第7話 キスの魔力
金曜の夜。
自室のベッドにだらしなく寝転がりながら、あたしはスマホを耳に当てていた。
スピーカーの向こうからは、少し遠慮がちな湊の息遣いが聞こえてくる。
「で、明日どうする?」
『……えっと、行きたいところ、あるんだけど』
「お、なんだ?」
『……ボーリング』
予想外の単語に、スマホを持つ手がピタッと止まる。
(ボーリング?)
(なんかイメージと違うな)
湊の細っこい腕で、あの重い球を投げる姿がどうも想像できない。
「ボーリングか。やったことあるのか?」
『……ない。一回も』
スピーカー越しでもわかるくらい、声がしょんぼりとしている。
(一回もないのか)
(……そういう余裕なかったんだろうな)
(ま、あたしもこないだ初めてやったばっかだけど)
中学の時のあいつの境遇を思い出すと、胸の奥が少しチクッとした。
「いいよ。行こうぜ。ボーリング。あたしも一回しか行ったことないけど」
『ほんと!?やった』
パッと花が咲いたような、心なしか弾んだ声が耳に飛び込んでくる。
(……かわいい)
「じゃ、決定な」
『……うん!』
(食い気味だな)
そこからはトントン拍子で話が進んだ。
休日のボーリング場は朝かなり早くから営業しているらしい。
だったら午前中のうちに集まって一汗かいて、そのあとどこかで昼飯を食おう、というプランに落ち着いた。
「あ、そういえば」
『どうしたの?』
「ボーリングって結構動くから……スカートはやめとけよ」
『……あ』
向こうで息を呑む気配がした。
「靴も借りるし、変なとこ見えたら困るだろ」
『……うん。じゃあ、ズボンで行く』
「そうしろ」
じゃあ明日、と短く言葉を交わして通話を切る。
画面が暗くなったスマホをベッドの脇に放り投げ、そのままぼんやりと天井の木目を眺めた。
(スカートはやめとけ、って言ったけど)
(あいつ、スカートの下って何履いてんだろ)
男物のパンツか、それとも姉貴のお下がりのフリフリのやつか。
頭の中に妙な想像がもくもくと広がっていく。
勢いよく上半身を跳ね起こし、バフッと枕に顔を押し付けた。
(って何考えてんだあたし!)
―――
土曜、午前9時半。
ボーリング場のエントランス。
自動ドアを抜けると、すでに湊が到着していた。
あたしの姿を認めるなり、小走りで近づきながらぶんぶんと手を振ってくる。
「華蓮、おはよう」
「おう、早いな」
受付を済ませて、カウンターで専用の靴を受け取る。
ベンチに腰掛けて紐を結び終えた湊が、足元を気にしながら立ち上がった。
「……この靴、変な感じ」
「滑るようにできてるんだよ。転びやすいから気をつけろよ」
ぎこちない足取りの湊を引き連れて、割り当てられたレーンに向かう。
備え付けのラックから適当な重さの球を選び、あたしはまず投球位置に立ってピンを見据えた。
「……華蓮、やったことあるの?」
「GWにみんなとやったからな」
助走をつけて、軽く腕を振り抜く。
レーンを滑っていった球が乾いた音を立てて弾け、ピンが半分以上倒れた。
「こんな感じ」
「……お、おお」
目を見開いて、感心したようにあたしを見つめてくる。
(ちょっと得意げになってどうする)
(こいつ、御珠の投球みたらビビるだろうな)
あいつの290点というバケモノじみたスコアを思い出しながら、あたしはベンチに下がる。
今度は湊の番だ。
両手でしっかりとボールを抱え込み、レーンの前に立つ。
そして、ふらつきながら放たれた記念すべき第一投は、見事な弧を描いてガターの溝へ吸い込まれていった。
「……あ」
(あー、やっぱガターか)
「初めてだもんな」
肩を落とす湊の横に歩み寄り、二投目の前にフォームを教えることにする。
細い腕にそっと手を添え、投げる軌道をなぞるように動かした。
「腕、まっすぐ伸ばして……振るときは肩から」
触れた部分から、湊の体温とピキッと強張った緊張がじわっと伝わってくる。
(近いな)
(……まあ、教えるんだから仕方ないだろ)
変な意識を誤魔化すようにサッと手を離す。
湊は深く頷き、教えられた通りのぎこちないフォームで再び球を放った。
ゆっくりと転がっていったそれは、なんとかガターを免れて端のピンを数本なぎ倒す。
「……あ!倒れた!」
「やるじゃん」
振り返った湊が、ぱぁっと顔を輝かせてこちらを見た。
(っく、かわいい)
そこから2ゲームはあっという間だった。
最初はガターを連発していた湊も徐々にコツを掴み、後半にはなんとストライクを出して、両手で小さくガッツポーズを作っていた。
「やった……!」
「すげーじゃん」
程よい疲労感とともにボーリング場を出て、併設されているモールのフードコートへ移動する。
頼んだハンバーガーをかじりながら、湊が満足げに息をついた。
「楽しかった……」
「楽しめたならよかったな」
手元のスマホで時間を確認する。画面には12:31と表示されていた。
(まだ時間あるな)
「午後どうする?」
「うーん。何かある?」
「そうだなー」
トレイの上のポテトをつまみながら、頭の中で残金を計算する。
(金ないし、適当にぶらぶらでもするか)
「そうだ!映画、行ってみたい!」
「映画か」
目をキラキラさせて提案してくる湊に、あたしは内心で冷や汗をかいた。
(結構高いんだよな……)
(でも、行きたそうにしてるしな……)
期待に満ちた視線を向けられて、断れるはずがない。
あたしは小さく息を吐いてから、口角を上げた。
「いいよ。行こうぜ。いまなんの映画やってんだ?」
スマホで上映スケジュールを調べた結果、なぜか二人でホラー映画を観ることになってしまった。
―――
チケットをもぎってもらい、薄暗い通路を抜けてスクリーンへ向かう。
あたしと湊は、全体が見渡せる後方の座席に並んで腰を下ろした。
やがて場内の照明が落ち、大音量でいくつかの予告編が流れ始める。
「……楽しみだね」
「……おう」
スクリーンから放たれる強い光に照らされながら、湊が少し身を乗り出している。
予告が終わり、いよいよ本編が始まった。
画面には、古い洋館を探索する登場人物の姿が映し出される。
静かな導入部だ。
(序盤だりーな。飯くったから眠む)
満腹の胃袋が血液を奪い、脳の働きが急速に鈍くなっていく。
ふかふかの座席に深く背中を預けると、抗いがたい重力が瞼にのしかかってきた。
(やばい……落ちる……)
スクリーンからは、不気味なはずの低音のBGMが静かに響いてくる。
(……なんか、子守唄みたいだな)
視界がぼやけ、意識のピントがすうっと遠ざかっていく。
完全に夢の世界へ片足を踏み入れた、その時だった。
突如、画面の中でギィィィと何かがひどく軋む音が鳴り響く。
直後、視界いっぱいに血まみれの怪物が飛び出し、鼓膜を破るような大音量の音楽が劇場を揺らした。
「……っ!?」
心臓が跳ね上がり、思わず座席の上でビクッと体が弾ける。
反射的に手すりへと伸ばした指先が、ひんやりとした何かに重なった。
それは、同じように手すりへとしがみつこうとした隣の指だった。
「……っ」
あたしたちは二人とも、スクリーンに顔を向けたままピタリと固まる。
手すりの上で、あたしの手と湊の手がしっかりと重なり合っていた。
(……湊の手だ)
触れた手は、すぐには離れなかった。
細くて、冷たくて、かすかに震えている。
(離した方がいいよな)
(でも……)
画面の中で、逃げ惑う登場人物の背後に再び影が動いた。
恐怖からか、それとも別の理由からか、重なった湊の手がキュッと震え、あたしの指に少しだけ力強く触れてくる。
(……まあ、いっか)
あたしは手を引くのをやめ、そのまま重なる体温を受け入れた。
スクリーンを見つめる横顔の輪郭が、微かな光の中でこわばっている。
「……怖い」
「……だな」
震える細い指を包み込むように、あたしも握る手に少しだけ力を込めた。
―――
エンドロールが終わり、劇場内の照明がゆっくりと点灯する。
明るくなった途端、お互いにハッとして、今まで繋いでいた手をそっと離した。
「……怖かった」
「……まあな」
立ち上がり、人の波に混じって出口へ向かう。
手のひらに残る微かな熱を、ズボンの布越しにこすりつけた。
(手、離すタイミング難しいな)
(……ってか、最後までずっと繋いでた)
映画館のロビーを抜け、再びモールのフードコートへと戻ってくる。
適当なファストフード店で冷たいドリンクを二つ買い、空いているテーブルに腰を下ろした。
ストローに口をつけた湊が、思い出したように肩をすくめる。
「あのシーン、ほんとに怖かったね」
「どのシーン」
「最初の、屋敷に入るところ」
「……あー、あれな」
氷がカランと鳴る音に誤魔化されながら、あたしはスッと視線を斜め下にそらした。
(あそこ、寝てた)
「華蓮、平気そうだったね」
「……まあ、慣れてるからな」
湊がカップを両手で包み込んだまま、きょとんとした目でこちらを見つめてくる。
(やばい、墓穴掘る前に話題変えるか)
手元のメロンソーダをぐいっと飲み干し、スマホの画面をタップした。
時刻は15時を回ったところだ。
「この後どうする?」
「こないだの河川敷、散歩したい……」
俯き加減になった湊の耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていく。
(こ、これはキスの合図か!?)
ドクンッ、と心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで跳ね上がった。
「い、いいな。行こう」
ガタッと音を立てて椅子から立ち上がる。
プラスチックのカップをゴミ箱に放り込み、あたしたちは連れ立ってモールを後にした。
―――
河川敷。
16時を回り、空がゆっくりと橙色に染まり始めている。
あたしたちはいつかと同じベンチに、肩が触れそうな距離で並んで腰を下ろした。
「……ここ、来ると落ち着くね」
「……だな」
目の前を流れる川面が、傾きかけた夕日を反射してきらきらと光っている。
お互いに何も言葉を発しないまま、ただぼんやりとその景色を眺めていた。
(……いい雰囲気だな)
不意に、隣に座る湊の気配が揺れた。
顔を向けると、じっとこちらを見つめる真っ直ぐな視線とぶつかる。
「……華蓮」
「……ん?」
湊の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
重なった唇から、温かい吐息が流れ込んできた。
(……ん)
誰に教わるでもなく、自然な流れで角度を変えながら何度も唇を重ねる。
目を閉じ、湊の柔らかな感触を味わいながら、あたしはふとあることを思い出した。
(……そうだ)
重なる唇はそのままで、あたしはそっと湊の細い手を取る。
カラオケでの出来事を頭の隅に浮かべながら、その手をゆっくりと自分の胸へと誘導した。
(こないだのお詫び……)
「……っ」
薄い布地越しの柔らかな感触に触れた瞬間、湊の体がビクッと跳ねた。
(手、止まってる)
(……ほら)
あたしは湊の手の甲に自分の手を重ね、そっと押し付けるように力を込めさせた。
戸惑っていた湊の指先が、探るようにゆっくりと動き出す。
「……っ」
(え、舌……)
熱を持った指先の動きと連動するように、少し開いた唇の隙間から、熱い舌が滑り込んできた。
(まあ……いっか)
最初は戸惑ったものの、あたしは体の力を抜いてそれを受け入れる。
不器用ながらも深く絡み合う熱に、背筋がゾクゾクと粟立った。
(うわ……)
(なにこれ……)
湊から伝わってくる熱い呼吸と、胸を撫でる手の動き。
頭の奥が、じんじんと痺れるような感覚に支配されていく。
(なにこれ、なにこれ……)
(脳が、とろける……)
自分が今どこにいるのか、どれくらいの時間が経ったのかすら分からなくなってくる。
(このまま……最後まで……)
(いや!待て待て待て待て!)
(初体験が青姦とか嫌すぎるだろ!)
頭の隅で鳴り響いた強烈なアラームに、あたしはハッと我に返った。
思わずガバッと体を後ろに引き、重なっていた唇を無理やり引き剥がす。
「……華蓮?」
「……っ、ちょっと、休憩」
荒くなった呼吸を整えるように、大きく肩を上下させる。
「……ごめん、私、夢中になって……」
「いや……いいよ。あたしもだし……」
頬を火照らせた湊が、申し訳なさそうに視線を落とす。
あたしも間違いなく、今の夕日と同じくらい顔が真っ赤になっているはずだ。
川の流れる音だけが、しばらく二人の間に響いていた。
やがて呼吸が落ち着いてきた頃、湊がぽつりと口を開く。
「明日は、どうする?」
なんてことのない、次の約束を確認する一言。
しかし、その言葉はあたしを甘い夢から一気に現実へと引き戻した。
(もう、金が、ない……)
頭の中で、最近の出費の明細が滝のように流れていく。
(めっちゃ外食してるし、文化祭、カラオケ、きょうはボーリングに映画……)
サーッと顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。
「すまん……小遣いが尽きそうなんだ……」
あたしの情けない告白に、湊がパチリと目を見開く。
(あー、言っちまった)
(ロマンチックな空気、ぶち壊したな)
せっかくの甘い余韻が、文字通り音を立てて崩れ去ってしまった。
「そっか……ごめんね。気づかなくて……」
「いや。いつか言わなくちゃいけなかったんだ……」
湊が慌てて両手を振る。
「じゃあさ。お金かからないデートしようよ」
「うーん。家でごろごろするのか?」
あたしの味気ない返しに、湊は首を傾げて考え込む。
「えっと、それは……すごく魅力的な提案なんだけど、図書館行くとか」
(図書館……退屈そうだな)
静かな場所で本を読むという行為が、あたしの性に合うはずがない。
「そうだ。ピクニックはどう?お弁当持ってさ、その辺散歩するだけで楽しいよ」
あたしは、その単語を確かめるように繰り返す。
「ピクニック……」
湊が、畳みかけるように続ける。
「お花みつけたら解説するよ?」
その提案に、あたしの頭の中でカチッとパズルのピースがはまった。
(なるほど!)
「いいなそれ。ピクニックだ!」
「うんうん!私、散歩コース探しておくね!」
嬉しそうに微笑む湊の顔を見て、明日のデートの成功を確信した。
―――
夜。
自室のベッドにだらしなく寝転がりながら、薄暗い天井を見つめる。
(今日のこと、思い出すと……)
指先でそっと自分の唇に触れると、柔らかな感触と熱がまだ鮮明に残っている気がした。
(……聞いてみるか)
ベッドの脇に放り投げていたスマホを手に取り、莉子に電話をかける。
数回のコールの後、聞き慣れたのんびりとした声が響いた。
『はーい、もしもーし』
「あ、莉子。ちょっといい?」
『うん、大丈夫だよ』
「今日、またデートしてさ」
スピーカーの向こうから、面白がるような気配が伝わってくる。
『ほーほー』
ベッドの上で寝返りを打ち、どう切り出すべきか少し言葉を探した。
「それで……あのさ」
『うん?』
「キスしたら、めっちゃシたくなるんだけど……どうすればいい?」
電話の向こうの生活音が、ピタリと消えた。
(……莉子?)
『……それ、私に聞く?』
「いや、颯太とどうしてるのかなーって……」
呆れたような、深い吐息が漏れ聞こえてくる。
『えぇー……』
スマホを握る手に、少し力が入る。
莉子の息遣いだけが、しばらく聞こえていた。
『……まあ。みんな一度は通る道だよね』
「そうなのか?」
『そうそう。初めて手軽にキスできる相手ができて、のぼせ上ってるんでしょ。でもダメだよ。我慢しなくちゃ』
「やっぱそうだよな……」
莉子の妙に説得力のある言葉に、あたしは素直に頷いた。
『何度かキスしてると、そのうち慣れて落ち着くから』
「そういうもんか?このままシちゃいそうなんだけど……」
『ちょっと。どんなキスしてるのよ』
「えっと……なんか舌入れてきたからこっちも絡めて……」
通話口から、素っ頓狂な声が鼓膜を打った。
『うわ、エッろ!なにそれ!2回目でそれはないわー』
(え!?そうなのか!?やりすぎた!?)
「マジか……」
『それはやりすぎだよ。そんなの年1くらいで、ヤる直前とかにするやつ』
さらりと放たれた爆弾発言に、あたしは目を丸くした。
(こいつうっかりヤってること漏らしたぞ)
「わ、わかった。普通のやつにする」
『そうそう。ダメだよ調子にのらせちゃ。男ってすぐヤりたがるんだから』
「……おう、アドバイスありがとな」
先輩風を吹かせる莉子に、素直に礼を言う。
『どういたしましてー』
「ところで、初めてってどこでヤったんだ?」
ブツッ、と無機質な音が鳴り、通話が強制的に切断された。
(なんだよ。どこでヤるのか気になるじゃん)
直後、スマホが震えて一件のメッセージを受信した。
莉子:ばか!もう相談のってあげないから!
文面と共に、怒りを表現した赤いキャラクターのスタンプが表示されている。
あたしは肩をすくめ、土下座をして謝るスタンプを一つ返しておいた。
スマホの画面を消し、再び仰向けになる。
(年1くらいでヤる直前か……)
(あれ、ヤる直前だったんだ……)
ぼんやりと天井の木目をなぞりながら、大きく息を吐き出した。
(明日は、ピクニックか)
(……周りに人がいないとまた許しちゃいそうだ)
(気をつけないと……)
ゆっくりと目を閉じると、夕暮れの河川敷の光景がまぶたの裏に蘇る。
あの脳がぐずぐずに溶けそうな感覚を思い出し、ベッドの上で一人、顔中が熱くなるのを感じていた。




