霧の山と送り犬1
昼休み、結衣はオサフネ特製日の丸弁当を広げた。
弁当箱の中は、白米。
そして真ん中に梅干しが一つ。
以上。
余白の美、というより、ただのおかず不足だった。
ぜいたくは敵だと言い聞かせながら一口食べようとしたとき、
「結衣ーっ!」
一人の少女が駆け込んできた。
燧灘灯。結衣の幼馴染だ。
駆け込んできた灯の首では、お守りが三つも四つも跳ねていた。
山の上の寺の娘で、休みの日には巫女として神事を手伝っている。
都市伝説YouTuberの動画や怪異が大好きで、その手の話になると人が変わったように早口になり息継ぎを忘れる。
「結衣、聞いて聞いて! すごい噂があるの!」
「あかりんのすごい噂、半分くらいは大したことないやつだよね」
「今回は本当にすごいの!」
「犯人はみんなそう言うんだよね」
「犯人じゃないってば!」
灯は結衣の机に両手をついて、ぐっと身を乗り出した。目がきらきらしている。完全にスイッチが入っている。
「最近ねぇ、うちのロープウェイで変なことが起きてるの!」
「変なこと? 奇々怪々ってこと?」
「霧の深い日にね、ロープウェイに乗って山頂まで登った観光客が、降りたら知らない場所に出たんだって!」
「知らない場所って、乗り間違えたとか?」
「ロープウェイで乗り間違えるほうが怖いよ!」
「たしかに……」
「違う違う! 頭道みたいなのに、誰もいなくて、音もしなくて、霧が晴れなくて、スマホの電波も立たなくて、気づいたら元に戻ってたんだってぇ!」
「うーん……」
結衣は箸を置いた。
「それ、霧で道が分かんなくなっただけじゃない?」
「異界だよ、異界!」
「え、ちょっと話が飛びすぎじゃない?」
「飛んでないって!」
灯は机をばんばん叩いた。
「昔から霧って異界と相性がいいんだよ!? 山の怪異も海の怪異も、異界譚ってだいたい霧が出るんだから!」
「あー、始まった」
「結界が薄くなるとか! 境界が曖昧になるとか! 昔の文献にも似たような話があってねぇ~!」
「始まったね」
「それにね! 誰もいない! 音もしない! 帰ったら時間感覚がおかしい! これ全部異界あるあるなの!」
「異界あるあるなんてあるんだ」
「あるの!」
「へぇ」
「反応が薄い!」
「へぇ~へぇ~へぇ~へぇ~へぇ~へぇ~へぇ~」
灯はびしっと結衣を指差した。
「結衣はもっとこう……『うわー! 本物の異界だー!』ってなるべきなの!」
「だってまだ本物か分からないし」
「だから確かめに行くんじゃん!」
「元気だなぁ」
「あたし、こういうの確かめるために巫女やってるところあるし!」
「神様に怒られそうな発言だね」
結衣は仕方なく灯に付き合うことにした。
「でも霧で迷っただけかもしれないよ。なんなら、ちょっと寝ぼけてたとか」
「観光客が昼間から寝ぼけてるわけないでしょ!」
「あかりんが見たわけじゃないんだ?」
「あたしは見てないけど! でも証言があるの!」
灯は指を三本立てた。
「あたしのお寺の上のあたりで、ここ何日かで三人も同じこと言ってるの」
「お寺って、一千光寺のこと?」
「そう! ロープウェイの終点がお寺でしょ。だから異界から戻った人が、よく寺に駆け込んでくるの!」
「異界駆け込み寺ってこと?」
「あたし、巫女だからそういう話はよく耳に入るんだけど、こんなにはっきりした証言が揃うのは初めてで――」
「でも三人だけだよね……?」
「三人だよ!? 三人! 一人なら勘違い! 二人なら偶然! 三人なら怪異確定!」
灯は胸を張って言う。
「だから! これはほぼ確実に異界に繋がってるって、巫女のあたしが断言します!」
「ほぼ確実に断言するんだ」
「……たぶん!」
「たぶんなんだ」
結衣は箸を持ったまま、少し考えた。
いつもの灯の「すごい噂」なら、結衣は適当に聞き流していた。
前に「呪われた井戸がある!」と言われてついていったら、ただの普通に呪われた井戸だったし、「夜に動く石像」も、ただの夜に動く石像だった。
でも、今回は少し引っかかった。
少し前、月之島での騒動。
あのとき感じた、街のどこかが少しずつおかしくなっているような感覚。
もしかすると、それと関係があるのかもしれない。
「……今回は、本当に何かあるかも」
と、結衣は呟いた。
「でしょ!? 結衣もそう思う!?」
「うん。なんとなく、だけど。霧の深い日、だっけ」
灯がぱっと顔を上げた。
「今夜、ちょうど夜霧が濃くなるって天気予報で言ってたの!」
「絶好の異界日和ってコト?」
「ね、確かめに行こう!」
「行きたいけど」
結衣は少しだけ眉を寄せた。
「もし本物の異界だったら、ちょっと怖くない?」
「……たしかに」
灯の勢いが少しだけ止まった。
「井戸とか石像と違って、今回は三人も証言してるもんね」
「うっ……結衣がそういうこと言うと、急に怖くなってきた」
「やめる?」
「やめない」
「やめないんだ」
「だって気になるし」
「好奇心が勝った」
「勝った」
「怖いんじゃなかったの?」
「怖い」
「怖いのに?」
「怖いけど気になる」
「難儀な性格だね」
「怪異好きなんてみんなそんなもんだよ!」
結衣はしばらく考えてから、ぽんと手を打った。
「そうだ。オサフネさまも呼びましょう」
「あっ、いいね! 神様がいれば百人力だ!」
「一人力くらいらしいよ?」
「神様、強いもん!」
「強いのかなあ。家ではだいたいゴロゴロしてるけど」
「神様だよ!? 何とかしてくれるに決まってるよ!」
こうして、二人の放課後の行き先は、結衣の家に決まった。
◇
「――というわけで、ついて来てください」
放課後、結衣の家の縁側で、オサフネは茶を飲んでいた。話を聞き終えると、湯呑みを静かに置いた。
「異界に、霧に、怪しい噂。……碌な話ではなさそうじゃのぅ」
「でも神様、すごく気になりませんか!?」
灯が身を乗り出した。
「霧の異界ですよ! 封じられた何かがあるのかも!」
「気にならんわい」
「即答ですね」と、結衣。
「面倒ごとの匂いしかせん。お主ら、噂を聞いて気軽に異界へ行こうとしておるが、そういう場所は行きはよくとも帰りがおそろしいものじゃ」
「だからオサフネさまについて来てほしいんです!」
「だから、なぜワシが」
「お願いします!」
「お願いします、神様!」
結衣と灯が、揃って両手を合わせた。二対の目が、じっとオサフネを見つめる。
オサフネはしばらく二人を見ていた。
この二人を放っておくと、間違いなく自分たちだけで異界に突っ込んでいく。
そして帰り道が分からなくなって泣きつくのだ。
先に行くのも、後で迎えに行くのも、手間は同じ。ならば。
「……ため息が出るわ」
「行ってくれますか!?」
「ワシが行かねば、お主らが帰ってこられんようになるからじゃ。決して興味があるからではない」
「神様を何だと思っとるんじゃ、って顔してます」
「よく分かっとるじゃないか」
オサフネは立ち上がった。
◇
夕方、三人は坂を下りはじめた。
空はまだ明るいが、海のほうからうっすらと霧が流れてきている。
灯の言った通り、今夜は深い霧になりそうだった。
一千光寺のロープウェイは、街の反対側の麓にある。頭道の人間はふだんカブトガニで移動するから、ロープウェイなど滅多に使わない。
だから乗り場までは、わざわざ坂を下って歩いていくしかなかった。
「ふだんカブトガニばっかりだから、ロープウェイのほうに来るの久しぶり」
と、結衣が言った。
「あたしもお寺に帰るときはカブトガニだもんね」
「ロープウェイなんて、観光客しか乗らないよ」
「だからこそ、人間が異界に迷い込んでも、誰も気づかんかったのじゃろうな」
と、オサフネが呟いた。
「頭道の者は、あの乗り物を使わんからのぅ」
商店街を抜けようとしたとき、横合いから声がかかった。
「お、ジト目幼女ネキやないか!」
プラモデル屋の店先で、おっちゃんが手を振っていた。
「……その呼び方はやめい」
「ちょうどええとこに来た。この前は福引きで助かったわ。あれから客足が増えてのぅ。礼がしたいと思っとったんや」
「礼などいらん」
「まあ、そう言わんと。ほれ、これ持っていき」
おっちゃんが店の奥から何かを持ってきた。黒い、拳銃の形をしたものだ。
「エアガンや。よう出来とるやろ」
オサフネは差し出されたそれを、訝しげに見た。
「……てっぽう、か」
「おもちゃやおもちゃ。BB弾が出るだけの。物騒なもんやないって」
「ワシは神じゃぞ。このようなものを――」
「まあ、ええからええから。神様への感謝の気持ちや」
オサフネはしぶしぶ受け取った。思ったより軽い。
手のひらに馴染む感触が、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
「似合っとるで、ネキ」
「似合ってたまるか!」
オサフネはエアガンをスカートのウエストに挟んだ。
「セーラー服とエアガンみたいでちょっと格好いいです!」と灯が言った。
「お主まで何を言い出す……」
白いセーラー服に黒いエアガンは、まるで似合っていなかったが、持っていないよりはましな気がした。なぜそう思ったのかは、自分でも分からなかった。
「さあ、行くぞ」
三人は霧の流れはじめた坂を、ロープウェイ乗り場へと下りていった。




