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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第2章 臆病者たちの一歩
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第6話 御珠のいない日

月曜の朝。


昇降口へと続く見慣れた道を歩いていると、数メートル前方にリュックを背負った後ろ姿があった。


(……湊だ)

(昨日のこと、思い出すと……)


カラオケの密室での静寂。

重なった唇。

そして、その後の大惨事までが鮮明に脳裏に蘇り、思わず足取りがぎこちなくなる。


その時、前を歩いていた背中が不意に振り返った。

視線がぶつかり、向こうもピタリと動きを止める。


「……あ」

「……おう」


咄嗟に出たのは、なんとも色気のない返事だった。

お互いに目を逸らし、アスファルトに視線を落とす。


(気まずい)

(昨日キスしたんだぞあたしたち)

(チンコも蹴ったしな)


自分からやっておいて何だが、顔から火が出そうだ。


「……おはよう」

「……おはよう」


ぼそぼそと挨拶を交わし、自然と横に並んで歩き出す。

いつもなら他愛のない話をするはずなのに、言葉が続かない。

靴音だけがやけに大きく響いている。


「……今日、雨降るかな」

「……は?」


雲ひとつない晴天を見上げて、思わず呆れた声が漏れた。

首まで赤くして、視線を泳がせている。


(こいつも気まずいんだな)

(……かわいいな)


必死に話題を探している横顔を見ていると、さっきまでの緊張が少しだけほぐれていく気がした。


「……降らないだろ」

「……そうだね」


再び言葉が途切れる。

それでも、歩幅を合わせて進む道中、ときどき触れ合う肩の距離感だけは、昨日よりもずっと近く感じた。


―――


朝のホームルームが始まる数分前。

いつもならとっくに登校しているはずの藍色の髪が、隣の席に見当たらない。


(御珠、きょうおせーな)


教室の掛け時計を確認して首を傾げていると、前の席から身を乗り出すようにして光莉が振り返った。


「御珠っち、きょう遅いね」

「そうだな」


短く相槌を打つと同時に、教室の前方の扉がガラリと開いた。


(おい。先生来ちまったぞ。遅刻か?)


教卓の前に立った工藤先生は、いつも通りの不機嫌そうな顔で出席簿を広げた。


「……えー、天野は、風邪で本日欠席と連絡があった」


その一言に、教室全体がざわっと揺れる。


「では出席を取る――」


(御珠が、風邪!?)

(握手会で変な病気でももらったか?)

(でもこっちで握手会した時は、毒でも来ない限り平気とか言ってたのに)


窓の外を飛んでいく鳥の姿をぼんやりと目で追いながら、記憶を引っ張り出す。

あいつが風邪で寝込むなんて、どうにも結びつかない。


そこまで考えて、ふとある事実に思い至った。


(待てよ)

(篠見高校は、きょう代休になるはずだ)

(つまり、雪杜と咲良が家で二人きりになる可能性がある)

(……そういうことか)


チョークが黒板を叩く乾いた音が響く中、すべてのピースがカチリとはまった。


(つまりずる休みだ!)


机の下でこっそりとスマホを取り出し、メッセージアプリを起動する。

手慣れたフリック入力で短い文章を打ち込み、送信ボタンをタップした。


華蓮:お前ずる休みだろ


数秒も経たないうちに、画面の端に「既読」の文字がつく。


御珠:妾は風邪を引いたのじゃ

御珠:明日も休むのじゃ

御珠:ごほごほ


立て続けに送られてきたメッセージに、思わずため息が漏れる。


(わざとらしい)

(「ごほごほ」って文字で送るヤツがいるかよ)


呆れながらも、指先は勝手に返信を打ち込んでいた。


華蓮:まあいいけど


すると、直後に画像がポンと送られてくる。

なんとも形容しがたい、謎のスタンプ。


(なんだこれ。どういう意味だよ)


画面に表示された意図不明のイラストをじっと見つめながら、スマホをそっとポケットに滑り込ませた。


―――


昼休み。ざわつく教室。


いつもなら御珠と光莉と三人で机を囲むはずが、今日、目の前に座っているのは光莉だけだ。

視線を横に滑らせると、隣の席では棟方と湊が向かい合って弁当を広げていた。


(こいつと二人だけで昼飯か)

(ろくなこと聞いてこなそう)


「ねーねー。昨日もデートしたのー?」


(早速かよ!)


箸を持ったまま呆れるあたしの顔を覗き込み、光莉がニヤニヤと笑いかけてくる。


「……まあな」


「どこ行ったの!?」

「カラオケ」


「えー!カラオケでなにしたの!?」


身を乗り出してくる光莉を、鬱陶しそうに手で制する。


「歌を歌ったに決まってんだろ」


「ふーん。密室に男女二人。何も起きないはずもなく」

「な、なんだよ。なんも起きてねーぞ」


カチャリ、と隣の席で不自然な音が鳴った。

見ると、湊が箸を止めて俯いている。


その耳の端が、見る間に朱色に染まっていくのがわかった。

そのあからさまな反応を、光莉の鋭い目ざとさが見逃すはずもない。


「湊っちー。なんか赤くないー?」

「な、なにも」


(っちょ!湊!わかりやすいリアクションすんじゃねぇ!)


光莉の視線が、あたしと湊の顔を交互に射抜く。

そして、口元を悪魔のように吊り上げた。


「あら。あらあらあら。

 これは……最後までしちゃったパターンか」


(は!?なに言ってんだこいつ!?)


「ちげーよ!キスまでだ!」


ピタリと、周囲の空気が凍りついた。

いや、凍りついたのはあたしと湊だけで、張本人の光莉は満面の笑みを浮かべている。


「ははーん。言質とったー」


(しまった!)

(自分で言っちまった!)


ドクンドクンと跳ねる心臓の音が、うるさいくらいに耳の奥で鳴り響く。

そんなあたしたちをよそに、隣の席では棟方が黙々と弁当のおかずを口に運びながら、ぼそりと呟いた。


「……湊、いが(よか)ったな」


その一言に、湊は完全に顔を伏せて石像のように固まってしまった。


光莉が両手を打ち合わせ、満面の笑みで立ち上がる。


「キスしたんだー!えへへー!」

「おま、声でけーんだよ!」


「えー、華蓮が一番声でかいけどー?自慢したかったんでしょー?」

「なんでだよ!」


光莉の楽しそうな笑い声が、容赦なく教室に響き渡る。


(くそ!なんでこうなんでもかんでもバレるんだよ!)


結局、あたしと湊は茹でダコみたいに真っ赤になったまま、これ以上ないほど気恥ずかしい昼休みを過ごす羽目になった。


―――


午後の農場。


照りつける日差しの中、土の匂いがふわりと風に乗って漂ってくる。

いつもなら誰よりも早く、嬉々として土に飛び込んでいく藍色の髪は、今日はない。


ざくっ、ざくっ。


規則的に土を掘り返す音だけが響いている。


隣の畝では、棟方が黙々とクワを振るい、土を均していた。

あたしも手に持った道具を握り直し、並ぶようにして作業を進める。


「……今日、なんが静がだな」


ふいにクワの音が止まり、棟方が額の汗を手の甲で拭いながらぽつりとこぼした。


「……御珠がいないからだろ」


顔を上げずに短く返すと、彼は短く鼻を鳴らした。


「……んだな」


言葉はそれだけだった。

棟方は再びクワを振り上げ、何事もなかったかのように土へと立ち向かい始める。


(……ほんとにそれだけかよ)

(でも、まあ。それがムナっちだよな)


いかにも彼らしいその姿に、思わず小さく息を吐いた。

あたしも無言のまま、再び自分の畝へと視線を落とした。


―――


放課後の園芸部の部室。


作業用の広いテーブルの上には、文化祭の出店用に用意された乾燥した花がいくつも並べられていた。

特有の乾いた植物の匂いが、西日の差し込む部屋に満ちている。


(御珠がいたら、もっと張り切ってただろうな)


あいつなら間違いなく「妾が美しく束ねてやるのじゃ」と豪語して、花をかき集めていたはずだ。

隣に目をやると、湊が細い指先で手際よく花を選び、色合いを見ながら束ねていた。

その所作には、一切の迷いがない。


「お前、こういうの得意だな」

「……うん。好きなことだから」


少し照れたように微笑みながら、湊は再び手元の作業に視線を戻した。

シャキッ、と茎を切り揃えるハサミの音と、カサカサと花びらが擦れる小さな音だけが部室に響く。

この静かな時間が、やけに心地よかった。


「なあ。今週もどっかいく?」


ふと口をついて出たその言葉に、湊の手がピタリと止まる。

振り返ったその顔が、夕日を浴びたようにぱあっと明るく輝いた。


「うん!」


(食い気味だな)

(……かわいいな)


あまりの即答っぷりと、隠しきれない嬉しそうな表情に、こちらの頬まで熱くなってくる。

思わず視線を逸らして、適当なかすみ草の束を手に取った。


(でも)

(小遣いがガンガンなくなるんだが、どうしよう……)


頭の片隅にちらりと浮かんだ現実的な金銭問題に、小さく息を吐き出す。


窓の外からは、オレンジ色に染まった夕方の光が長く伸びていた。

ふと横を見ると、湊は自分が束ねたドライフラワーのブーケを、宝物でも見るかのように満足げに眺めている。

その横顔を見ていると、まあいっか、という気がしてきた。


―――


放課後の校門前。

夕暮れの風が、制服のスカートをふわりと揺らす。


「じゃなー。また明日」

「また明日」


小さく手を振り合い、背を向ける。

オレンジ色に染まるアスファルトの上を、バス停の方へと歩いていく湊の小さな背中をぼんやりと見送った。


(……静かな一日だったな)

(昼はからかわれたけど)


あの騒がしい藍色の髪がいないだけで、学校がこんなにも広く、静かに感じるなんて思わなかった。


無意識のうちにポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。

画面を数回タップして、飾り気のない言葉を送信した。


華蓮:早く学校来いよ


画面を閉じる前に、スッと「既読」の文字が浮かび上がる。


御珠:明後日まで我慢するのじゃ


(明日もこうなのか……)


予想通りの返信に、思わず小さく息を吐き出す。


画面を暗くしてスマホをポケットに押し込むと、駐輪場から引っ張り出した自転車のペダルを力強く踏み込んだ。

車輪の回る音が、静かな夕暮れの道にカラカラと響いていった。


―――


水曜の朝。


ざわめいていた教室の空気が、ガラリと開いた扉の音で一瞬だけ止まった。

そこに立っていたのは、二日間の欠席を感じさせないほど、いつも通り堂々と胸を張った藍色の髪だった。


「皆の者、久しぶりじゃな」


教室を見渡して鷹揚に頷く姿に、いち早く光莉が駆け寄っていく。


「御珠っちー!寂しかったー!」


「よう。風邪はもういいのか」


呆れたように頬杖をつきながら、わざとらしくちくりと刺してみる。


「うむ。もう平気じゃ。心配かけたのじゃ」


悪びれる様子もなく、しれっといつもの席に腰を下ろした。


(しれっとしてんな)

(……まあ、いいけど)


机にカバンを置く音を聞きながら、口元が緩むのを手で隠す。

すると、光莉がふと思い出したようにポンと両手を叩いた。


「ねね、御珠っち」

「ん?なんじゃ?」


首を傾げる御珠に、光莉が身を乗り出して耳元でごにょごにょと内緒話を始める。

嫌な予感が背筋を駆け抜けた。


(は!?光莉、まさか……)


バッと立ち上がろうとしたのと、御珠が目を見開いて石像のように固まったのは同時だった。


「な、なぬ!?

 妾がおらぬ間に、何をしておる!」


バン!と机を叩き、信じられないものを見るような目でこちらを指差してくる。


(くそ!バラしやがった!)


光莉を睨みつけるが、本人は悪戯っぽく舌を出して笑っているだけだ。


「華蓮よ!妾に報告を寄越さぬとは、どういうことじゃ!」

「なんでお前に言う必要があんだよ!」

「あははー、華蓮赤くなったー」


瞬く間に顔に血が上っていくのがわかる。

ワーワーと騒ぎ立てる二人にムキになって言い返すあたしの怒声が重なり、教室の温度が一気に上がった。


(やっぱ御珠がいると楽しいな)

(光莉は許せねーけど)


騒がしい朝の空気に包まれながら、心の底でそっと呟いた。

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