孫になった覚えはないんじゃが2
糸をたどって商店街を抜けると、坂を少し上ったところに小学校があった。
古い木造校舎と、新しい鉄筋校舎が並んで建っている。頭道の子どもたちが通う学校だ。糸は、その校庭のほうへと伸びていた。
「猫め、学校に入り込んだか」
猫はどうやら校庭を横切っていったらしい。オサフネは正門から中をのぞき込んだ。ちょうど授業中なのか、校庭には誰もいない。
これなら何の問題もなく通り抜けられる。オサフネはそう思って、校庭に足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「あーっ!!」
校舎の二階から甲高い声が響いた。
「神様だ!!」
続いて別の窓が開いた。
「ほんとだ!!」
「神様がいる!!」
次の瞬間、校舎中がざわついた。
二階の窓に、ずらりと小学生の顔が並んだ。
一つ、二つではない。次から次へと窓に張りついて、こちらを指差している。
「ほんとだ! 神様!」
「白い神様!」
「銀色の髪!」
声はあっという間に校舎中に広がった。
隣の窓、その隣の窓、一階の窓。気づけば校舎のあらゆる窓から、小学生たちが身を乗り出してオサフネを見ていた。
「神様ー!!」
「神様こっち向いてー!!」
「神様ほんものー!?」
「偽物が校庭を歩いておったら、それはそれで問題じゃろう」
「しゃべったー!!」
歓声が上がった。
オサフネは頭を抱えた。
「せんせー!!」
「神様がしゃべりましたー!!」
「そりゃしゃべるじゃろうが!!」
「またしゃべったー!!」
歓声がさらに大きくなる。
まずい。
非常にまずい。
野生動物に反応するなと言われても無理なように、小学生に神様を見つけるなと言うのも無理らしい。
オサフネはその場に立ち尽くした。
数十、いや百を超える小さな目が、一斉に自分に注がれている。指を差され、名前を呼ばれ、きゃあきゃあと騒がれている。
「おぉ……これは」
オサフネは呟いた。
「年に数回、小学校の校庭に野良犬が迷い込んで、全校が騒然となるイベントがあるじゃろう。あの、迷い込んだ野良犬の気分じゃ……」
「神様こっち向いて!」
「なんか芸やって!」
「空飛んで!」
「野良犬のほうがまだ気楽じゃったかもしれん!」
窓から身を乗り出しすぎた小学生が、危うく落ちそうになっている。先生らしき大人が慌てて引き戻しているのが見えた。
このままでは騒ぎが大きくなる一方だ。糸はすでに校庭を抜けて、さらに先へ伸びている。長居は無用だった。
オサフネは小さく息を吐くと、子どもたちに向かって軽く手を振った。
わあっ、と歓声が上がった。
その隙に、オサフネは足早に校庭を横切り、裏門から外へ抜け出した。
背後では、まだ「神様ー!」という声が響いていた。
「……二度とここは通らん」
◇
糸をたどってさらに坂を上ると、寺に着いた。
頭道でいちばん高い場所にある古い寺だ。
境内からは頭道の街と海、そして向かいの月之島まで一望できた。
息を切らすこともなく石段を上りきると、糸は本堂の脇、墓地へと続く小道のほうへ伸びていた。
その小道の途中で、箒を持った住職が落ち葉を掃いていた。
オサフネに気づくと、掃除の手を止めて軽く会釈した。
「これは、めずらしいお客さんですな」
オサフネは単刀直入に聞いた。
「坊主よ。ここにブローチをくわえた猫を見んかったか?」
「ブローチ?」
「キラキラした装飾品のことじゃ」
「ああ」
住職はのんびりと顎をなでた。
「見てないですね。なぜ?」
「探しとるんじゃ」
住職はしばらく考えるように空を見上げてから、穏やかに語り始めた。
「むかし、ある男がおりましてな。大切な宝を失くして、それは血眼になって探し回ったそうです。山を越え、川を渡り、国の果てまで。何年も、何十年も」
「猫の話をしとるんじゃが……」
「まあ、お聞きなさい。男はとうとう年老いて、くたびれ果てて家に帰ったそうです。そうしてふと自分の懐に手を入れると――失くしたはずの宝が、ずっとそこにあったというのですな」
「……うぅ」
「探し物とは、得てして、いちばん身近なところにあるものですよ。人は遠くばかり見て、自分の足元を見ようとせん。本当に大切なものほど、案外すぐそばにあるものでしてな」
オサフネは半目で住職を見た。
「ええ話のように聞こえるが、それはただその男が間抜けだっただけじゃろうて」
「身も蓋もないですなあ」
「だいたい、近くにあるならとっくに見つかっとるんじゃ。ワシは糸が見える。猫はもっと先におる」
「糸に頼りすぎると、足元をすくわれますぞ」
「説法はええ。猫を見たかどうかを聞いとる」
「見ておりませんなあ」
「そうか。邪魔したのぅ、坊主」
オサフネは踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「……神であるワシが、人の子に物の道理を説かれるとはな」
「神様も人も、迷うときは迷うものですよ」
「迷うてなどおらん。糸は見えとる」
オサフネは墓地へ続く小道を指差した。糸は確かに、そちらへ伸びている。
「そこに猫がおるはずじゃ」
「ああ、その道は行き止まりですよ。墓地の奥は崖でしてな」
「行き止まり?」
オサフネはじっと目を細めて糸を追った。糸は小道を抜け、墓地を横切り、崖のほうへ向かい――そこで、ふっと方向を変えていた。
崖の下へ。
海のほうへ。
来た道を戻るように。
「……戻っとる」
「猫は気まぐれですからなあ」
オサフネはしばらく糸を見つめていた。
糸は、坂を下り、街を抜け、もと来た方向へ――つまり、結衣の家のある方角へ、ゆるやかに伸びていた。
◇
糸をたどって坂を下り、街を抜け、結衣の家の方角へ戻っていく。
オサフネは少し妙な気分だった。
あれだけ街中を引き回されたのに、糸は結局、もと来たほうへ戻っている。福引きで醤油を百本も配り、小学校で野良犬扱いされ、寺で坊主に説法までされて、たどり着く先が自分の家の近くとは。
「……猫め、ぐるりと一周しおって」
駅前まで戻ると、おばあちゃんがまだベンチに座って待っていた。オサフネの姿を見ると、ぱっと顔を上げる。
「太郎! 見つかったか!」
オサフネは足を止めた。
糸は確かに見えている。だが、まだ猫には追いついていない。手ぶらで戻ってきた以上、見つかっていないことに変わりはない。
「……すまんな」
オサフネは静かに言った。
「街中を探したが、まだ猫に追いつけておらん。ブローチも、まだ手元にない」
おばあちゃんはきょとんとした顔をした。それから、ふにゃりと笑った。
「ええんよ。太郎が探してくれただけで、ばあちゃんは嬉しいわ」
「……ワシは太郎ではないんじゃが」
「優しい子じゃのぅ」
「話を聞け」
オサフネは少し考えてから、言った。
「もう少し待っとれ。糸は見えとる。必ず見つけて持ってくる」
「無理せんでええよ」
「神に二言はない」
オサフネは踵を返した。糸は、すぐそこまで――結衣の家のほうへ伸びている。
◇
糸をたどって坂を上り、見慣れた石段の前に立つ。
自分の家だった。
糸は、玄関の中へと吸い込まれるように消えている。
「……まさか」
オサフネは引き戸を開けた。
居間の真ん中に、ちくわがいた。
日当たりのいい畳の上で、ころんと寝そべっている。そして、その前足の間に――きらりと光る、何か。
キラキラした、装飾品。
ブローチだった。
ちくわは満足げにブローチを舐めると、オサフネに気づいて顔を上げた。
「あ、おかえりニャ」
オサフネはしばらく動かなかった。
福引き。野良犬。説法。一周。
すべてが、頭の中をぐるりと回った。
「……犯人はお主かああああ!!!」
「ニャ!?」
「ワシは丸一日、街中を歩き回ったんじゃぞ! 醤油を百本配って! 小学校で野良犬扱いされて! 坊主に説法までされて! その犯人が、家でくつろいどったんかあああ!!」
「だってキラキラして綺麗だったニャ」
「理由が軽いわ!!」
ちくわはブローチを前足で隠した。
「これはもう、うちのものニャ」
「人の――いや、ばあさんのものじゃ! 返さんか!」
オサフネはちくわに飛びかかった。ちくわはブローチをくわえて畳の上を逃げ回る。神様と猫が、居間をぐるぐると追いかけっこした。
ちょうどそのとき、玄関の引き戸が開いた。
「ただいま帰りましたー」
学校から帰ってきた結衣が、居間でブローチを奪い合うオサフネとちくわを見て、きょとんとした。
「……何してるんですか?」
「説明はあとじゃ! そっちを押さえい!」
「はい!」
こうして頭道の神様は、丸一日かけて、自分の家の猫からブローチを取り返したのだった。
◇
オサフネはもう一度駅前へ向かった。
おばあちゃんは、まだ同じベンチに座っていた。夕方の光が、その背中をやわらかく照らしている。
「おばば」
オサフネが声をかけると、おばあちゃんは顔を上げた。
「太郎」
「これじゃろう」
オサフネはブローチを差し出した。少し猫の歯形がついていたが、きらきらとした飾りは無事だった。
おばあちゃんは、それを両手でそっと受け取った。
「ああ……ああ、これじゃ。これじゃ」
しわだらけの手が、ブローチをぎゅっと包んだ。
「ようも見つけてくれた。ほんに、ありがとうな」
おばあちゃんの目に、うっすらと涙がにじんでいた。胸元にブローチをあてて、何度も何度も指でなぞっている。
「孫がな、初めての給料で買うてくれたんじゃ。ばあちゃん、これがいちばんの宝でな」
「……大事にせぇ」
「ありがとう、太郎」
オサフネは何か言いかけて――やめた。
太郎ではない、とはもう言わなかった。
「……まあ、よい」
オサフネは小さくそう言うと、踵を返した。
坂を上りながら、空を見上げる。夕焼けが頭道の街を赤く染めていた。海の向こうに月之島が浮かび、その上に、うっすらと残りの月が見えている。
丸一日、振り回された。
福引きで醤油を配り、子どもに野良犬扱いされ、坊主に説法をされ、挙句の果てに犯人は自分の家の猫だった。
とんだ散歩だった。
それでも。
ブローチを抱きしめたおばあちゃんの、あの顔を思い出すと――悪くない一日だった気もする。




