【幕間】あなただけのVTuber
西日に照らされたアスファルトの上を、二つの影が並んでゆっくり動いていく。
放課後の帰り道、あたしの隣には湊がいる。
付き合い始めたからって、劇的に何かが変わったわけじゃない。
……はずなんだけど。
ふとした瞬間に、アイツの横顔が妙に大人びて見えたりして、心臓の奥が落ち着かない。
この妙な沈黙を埋めたくて、あたしは無意識に、ずっと頭の片隅にあったことを口にしていた。
「……たなこの花の話、また聞きたいな」
(しまった)
言葉がこぼれ落ちた瞬間、自分のバカさに気付いて、背中に嫌な汗が流れた。
今のはナシ!絶対ナシ!
だって、たなこは湊の「秘密」で、あたしだけが知っている特別な姿だけど。
今の湊は、あたしの彼氏で、たなこはもう引退したはずなのに。
あたしは一体何を求めてるんだ。
「……え?」
隣を歩く足が止まる。
湊が、驚いたように目を丸くしてあたしを見ていた。
その視線が痛くて、あたしは慌てて顔を背けた。
「な、なんでもない。忘れろ!」
早口でまくし立てて、歩く速度を上げる。
あー、もう!あたし、何言ってんだ。
湊は……何も言わない。
ただ、後ろから静かについてくる気配だけが伝わってくる。
「……」
(なんか言えよ)
あたしのせいで変な空気になったのはわかってる。
でも、何か言ってくれないと、この恥ずかしさのやり場がない。
(言わなくていいけど)
(もう忘れろ)
自分の顔が、夕焼けよりも赤くなっているのがわかった。
あたしはただ、あいつの話すマニアックで、でも楽しそうなあの声が、もう一度聞きたかっただけなのに。
―――
夕飯と風呂を済ませて、自室のベッドに寝転がっていた時だった。
シーツの上に放り出していたスマホが、ブルッと短く震えた。
画面を覗き込むと、LINEの通知が光っている。
差出人は、湊。
今日の帰り道の気まずさをまだ引きずっていたあたしは、少しだけ肩をビクッと跳ねさせた。
深呼吸してトーク画面を開く。
だけど、そこにあったのはぽつんと送られたURLだけだった。
メッセージは一言もない。
(YouTube?お勧め動画か?)
あいつのことだ。
植物の育て方とか、マニアックな園芸チャンネルでも見つけたんだろうか。
そう思いながら、無防備に画面のURLをタップする。
画面が切り替わり、YouTubeのアプリが立ち上がった。
黒い画面の中央で読み込みのマークがくるくると回り……ポンッ、と映像が映し出される。
ただの動画じゃない。
画面のレイアウトはライブ配信のそれだ。
そして、左下に表示されている「視聴者数:1」という数字。
あたしの視線は、画面の中央に釘付けになった。
(……え)
そこにいたのは、可愛らしい花の髪飾りをつけた女の子のアバター。
見間違えるはずがない。
あいつの裏の顔、“たなこ”だ。
(え?)
その時、イヤホンのスピーカーから、聞き慣れた、でもいつもとは違う甘い声が響いた。
『こんばんは。きょうも来てくれてありがとうございます。
えっと……きょうは、愛にまつわる花言葉の話をしようかな、と思って』
(え?たなこ?)
画面左下の数字をもう一度確認する。
視聴者数:1。
間違いなく、この配信を見ているのは世界であたしだけだ。
つまりこれは……あたしのためだけの配信。
『ヒマワリって、花言葉が「あなただけを見つめる」って言うんですよ。
太陽の方向に向いて咲くから、って由来みたいで』
『……なんか、真っ直ぐですよね』
画面の中のたなこは、少し恥ずかしそうに身振り手振りを交えながら語る。
(……あたしに向けて言ってる?)
『カスミソウは本数によっていろいろ違うんですけど、99本束ねると「永遠の愛」になります。あの小さい花が永遠の愛、って……なんか、すごくないですか』
(……永遠の愛)
湊が、あの湊が、自分の部屋でマイクに向かってこんなことを喋っている。
その光景を想像するだけで、顔がカッと熱くなった。
『ハーデンベルギアは……「あなたに会えて良かった」
……これ、好きだなって思って』
(……)
心臓の音がうるさい。
やめて、もうやめて。これ以上は心臓が持たない。
『でも、やっぱり一番好きなのは……赤いバラですかね』
たなこが、画面の向こうで少しだけ首を傾げたように見えた。
『花言葉は「あなたを愛してる」って言うんです。
……シンプルで、いいなって思って』
(こ、こいつ……)
(あたしを悶えさせて殺す気か!)
頭の中で警報が鳴り響く。
この甘い声。
あの夏の日の記憶が、ぶわっと蘇る。
(あたし、この声で……あの日……)
全身の血が逆流した気がした。
耐えきれなくなったあたしは、スマホに繋がっていたイヤホンを、勢いよく引き抜いた。
(なんで抜いてんだあたし!)
(いや、わかってる、わかってるけど!)
スピーカーから音が漏れないように、慌てて音量ボタンを押し下げる。
音の消えた画面の中では、まだたなこが何かを喋り続けている。
口パクだけになったアバターを見つめながら、あたしはベッドの上で布団を被り、絶叫を布団に押し込んだ。
―――
画面の隅の数字を、もう一度だけ薄目を開けて確認する。
視聴者数:1。
さっきからずっと、1のままだ。
布団の中からモソモソと手を伸ばし、放り出したイヤホンを拾い上げる。
恐る恐る、もう一度耳に押し込んだ。
『……見てますか』
(見てる)
(見てるけど)
(コメントしたら、バレる)
(いや最初からバレてる)
頭の中でツッコミが追いつかない。
あたしは震える指でキーボードをタップして、チャット欄にたった3文字、「みてる」とだけ打ち込んで送信ボタンを押した。
ほんの数秒のタイムラグ。
画面の中のたなこが、小さく息を吸い込む音が鼓膜を揺らした。
『……あ』
『……ふふ。ありがとうございます』
(その声で“ふふ”とか言うな)
(死ぬ)
顔に集まった熱が、もうどこにも逃げ場をなくして沸騰しそうだった。
指先が、勝手に動いた。
考えるより先に、あたしは「かわいい」と打って、送信していた。
(なんで打った)
後悔した時にはもう遅い。
画面の中のたなこが、あからさまに肩をビクッと揺らした。
『っ……ありがとう、ございます』
照れを隠しきれない、甘くて震える声。
(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ)
画面の中のたなこが、ふっと表情を和らげたように見えた。
そして、マイク越しに、あの甘い声が真っ直ぐに鼓膜を揺らす。
『……えっと、華蓮』
(え、呼びかけてきた!?)
心臓が跳ね上がった。
VTuberの配信で、視聴者の本名を呼ぶな!バカ!
パニックになりながら、慌ててキーボードを叩きつける。
「っちょ!名前言うなし!」
そうコメントを叩きつけた画面の向こうで、たなこは小さく微笑んで、決定的な言葉を口にした。
『好きです……』
『私のこと見つけてくれてありがとう』
(あ゛あ゛あ゛あ゛ー!)
声にならない絶叫が頭の中でこだまする。
やめろ、それ以上はやめろ。あたしの理性が吹き飛ぶ。
『ちゃんと伝わったかな?』
(伝わってる)
(伝わってるから言うな)
(この声で言われたら――)
もう限界だった。
あたしは今日二度目になるイヤホンを、スマホから力任せにブチッと引き抜いた。
(なんだこれ!)
音が消えた部屋の中で、あたしは真っ赤になった顔を枕に強く押し付けた。
彼氏のVTuberアバターに、こんなに本気で照れさせられるなんて聞いてない。
……ああもう。
明日の学校、どんな顔してアイツに会えばいいんだ!
―――
真っ暗になった画面の中央に、『配信は終了しました』という無機質な文字が表示される。
イヤホンを抜いた部屋に、元の静寂が戻ってきた。
その数秒後。
手元のスマホが、ブルッと短く震えた。
画面の上にLINEの通知がポップアップする。
湊:どうだった?
そのたった一言に、また顔が熱くなる。
あたしはしばらくの間、その文字列を見つめたまま動けなかった。
どうだったも何もない。
あんなの、反則に決まってる。
それでも、無視するわけにもいかなくて。
迷った末に、あたしは「よかった」とだけ短く打って送信した。
すぐに既読がつき、ふきだしが追加される。
湊:またやっていい?
画面の向こうで、あいつが少しホッとしたような、はにかんだような顔をしているのが想像できてしまった。
あたしは大きく息を吐き出して、わざと突き放すように画面を叩いた。
華蓮:好きにすれば
送信ボタンを押して、すぐにスマホをベッドの端に放り投げる。
仰向けに倒れ込むと、天井の模様がやけにぼやけて見えた。
(心臓がうるさい)
胸の奥で、ドクドクと脈打つ音がずっと鳴り止まない。
今日だけで、何回あいつのせいで寿命が縮んだかわからない。
(全部、こいつのせいだ)
熱を持った両手で顔を覆いながら、あたしは静かな部屋の中で、もう一度だけ声にならない叫びを上げた。




