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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第2章 臆病者たちの一歩
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第10話 出汁の香りに乗って

文化祭前日の朝。


いつもの教室は、ホームルームが始まる前からどこかそわそわとした空気に包まれていた。

教壇に立った工藤先生が、よく通る声で本日の予定を告げる。


「今日は終日準備だ。男子は設営班、昇降口前の特設エリアへ。女子は仕込み班、調理実習室だ」


その言葉を合図に、あちこちで椅子を引く音が重なった。

浮き足立ったクラスメイトたちが、次々と立ち上がっていく。


「いよいよ前日だー!」


光莉の明るい声が響く中、隣の席で湊もゆっくりと立ち上がった。

こちらを向き、少しだけ名残惜しそうに視線を落とす。


「華蓮、じゃあ……また、お昼に」

「おう。頑張れよ、委員長」


短く返すと、湊はふっと柔らかく笑った。


「華蓮も」


それだけ残して、湊は棟方たちと一緒に教室の扉へ向かって歩き出す。

どんどんと遠ざかっていく背中を、あたしはただ静かに見送っていた。


(……なんか、新鮮だな)

(あいつと別々に動くの)


付き合い始めてから、学校ではなんとなくずっと一緒にいた気がする。

そんなことをぼんやりと考えていると、不意に腕を掴まれた。


「華蓮、行くぞ」


振り返るより早く、御珠がぐいっとあたしの手を引く。


「お、おい」


有無を言わさず、そのまま教室の外へと連れ出された。

前を歩く藍色の髪が、廊下の風に揺れている。


「待ってよー」


後ろから追いかけてくる光莉の足音を聞きながら、あたしたちは調理実習室へと向かった。


―――


調理実習室。

1年生の女子たちが集まる中、エプロン姿の家庭科の先生が入ってきた。


「きょうの調理実習室は1年、2年で共同で使ってください。

 1年生はおでんの仕込み、2年生は唐揚げの仕込みです」


先生がパンパンと手を叩いて指示を出す。


「1年生は取れたての玉子もあるから、これでゆで玉子も作って、おでんのタネにしてください」


先生が指差した先には、卵がぎっしり詰まったダンボールが置かれていた。


「わー。卵もあるんだ。美味しそう!」

「2年は唐揚げかぁ」


(来年、うちらもやるのかな)


隣で光莉がはしゃぐのを聞きながら、あたしはぼんやりと2年生の調理台へ目を向けた。


「唐揚げ……!」


突然、横から大きな声が上がる。

御珠が目を輝かせて身を乗り出していた。


「妾の得意料理じゃ!唐揚げなら、誰にも負けぬぞ!」


得意げに胸を張る親友。

しかし、その視線の先にいる2年生の女子たちは、鶏肉を処理しながらなぜか一様に浮かない顔で黙々と作業していた。


(なんかあっち暗いな)


「先輩、なんかあったんですか?」


あたしが怪しむより早く、光莉がずかずかと先輩の調理台へ歩み寄っていく。


(さすが光莉。先輩にも臆しない)


包丁を握っていた先輩の一人が、ため息混じりに口を開いた。


「……1年はいいわね。お気楽で」

「え、2年は何が……」


光莉が首を傾げる。

先輩は手元のまな板に視線を落とした。


「この鶏肉ね。自分たちで絞めたの……」


その言葉に、光莉の動きがピタッと止まる。


(え、自分たちで!?)


隣で作業していた別の先輩が、血抜きの終わった肉をボウルに移しながら説明してくれた。


「この学校。畜産科はないんけど、鶏小屋だけはあってさ。生産科の2年が世話することになってるの。

 で、文化祭の唐揚げ用に、自分たちで絞めるのが習わしなんだって」


再び口を開いた最初の先輩が、恨めしそうな声でぽつりと告げる。


「来年は、あなた達の番よ」


あたしの顔からも、さぁっと血の気が引いた。


(マジか。鶏うるせーと思ってたけど、来年うちらが世話するのかよ)

(絞める授業する学校あるって聞いたことあるけど、本当にあるんだな)


「ウチ、できる気しない……」


光莉が青ざめた顔でフラフラと後ずさる。


(……だよな。あたしも出来る気しないわ)


さっきまで唐揚げだと意気込んでいた御珠も、その勢いをすっと止めていた。


「……」


無言のまま、先輩の手元にある鶏肉をじっと見つめている。


「……大切に、いただくのじゃな」


ポツリとこぼれた声に、先輩たちが少し驚いたように御珠を見た。


「……うん。そう」

「妾も、手伝うてよいか」


御珠が一歩前へ出る。


「え?おでんは?」


先輩に問い返され、御珠は自分のエプロンを見下ろした。


「……そうじゃな。おでんが先じゃ」

「気持ちは嬉しいけど、1年は1年の仕事やって」


先輩が少しだけ表情を和らげ、苦笑混じりに手を振る。

御珠はこくりと頷き、調理台の鶏肉に向かって静かに両手を合わせた。


「……ありがたく、いただくのじゃ」


「御珠っち、おいでー」

「うむ」


光莉の声に呼ばれ、御珠はゆっくりと自分たちの作業台へ戻ってきた。


あたしたちもおでん用の大根の下処理に取り掛かる。

ピーラーで皮をむき、包丁で面取りをして、味を染み込ませるための隠し包丁を入れていく。

御珠も、自分たちで収穫した大根の山から一本手に取り、丁寧に皮をむき始めた。


「来年、本当にやるのかな……」


作業しながら、光莉がまだ青い顔で呟く。


「案ずるな。妾が率先して絞めるでの」


御珠が包丁を動かしながら、平然と返す。


「御珠っち強いね」

「家畜とはそういうものじゃ。割り切ることが大切じゃ」


(こいつなら躊躇なく絞めそうだな)


妙な頼もしさに、あたしは小さく息を吐いた。

御珠は手元の大根にふたたび視線を落とす。


「……これも、大事に煮るのじゃ」


面取りした白い大根を、そっと鍋の底へ沈めていく。


(……さっきより、なんか丁寧になってる気がする)


隣のコンロで、大きな鍋がボコボコと音を立てた。


「玉子も茹で上がったよ!」


光莉が鍋の火を止める。


「大根と玉子だけのおでんか」


あたしが呟くと、御珠が鍋の中を覗き込んだ。


「うむ。良い組み合わせじゃ」


(……それでも、ちゃんとあたしらが作ったやつだな)


湯気の上がる鍋を見つめながら、あたしは包丁の柄を握り直した。


―――


昼休み。

午前中の作業を終えた設営班と仕込み班のメンバーが、次々と教室に戻ってきた。


「華蓮、そっちはどう?」

「ぼちぼちだな。ダシの匂いと鶏肉の生臭いのが混じってやばい感じ」


「え?鶏肉?」

「そう。2年生は唐揚げ売るんだって」


あたしの説明に、湊がへえ、と小さく頷いた。


「そっちはどうだ?」

「うん、ムナがすごい働いてくれて……」


湊が指差した先では、棟方が自分の席で巨大な弁当箱を開き、無心で飯をかきこんでいた。

そこへ、エプロンを外した光莉がずかずかと踏み込んでくる。


「ちょっと、2年生の先輩から聞いた話、聞いてよ!

 2年生が出す唐揚げ用の鶏肉、自分たちで絞めたんだって!

 来年、ウチらの番なんだって!」


悲鳴のような光莉の報告に、棟方は箸を止めることなく顔を上げた。


「ん?そったもん普通だべ」

「は!?普通!?」


あっさりと告げられた事実に、光莉が口をパクパクさせて固まる。


「うぢも何羽が飼ってるんで、たまに絞めでるし」


(こいつ、こういうとこブレないよな)

(さすが農家の子)


感心して隣を見ると、湊がさあっと顔色を悪くして自分の両手を見つめていた。


「……僕、できるかな。

 鶏、小屋の前通るとき、いつも可愛いなって思ってて……」


(あー、湊もそっち側か)


「やっぱり!?」


ぶんぶんと首を縦に振って同意を求める光莉に、湊は少しだけ肩を落とし、それから小さく息を吸い込んだ。


「……でも、先輩たちも、やったんだよね。

 みんな通る道なら……僕も、頑張らないと」


(……こいつ、委員長任命された時もそうだったな)

(やる時はやる)


ギュッと両手を握りしめる湊に、棟方が口の中のものを飲み込んでから笑いかける。


「んだ。心配いらねぇべ。わがやりがだ教えるし」

「……ありがとう、ムナ」


(そう。あたしやムナっちが応援すればできるんだよ)

(女装をみんなにバラした時も、咲良にバラした時も、あたしと一緒だから出来たって)


湊の横顔を見つめながら、自然と胸の奥が温かくなる。


(あたしも湊と一緒なら……)


「妾も、教えてやろう」


唐突な声に視線を向けると、黒板の方を向いていた御珠がこちらを振り返った。


「御珠っち知ってるの!?」


「知らぬ。じゃが率先して覚えるのじゃ。

 来年は、皆で乗り越えるのじゃ」


胸を張ってにっこりと笑う親友の姿に、なぜか光莉がブワッと涙ぐむ。


「御珠っち……!」


(いや泣くほどか?)


感動の波に飲まれていく光莉を横目に、あたしは一人、静かにツッコミを入れた。


―――


昼休みの終わりまでは、まだ少し時間がある。

落ち着いた空気の中、あたしはふと思い出したことを口にした。


「なあ。湊のお姉さんって来るのか?」

「えと、一応来るって言ってた」

「へー。今度はちゃんと挨拶させてくれよな」


(家族になるかもしれないしな)


内心でこっそりと付け足す。

湊が照れたように少しだけ目を伏せた。


「うん。分かった」

「え、湊っち、お姉さんいるの?」


光莉が興味津々といった様子で身を乗り出してくる。


「うん。3つ上の姉がいるよ」

「凪姉じゃな」


御珠が当然のように会話に割り込んだ。


「っちょ!その呼び方やめてよ!」

「かか」


湊が慌てて抗議するが、御珠は楽しそうに笑うだけだ。


「御珠っちは知ってるの?」


光莉が不思議そうに首を傾げた。


「知ってるも何も、雪杜の従兄の彼女じゃ。何度かうちにも遊びに来ておるのじゃ」

「え!?そうなの!?」


湊が素っ頓狂な声を上げる。


「なんじゃ。そなたも知らぬのかえ。たまに一緒に買い出しに行っておるのじゃ」


(思ったより深い仲だった)


驚いて目を見開く湊の横で、あたしも小さく息を呑んだ。

天野家との繋がりが、いつの間にかそんなところまで広がっていたなんて。


「え、じゃあじゃあ、明日はその従兄も一緒に来るの?」

「凪姉が来るならおそらく」


御珠の言葉に、湊がむっとした顔で声を張り上げた。


「もう!凪姉は御珠さんのお姉さんじゃないからね!」

「え!?そこ怒るとこなの!?」


「……」


光莉が目を丸くする前で、湊はしまったというように顔を赤くして俯いた。

どうやら、シスコンっぷりを晒してしまったのが恥ずかしいらしい。


(お姉ちゃんいなかったら、とっくに壊れてたって言ってたな)


あの喫茶店での会話を思い出し、あたしは小さく息を吐いた。


「光莉。からかうな。湊と姉の絆はからかっていいものじゃねえ」


「もう。またなの!?なんか知ってる風なのずるい!

 御珠ちゃんの秘密も教えてくれないし!」


光莉が不満げに両頬を思い切り膨らませる。


「まあ、そう言うなって。あたしは湊の彼女だし、いろいろ聞いてるんだよ」

「ぶー。じゃあ、ウチも湊っちの彼女になるー」

「おま!絶対ダメだかんな!」


(雪杜みたいな三角関係はごめんだ!)


あたしが全力で腕でバツ印を作ると、空気を察したのか御珠がすっと姿勢を正した。


「妾もすまなかったのじゃ。凪姉は湊にのみ許された特別な呼び名なのじゃな」

「……もう。恥ずかしいからやめて……」


湊が両手で顔を覆い、耳まで真っ赤に染めて縮こまってしまった。


―――


夕方。


調理実習室には、コンロにかけられた巨大な寸胴鍋から、甘じょっぱい出汁の香りが白く立ち込めていた。

作業を終えた設営班も合流し、クラスの全員がその大きな鍋をぐるりと囲んでいる。


「設営、終わったど。立派なもんだべ」

「うん。明日が楽しみだね」


「味見しておけ。明日のために、味は確認しておくんだぞ」


工藤先生がそう言いながら、積み重なっていた小皿と割り箸を前列の生徒たちに手渡していく。

お玉ですくわれた具材が、次々と皿に取り分けられていった。


「いただきまーす!」


光莉の明るい声に続いて、あちこちから嬉しそうな声が上がる。


あたしの手元にも、熱々の大根と玉子が乗った小皿が回ってきた。

ふと隣を見ると、御珠が両手で皿を持ったまま、食い入るようにそれを見つめている。

やがて、箸で大根を小さく切り、そっと口に運んだ。


「……」


口を閉じたまま、御珠はピタリと動きを止める。

翠の瞳が、わずかに揺れていた。


(……また泣くんじゃないか)


昨日の農場での出来事が頭をよぎり、あたしが慌てて身構える。


「……うまい」


ぽつりと、吐息に紛れるような小さな声がこぼれた。


棟方、光莉、湊も、それぞれ口々に感想をこぼす。


「んー、もうちょい味、染みねばまいねな」

「明日の朝までには染みるよきっと」

「一度冷ますと味が染みるんだよね」


互いが感想を言い合う中、御珠はもう一口、大根を口に運んだ。

こくりと飲み込み、幸福そうに目を細める。


「……んまいのじゃ」

「御珠っち薄味が好きな感じ?」


不思議そうに覗き込んでくる光莉に、御珠は静かに首を振った。


「……そうではない。春から待ち続けたのじゃ。

 明日、皆に食べてもらえるのじゃ。

 それを思うと、味が染みておらんでもうまいのじゃ」


(御珠……)


その横顔があまりにも優しげで、あたしは胸の奥がきゅっと締め付けられた。

たまらずといった様子で、光莉が横から御珠にぎゅっと抱きつく。


「明日、一緒にいっぱい売ろう?」

「うむ」


二人の様子に、あたしも思わず口元を緩めた。


「よし。鍋に蓋して、冷蔵室に保管だ。明日が本番だぞ」


先生の号令で、全員がバタバタと後片付けに動き出す。

あたしは湊と並んで、重い寸胴鍋の取っ手を持ち上げた。


「明日、よろしくね」

「おう。一緒に頑張ろう」


二人で息を合わせて、隣にある大きな冷蔵室へと鍋を運ぶ。

ふと視線を向けると、窓の外はすっかり日が落ちて、濃い藍色の夜が広がっていた。


(明日は、文化祭だ)

(……凪さんにも会うのか)

(うう、緊張するな)


知らず知らずのうちに、鍋を持つ手に力が入る。

調理室に戻ると、御珠が空になった自分の小皿を、ひどく満足げな顔で見つめていた。


「明日が、楽しみじゃ」


(うん。あたしも)


出汁の匂いが染み付いたエプロンを外しながら、あたしは明日への期待に小さく胸を弾ませた。

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