黒狐のヤクモ
第十一章
黒狐の噂
「昔、少しだけね」
その言葉を聞いた瞬間。
レンカの背筋に、
妙な寒気が走った。
⸻
昔。
⸻
ゼロと。
⸻
少しだけ。
⸻
簡単に言うには、
あまりにも重い言葉だった。
⸻
「……いつの話ですか」
⸻
ヤクモは酒を飲む。
⸻
「昔は昔だよ」
⸻
「答えになってません」
⸻
「質問が雑なんだよねぇ」
⸻
軽い。
いつもの調子。
⸻
だが。
レンカは気づき始めていた。
⸻
この男。
⸻
“肝心なところだけ、
絶対に答えない”
⸻
ヤクモは、
夜空を見上げた。
⸻
星。
⸻
青白い光。
⸻
無数。
⸻
「綺麗ですね」
⸻
レンカが小さく言う。
⸻
ヤクモは少し黙った。
⸻
「そう?」
⸻
「え?」
⸻
「まぁ……
作り物にしちゃ上等だけど」
⸻
レンカが固まる。
⸻
「……はい?」
⸻
ヤクモは笑った。
⸻
「冗談冗談」
⸻
その笑い方が、
妙に空虚だった。
⸻
その時。
⸻
空中庭園入口側から、
重い足音が響く。
⸻
レンカが振り返る。
⸻
炎帝グラウス。
⸻
巨体。
灼熱。
歩くだけで空気が歪む。
⸻
周囲修復術師達が、
慌てて道を空ける。
⸻
国家を焼いた男。
⸻
戦場では、
グラウスが進む方向から兵が消えると言われる。
⸻
彼が本気で戦えば、
都市一つが戦闘余波で崩壊する。
⸻
だが今。
⸻
炎帝の顔は、
妙に険しかった。
⸻
グラウスは、
ヤクモの前で止まる。
⸻
「話がある」
⸻
ヤクモは酒瓶を傾けた。
⸻
「怖い顔してるねぇ」
⸻
「貴様」
⸻
グラウスの目が細まる。
⸻
「ゼロを知っているな」
⸻
レンカが息を呑む。
⸻
ヤクモは、
少し考えるふりをした。
⸻
「有名人だし?」
⸻
「ふざけるな」
⸻
グラウスの熱量が膨れる。
⸻
周囲温度上昇。
修復術師達が逃げ始める。
⸻
レンカの頬へ汗が流れる。
⸻
今この男が本気を出せば、
空中庭園ごと消える。
⸻
だが。
⸻
ヤクモだけ、
平然としていた。
⸻
酒を飲む。
⸻
何も変わらない。
⸻
グラウスは気づく。
⸻
おかしい。
⸻
普通の人間なら、
自分の熱量だけで立っていられない。
⸻
なのに。
⸻
この男。
⸻
“自然すぎる”
⸻
グラウスが低く言う。
⸻
「貴様は何者だ」
⸻
ヤクモは少し困った顔をした。
⸻
「今日それ聞かれるの何回目だろ」
⸻
「答えろ」
⸻
炎が揺れる。
⸻
その瞬間。
⸻
ヤクモの目が、
ほんの少しだけ変わった。
⸻
笑っていない。
⸻
グラウスが、
無意識に息を止める。
⸻
ほんの一瞬。
⸻
この男の奥に、
“何か”を見た。
⸻
底の見えない、
異常な年月。
⸻
戦場。
死。
崩壊。
孤独。
⸻
全部見続けたような目。
⸻
だが。
⸻
次の瞬間には、
もう消えていた。
⸻
「ただのしがない酔っ払いだよ」
⸻
ヤクモが笑う。
⸻
グラウスは舌打ちした。
⸻
「気に入らん」
⸻
「そりゃどうも」
⸻
数秒。
沈黙。
⸻
やがて。
⸻
グラウスが低く言った。
⸻
「……ゼロは、
何故都市を止めた」
⸻
ヤクモは少し黙った。
⸻
夜風。
星。
遠くの修復光。
⸻
その全部を見た後。
⸻
「さぁね」
⸻
小さく笑う。
⸻
「気まぐれじゃない?」
⸻
グラウスが睨む。
⸻
「そんな存在か」
⸻
ヤクモは、
酒瓶を揺らした。
⸻
「気まぐれじゃない怪物の方が、
怖いでしょ」
⸻
レンカは、
妙な違和感を覚えていた。
⸻
ヤクモは、
ゼロを怖がっていない。
⸻
だが。
⸻
“悲しんでいる”
⸻
ように見えた。




