが楽しそうな声をあげた。
「これはお赤飯かしら」
「いらないから!」
「あら、残念」
言葉とは裏腹に、母さんの表情はどこかホッと安堵したように見えた。
そのままテーブルの上のグラスを二つ手に取り、キッチンへと向かっていく。
カチャカチャとシンクにグラスを置く音が聞こえてきた。
「楽しかった?」
「……まあ」
「そう」
それだけ。
それ以上は、何も聞いてこなかった。
水道から水が出る音を聞きながら、あたしはソファの背もたれに深く体重を預けた。
(……母ちゃん、心配してたっぽいな)
―――
夜9時過ぎ。
自室に戻り、あたしはそのままベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。
スウェットのポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。
莉子とのトーク画面を開き、文字を打ちかけては消すのを数回繰り返した。
結局、文字にするのが面倒になって通話ボタンをタップする。
数コールの後、少し弾んだ声が耳に届いた。
『もしもし』
「報告する」
『報告ね。どうだった』
「……キスした」
『うんうん』
電話越しに、莉子が深く頷く気配がした。
あたしは天井の照明を見つめたまま、言葉を続ける。
「それで止めた」
『えらい』
「ゴムは使わなかった」
『えらい』
子供を褒めるような莉子のトーンに、思わず口角が緩む。
「期限決めた」
『えらい!いつまで?』
「1年。来年の文化祭の後の代休まで」
『いいじゃん』
スピーカーから、衣擦れの音が微かに聞こえる。莉子も自分の部屋でくつろいでいるのだろう。
『ちゃんと自分たちで決めたのね』
あたしは小さく息を吸い込み、少しだけ声を落とした。
「……なぁ、聞いていいか」
『何を?』
「初めてって、怖かった?」
『……』
通話口から聞こえていた物音が、ぴたりと止む。
わずかな静寂が降りた後、莉子は静かに、でもはっきりとした声で答えた。
『怖かったけど、颯太だったから大丈夫だった』
「そっか」
『華蓮も、彼氏さん、優しそうだしきっと大丈夫だと思うよ』
「……うん」
窓の外から、遠くを走る車の音が微かに聞こえてきた。
すっかり暗くなった窓ガラスに、ぼんやりと部屋の明かりが反射している。
『来年の代休、楽しみだね』
「気が早い」
『ふふ』
莉子の優しい笑い声と共に、通話が切れた。
スマホを耳から離すと、画面がLINEのトーク一覧に戻る。
そこには、昼間に届いたまま未読になっているメッセージが表示されていた。
御珠:暇じゃ
(……そういえば、放置してたな)
あたしは小さく息を吐き、画面をタップして短い文字を打ち込んだ。
華蓮:こっちは暇じゃない
送信ボタンを押して数秒も経たないうちに、既読がつく。
あいつのことだ、スマホを握りしめて返信を待っていたのだろう。
そう思った矢先、立て続けに吹き出しが表示された。
御珠:妾も今は忙しいのじゃ
御珠:雪杜とちゅっちゅしておるのじゃ
(ちゅっちゅってなんだよ!くそ!!)
あたしはベッドの上でガバッと身を起こし、スマホの画面を思い切り睨みつけた。
(あいつ、ちゅっちゅしながらわざわざあたしに返信打ってんのか?)
想像するだけで腹が立つような、呆れるようなため息が漏れる。
苛立ちをかき消すように、あたしは再びベッドに倒れ込み、熱を持ったスマホを自分の胸の上にそっと置いた。
(……来年)
(来年……湊と……)
心臓の音が、トクン、トクンと画面越しに伝わってくる気がする。
夜の静寂に包まれた部屋で、親友への悪態と、胸の奥の心地よい余韻がごちゃまぜになって響いていた。




