第20話 誰か、癒して
あのお泊りの夜から、数日が過ぎた。
今は夏休みの真っ最中。
時刻はまだ朝の7時半だというのに、もうじわりとした暑さが空気を包み始めている。
トマトの生育状況を確認するため、しゃがみ込んでいるあたしの隣には、もちろん御珠がいた。
「ふむ。順調に育っておるの」
「ああ」
短い相槌を打ちながら、朝露に濡れた青々とした葉をそっとかき分ける。
「トマトは水をやり過ぎぬ方が美味しくなるそうじゃ」
「へー」
「む!虫が湧いておるの」
言うが早いか、御珠がひょいと一歩前に出て葉っぱの裏を覗き込んだ。
無防備に顔を近づける、その後ろ姿が視界いっぱいに広がる。
(後ろ姿、かわいい……)
(あの髪に、顔をうずめて……)
ドクン、と。
胸の奥で、心臓が一度だけ変な跳ね方をした。
カーッと顔に熱が集まっていくのがわかる。
いくら夏とはいえ、まだ涼しさが残るこの時間帯に、こんなに顔が熱くなるわけがない。
(な、なに考えてんだあたし!)
慌てて首を振って、頭の中の変な妄想を追い出す。
当の御珠はあたしの焦りなんて全く気にする素振りも見せず、素手でためらいなく虫を払いのけた。
「ふむ。これでよい」
パンパンと指先を払う御珠。
朝の透き通った光が彼女の横顔を照らし、遠くで鳴き始めた蝉の声と、土を踏む乾いた音だけが響いている。
「……暑いな」
「そうじゃのう」
振り返った御珠が、ふわりと微笑んだ。
たったそれだけのやり取り。たったそれだけの笑顔。
(……それだけで、なんで)
―――
午後。
自室のベッドにどさりと倒れ込み、天井を仰ぎながらスマホを開く。
いつも通り。ただの習慣だ。
画面をスクロールしていると、見慣れたたなこのサムネイルが出てきた。
タップすると、ちょうど配信が始まるところだった。
(ぼーっとするのにちょうどいい)
画面越しに、ゆったりとした口調でたなこが語り始める。
『きょうのお花はね、ひまわりです。夏に咲く花。でも、もうそろそろ終わりが近いんですよ』
イヤホンから流れるその音色は、ひどく耳に心地いい。
(……声、穏やかだな)
『どんなに大きく咲いても、終わりは来るんですね。でもそれが、また綺麗なんだと思います』
(かわいい声だな)
扇風機の首が回り、生ぬるい風が頬を撫でていく。
その風の感触に急に現実に引き戻されたように、画面を見つめていた視線が泳いだ。
(……え、なに今)
(あたし、今なんか思った?)
瞬きを数回繰り返す。
その間に、画面の中のたなこはリスナーの書き込みを読み上げていた。
『ふふ。コメントありがとうございます』
くすくすと、鈴を転がすような笑い声。
(笑った)
ドクン、と。
今朝、露地栽培の畑で感じたあの変な鼓動が、また胸の奥で跳ねた。
(……ちょっと待って)
(え!?御珠だけじゃないのか!?)
パニックで手元が狂い、顔面に向かってスマホが落下してくる。
ゴンッという鈍い衝撃が鼻っ柱を直撃した。
「痛た!」
痛みをこらえて、もう一度ベッドにゴロンと仰向けになる。
白い天井を見つめながら、頭の中で必死に言い訳を探し始めた。
(御珠のことは……前からだし)
(あれは特別扱いなだけだ。友達として)
ウンウン、と自分を納得させるように深く頷く。
(たなこは声が穏やかなだけ。ラジオみたいなもんだ)
(声の仕事なんだし、当たり前だ)
もう一度、力強く頷く。
窓の外から聞こえる遠くの車の音が、やけに響いて聞こえた。
(……でも、両方、女だ)
ぐるぐると思考が熱を持ったように回り始める。
整理しようとすればするほど、別の記憶が勝手に蘇ってくる。
先日の光莉の言葉だ。
『ウチ、オールラウンダーだから。御珠っちも守備範囲だよ』
(……あいつ、御珠も守備範囲だって言ってた)
チクリと、胸の奥を針で刺されたような痛みが走った。
(え、なに。今)
(嫉妬してるのか!?あたし!?)
なんで光莉なんかに。
そう思った瞬間、温泉での光景が脳裏にフラッシュバックする。
『あ……ん……な、何をしておる!妾の乳房を揉むでない!』
(……あいつ、おっぱい揉みやがって)
ほんの少しだけ、いいなって羨ましく思ってしまった自分に気づいて、さらに混乱が加速する。
(光莉なら、大丈夫なはずだ)
わけのわからない理屈をこねて、試しに想像してみる。
光莉と手を繋いで歩いている光景。
あの人懐っこい明るい笑顔が、すぐ隣にある。
(……あれ、悪くない?)
(いや待って何が悪くないんだ)
自分で自分の想像にツッコミを入れた直後、光莉のさらにヤバい発言が追い打ちをかけてきた。
『ウチが抜いてあげるっしょ』
(……抜く)
(手で……あたしの……)
ドワッと全身の血が顔に集まるのがわかった。
尋常じゃないほど顔が熱い。
(ば、ばか!なに想像してんだ!!)
たまらず、足元にあったタオルケットを引き寄せて、頭からすっぽりと被る。
暗闇の中で自分の荒い息遣いだけが聞こえた。
(女なら誰でもいいのか!?あたし!!)
(いや、そんなことはない。佐々木のことだって好きだったし)
中学の同級生だった佐々木の顔を必死に思い浮かべる。
背が高くて、サッカーが上手くて、かっこよかった。
(好きだった。ちゃんと男子として)
(だから大丈夫)
自分に言い聞かせるように、タオルケットの中でギュッと目を閉じる。
部屋の隅から、扇風機が風を切る微かなモーター音だけが静かに響き続けている。
(……でも今引っかかってるのは、全員女だ)
完全に思考がショートした。
(わかんない)
もう布団から出られる気がしない。
―――
お盆が明け、夏休みも残すところあと十日程になったある日の朝。
今日はクラスのメンバーが全員集合していた。
春から育ててきたトマトの収穫、つまりこの夏の農作業の総決算だ。
「全部取り切れ。残すな」
「おし、やるが!」
工藤の短い号令に棟方が気合の入った声を返し、一斉に作業が始まった。
ざく、ざく、とトマトをもぐ小気味いい音が畑のあちこちから鳴り響く。
ふと横を見ると、隣の列には御珠がいた。
無駄のない動きでてきぱきと赤い実を収穫していく。
麦わら帽子の下からこぼれる藍色の髪が、夏の太陽の下でキラキラと光っていた。
(……きれいだな)
不意にそんな言葉が頭に浮かび、ハッとして慌てて目をそらす。
(見るな)
ざく、と少し乱暴にトマトをもいだ。
「トマト、美味しそう」
「んだな。腹減った」
「黙って動け」
「へーい」
湊と棟方の呑気な会話を工藤先生が一刀両断し、再び畑で静かに作業が続く。
太陽が高くなるにつれてカゴの中の赤い実が山積みになり、残りの株は目に見えて少なくなっていった。
「……終わりじゃのう」
ぽつり、と。独り言みたいに、御珠が言う。
「……きょうで終わりだな」
「そうじゃの」
遠くの森からカラスの鳴き声が響く。
御珠はカゴの中で転がるトマトの表面を、そっと指先で撫でた。
「春から育てたのが、全部終わる」
いつも堂々としている御珠の声が、珍しく静かだ。
(御珠も、なんか感じてるのか)
(……あたしと同じかな)
(違うか。御珠は農作業が終る寂しさを感じてるんだ)
ざく、と残っていた実をもぐ。
胸の奥で燻っていた思いが、ハサミを動かす勢いに乗ってポロリとこぼれ落ちた。
「……なぁ、休み中、遊びにいっていい?」
頭で考えるより、思ったより先に口が動いていた。
「ふむ」
作業の手を止め、御珠がこちらを向く。
「雪杜も咲良もおるがよいか?」
その名前が出た瞬間、心臓のあたりがスッと冷えた。
(……あの三人の中に入るのか)
脳裏に蘇るのは、こないだの温泉での会話だ。
『えへへ。これ、御珠ちゃんにもらったんだ』
『雪杜とも一緒なんだよ。いいでしょ』
『ふむ。咲良は特別だでの』
無邪気な咲良の笑顔と、御珠の言葉がリフレインする。
(あの三人の間に、あたしが……)
頭の中でシミュレーションするまでもなく、一瞬で答えが出る。
「……考えとく」
「左様か」
御珠は特に何も言わずに、あっさりと視線を戻して収穫に戻る。
(できない)
取り残されたあたしは、目の前の真っ赤なトマトを睨みつける。
(できないやつだそれは)
ざく、ともぐ。
ハサミの冷たい音だけが、夏の終わりの畑に響き渡った。
―――
並べられたカゴには、真っ赤なトマトが山のように積まれている。
すべての列の収穫を終え、工藤先生が満足げに頷いた。
「良し。毎日よく頑張ったな。トマトは一人三個まで持って帰っていいぞ」
「あとの休みはゆっくりしていい。以上、解散!」
その声を聞いた瞬間、周囲からわぁっと歓喜の声が上がる。
「へば、まだ2学期な!」
棟方が大きく手を振り、他の生徒たちも次々と農場を後にしていく。
その波に乗るように、御珠もくるりと背を向けて歩き出した。
一度も、こちらを振り返ることはない。
(当番、終わったな)
(御珠に会える理由が、なくなった)
土の上に立ったまま、足がまるで根を張ったように動かない。
遠ざかっていく藍色の髪を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
(2学期まで、どれくらいあるんだっけ)
(長いな)
―――
午後。
自室のベッドに背中を預けたまま、ただぼんやりと天井を見つめていた。
頭の中を占めているのは、たった一つのことばかり。
(御珠……)
(あたし、どうなっちまったんだ……)
不意に、視界がぐにゃりと歪んだ。
目の端が熱を持ち、景色の輪郭がぼやけていく。
(会いたい……)
こぼれ落ちそうになるものを、手の甲で乱暴に押さえつける。
(泣くな。なんで泣くんだよ)
ギリッと奥歯を噛み締め、気を紛らわせるように枕元のスマホを手に取る。
画面をタップすると、ちょうどたなこの配信が始まるところだった。
『こんにちは。きょうも来てくれてありがとうございます』
(……たなこ)
コードの絡まったイヤホンを耳に押し込む。
外界の音をすべて遮断して、画面の向こう側の穏やかな声だけにすがりつく。
(癒してくれよ……少しだけでいい……)
イヤホンから流れてくる、ひどく優しい声。
ジリジリと照りつけていた太陽の熱が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
『ふふ……コメントありがとうございます』
(……ありがと)
うとうとするような気怠さの中で、気づいたら手が動いていた。
止める理由を、考えられなかった。
(……声、好きだな)
イヤホンの向こうで、穏やかな声が続いている。
その声に引き寄せられるように、ゆっくりと、意識が溶けていく。
頭の中がぼんやりと白くなっていく。
最後に浮かんだのが誰の顔だったか、自分でもよくわからなかった。
こうして、あたしの夏が終わっていく。
『夏休みが終わったら配信時間を変えたいと思います――』




