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神愛 ― それいけ華蓮ちゃん ―  作者: 神愛
第1章 全部こいつらのせい
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【閑話】第22.5話 ある女の子になりたい男の話

通話終了の短い電子音が、静まり返った自室に吸い込まれていく。

耳元に残るスマートフォンの微かな熱と一緒に、坂本さんの声がまだ頭の中で反響していた。


ベッドに仰向けになり、見慣れた天井の木目を、ぼんやりと見つめた。


(女の子に生まれたかった)


焦点の合わない視界の先で、現在の風景がゆっくりと過去の記憶へ溶け出していく。


―――


幼い頃の自分の部屋。


指先が覚えているのは、ひらひらとしたレースの柔らかい感触。


母は、姉と同じように僕を扱った。

かわいい服。かわいいもの。

全部、好きだった。


鏡の前でくるりと回る。

ふわりと広がるスカートの裾。

けれど、ふと開いたままのドアの向こうに視線をやると、そこにはいつも違う温度の空気があった。


父だけは、違った。

何も言わなかった。

ただ、曇った顔をしていた。


背を向けて立ち去る重い足音が、今でも耳の奥にこびりついている。

視界が切り替わる。


細い髪を櫛で梳きながら、母はどこか夢見るような瞳で、鏡越しの僕に向かって微笑んだ。


「女の子に産まれてくればよかったのにね」


優しい、優しい声だった。


(嬉しかったはずなのに)


胸の奥が、きゅうっと締め付けられるように痛む。


(なんで泣きそうになったんだろう)


―――


視界はさらに深く、古い記憶の底へ沈んでいく。

背丈の低い机が整然と並ぶ、小学校の教室。


「男の子なのに」


最初に言われたのは、いつだったか。


ざわざわとした無責任な声が遠くで響く中、ランドセルの冷たい革の感触だけがやけに鮮明だった。


好きなものを、隠すようになった。

引き出しの奥に。カバンの底に。

誰にも見せなかった。


机の奥に押し込んだ、パステルカラーの小物を指先でそっとなぞる。

誰かの足音が近づくたびに、びくりと肩を震わせて急いで手を引っ込めた。


好きな子がいた。

女の子だった。


(でも)


校庭を走るその子の揺れる髪を、窓越しにぼんやりと目で追う。


(女の子に、生まれたかった)


窓ガラスにうっすらと映る自分の短い髪が、ひどく見知らぬもののように思えた。


その二つが同時に頭の中にあって、どっちが本当なのか。

まだ、名前をつけられなかった。


校庭から聞こえる高い笑い声が、ちぐはぐな心の輪郭を余計に曖昧にしていく。


―――


視界がさらに歪み、息の詰まるような中学校の教室へと場面がすり替わる。


仲の良い友達ができた。

男だった。

彼は、僕に気があるようだった。


隣の席で無邪気に笑いかけてくる彼の顔を、どこか冷めた目で見つめる。


守ってもらえるなら、それでいいと思った。

利用した。

自覚は、あった。


机の下で、自分の指先をきつく絡め合わせる。

彼の背中に隠れていれば、あの突き刺さるような悪意の視線をやり過ごすことができた。

チビでひょろくて女みたいだと馬鹿にされることもなかった。


彼に彼女ができた。

本物の女性には、敵わなかった。


廊下の向こうで、彼が見知らぬ女子生徒と楽しげに話している。

自分には決して手に入らないものを突きつけられたようで、そっと目を伏せた。


後で知った。

ハニートラップだったと。

僕を孤立させるための。


教室の隅から向けられる粘着質な嘲笑が、肌を這い回る。


彼はすぐ別れたみたいだったけど、もう終わっていた。


窓ガラスを打ち付ける雨の音が、やけにうるさく鼓膜を揺らした。


守ってくれる人がいなくなった。

いじめが、加速した。


ゴミやチョークの粉が散乱する自分の机を、ただ無言で見下ろす。


(利用していたのは、どっちだったんだろう)


ひんやりとした隙間風が教室を吹き抜け、誰の答えもないまま残酷な時間だけが過ぎていく。


―――


暗い部屋の中、モニターの青白い光だけが輪郭を曖昧に照らし出す。

逃げるように、はまった。


画面の向こうで滑らかに動く、色鮮やかな2次元の姿をただじっと見つめていた。

画面の中では、男も女も、関係ない。


ヘッドホンから流れてくる高くて甘い声が、冷え切った耳の奥をじんわりと満たしていく。


かわいい声で。

かわいい名前で。

かわいくいられる。


マウスを握る手に力が入る。

プラスチックの硬い感触だけが、かすかに現実を繋ぎ止めていた。


(ここなら、女の子になれるかもしれない)


そう思った。


薄暗い四角い部屋の中で、液晶の放つ光だけが唯一の呼吸できる場所だった。


逃げ場だった。

それで十分だった。

その頃は。


瞬きをするたびに、画面の眩しい残像が暗闇の中に焼き付いては消えていく。


―――


記憶の渦はさらに深まり、夜の自室の光景を結ぶ。


姉が、気づいた。

いじめのことも。

全部。


床に座り込んだまま、ポツリポツリと言葉をこぼす。


ぶちまけた。

女の子になりたいこと。

ずっと隠してきたこと。

全部。


握りしめた拳が小刻みに震える。

拒絶されるのが怖くて、ぎゅっと目を閉じた。


姉は笑わなかった。

責めなかった。


「そっか」


それだけだった。


頭の上から降ってきた短い言葉と共に、ふわりと温かい匂いが近づいてくる。


抱きしめてくれた。

息ができた。

初めて。


背中に回された細い腕の感触に、張り詰めていた糸がふつりと切れる。


父には絶対に知られたくなかった。

それだけは、ずっと変わらない。


―――


視界が水面のように揺れ、別の記憶へと滑り落ちる。

姉の部屋の、大きな鏡の前。


姉の服を借りた。

最初は部屋の中だけだった。


それがやがて、一緒に外へ出るようになった。


フリルのついたブラウスの袖を通すたび、自分の中にあった空洞が少しずつ埋まっていくのがわかった。


(お姉ちゃんがいなければ、僕はとっくに壊れていたと思う)


鏡の向こうで並んで笑う自分と姉の姿が、暗い記憶の中で唯一のあたたかい光だった。


―――


息苦しい教室の空気が、殺風景な進路指導室のそれに変わる。


逃げた。

知り合いがいない場所へ。


机の上に置かれた進路希望調査票。

そこに書かれた見慣れない校名を、指先でなぞる。


篠見農業高校。


誰も自分を知らない場所。

視界の端で、分厚い資料をめくる担任の怪訝な顔がちらついた。


場面は家の居間へと飛ぶ。

冷え切った空気が肌を刺した。


両親は大反対だった。

父は特に。


低い怒声と、言い争うような声が遠くで響く。


姉が、動いてくれた。

何を話してくれたのかは知らない。

でもなんとか、進学できることになった。


閉ざされたドアの向こう側から聞こえる話し声に、ただ耳を塞ぐことしかできなかった。

真新しい学校のパンフレットをぼんやりと見つめる。


誰も知らない場所。

それで十分だった。


窓の外では、冷たい風が乾いた音を立てて吹き抜けていく。

逃げることに、もう、慣れていた。


自分の輪郭がどんどん薄れていくような感覚のまま、ただ静かに目を伏せた。


―――


暗い記憶の底から、真新しい制服の硬い感触が蘇ってくる。

入学してすぐの、まだ肌寒い春の日のことだ。


せっかく逃げてきたのに、無駄だった。


人気のない薄暗い廊下の隅。

冷たい壁に背中を押し付けられる。


佐竹。

中学の時のいじめを見ていたやつだ。

金を出せと言ってきた。


目の前に立つニヤついた顔から、逃げ場を塞ぐように黒い影が伸びてくる。


(また同じだ)

(また繰り返すのか)


床についた黒い靴跡を、ただ力なく見つめることしかできなかった。

その時、廊下の奥から重い足音が響いた。


でかい背中が、前に出た。


視界を覆っていた不快な影を乱暴に払いのけるように、別の大きな影が割り込んでくる。


棟方 浩二。

大きくて、強くて、裏表がない。


真っ直ぐな声が響き、佐竹が舌打ちをして去っていく足音が廊下に反響して遠ざかった。


(利用できる)


蛍光灯の光を遮るほど広く厚い背中を見上げながら、冷たい感情が胸の奥で渦を巻く。


また、同じことをした。

近づいた。

寮に通って、距離を縮めた。


彼の部屋のドアを叩く自分の右手が、ひどく汚れたもののように思えた。


逃げることに慣れていた。

利用することにも、慣れていた。


微かに土の匂いが染み付いた彼の服の隣で、ただひたすらに自分の狡さを隠し続けていた。


―――


記憶の景色が、どんよりとした学校から色鮮やかな休日の街角へと切り替わる。

ふわりと揺れるスカートの裾が、足元に軽い風を運んできた。


女装は、驚くほど僕の性に合っていた。

最初は姉と一緒だった。

ショーウィンドウに映る、見慣れないけれどしっくりくる自分の姿に目を細める。


いつしか一人でも平気になっていた。

街を歩けるようになっていた。


行き交う人々の視線が、男としての自分を通り過ぎていく。

それがひどく心地よかった。


華やかなポップが並ぶファンシーショップの入り口をくぐる。

前から来た人と、ぶつかりそうになった。


「あ、すいません」


うっかり声を出してしまい、相手の顔を見てギョッとする。

坂本さんだった。


咄嗟に口元を覆ったが、目の前に立つ見知った顔に心臓が大きく跳ねた。

息を呑む僕の前で、彼女はあっけらかんとした声で言った。


「あ、こちらこそ」


軽く頭を下げて、そのまま商品棚の方へと歩き去っていく。


(大丈夫だろうか)


バレたか。

バレてないか。

ひとまずそのまま、やり過ごした。


店内に流れる明るいBGMが、早鐘のように打つ心音をかき消してくれた。


―――


ファンシーショップのBGMが遠ざかり、今度は土の匂いを含んだ風が吹き抜けていく。

翌日のことだ。


棟方くんの寮に遊びに行くと、農場が気になると言うので、一緒に畑を見に行った。

初夏を思わせる強い日差しが、整然と並ぶ作物の葉を青々と照らしている。


天野さんと、その許嫁らしい男性がいた。

坂本さんもいた。

なにやら全員で談笑している様子だったが、誰がどういう関係なのか、この時点ではよくわからなかった。


許嫁の名は天野 雪杜くん。

そのバッグを見て、思わず声が出た。


彼のバッグにつけられた大量の缶バッジやらのプリントに、吸い寄せられるように足が動いていた。


「あの……そのバッグ」

「これ?」


不思議そうに首を傾げた彼と、バッチリ視線が交差する。


「VTuberですよね」

「え!?分かるの!!?」


パッと花が咲いたように明るくなった彼の顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


話が、弾んだ

初めてだ。

こんなに弾んだの。


次から次へと溢れてくる好きなものの話題に、頬が自然と緩んでいくのを止められなかった。

連絡先を交換した。


スマートフォンの画面に表示された新しい名前を、何度も愛おしそうに見返す。


流れで棟方くんの寮に行くことになった。

一緒にいた坂本さんに、案の定、モールでのことを詰められたが、なんとか誤魔化した。


鋭い彼女の視線を逸らすように、出された野菜炒めをパクパクと食べ続けた。


―――


農場の明るい日差しが掻き消え、淀んだ空気が記憶を覆い尽くす。

GW明けの、人気のない校舎裏。


佐竹が、暴走した。


バチッというけたたましい放電音と、焦げたような嫌な匂いが鼻を突く。

スタンガンを、首に押し当てられた。


怖かった。

動けなかった。

声も出なかった。


冷や汗が背中を伝い落ち、視界が恐怖でぐにゃりと歪んだ。

その時、またでかい背中が前に出た。


鈍い打撃音が響き、目の前の凶悪な影が地面に吹き飛んだ。


棟方くんが、止まらなかった。

殴り続けた。

止める人間が必要なくらい、殴り続けた。


土埃が舞い上がり、血の匂いが微かに風に混じる。


停学になった。

一週間。


無人の机を見つめる数日間は、ひどく長く感じられた。

復帰した彼と、教室で向かい合う。


彼は、親に「よくやった」と褒められたと嬉しそうに話していた。

屈託のない笑顔と、大きな手で頭を掻く仕草に胸がひどく痛む。


その顔を見て、思った。

真っ直ぐに向けられる信頼の瞳から、思わず目を逸らした。


(利用していると知ったら、悲しむだろうか)


膝の上で固く握りしめた拳が、かすかに震える。


(悲しむんだろうな、きっと)


窓の外を流れる雲を眺めながら、自分の中にある黒い感情の重さにただ耐えていた。


―――


沈鬱な空気が晴れ、柔らかな光が記憶の底を照らし出す。


雪杜くんと交流を重ねる中で、初めて打ち明けた。

姉以外に。

向かい合って座る彼のまっすぐな瞳を見つめながら、膝の上の布地をぎゅっと握りしめる。


女の子になりたいこと。

VTuberをやってみたいこと。


喉の奥にこびりついた言葉を絞り出すたび、心臓が早鐘のように鳴り響いた。


怖かった。

笑われると思った。

引かれると思った。


息を詰め、彼から返ってくる言葉を待つ。

ほんの数秒が、永遠のように感じられた。


でも、雪杜くんなら絶対に笑わないと思った。

それだけは、最初から分かっていた。


緊張で冷え切った指先とは裏腹に、なぜか胸の奥には確かな信頼があった。


彼は笑わなかった。

引かなかった。

それどころか、一緒にデビュー方法を考えてくれた。


スマートフォンの画面を覗き込みながら、真剣な顔で機材や配信の設定を調べてくれる。

その横顔を見つめていると、視界がじんわりと滲んでいった。


姉と、雪杜くん。

二人だけだ。

僕の全部を知っているのは。


二人で囲んだ小さなテーブルの温もりが、冷たかった世界を優しく溶かしていく。


―――


照りつける太陽の熱が、記憶の端でじりじりと焦げるような匂いを放つ。


夏休み。

ついに、デビューした。


マウスを握る手に、じんわりと温かい汗が滲んでいた。

視界が切り替わり、配信ソフトの開始ボタンがチカチカと点滅する。


ボイスチェンジャーを通した声で。

初めて「たなこ」として、話した。


マイクの前で小さく息を吸い込むと、ヘッドホンから全く違う、高く可愛らしい声が返ってきた。


花の話をした。

女の子の声で。

女の子の名前で。

女の子の恰好で。


画面の端で流れるわずかなコメントが、心臓の鼓動をどこまでも早めていく。


それだけで、ずっと探していたものに触れた気がした。

モニターに映る自分のアバターが、まばたきに合わせて可愛らしく目を閉じる。


ここにいていい。

そう思えた。

初めて。


クーラーの微かな駆動音だけが響く部屋で、画面の中の自分だけが確かに呼吸をしていた。


―――


PCの放つ熱気が、部屋の空気をじっとりと重くしている。


出だしは同接一桁だった。

でも夏休みの終わりには30まで伸びていた。


少しずつ増えていく数字を見るたびに、胸の奥がくすぐったいような熱を持った。

雪杜くん経由で「御珠ちゃんを見守る会」を頼れば、もっと伸びたかもしれない。

でも、やめた。


沢山のVTuberを見てきたから分かる。

人には分相応というものがある。

突然注目を浴びたVTuberがどうなるかはよく知っている。


心無い言葉で埋め尽くされる他人の配信枠を思い出し、背筋に冷たいものが走った。

花の話など微塵も興味がない人が来ても、叩かれるだけだ。


―――


夏が終わった。

昼の配信は、もうできない。

平日は学校がある。

土日は両親が家にいる。


悩んだ末に、土曜の22時にした。

配信回数が減った分、時間を長くしようと思った。


これが、よくなかった。


喉の奥がカラカラに乾いていく感覚だけが、ひどく鮮明に記憶に残っている。


花の話だけでは、1時間は持たなかった。

最初の夜配信は大失敗だった。


その後も試行錯誤してみても、同接は伸びなかった。


そして、時計の針は無情にも今夜の配信へと近づいていく。

モニターの光が、やけに刺々しく網膜を焼いた。


きょうは、マシュマロを募集してみた。

準備してきた。

やれると思った。


画面に並んだ匿名のメッセージを追う視線が、小刻みに揺れる。


クソマロばかりだった。

捌けなかった。

笑いにできなかった。


マウスを握る指先から、さーっと血の気が引いていくのがわかった。


本物の女性だったら、うまく捌けたんだろうか。

もっと初々しい女性らしい反応が出来たんだろうか。

堂々とJKと名乗れたんだろうか。


ヘッドホンから聞こえる自分の作られた声が、突然ひどく異質で、滑稽なものに思えた。

思わず口から出てしまった。


「……つまらないですよね」


薄暗い部屋の中に、その弱々しい音がポツリと落ちる。


画面の数字が、減り始めた。

パラパラと崩れ落ちるように減っていくその数値を、ただ瞬きもせずに見つめ続けた。


―――


画面の隅に表示された「2」という数字が、冷たく現実を突きつけてくる。


ここまでかと思った。

雪杜くんはこの時間帯、別の配信者を追いかけてる。

生配信は見ていない。


だから残ってくれているのは、別の誰かだ。

優しい誰か……

こんなつまらない配信を……最後まで……


マイクに息がかからないよう、そっと深く息を吸い込む。


「……最後まで見てくれてる、優しいあなたに。本当のことを、話させてください」


男であることを、打ち明けた。

笑われてもいいと思った。

もう終わりにしようと決めていたから。


震える唇を噛み締め、ボイスチェンジャーを通したままの声を絞り出した。


「……僕、本当は男です。

 騙してて、ごめんなさい」


静まり返った部屋に、自分の発した無惨な言葉だけが痛いほど響く。


「昔から、かわいいものが好きで、女の子になりたかった」


「たなこでいる時だけ、それができた気がしてたんです」


「……花の話をして、かわいいって言ってもらえて」


滲んできた視界を誤魔化すように、ぎゅっと目を閉じる。


「それだけで、嬉しかった」


「きょうで、引退します」


「見てくれて、ありがとうございました」


「……最後まで、いてくれてありがとうございました」


配信終了のボタンにカーソルを合わせ、震える指で押し込んだ。

ぷつり、と画面が真っ暗になり、黒いモニターに泣いている自分の顔が映り込む。


(一人だけでも、最後まで残ってくれた)


それだけで、十分だった。

僕は、引退した。


暗転した画面の前で、ヘッドホンをそっと外して机に置いた。


―――


真っ暗になったモニターの前で呆然としていると、ふいにスマートフォンの画面が明るく光った。


通知が来た。

数字の羅列。

080――


(電話番号?)


ダイレクトメッセージの画面に表示された見慣れない文字列を、何度も瞬きをして確認する。


(最後の一人が、送ってきた?)


震える指でその番号をタップし、耳元にスマートフォンを押し当てた。

コール音が数回鳴り、微かなノイズと共に通話が繋がる。


「……もしもし……あの」


『お前だったんだな』

「僕のこと、知ってるんですか?」


『ああ、あたしだよ。坂本 華蓮』

「え!?坂本さん!!?」


聞き覚えのあるあっけらかんとした声に、心臓が大きく跳ね上がった。

まさかの、クラスメイトだった。


息を呑んで固まる僕の耳に、スピーカー越しの彼女の声が優しく届く。


『見たよ。最後まで。立派だったよ』


その一言で、張り詰めていた糸が完全に切れた。


泣いた。

我慢できなかった。

ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うこともせず、ただスマートフォンの向こうの気配にすがりつく。


彼女は言った。

女の子が好きかもしれない、と。

天野さんのことが好きだ、と。

でもわかんない、と。


鼻をすする音を立てながら、彼女の不器用でまっすぐな告白をただ静かに聞いていた。

そして。


「今度、その格好でどっか行こう」


「デート。あたしと」


予想もしていなかった言葉に、涙で濡れた頬が熱くなるのを感じた。

彼女は女性が好きで、僕は女の子の恰好をした男で、これって何になるんだろう。


答えの出ない疑問が頭をよぎるが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


デートは明日になった。

学校で合わせる顔がないと。

一週間もんもんと過ごすよりマシだと彼女は言った。


それはそうだと思った。


通話が切れた後も、じんわりと温かくなったスマートフォンを両手で包み込むように握りしめていた。


―――


焦点が再び現在の自室の天井へと結ばれる。

布団の冷たい感触が、ようやく僕を現実の世界へと引き戻してくれた。


(坂本さんも、どこかに収まれない人なのかもしれない)


彼女の不器用な優しさを思い出し、胸の奥が少しだけチクリと痛む。


(明日のデート、どうなるんだろう)

(女性の恰好で、女性とデート)

(仲のいい友達に見えるんだろうか)


寝返りを打ち、顔の半分を布団に沈める。


(坂本さんはああ言ったけど、いざ女装を目の前にしたら、ドン引きするんじゃないか)


膨れ上がる不安に押しつぶされそうになりながら、ぎゅっと目を閉じた。


(眠れそうにない)


時計の秒針が刻む音が、静かな部屋の中でいつまでも鳴り響いていた。

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