第15話 卵が先だろ
二日間にわたる文化祭の熱気からようやく解放され、自室の掃除やら風呂やらを済ませたあたしは、どさりとベッドに仰向けに倒れ込んだ。
天井の木目をぼんやりと見つめながら、ぐるぐると頭の中を巡る悩みにため息をつく。
(やっぱ相談しないとだよな)
寝返りを打ってスマホを手に取り、画面に表示された「莉子」の文字をタップする。
数回のコールの後、聞き慣れた声が耳に届いた。
『もしもし』
「こんばんは」
『こんばんは』
「文化祭きてくれてありがとう」
あたしが礼を言うと、電話の向こうから軽い笑い声が返ってくる。
『いいのいいの。デートし飽きて、イベントないかなーって一生懸命探してるんだから』
「さすが、3年も付き合ってるとそうなるのか……」
『マンネリって言うのかな……。早く車とか乗って遠くに行きたいよね』
時計の秒針が進む音が、静かな部屋にカチ、カチと響く。
あたしは言葉を探すように短く息を吐いた。
『で、きょうは何の相談?』
「えっと、明日、彼氏を家に呼ぶことになったんだけど……」
『えー!早くない!?』
驚いたような甲高い声に、あたしは思わずスマホを耳から少し離した。
空いた手で、ベッドのシーツを無意識に引っ掻く。
『てかおでん売ってた時に隣にいたのが彼氏?』
「うん……」
『へー。すごいかわいらしい彼氏だね』
「ま、まあな」
照れ隠しに視線を泳がせると、机の上に置きっぱなしになっているヘアピンが目に入った。
『へー。へー。佐々木みたいなマッチョだと思ってたからなんか意外』
「そ、そんなの昔の話だろ」
『ふーん。で?』
あたしは寝返りを打ってうつ伏せになり、スマホを口元に近づけて声を潜めた。
「なんか代休でやることないなーってなって、お互い家に誰もいないし、金もないし、家でごろごろしよっかって……
なぁ、おうちデートってナニすればいいんだ?」
電話口から聞こえるのは、莉子の小さな寝息のような微かなノイズだけ。
『……ナニって、映画とかゲームとかじゃなくて、ナニのこと聞いてる?』
「は!?違うし!」
『いまさら隠さなくていいよ。ゴムは用意した?』
「……やっぱりいる?」
顔にカッと血が上るのを感じながら、あたしは枕に顔を押し付けた。
『いるに決まってるでしょ。
どうするつもりか知らないけど、どっちにしても用意しといた方がいいよ』
「そう、だよな……」
『一線越えていいかはよく考えて』
莉子の真面目なトーンに、あたしは無言で頷く。
見えない相手に対しての癖だ。
『いつまでもはぐらかすと愛想つかされるから、期限決めるといいよ』
「期限?」
『私たちの場合は「高校生になってから」って決めてたよ。颯太も約束守ってくれたし』
「そっか。期限か……」
窓の外から、遠くを走る車のエンジン音が微かに聞こえてくる。
『なんか初々しくていいなぁ』
「そうか?」
『うん。なんでも初めてが一番楽しいよね』
「まぁそうかもな。ところで初めてって痛かった?」
耳元で、通話が強制的に切断された無機質な電子音が鳴り響いた。
(もう隠さなくていいだろうに)
あたしはスマホをベッドの脇に放り投げ、再び仰向けになって天井の照明を見上げた。
(高校生になってからか……)
(もう、なってるんだよなぁ)
―――
月曜日の朝。
リビングのソファに深く沈み込みながら、あたしは無意味にスマホの画面をスクロールしていた。
メッセージアプリを開いては閉じ、また開く。
起きてから30分、ずっとこの繰り返しだ。
(……10時だよな)
画面の右上に表示された時計の数字を、穴が開くほど見つめる。
(まだ2時間ある)
(なんで2時間前から落ち着かないんだあたし)
キッチンから聞こえていた水道の音が止まり、スリッパの足音がこちらへ近づいてきた。
台所仕事を終えた母さんが、エプロンで手を拭きながら居間に顔を出す。
「今日、来るんでしょ」
「は!?な、なにが!?」
唐突な言葉に、スマホを取り落としそうになる。
母さんは呆れたような、でもどこか楽しそうな目でこっちを見下ろしていた。
「昨日、部屋掃除してたじゃない。文化祭で疲れてるはずなのに」
「……な、なんか気になったんだよ」
視線を逸らし、ソファのクッションを無駄に抱え直す。
「朝からそわそわしてるし」
「べ、別に……」
「ちょっと待ってなさい」
言い残すと、母さんは階段を上って二階へ行ってしまった。
パタパタという足音を聞きながら、嫌な予感が背筋を駆け上がる。
(まさか)
しばらくして、再び階段を下りてくる足音が響いた。
居間に戻ってきた母さんは、ごく自然な動作で、リビングのテーブルに小さな四角いパッケージを置いた。
「……」
初めて見るけどすぐに分かった。
自分のために買おうとしたことなんて一度もないそれに、あたしは完全にフリーズした。
「そういう雰囲気になったら、必ず使うのよ」
「う、うん……」
母さんは事も無げに言うと、仕事に行く準備を始めた。
(……後で買いに行こうと思ってたけど)
(助かった)
テーブルの上のソレをひったくるように掴み、素早くスウェットのポケットに押し込む。
鏡を見なくてもわかるくらい、自分の耳がカッと熱を持っていた。
母さんは出勤の準備をしながら、ふと思い出したように口を開く。
「ふふ。今夜はお赤飯かしら」
「なんでだよ!」
あたしは真っ赤な顔で、準備を続ける母さんの背中へ向かって叫んだ。
(この家、赤飯好きすぎだろ!)
―――
午前10時ちょうど。
静かな家の中に、ピンポーンと無機質なチャイムの音が響き渡った。
ドアノブに手をかけ、あたしはふぅ、と長く深呼吸をする。
(落ち着け。いつもと同じだ)
(いつもと同じ湊が――)
ガチャリと金属音を立てて重い扉を開く。
しかし、そこに立っていたのは、あたしの予想を完全に裏切る姿だった。
シンプルなグレーのパーカーに、細身の黒いパンツ。
背中にはいつものリュック。
制服でもなければ、モールで待ち合わせた時のようなウィッグもスカートもない。
ただの、どこにでもいる男の子の私服姿だった。
「……お、おはよう」
湊が、何かを探るように挨拶をした。
「おはよう……」
「えっと……きょうは男の恰好で来てみたよ」
湊は少しはにかみながら、その場でくるっと小さく回って見せた。
パーカーの裾がふわりと揺れる。
「家でのんびりするなら、こっちのほうがくつろげるし……」
そう言い訳するように呟くと、湊は照れくさそうに視線を足元へとずらした。
「お、おう」
(おうってなんだよ)
(でもしょうがない)
自分の間の抜けた返事に呆れつつ、目の前の湊をまじまじと見つめてしまう。
(男の私服……普通に、男の子じゃないか)
(かわいい……)
心臓がトクンと大きく跳ねた。
(かわいい!?)
男の格好をしているのにそんな感想を抱いてしまった自分に、一気に顔が熱くなる。
沈黙してしまったあたしを不思議そうに見上げ、湊が小首を傾げた。
「……入っていい?」
「あ、ああ。どうぞ」
弾かれたように慌てて壁際に寄り、通り道をあける。
「お邪魔します……」
控えめな声と共に、湊がゆっくりと玄関のタイルに足を踏み入れた。
―――
靴を脱いで廊下に上がった湊が、興味深そうにきょろきょろと辺りを見回す。
「へー、これが華蓮のうちかぁ」
「狭くて汚いだろ」
「そんなことないよ」
遠慮がちに笑う湊の横顔を見ながら、あたしは小さく息を吐いた。
(まあ、社交辞令なんだろうな)
(明日、こいつの家行った時に本当かわかる)
廊下の真ん中で立ち止まり、湊が首を傾げる。
「えっと、華蓮の部屋?リビング?」
「え!」
変な声が出た。一気に体温が跳ね上がる。
(あたしの部屋……ベッド……)
「まだ来たばっかだし!居間で!」
「?……確かにまだ来たばっかりだけど……居間ね」
不思議そうに瞬きをする湊を、あたしは逃げるようにリビングへと案内した。
ソファに並んで座る。妙な距離感が空いてしまった。
「えっと、なんか飲むか?」
「お、おかまいなく……」
そうは言われても、何もしないわけにはいかない。
あたしは立ち上がり、冷蔵庫から冷えた麦茶を出してグラスに注いだ。
テーブルの上にコトンと水滴のついたグラスを置く。
「どうぞ……」
「はい……」
静寂が落ちる。
時計の針の音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。
(なんかしゃべれよ!)
耐えきれなくなった空気を破るように、湊がグラスを両手で包みながら口を開いた。
「えっと、お昼どうしよっか」
「そ、そうだな!昼飯どうしよう!」
声が上ずってしまったのを誤魔化すように、あたしは視線を泳がせた。
「コンビニか……何か作るか……食べに行くか……」
湊がポツポツと選択肢を挙げる。
「せっかく家にいるからなんか作るか」
「うん!いいね!」
湊の顔がパッと明るくなる。
「料理できる?」
「簡単なものなら……」
「あたしも、炒飯くらいなら……」
「炒飯いいね!それにしようよ!」
無邪気に喜ぶ姿に胸を撫で下ろし、あたしは勢いよく立ち上がった。
「おう。ちょっくら冷蔵庫、見てくる」
キッチンへ向かい、冷蔵庫の扉を開けて中身をざっと確認する。
(卵はあるな。ネギと豚肉欲しいな)
扉を閉めて、ソファで待つ湊の元へ戻る。
「買い出し行くか」
「うん。一緒に行こうよ」
立ち上がった湊と目が合い、自然と口角が緩んだ。
「買い物デートだな」
「買い物デート。楽しそう」
湊がふにゃりと笑う。その笑顔につられて、あたしの頬も緩みっぱなしだ。
(ふふ。こいつと二人だとなんだってデートだよな)
足取りも軽く、二人で並んで玄関へと向かう。
「なに買うの?」
「豚肉とネギ。あとなんかあったら」
「コーラ飲みたいな」
スニーカーに足を通しながら、他愛のない会話が弾んでいく。
―――
平日の昼前。
人通りの少ない住宅街を、二人で並んで歩く。
すれ違うのは犬の散歩をしているお年寄りくらいで、いつも歩き慣れているはずの道が、まるで別の場所みたいに思えた。
(学校でも外でもない)
(家の近所に湊がいる)
(……変な感じ)
横を歩く湊が、きょろきょろと周囲の家並みを眺める。
「この辺、静かだね」
「平日だから」
「そっか」
自動ドアを抜け、スーパーの中へ入る。
入り口に積まれた買い物かごに手を伸ばすと、同時に伸びてきた湊の手とぶつかりそうになった。
湊が遠慮がちにスッと手を引っ込める。
あたしはそのまま、かごを一つだけ抜き取った。
(二人で一個のかごだ……)
なんだか同棲でもしているみたいで、また顔が熱くなる。
誤魔化すように足早に精肉コーナーへ向かうと、湊がパックに詰められた豚こま肉を手に取った。
「これでいい?」
「うちは豚バラなんだ」
「え?脂っこくない?」
「それがいいんだよ」
湊からパックを奪い取るようにして戻し、代わりに豚バラ肉をかごに放り込む。
続いて野菜コーナーへ移動すると、湊が陳列棚の前でしゃがみ込んでいた。
並んだ長ネギを、じっと真剣な顔で観察している。
「……ネギって、農場のと全然違う顔してるね」
「プロが作ったのと比べるとか失礼だろ」
「白いとこ多いよね」
「後から後から土を盛って隠すと白くなるらしいぞ」
あたしの受け売りの知識に、湊は感心したように目を丸くした。
「へー」
(こいつ、どこでも農家みたいなこと言う)
ネギをかごに突っ込み、最後に飲み物コーナーへ向かう。
ペットボトルの並ぶ棚を見上げて、湊が指を差した。
「あ、コーラあった」
「弟も飲むから1.5Lのでかいのにしとこう」
「じゃ、これで」
湊が大きなペットボトルをかごに入れると、腕にずしっとした重みがのしかかった。
(重!カートにすりゃよかった)
顔に出さないように腕に力を入れた瞬間、横から手が伸びてきて、すっとかごの持ち手を握られた。
「僕、持つよ」
「お、おう」
あっさりと持ち上げられ、かごが湊の手に移る。
細い腕のどこにそんな力があるんだと驚きつつ、空になった自分の手を持て余す。
(くそ、キュンとさせんじゃねぇ!)
―――
狭い家のキッチンに、並んで立つ。
まな板に向かう湊は、長ネギを真剣な顔で刻んでいる。
トントンと規則正しい音が響くが、ペースはゆっくりだ。
(包丁は使えるんだな)
(でも遅い)
手元を覗き込むと、几帳面に同じ幅で切ろうとしているのがわかる。
「……もうちょっとざくざく切っていいぞ。どうせ炒めるし」
「そう?こんな感じ?」
「そう」
あたしは横でコンロの火をつけ、中華鍋に油を引いた。
湊が切り終えたネギを、丁寧にボウルへと移す。
「次は?」
「豚バラ炒めてくれるか。あたしは卵の準備する」
菜箸を渡すと、湊はパックの豚バラ肉を熱した鍋に投入した。
ジュッ、と食欲をそそる派手な音がキッチンに響き渡る。
「おいしそー」
「おう。腹減ってきた」
肉が焼ける香ばしい匂いを嗅ぎながら、あたしはボウルに卵を割り入れ、シャカシャカとかき混ぜた。
「豚バラは最後にまた投入するんだ」
「うん」
色が変わった豚肉を、一旦別のお皿に取り出す。
あたしは菜箸を握り直し、空いた鍋に溶き卵を流し込もうと手首を傾けた。
「え!?ま、待って!?」
「なんだ」
湊が慌てたように両手を振ってあたしの手首を止める。
「卵先に入れるの!?」
「違うのか?」
キョトンとして聞き返すと、湊は信じられないものを見るような顔をした。
「卵は後じゃない!?」
「え、べちゃっとなるだろ」
「そんなことないよ。ちゃんとパラパラになるから」
「そうなのか?でもめんどいからいいや」
構わずボウルを傾けようとすると、湊がさらに身を乗り出してくる。
「っちょ!ちょっと!めんどいって、まだ投入前だから間に合うよ!」
「いいだろ。好きなように作らせろよ」
「えー」
不満そうに唇を尖らせる湊の顔が、おかしくてたまらない。
「じゃあ、明日」
「明日?」
「明日、湊の家で、湊のレシピで作って食べ比べしようぜ」
あたしの提案に、湊の目がスッと細められ、口角がにやりと上がる。
「面白そう。絶対華蓮より美味しいの作るから」
「はは。楽しみだ。
じゃあきょうはあたしのレシピな」
「うん」
挑戦を受けて立つように頷くのを横目に、あたしは鍋に溶き卵を一気に流し込んだ。
ジューッという音と共に、黄色い卵がふわりと膨らむ。
半分くらい固まったところに、すかさず冷やご飯を投入した。
ネギも放り込み、ご飯を崩すように手早く炒め合わせる。
最後にさっきの豚バラ肉を戻し、塩コショウを振って味を調えた。
コンロの火力を最大まで上げ、鍋を数回煽る。
「ほい。できた」
いい匂いを漂わせる炒飯を、二つのお皿にこんもりと盛り付けた。
湯気の立つお皿を両手に持ち、居間のテーブルへと運ぶ。
グラスには、買ってきたばかりのコーラをなみなみと注いだ。
シュワシュワと炭酸が弾ける。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、湊がスプーンで炒飯をすくって口へ運ぶ。
もぐもぐと咀嚼する口元を、無意識に見つめてしまった。
「……おいしい」
「だろ」
胸を張って答えると、湊はもう一口食べながら視線を上げてきた。
「おいしいけど」
「けど?」
「きっと僕の方が美味しいもんね」
自信満々な目でそう言い放つ。
(意外と負けず嫌いだった)
(かわいい……)
強気な口調に、また心臓の奥がくすぐられる。
「明日、楽しみだな」
「本物の炒飯というものをお見せしますよ」
湊の得意げな笑顔に、あたしは思わず声を出して笑った。




