第2話 開幕から終わり
入学式の朝。
空は晴れていたけど、吐く息はまだ少しだけ白かった。
家を出て車に向かいながら、隣を歩く母が何度目かの確認をしてくる。
「忘れ物ない?」
「ない」
「上履き?」
「持った」
「作業着の袋は――」
「持ったって」
うるさいなと思う反面、心配してくれているのは分かっているから、強くは言えない。
母の運転する車で学校へ。
駐車場から歩き、校門前に着くと、すぐに見覚えのある後ろ姿が見えた。
特徴的な藍色の髪。
新品の作業着を入れた袋を、一人で提げている。
御珠だ。
一人だった。
今日は雪杜の入学式でもあるから、保護者はあっちだ。
浜の家のおじさんが、観護人って話だった。
「御珠」
声をかけると、藍色の髪が振り返る。
ぱっと、花が咲いたように顔が明るくなった。
「華蓮!今日もよい天気じゃの!」
その姿を見た母の足が、ピタリと止まる。
ああ、やっぱそうなるよな。
母の存在に気づいた御珠は、スッと一歩踏み出した。
そしてごく自然に、大和撫子もかくやというほど丁寧に頭を下げた。
「華蓮の母上じゃな。華蓮にはいつも世話になっておるのじゃ。
華蓮と共に高校へ通えること、嬉しく思うのじゃ」
「……え、あ」
母がまた止まった。
完全にフリーズしている。
まあ……初見でこの見た目と口調はキツいよな。
一拍置いてから、母はようやく笑顔を取り戻した。
「あなたが御珠ちゃん?華蓮から話は聞いてたけど、本当にかわいいのね。
華蓮ったら、いつもあなたの話ばかりするのよ」
――お母さん。
今すぐ黙って。
御珠が、ゆっくりとあたしの方へ視線を移す。
にっこりと、からかうような、嬉しそうな笑みを浮かべて。
「そうなのかえ、華蓮」
「…………してねぇし。行くぞ、遅れる」
足早に前へ出る。
吐く息と同じくらい白い空気の中で、自分の耳がじわりと赤くなっているのが分かった。
背後で、母が御珠にそっと耳打ちする気配がした。
「照れてるだけだから、気にしないであげてね」
「……うむ。知っておるのじゃ」
そんなヒソヒソ話が聞こえてきて、余計に足が早くなる。
「今日から高校生なのじゃ!畑が楽しみじゃ!
大根、ジャガイモ、妾、何でも育てるのじゃ!」
後ろから追いかけてくる御珠の元気な声。
そして、あたしの背中を見ながら小さく笑う母の気配。
絶対笑ってる。
後で絶対に何か言われる。
全部こいつのせいだ。
足元に長く伸びる三つの影が、春の日差しの中でやけに鬱陶しく見えた。
―――
体育館の中は、当然だけど知らない顔だらけだった。
ぴりっとした空気の中、真新しい制服を着た新入生がずらりと並ぶ。
ちらりと隣を見ると、真っ直ぐに立つ御珠がいた。
こいつ、体育館でも目立ってるな。
周囲からちらちらと視線が集まっているのが、隣にいるだけでも分かる。
当の御珠は涼しい顔で、ただ前を向いたままだ。
校長の話が続く。
来賓の話が続く。
長い……。
退屈しのぎに保護者席へ視線を向けると、母が座っているのが見えた。
緊張しているのか、いつもよりやけに背筋がいい。
母さん。仕事休ませてごめん。
この後の保護者説明会とか、めんどくせーよな。
(そういえば、御珠のとこはどうしてんだろ?)
あいつの保護者は、今日別の高校の入学式に行っているはずだ。
監護人として事前に色々済ませているんだろうけど、一人で立っている御珠を見ると少しだけ変な気分になる。
やがて式が終わり、マイクからアナウンスが流れた。
「保護者の皆様は引き続き、第二会議室にてご説明をさせていただきます」
人の流れが二つに分かれる。
保護者は廊下の奥へ。
あたしたち生徒は、自分の教室へ。
移動しようとした時、ふと母と目が合った。
母が、あたしに向けて小さく手を振ってくる。
……うん。
振り返さないまま、心の中でだけ返事をして廊下へ出た。
隣に、ごく自然に御珠が並んでくる。
「いよいよじゃの」
「……そうだな」
廊下を歩いていても、知らない生徒たちの視線が、ちらちらと御珠に集まっているのが分かった。
……まあ、そうなるよな。
御珠は気にする様子もなく、真っ直ぐ前を見て歩いている。
こいつ、今日どうするつもりなんだ。
自己紹介、ちゃんとするよな?
“のじゃ”でいくつもり何だろうか……。
前方に、これから一年間を過ごす教室のドアが見えてきた。
……大丈夫だろ。
さすがに大丈夫だろ。
あたしは一抹の不安を飲み込んで、教室へと足を踏み入れた。
―――
教室に入って自分の席につくと、ほどなくして担任が入ってきた。
教壇にあがったその男は、がっしりとした体格をしていた。
「よし。席についたな」
腕を組んで、鋭い視線で教室全体を見渡す。
……ちゃんとした先生だ。
「改めまして、担任の工藤 誠だ。
三年間、よろしく頼む」
三年間か。
長いな……。
「きょうからお前らも高校生だ――」
そこからは、高校生としての自覚を促す説教臭い説明が続いた。
(うざ)
心の中でそっと毒づきながら、早く終わらないかと聞き流す。
「それじゃあ、名簿順に自己紹介してもらおうか。
三年間、共にすごす仲間だ。しっかりな」
先生が手元の名簿に目を落とす。
「じゃあ、天野さんから」
……御珠。
トップバッターかよ。
まだどこかよそよそしい、しんと静まり返った空気の中、御珠が席を立った。
その瞬間、教室の空気がガラリと変わった。
あたしには分かる。こいつが立つと、毎回必ずそうなるんだ。
圧倒的な美貌に、どこからともなく息を呑むような小さなざわめきが起きる。
先生の目も、一瞬だけ止まったのが見えた。
まあ……そうなるよな。
当の御珠は、そんな視線を一身に浴びながらも堂々と教室をゆっくり見渡してから、口を開いた。
「天野 御珠じゃ」
ピタ、と空気が固まる。
あちこちから「……じゃ?」「どっかの方言?」とヒソヒソ声が漏れ始めた。
先生の眉が微かにピクッと動く。
(あーそっちかー)
(マジかー)
「――妾には生涯を共にする許嫁がおる」
教室が、完全に凍りついた。
「妾に懸想するでない」
御珠はそれだけ言い放ち、すとん、と席に座った。
一秒。
二秒。
三秒。
直後、教室が爆発した。
「許嫁!?」
「今、許嫁って言った!?」
「わらわ!?じゃ、って何!?」
「高校生で結婚前提!?」
「入学初日に何が起きてるの!?」
誰もが状況を処理しきれず、パニックに近い声があちこちで弾ける。
工藤先生の顔を見ると、眉間にこれでもかというほど深いしわが刻まれていた。
そりゃそうだ。
高校の入学式の当日に、新入生が「許嫁」「懸想するな」なんて言い出したんだから。
「静かに!」
ドスの効いた一喝で、教室が再びシンとなる。
「……次。安藤」
先生が低い声で、強引に進行を再開した。
(あいつ、やりすぎだろ!)
(先生の顔、やばいことになってるじゃないか!)
あたしは思わず天井を仰ぎたくなった。
“のじゃ”なんて、どうでもよかった。
許嫁って何だよ。
開幕から終わってる。
「え、えっと安藤……です……」
前の席で、安藤という男子が震える声で立ち上がる。
ほら!めっちゃやりづらそうじゃん!
初日からクラスの空気を跡形もなくぶっ壊した女。
あたしはこれからどうすれば……
あれの友達として、このクラスで隣に立つのか?
雪杜ってすげーやつだったんだな……
のっけから、あたしの高校生活は過酷な試練を突きつけられていた。
―――
全員の自己紹介が終わり、ようやく解散の指示が出た。
「きょうはこれで終わりだ。明日から本格的に始まるから、しっかりな。気をつけて帰れよ」
先生が教室を出ていく。
その途端、呪縛から解き放たれたように教室が動き出した。
「ねえねえ!天野さんって!」
「許嫁って本当にいるの!?」
「どんな人なの!?」
クラス中の好奇心が、一斉に御珠の席へと群がっていく。
当の御珠は囲まれても涼しい顔のままだ。
「おるのじゃ」
「詳しくは言えぬが」
「なんで!?」「気になるんだけど!」と、さらに色めき立つ教室。
……さっさと離れろ。
厄介事に巻き込まれる前に教室を出ようと思っていたら、不意にこちらへ矛先が向いた。
「ねえ、坂本さんって天野さんと同じ学校?」
「なんか話しかけてたじゃん」
来た。
「……中学が一緒だっただけ」
「じゃあ許嫁って誰か知ってる?」
知ってる。
知ってるけど。
「知らね」
「えー!絶対知ってるじゃん!」
「同じ中学なんでしょ!?」
食い下がってくる女子たちに向けて、あたしは思い切り低い声を出した。
「知らねって言ったら知らねんだよ」
鋭く睨みつけると、相手は怯んでスッと引いていった。
……悪いな。
でも、言えるわけないだろ。
あいつの事情を、あたしなんかが勝手にしゃべるのは違う。
ため息をつきながら視線だけで御珠の方を見ると、あいつはまだ質問攻めに遭っていた。
「妾の許嫁は、遠くにおるのじゃ」
「案ずることはない。じゃが、妾に懸想するでない」
「遠距離!?」「高校生で遠距離で許嫁!?」と、また教室が沸く。
(遠くにいるって……家に一緒に住んでんじゃねーか)
心の中で盛大にツッコミを入れる。
他校に通っているから今は「遠く」という意味なのか、適当な嘘をついて煙に巻こうとしているのかは分からない。
御珠はのらりくらりとかわし続けているが、一向に解放される気配がなかった。
……疲れた。
まだ高校生活一日目なのに。
そう思っていると、人の隙間から御珠と目が合った。
明らかな、助けてほしそうな視線をこちらに投げている。
はぁ……しかたねーな。
あたしは立ち上がり、群がるクラスメイトたちを掻き分けて御珠の元へ歩み寄った。
「帰るぞ」
「うむ!」
「母さんが外で待ってる」
「えー、もっとお話し聞かせてよー」と不満げな声が上がる。
「また今度なのじゃ」
御珠はそれだけ残し、あたしについてくる。
あたしたちは足早に教室を抜け出した。
廊下に出た途端、御珠がほっとしたように息を吐く。
「助かったのじゃ」
「……別に」
「そなたにも許嫁ができるとよいの」
「は!?は!?飛躍しすぎだろ!普通は彼氏からだ!」
……はぁ、明日からもずっとこの調子なのか。
隣を歩く御珠が、あたしの怒った顔を見て小さく笑っている。
胃の痛い三年間になるのは確定だ。
でも、退屈はしなそうだな。
ため息をつきながらも、ちょっとだけ明日が楽しみになっている自分がいた。
―――
校門を出ると、説明会を終えた母が立って待っていた。
「お疲れ様。どうだった?」
「……まあ」
「なにかあった?」
「なんでもない」
初日からクラスが崩壊したなんて、とてもじゃないけど言えなかった。
母はそれ以上追及せず、隣の御珠に視線を移した。
「御珠ちゃんは?楽しかった?」
「うむ!充実した一日じゃった!」
「そう!よかった」
充実……。
あいつの中ではそうなのか。あの大惨事が。
「御珠ちゃんも車に乗ってく?」
「よいのか?」
「もちろん」
「世話になるのじゃ」
三人で車に乗り込み、帰路につく。
やがて、あたしの家の前に車が停まった。
「ここでよいのじゃ。後は歩いて帰るのじゃ」
「気をつけてねー」
「じゃなー」
車を降りて歩き出す御珠の背中を、二人で見送る。
藍色の髪が角を曲がって見えなくなったところで、母が口を開いた。
「……ねえ、華蓮」
「なに」
「御珠ちゃんって、なんか……すごい子だね」
「……知ってる」
すごいなんてもんじゃない。爆弾だ。
「お母さん、最初びっくりしちゃって」
「……そうだろうな」
「でも、いい子だと思うよ」
「……」
母さんには分からないだろうな。
あいつがどれだけ色々抱えてるか。
どれだけ強くて、どれだけ無茶するか。
「しっかりそばにいてあげなさい」
「は!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
「そのために農業高校入ったんでしょ?」
――図星を突かれて、返す言葉が見つからない。
「……別に」
「もう、素直じゃないんだから」
母がくすくすと笑う。
いたたまれなくなって、あたしは誤魔化すように大きく伸びをした。
「あー、疲れたー。制服脱ぎてー」
逃げるように、さっさと家に入る。
後ろから、母も小さく笑いながらついてきた。
自分の部屋に入り、ドアを閉める。
しっかりそばに……か。
言われなくても、そうするっての。
全身鏡の前に立ち、真新しい制服姿の自分を映した。
ちょっとだけ、くるくると回ってみる。
プリーツスカートがふわりと揺れた。
……うん。やっぱりこの制服、可愛いな。
波乱の幕開けとなった高校生活一日目。
一人きりの部屋で鏡を見つめるあたしの口角は、ほんの少しだけ上がっていた。




