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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第2章 臆病者たちの一歩
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第8話 みんな家族じゃ

日曜の朝。


まだ静まり返った家の中、あたしは台所のまな板の前に立っていた。

不慣れなエプロンの紐を背中で結び、コンロの上に置かれた真新しいフライパンを見下ろす。


(卵焼き、形になるかな……)


冷蔵庫から取り出した卵をコンコンと縁に当て、パカッとボウルに割り入れた。

菜箸でかき混ぜていると、背後からスリッパの足音が近づいてくる。


「あら、華蓮。早いじゃない」

「……おはよう」


あくびをしながら現れた母さんが、あたしの手元をひょいと覗き込んできた。


「お弁当?」

「……まあ」


あたしのぶっきらぼうな返事を聞いて、母さんの口角がにやりと上がる。


「ふふ。お友達とピクニック?」

「そ、そう。友達と」


「一人で大丈夫?」

「……手伝って欲しいかも」


あたしが素直に白旗を上げると、母さんは自分のエプロンを引っ張り出し、嬉しそうに隣に並んだ。


「卵焼き、コツ教えてあげる」

「……お願い」


ガスコンロの火をつけ、母さんがフライパンに油を引く。

慣れた手つきで黄色い液体が流し込まれ、ジュワッと小気味いい音が跳ねた。


「巻くときは、ちょっとずつ。火加減も大事」


菜箸で器用に卵を折りたたんでいくその見事な手さばきを、あたしは食い入るように見つめる。


(こうやって、ちゃんと教わるの初めてだな)


手元に集中していた母さんが、横目でちらっとあたしを見た。


「……うまくやれてる?」

「っ……え、や、ヤるって何を!?」


昨夜の莉子との生々しい電話が頭をよぎり、あたしは変な声を出して飛び上がった。


「もう。何を言ってるのよ。うまくお付き合いできてるかって聞いてるの」

「あ、ああ。お付き合いな。うん。うん。うまくヤれてるよ」


ドッドッと鳴る心臓を悟られないように、あたしは菜箸を無駄に動かした。


(ふう。焦って変なこと言っちまった)


「初めての彼氏で、浮かれてるのは分かるけど、ちゃんとしなきゃダメよ?」

「分かってるって……」


母さんはそれ以上追及せず、フライパンの上で綺麗な黄色い長方形を完成させた。


「ほら。出来たわよ。楽しんできなさいね」

「ありがと」


まな板の上で等分に切り分け、彩りを考えながら二つの弁当箱に詰めていく。

蓋をしっかり閉めながら、先ほどの母さんの言葉がふと頭をよぎった。


(……ちゃんとしなきゃ、か)


中身が崩れないよう、あたしはリュックの底へ慎重に弁当箱を沈めた。


―――


日曜、午前10時過ぎ。


駅前で合流したあたしたちは、二人並んでのんびりと散歩コースを歩き始めた。

隣を歩く湊は、水筒や散歩コースの地図が入ったリュックを背負って少し得意げな顔をしている。


「今日のコース、ばっちり考えたよ」

「お、頼りになるじゃん」


市街地を抜けて田んぼ沿いの道に出ると、黄金色に実った稲穂が風に揺れていた。

視線を上げると、遠くに見える山肌がほんの少しだけ赤や黄色に色づき始めている。


「あの山、ちょっと色変わってきてるな」

「うん。標高の高い山は今が見頃だよ」


湊が山の稜線を指さして答える。


「バスでいけなくもないけどちょっと遠いよね」

「だな」


心地よい秋風を感じながらしばらく歩くと、少し開けた場所に出た。

どうやらコスモス畑のようだが、花はまばらで、すでに咲き終わってしまった茎が目立っている。


「あ……もう、ちょっと終わりかけかも」


期待外れの景色に、湊が申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「いや、十分きれいだろ」


あたしのフォローに応えるように、ぽつぽつと残ったピンクや白の花びらが揺れる。


「……来年は、もっと早く来よう」


湊の口からこぼれた何気ない一言。

その言葉が、あたしの耳の奥でぐるぐると反響する。


(来年……)

(来年まで一緒にいるってことだよな)


隣の湊は、残ったコスモスをじっと見つめていて、あたしの動揺には全く気づいていない。


(……こいつ以上の男?女?いないよな)

(このまま……こいつと……結婚……)

(ってまだ2週間だぞ!頭お花畑か!)


一人で勝手に暴走しそうになった思考を、ぶんぶんと首を振って強引に打ち消した。


気を取り直してさらに歩を進めると、住宅街の生垣の方から、ふわりと甘い香りが漂ってくる。


「……なんか、いい匂いするな」

「キンモクセイだ」


湊がぴたりと足を止め、香りのする方へと顔を向けた。


「金木犀。今くらいの時期に咲くんだ」

「へー」

「……この匂い、好き」


深呼吸するように目を細める湊の横顔を、あたしはそっと見つめた。


(こいつ、ほんと花のこと詳しいな)

(……金かけなくても十分楽しいじゃん)


柔らかな日差しと甘い香りの中、あたしたちはゆっくりと歩幅を合わせて歩き続けた。


―――


木陰にある静かな東屋を見つけ、あたしたちは並んでベンチに腰を下ろした。

リュックから包みを取り出し、二つのお弁当箱の蓋を開ける。


「わあ……すごい」


色鮮やかな卵焼きや丸いおにぎり、隙間を埋めるように入った唐揚げを見て、湊が目を輝かせた。


「まあ、半分くらい冷食なんだけどな」


照れ隠しでそう言うと、湊はさっそく卵焼きを箸でつまんでパクリと口に入れた。

もぐもぐと咀嚼した後、幸せそうに頬を緩める。


「すごく、美味しい」


その無邪気な笑顔に、あたしは思わず箸を持つ手を止めた。


(っ……)

(それ、あたしが作ったやつ)

(半分くらいお母さんだけど)


ドクン、ドクンと胸の奥が甘く疼く。


(なんだこれ。あたし、キュン死するんじゃ……)


急に黙り込んだあたしの顔を、湊が心配そうに覗き込んできた。


「どうしたの?大丈夫?」

「な、なんでもない」


(おちつけー。おちつけー)


動揺を悟られないよう、手近にあった唐揚げを適当に口へ放り込む。


「お。うまい。冷食だけど」

「ふふ。冷食すごいよね」


(そういや、夏休みに食べた御珠の唐揚げうまかったな)

(今度、作り方教えてもらおうっと)


そんなことを考えながら、二人でのんびりとお弁当を平らげた。


空になった弁当箱を片付けた後、満腹感とともに心地よい静寂が降りてくる。

頭上の葉擦れの音が、サラサラと耳を撫でた。


「……こういうデートもいいね」

「……だな」


隣に座る湊が、そっとこちらへ視線を向けてくる。

そのまま吸い寄せられるように顔が近づき、柔らかな唇が重なった。


(……あ)


明るい真昼間の公園で、いつ誰が通りかかるかもわからない。


(こんなとこで……)


頭ではそう思いながらも、あたしの体は逃げることなくその温もりを受け入れていた。

やがて、重なった唇の隙間を押し開くように、湊の熱い舌が触れてくる。


(あ……)


その瞬間、昨夜電話で聞いた莉子の呆れたような声が、脳内にフラッシュバックした。


『そんなの年1くらいで、ヤる直前とかにするやつ』


ビクッとして、あたしは慌てて顔を後ろに引いた。


「……?」


突然突き放された湊が、不安げに眉をひそめる。


「嫌だった……?ごめんなさい……」


みるみるうちに肩を落とし、今にも泣き出しそうになっている。


「違う……嫌じゃない……」


誤解を解くために、あたしは必死に頭を回して言葉を探した。


「……昨日の、あれ。ちょっと、すごすぎたなって。

 友達に相談したら、それはいき過ぎだって言われて……

 ヤる直前にするやつだって」


「え、え、ヤる直前……」


その言葉の響きに、あたしたちは一瞬にして顔を茹でダコのように真っ赤に染め上げた。


「だから、しばらくは……普通ので」

「……普通」

「……これくらい」


あたしから身を乗り出し、湊の唇に触れるだけの軽いキスを落とす。

チュッと短い音を立てて、すぐに体を離した。


「こういうの」


湊が目を丸くして、ぱちぱちと数回瞬きをする。


「……わかった」


やがて、ふにゃりと照れたような笑顔を浮かべた。


「私も、なんか……ちょっと、ほっとした」

「……ほっとした?」


「うん。あれ、ちょっと……やばすぎたかなって」

「だ、だよな」


お互いの本音が見えて、張り詰めていた空気がふっと緩む。


「でも、あれ華蓮が悪いんだよ。あんなことするから」

「あ、あたしのせいにするのかよ!チンコ蹴ったお詫びのつもりだったんだよ!」


「ふふ。しばらくは自重だね」

「そ、そうだ。急に距離詰めすぎだ。このままじゃすぐにいくとこまでいっちまうだろ」


あたしの言葉に、湊がピタッと動きを止めた。


「いくとこまで……」


(もう!いちいち反応すんな!)


オウム返しにする湊の顔が再び沸騰していくのを見て、あたしたちは真っ赤な顔のまま、しばらく下を向いて固まっていた。


―――


顔に集まった熱が引くのを待ってから、あたしは誤魔化すようにわざとらしく咳払いをした。


「なぁ。午後どうする?」

「えっと、雪杜のところに行きたい……」

「え!?雪杜!?なんでまた」


予想外の名前が飛び出してきて、思わず声が上ずってしまう。


湊は膝の上で両手を軽く握り合わせた。


「落ち着いたらちゃんと報告するって約束してたから。

 華蓮も連れて挨拶にいくって」


「そうなのか」


(あいつんち、たぶん咲良いるけど大丈夫なのか?)


天野家に半ば住み着いている番犬を思い出し、あたしは少しだけ身構える。


「たぶん咲良いるぞ?」

「うん。分かってる。春原さんにもちゃんと言う」


湊の瞳には、逃げずにちゃんと向き合おうとする強い意志が宿っていた。


「そっか。あたしもしっかりフォローするよ」

「ありがとう」


ふにゃりと、心の底から安心したような柔らかい笑顔を向けられる。

胸の奥がキュンと甘く締め付けられた。


(くそ!毎回こんなんじゃいつか一線越えちまう!)


あたしは慌てて視線を逸らし、立ち上がりながら服の埃を払った。


「えっと、いきなり行くと迷惑じゃないか?」

「うん。先に電話してみる」


湊がポケットからスマホを取り出し、耳に当てる。

数回のコール音の後、短い通話をしてからスマホを下ろした。


「来ていいって」

「んじゃ、行くか」

「うん」


あたしたちは東屋を後にして、雪杜たちの待つ家へと向かって歩き出した。


―――


天野家の庭を抜け、玄関の前に立つ。

隣の湊が、落ち着きなくスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。


「きき、緊張する」

「友達だろ。雪杜も御珠も一回女装見てるし平気だって」

「う、うん」


指先を震わせながら、湊がインターホンのボタンを押す。

ピンポーンと音が鳴り響き、しばらくして重い引き戸がガラリと開いた。


「おお、待っておったぞ」


機嫌よさそうに顔を出した御珠のすぐ後ろから、パタパタと足音が近づいてくる。


「いらっしゃー――あれ?たなこさん?」


ひょっこりと顔を出した咲良が、湊の姿を見て目を丸くした。


「あの、あの!」

「湊、落ち着け」


パニックになりかける湊の背中を、軽くポンと叩く。


「え!?なんか声が……え!?湊!?」

「あとでゆっくり話すから、まずは中に入れてくれよ」


混乱して大声を出しかけた咲良を遮るように、あたしは玄関の中へと一歩踏み出した。


「うむ。上がるとよいのじゃ」

「え!?え!?どゆこと!?」


きょとんとしたままの咲良を置いて、御珠がさっさと廊下の奥へと歩き出す。

あたしたちも靴を脱いで、その後を追って居間へと通された。


「いらっしゃい。ほんとにその恰好で来た」


ちゃぶ台の前に座っていた雪杜が、湊の姿を見て柔らかく微笑んだ。


「うん……文化祭の時はごめんね……」

「いいよ。女の子になりたいんだもんね」


静かに頷く雪杜の隣で、ようやく居間に追いついてきた咲良がふらふらと立ち尽くしている。


「え!?え!?田中くんなの!?」

「はい……」


湊の申し訳なさそうな返事を聞いた瞬間、咲良の動きがピタリと止まった。

口を半開きにしたまま、石像のように固まっている。


「咲良には刺激が強すぎたようじゃの」

「普通そうなるって」

「お茶を用意するのじゃ」


マイペースに湯呑みを取りに行く御珠を横目に、あたしは固まったままの咲良に歩み寄った。


「咲良ー。大丈夫かー」


目の前で手をぶんぶんと振ってみるが、瞬き一つ返ってこない。


やがて温かいお茶が運ばれてきて、五人でちゃぶ台を囲むように座った。


「びっくりした。びっくりした」

「驚かせてごめんなさい……」


虚空を見つめながら呟く咲良に、湊が小さく頭を下げる。


「びっくりした。びっくりした」

「咲良、壊れちゃった」


苦笑いする雪杜の隣で、御珠が自分のお茶をズズッと啜った。


「して、二人はなぜ付き合うことになったのじゃ?」

「それは――」


急な核心を突く質問に、あたしは湯呑みを置いて姿勢を正した。

そこからはもう、やけくそだった。


あの夜、たなこの配信を最後まで見届けたこと。

引退宣言を聞いて、どうしてもやめてほしくなくて、衝動的に電話番号を教えたこと。

そして翌日、デートをして、そのまま河川敷で……。


「なにそれ!エモい!」


あたしの赤裸々な告白を聞き終え、見事に再起動を果たした咲良が身を乗り出してきた。


(こうして言葉にすると滅茶苦茶恥ずかしいな)


咲良が、納得したように手を打つ。


「そっかー。雪杜がこそこそやってたのってこれだったのか」


雪杜が、申し訳なさそうに目を伏せる。


「ごめんね。こんな話、出来るわけないし」


「私が口止めしてたんです。ごめんなさい」


縮こまる湊に、咲良は優しく首を横に振った。


「でも勇気出して話してくれたんだね」

「はい。華蓮と一緒なら、出来る気がして」


湊がちらりとこちらを見て、はにかむように微笑む。


咲良が、にっと笑う。


「ふふ。お似合いじゃん」


あたしも、優しく目を細める。


「よかったな。湊」


あたし達の温かい言葉に、湊の瞳が少しだけ潤んだように見えた。


咲良が、ふと思いついたように顔を上げる。


「これって凪さんも知ってるの?」

「はい。凪姉も知ってます。この服がそもそも凪姉のだし」


湊が、着ているスカートの生地をそっと撫でる。


「凪姉がいなかったら、いまごろ私は……」

「そっか。凪さんすごいね」


しんみりとした空気が流れる中、あたしの頭に一つの疑問が浮かんだ。


(ん?姉のこと知ってんのか?)


「姉のこと知ってんのか?」


「ふふーん。聞いて驚け!湊くんのお姉さんと、雪杜の従兄が付き合ってるのだ!」

「は!?マジで!?」


「マジじゃ」


御珠までドヤ顔で頷いている。


(じゃあ、あの文化祭の時、御珠に話しかけてた男が彼氏か)


「ほら。これ証拠」


雪杜がスマホの画面をこちらに向けた。

そこには車の中と思われる空間で、手前に御珠、雪杜、咲良の三人が写り、奥には文化祭の時に見かけたあの女性の姿があった。


「世の中狭いよねー」

「だね」


奇妙な偶然に笑い合う雪杜と湊の横で、御珠がふんぞり返るように腕を組んだ。


「華蓮よ。これで妾とそなたは家族じゃ」

「は?なに言ってんだ?」


突拍子もない宣言に、あたしは目をパチクリとさせる。


「雪杜の従兄と湊の姉が付き合うておる」


御珠は人差し指を立てて、得意げに解説を始めた。


「その弟とそなたが付き合うておる」


次に、あたしと湊を指さす。


「妾と雪杜は兄妹じゃ」


自分の胸をポンと叩いた。


「ほれ。家族であろう?」

「は!?無茶苦茶過ぎんだろ!まだ結婚もしてねーし!」

「いずれ、皆結婚するであろう。きょうから家族じゃ」


自信満々に言い切る御珠に、あたしは思わず頭を抱えた。


「っちょ!気が早えーって!そもそも遠い親戚すぎる!」


あたしのツッコミに、ちゃぶ台を囲む全員から大きな笑い声が弾けた。

お茶の温かい湯気と、みんなの楽しそうな笑顔。


もしも本当にみんなが結婚して、御珠と親戚になれたなら。

そんな馬鹿みたいな未来が、本当に来ればいいなと、あたしは笑い声の中でそっと思った。

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