第3話 かわいいな、と言ってしまった
朝の冷たい空気が残るバス停。
あたしは伊達眼鏡をかけ、顔の半分を覆う大きなマスクをつけて立っていた。
ぼんやりと道路を眺めながらしばらく待っていると、見慣れた姿がやって来る。
「おはようじゃ」
「おはよう」
挨拶を交わした直後、御珠があたしの顔を不思議そうにじっと覗き込んできた。
「そなた、また顔を隠しておるのか?」
「いいだろ。ナンパがうぜーんだ」
中学校の後半から、あたしはずっとこのスタイルだ。
素顔を晒して面倒な男に絡まれるくらいなら、息苦しい方がマシである。
「そんなもの一蹴すればよかろう」
「おめーと違って強くねーんだよ」
御珠のように、クラス全員の前で堂々と「許嫁がおる」なんて言い放てる度胸はない。
あたしが少し呆れ気味に返すと、御珠は小首を傾げて考えるような顔をした。
「昨日は外しておったではないか」
「……昨日は特別なんだよ……初日だし……母さんいたし……」
痛いところを突かれて、思わず声が小さくなる。
入学式という一大イベントに、親の前で不審者フル装備というわけにもいかなかったのだ。
「ふむ。そういうもんかの」
釈然としない顔の御珠の前に、タイミングよくバスが滑り込んできた。
プシューと開いたドアから、二人で車内へと乗り込む。
(……これがあたしの平常運転だ)
見慣れた景色を窓越しに眺めながら、あたしはマスクの下で小さく息をついた。
―――
朝のホームルーム。
担任の工藤先生が低い声で出席を取り終え、教卓の前に腕を組んでどっしりと立った。
なんだか、教室の空気がやけに落ち着かない。
あたしは自席から、首だけを動かしてさりげなく周りを観察した。
(……まだ引きずってんの、みんな)
そりゃそうか。
昨日の自己紹介の強烈な余波が、まだ教室中にぷかぷかと漂っている。
隣の席の男子が、さっきからチラチラと斜め前の席を盗み見ている。
前の席の女子も、そわそわと視線を彷徨わせていた。
その視線の先。
渦中の当人である御珠は、そんな周りの空気など一切気にする様子もなく、ただ窓の外を眺めていた。
信じられないくらい、涼しい顔をして。
(こいつだけ世界が違う)
呆れ半分でため息をつきかけたところで、教卓から低い声が響いた。
「今日のスケジュールを伝えるぞ。
午前は学校説明と生活指導。
午後はオリエンテーションだ。
農場見学と班活動を行う」
チョークが黒板を叩く。
『午前:学校説明・生活指導』
『午後:農場見学・班活動・作物決め』
無骨な文字が書き殴られた瞬間、ざわっ、と教室が揺れた。
午後への期待か、それともただの気まぐれか。
そんな生徒たちの反応を、先生は一刀両断する。
「うるさい。聞け」
ピシャリと放たれた一言で、教室が水を打ったように静まり返った。
(すごい制圧力だな……)
震え上がるクラスメイトたちの中で、ふいっと御珠がこっちを振り向いた。
そして、太陽みたいににっこりと笑って口を開く。
「農場じゃ」
(声に出すな)
あたしは顔を引きつらせて、唇の動きだけで威嚇した。
「……声に出すな」
極小の声で釘を刺すと、御珠はすんと口をつぐむ。
それでも、その目はキラキラと期待に笑ったままだった。
「以上だ。質問は?」
誰一人として声を発する者はいない。
シーン、と静まり返った教室を見渡し、先生が頷く。
「ないな。では学校説明を始めるぞ」
―――
昼前。
工藤先生が名簿を手に、教卓の前に立った。
「午後の班を発表する。名前を呼ばれたら返事をしろ」
(御珠と離れたらそれはそれで面倒だな……)
内心でそんなことを思いながら、あたしはぼんやりと黒板を眺めていた。
「第一班。天野。坂本」
「はい」
呼ばれた御珠が真っ直ぐな声で答え、あたしも少し間を置いて口を開いた。
「……はい」
(同じだ。よかった)
他の名前にも次々と返事が続く。
田中――と呼ばれた瞬間、ひどく小さな声が教室の隅から返ってきた。
「は、はい」
あたしは声のした方へ視線を向ける。
窓際の席で、小柄な男子が少し背筋を伸ばして手を挙げていた。
(……細っそ。なんか女の子みたいだな)
続いて、棟方――と呼ばれ、今度は空気を震わせるようなでかい声が返ってきた。
「はい!!」
ビクッとしてそっちを見る。
後ろの席で返事をしたのは、制服の上からでも分かるくらい肩幅がやたらと広い男子だった。
(なんだ、あのムキムキ……)
「班員同士、休み時間に顔合わせをしておくこと。以上だ」
昼休みのチャイムが鳴った。
御珠がするっと席を立ち、流れるような動作であたしのとなりにやって来る。
「一緒じゃの。よかったのじゃ」
「……まあな」
適当に相槌を打ちながら田中のほうを見ると、彼はいかにももじもじしながら、例のムキムキな棟方となにか話していた。
棟方が笑いながら田中の肩をばんばん叩いている。
その衝撃で、田中の細い体がぐらぐらと哀れに揺れていた。
(……大丈夫かあいつ)
―――
昼休み。
あたしは隣にいた御珠に声をかける。
「昼どうする?」
「何でもよいのじゃ」
相変わらずマイペースな返事が返ってくる。
せっかくの入学したての高校生活だ。
「学食いってみる?」
「そうするかの」
頷く御珠を連れて、あたしたちは教室を出た。
案内図を頼りに学食の扉を開けた瞬間。
熱気を含んだ人いきれと、鼓膜を揺らすような喧騒が一気に押し寄せてきた。
「ぬおー!!皆が腹をすかせておるのじゃー!!」
「声がでかい……。まごまごしてたら昼終わっちまうぞ」
目を輝かせてはしゃぐ御珠の背中を押し、慌てて券売機の列の最後尾に取り付く。
前を見ても後ろを見ても、腹を空かせた生徒たちの波だらけだった。
(……思ったより全然余裕ない)
人に揉まれながらなんとか食券を買い、空いている席を死に物狂いで確保する。
プラスチックのトレーをテーブルに置き、ようやくありついた昼食を一口食べた。
「うん。うまい」
「うまいのじゃ」
味は悪くない。
いや、むしろ普通に美味しい。
あたしたちはしばらく黙って、目の前の食事を胃に流し込んだ。
ただ、周りの騒がしさと人口密度が半端じゃない。
(……毎日あの激混みかと思うとうんざりするな)
食後の息をつきながら、あたしは本音をこぼした。
「明日から、パンでも買ってくるかな。
学食は特別な日だけに食べよう」
「妾もそうするのじゃ」
どうやら御珠も同じことを考えていたらしい。
学食はたまの贅沢にしておこうと、あたしたちは同時に同じ結論に至っていた。
―――
午後。
あたしたち第一班は、他の班と一緒に広大な農場へと足を踏み入れた。
農場担当の先生が先頭を歩きながら、声を張り上げて案内を始める。
「こちらが第一温室です。きゅうりやピーマンを育てています」
「おお……!!」
感嘆の声を漏らしたのは棟方だった。
肩幅の広い大きな体を折り曲げ、温室のガラス越しに中を食い入るように覗き込んでいる。
「続いて畑のほうへどうぞ。今は春なので――」
先生の言葉が最後まで終わる前に、隣から弾かれたように御珠が走り出した。
「お、おい!」
あたしが思わず声を上げるも、御珠は止まらない。
一直線に畑の端まで駆け寄ると、そのまま勢いよくしゃがみ込んだ。
「ジャガイモじゃ!!芽が出ておるぞ!!」
振り向いた御珠の顔は、信じられないくらい輝いていた。
案内していた先生が引きつった苦笑いを浮かべている。
その後ろでは、引率の工藤先生の眉間にはっきりと深いしわが刻まれるのが見えた。
「……走るな。先生に怒られる」
あたしは慌てて追いかけ、周囲の目を気にしながら小声で注意した。
「華蓮よ、見よ、この芽の小ささよ!可愛いのじゃ!!」
(なんでこんなに嬉しそうなんだよ……)
ただの土からちょこんと出た緑色の突起に、御珠は目をキラキラさせて歓喜している。
「……わかった。わかったから、落ち着け」
なだめるように肩に手を置くと、いつの間にか田中がそっとあたしのそばに来ていた。
「……すごいですね、天野さん」
小声で呟く田中の顔を、あたしはちらっと盗み見る。
「……まあ」
そういう人なんだよな、という言葉はなんとか飲み込んだ。
その後も農機具小屋などを順調に見て回る。
小屋の前に置かれた巨大なトラクターの前で、今度は棟方が腕を組んで仁王立ちしていた。
「おー、これも動がせる!?」
「トラクターの操作実習は二年生からです」
「来年がぁ……楽しみだな」
(……なまりつよ!)
棟方の嬉しそうな声のイントネーションに、あたしは内心で鋭くツッコミを入れる。
すると、またしても田中がそばに寄ってきて、そっと教えてくれた。
「棟方くん、西津軽のほうの出身なんだって」
「……あ、そういう」
それだけ話して、田中は控えめに前を向いた。
どうやらこの班、色々とキャラが濃そうだ。
一通りの見学が終了し、先生に引率されて教室へ戻る道すがら。
御珠は名残惜しそうに、何度も何度も農場の方を振り返りながら歩いていた。
「まだ見ていたいのじゃ……」
「これからいくらでも見れるだろ」
「……それもそうじゃな」
あたしが現実的なツッコミを入れると、御珠はすっきりした顔でスッと前を向いた。
(切り替えは早いんだよな、こいつ)
―――
教室に戻ると、前の教卓に立った農場担当の先生から説明が続いた。
「班ごとに担当区画が割り当てられています。プリントを確認してください」
前の席から回ってきたプリントを受け取る。
そこには、広大な農場の地図と、班ごとに割り振られた区画の番号が記されていた。
「この区画で一年間、作物を育ててもらいます」
ふと横を見ると、御珠が配られたばかりのプリントを食い入るように見つめていた。
いつもの飄々とした顔が消えて、とんでもなく真剣になっていた。
「育てる作物についてですが――学校で定めた必修作物が三種類あります。
トマト、ジャガイモ、キャベツです。これは全班共通です」
先生の言葉に、教室の空気がざわっと揺れた。
「加えて、班ごとに自由枠として一種類だけ選んでいただきます。
育て方は自分たちで調べて実践してもらいますので、しっかり相談して決めてください」
「チャイムが鳴るまでに決めろ」
農場担当の先生の言葉に被せるように、後ろで腕を組んでいた工藤先生が即座に低い声で補足した。
あたしたち第一班は、慌てて机をくっつけて班の形を作る。
御珠、田中、棟方、小林、原田、そしてあたし。
六人で顔を突き合わせたものの、誰もが視線を宙に漂わせていた。
互いの様子を窺うような、3秒の沈黙。
「大根じゃ」
それを破ったのは、我らが天野 御珠だった。
迷いの一切ない即答だった。
全員の視線が、一斉に御珠に突き刺さる。
班員だけじゃない、近くを通りかかった工藤先生までもが足を止めて御珠を見た。
「大根は二学期の実習で行うから却下だ。秋まで待て」
「なぬ!?」
目を見開いてフリーズする御珠を見て、あたしは内心で快哉を叫んだ。
(こいつが一発で黙らされんの初めて見た)
御珠は手元のプリントを見て、立ち去っていく工藤先生の背中を見て、そしてしょんぼりと下を向いた。
その悲しい沈黙を打ち破ったのは、ムキムキの肩幅を持つ棟方だった。
「へば枝豆どんだ?盆前にめーやづでぎる」
再び、全員の視線が今度は棟方に集まる。
「……僕はいいと思います」
「枝豆、いいですね」
「賛成です」
田中、小林、原田が次々と賛成の意を示す。
その顔に、はっきりと(めー?)という疑問符を浮かべながら。
「……枝豆は美味いのか?」
「当だり前だべ」
「……ならば妾も賛成じゃ」
大根への未練はどこへやら、恐ろしいほどあっさりと自由枠が決まってしまった。
(“のじゃ”だの“めー”だのこの班やべーな)
カオスすぎる言語空間に、あたしは一人で頭を抱えそうになる。
やがて、手元のバインダーに何かを書き込みながら、工藤先生が各班を確認して回ってきた。
「第一班、自由枠は?」
「枝豆!!」
「良し」
棟方の威勢のいい報告に短く応え、それだけ言って次の班へ進んでいく。
決まったのはいいが、ふと見ると御珠がまだ少しだけ悔しそうな顔をして下唇を噛んでいた。
「……大根は秋じゃな。必ずじゃ」
「まぁ、いいんじゃね」
あたしが適当に流すと、御珠は顔をパッと輝かせた。
「うむ!!」
(なんかすっかり立ち直ってる)
現金な御珠の様子に、あたしは密かにため息をついた。
―――
帰りのホームルームが終わり、各々がガタガタと椅子を引いて帰り支度を始める。
その騒がしさの中、クラスのどこかから威勢のいい声が上がった。
「ねえねえ、クラスのグループチャット作らない?」
その提案に、ざわっ、と賛同の声が広がる。
今時の高校生らしい流れだ。
その中心にいた女子の一人が、席に座ったままの御珠に声をかけた。
「天野さんも入ってよ!」
「妾はいらぬ」
食い気味に放たれた拒絶に、クラスの空気が一瞬で凍りつく。
「え、なんで」
「雪杜が心配するでな」
さらりと言い放った理由に、誘った女子は「そ、そう……」と困惑したように首を傾げている。
(……まぁそういう事情があんだよ)
これ以上、御珠が変な目で見られないよう、あたしは助け舟を出すようにスマホを取り出した。
「あたしは入っておくよ」
適当にQRコードを読み込み、グループに参加する。
鞄に荷物を詰めながら、さっき入ったばかりのトーク画面を開こうとして――あたしの指が止まった。
《他クラスから回ってきた学校の裏掲示板らしいよー》
そんな軽いメッセージと共に、誰かがぽんっと一つのURLを投下していたのだ。
匿名参加ができるオープンチャットへの招待リンク。
(やっぱりあるよな、こういうの)
【篠見農業情報板】
掲示板を模したその画面には、既に特定班のような書き込みが踊っている。
《生物科の1年にめっちゃかわいいこいる!!》
《許嫁いるらしい》
《のじゃって語尾が独特すぎる》
《どこ中?知ってる人いる?》
《孤児らしいって聞いた》
《なまりつえーのもいる》
《女みたいなチビもいた》
《ギャルっぽいのもいた》
スクロールする指が、わずかに冷たくなる。
(……あたしの周り、濃いヤツ多いな)
けど、御珠が「孤児」だなんてデリケートな情報まで、もうどこからか漏れて広まっている。
(孤児がもうバレてるし。変なやつ沸かないといいんだけど……)
嫌な予感を振り払うように、あたしはスマホをポケットに放り込んだ。
この情報の速さは、きっとロクなことにならない。
「今日の農場はよかったのじゃ。
ジャガイモの芽、本当に小さかったのじゃ」
いつの間にか鞄を手にした御珠が、あたしの隣で無邪気に微笑んでいた。
「……もう何回も言ってる」
「言い足りないのじゃ」
ネットで何を書かれていようと、この自称神様には関係ないらしい。
呆れながら帰り支度を続けていると、ふと視界の端に田中のリュックが映り込んだ。
(……?)
ファスナーのところに、小さなアクセがついている。
ぬいぐるみのようなチャームみたいなやつで、ふわっとした丸っこい形をしていた。
(……かわいいもの……)
(男なのに。ていうか男だよな、田中って)
無意識のうちに、あたしの視線はそのチャームに釘付けになっていた。
不意に、田中が顔を上げた。
バッチリと目が合ってしまった。
「……え、あ」
少しの間。
気まずさを誤魔化すように、あたしは素直な感想を口にした。
「そのアクセ。かわいいな」
途端に、田中の顔がぼんっ、と音を立てるように赤くなった。
「え、えっとあの、その……」
完全にパニックに陥ったのか、口をぱくぱくさせるだけで言葉がでてこなくなっている。
(あ、ごめん、急すぎた……?いや別にそんなつもりじゃ……)
予想外の反応に焦り、あたしは慌てて謝った。
「……悪い、急に」
すると、田中はぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
「ち、違くて……ありがとう、ございます」
真っ赤な顔のまま絞り出すようにそう言うと、鞄を持ち直して、棟方のところへ小走りに逃げていってしまった。
その後ろ姿に向かって、棟方がでかい声で「何が食ってぐが」と笑いかけている。
(……なんだ、あいつ)
狐につままれたような気分で立ち尽くしていると、いつの間にか御珠が隣に並んでいた。
「田中はちっこいのぅ」
「そう言ってやるなって。本人聞いたら泣くぞ」
「かわいいという意味じゃ」
(……まぁ確かにかわいいけど)
小動物みたいに怯えていた田中の様子を思い出し、密かに同意する。
「……帰ろっか」
「うむ!」
―――
校門を出て、並んで家路につく。
隣を歩く御珠は、さっきからずっとご機嫌だ。
「枝豆は六月頃に種を播くのがよいのじゃ。肥料は窒素を抑えめに――」
「……どこで覚えたそれ」
すらすらと出てくる専門的な言葉に、思わず呆れ声が漏れた。
「調べたのじゃ。昨日の夜に」
(昨日の夜って……枝豆決まったのさっきだぞ)
そもそも、入学式の夜なんて新生活の緊張で疲れ果てているはずなのに。
本当にブレないやつだ。
「トマトは水はけが肝心じゃ。キャベツはアオムシに気をつけねば――」
「……うん」
「華蓮、聞いておるか?」
「聞いてる聞いてる」
延々と続く農業トークを半分聞き流しながら、あたしはなんとなくさっきの光景を思い出していた。
田中のリュックについていたあれ。
ふわっとした、丸っこいやつ。
(……なんかかわいかったな。あのアクセ)
あれは一体なんのキャラクターだったんだろう。
いや、別に深く考えるようなことじゃないか。
思考を振り払うように小さく息を吐く。
隣では、御珠がまだキャベツとアオムシの戦いについて熱弁を振るっていた。
夕方の風が、頬を撫でるように少し温かかった。




