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霧の山と送り犬2

 一千光寺ロープウェイの乗り場に着くころには、あたりはすっかり霧に包まれていた。


 夕暮れの光が霧ににじんで、世界全体がぼんやりと白い。


 観光客の姿はもうなく、乗り場には誰もいなかった。ゴンドラが一台、霧の中にぽつんと止まっている。


「うわぁー、いい感じに不気味だねぇ!」


 灯が嬉しそうに言った。


「不気味なのを喜ぶな」


「だって、いかにも何か出そうじゃないですか!」


「出てほしくて来とるのか、お主は」


「もちろん!」


「……末恐ろしい巫女じゃのぅ」


 三人はゴンドラに乗り込んだ。扉が閉まり、ゆっくりと山を登りはじめる。


 窓の外は、白一色だった。


 霧が濃すぎて、下の街も、上の寺も、何も見えない。


 ただ、ケーブルがきしむ音だけが、ギィ、ギィ、と規則正しく響いている。


「結衣、見て見て。何も見えないよ!」


「うん、何も見えないね」


「わくわくしない!?」


「ちょっとだけする」


「だよね!」


 オサフネは黙って窓の外を見ていた。


 霧の質が、おかしい。


 ただの霧ではなかった。湿り気はあるのに、どこか乾いた気配がある。


 生きた霧、とでも言うべきか。何かの意思のようなものが、この白の中に混じっている。


「……灯」


「はい、かみさま!」


「お主の寺の言い伝えに、この山の主の話はあるか」


「山の主、ですか?」


 灯は少し考えた。


「うーん……昔は山に神獣がいたって話は聞いたことがあります。でも、もうずっと昔にいなくなったって。今はいないはずですけど」


「今はもうおらんのか」


「どうかしたんですか?」


「……いや」


 オサフネは口をつぐんだ。


 ゴンドラが、がくんと揺れた。


 次の瞬間、ケーブルのきしむ音が、ぴたりと止んだ。


「あれ? 止まった?」


 と、結衣。


 ゴンドラはまだ動いている。なのに、音だけが消えていた。窓の外の白も、さっきまでとは違う。もっと濃く、もっと深く、もっと――遠い。


 やがて、ゴンドラが終点に着いた。


 扉が開く。


 三人は、霧の中へ降り立った。


    ◇


 そこは、一千光寺の山頂のはずだった。


 だが、何かが違った。


「……あれ?」


 結衣が周りを見回した。


「お寺、ないですよ」


 あるはずの一千光寺の本堂がない。石段もない。あるのは、霧と、ぼんやりとした木々の影だけ。


 見上げても空がない。

 ただ白い天井のような霧が、どこまでも続いている。


 地面は頭道の山と同じ土なのに、靴音だけがしなかった。

 霧が音を食べているみたいだった。


「来ましたね」


 と、灯が小さな声で言った。


 さっきまでのはしゃぎようが嘘のように、その声は緊張していた。


「これ、本物です。ガチの本物の異界です」


「巫女のあたしが断言します、って言ってたのに、声が震えてるよ」


「だ、だって本当に来ちゃったんだもん!」


「異界に来たがってたのは、あかりんだよ」


「来たかったけど! いざ来ると怖いものは怖いの!」


 オサフネだけが、周囲を警戒していた。


 誰もいない。音がしない。


 霧が晴れない。頭道のようで、頭道でない。


 生き物の気配がまるでないのに、どこかから、確かに見られている。


「二人とも」


 と、オサフネは声を落とした。


「ワシのそばを離れるな」


「は、はい」


「何か、来る」


 霧の奥で、何かが動いた。


 白の中に、ゆっくりと、黒い影が浮かび上がってくる。


 大きい。四つ足。


 犬だ。


 巨大な、黒い犬。


 吠えもせず、唸りもせず、ただこちらをじっと見ている。霧の中で、二つの目だけが、ぼうっと光っていた。


    ◇


 黒い犬は、動かなかった。


 ただ、こちらを見ている。霧の中に浮かぶ二つの光が、まばたきもせず、じっと三人を見据えている。

 近づいてくるでもなく、去るでもなく、ただ見ている。その視線だけで、肌がぴりぴりと粟立った。


「……大きい」


 結衣が呟いた。


「あれ、犬ですよね」


「怪異が犬の形になっておるのか……」


 オサフネは目を凝らした。


「それとも、犬の妖怪の類か」


 その瞬間、結衣の足が、霧に濡れた地面で滑った。


「わっ」


「転んじゃダメ!」


 灯が叫んだ。


 その声と同時に、黒い犬が動いた。さっきまでの静けさが嘘のように、地を蹴り、霧を裂いて、まっすぐ結衣に向かって突っ込んでくる。


 オサフネが結衣の前に出た。


 懐から、白漆の鞘を抜く。刀身のない、鞘だけの神器だ。それを横ざまにかざすと、鞘から淡い光が放たれ、薄い膜のような壁になって二人の前に広がった。


 黒い犬が、その光の壁に激突する。


 ずん、と重い衝撃が走り、光の壁がびりびりと震えた。オサフネの足が、地面をわずかに後ろへ滑る。だが、壁は破れなかった。


「結衣、立て」


「は、はい!」


 結衣が慌てて体勢を立て直す。黒い犬は一度後ろへ退くと、また霧の中に溶けるように消えていった。気配だけが、白の向こうに残っている。


「あかりん、今の、何?」


「送り犬!」


 灯が早口で言った。声が少し上ずっている。


「夜の山道で人の後をつけてくる怪異なの! 転んだ人を襲うって伝承があって、だから絶対に転んじゃダメなの!」


「先に言ってよ!」


「今言ったでしょ!」


「転ぶ前に言ってほしかった!」


「無茶言わないで! あたしだって今思い出したんだから!」


「二人とも」


 オサフネが鋭く言った。


「黙って、ワシの後ろにおれ」


 オサフネは鞘を構えたまま、霧の奥を見据えた。


 黒い犬の気配は、もう一か所ではなかった。

 霧の中をぐるぐると回り、右から、左から、背後から、いくつもの視線が突き刺さってくる。

 本体がどこにいるのか、まるで掴めない。


「……厄介じゃな。霧に紛れて、姿が定まらん」


「かみさま、あの犬、やっつけちゃえばいいんじゃないですか!?」


 灯が言った。


「かみさまなんだから、すごい力使ってばーんって!」


「それができれば苦労はせん」


「できないんですか!?」


「ワシの力は、斬ることでも、砕くことでもない」


 オサフネは続ける。


「ワシにできるのは、守ることと――結ぶことじゃ」


「結ぶ?」


 灯が聞き返したそのとき、黒い犬が再び霧から飛び出してきた。


 今度は灯を狙っている。


 オサフネが身を翻し、鞘の光で灯をかばった。衝撃を受け止めて、オサフネの足がずるりと地面を擦る。


「かみさま!」


「案ずるな」


 だが、とオサフネは内心で思う。


 守ってばかりでは、埒が明かない。霧が晴れない限り、この犬は何度でも襲ってくる。

 そして守りを重ねるほど、結界は少しずつ削られていく。いつかは破られる。


 決め手が要る。


 オサフネの手が、スカートのウエストに挟んだエアガンに触れた。


 人間の道具。さっきプラモ屋のおっちゃんから押しつけられたばかりの、おもちゃの拳銃。


「……まさか、これを使うことになるとはな」


 鞘を左手に持ち替え、右手でエアガンを抜く。両手がふさがった。それでも、これしかなかった。


 オサフネは銃口に意識を集中させた。


 神通力を、込める。


 指先から流れ出した淡い光が、銃身をゆっくりと這い上がり、銃口の先に小さく灯った。ただの弾は出ない。だが、この光を込めた弾なら――。


「これは、ただの弾ではない」


 銃口の光が、強くなる。


「霧に紛れた縁を撃ち抜いて、結ぶための――印じゃ」


「うわー! かみさまが銃を構えたぁ!!!」


 灯が叫んだ。


「銃を撃つ神様、初めて見た! かっこいい! 撃て撃てー!」


「実況せんでええ!」


「あっ、でも待って、かみさま!」


 灯が急に指を立てた。


「思い出した! 送り犬って、見えてる姿を追っちゃいけない場合があるの! 本体は別の場所にいて、目の前にいるのは霧が見せてる影だけ、って説もあって――」


「諸説を戦闘中に増やすな!」


 だが、その一言が、結衣の頭に引っかかった。


 結衣は、目の前で身構える黒い犬をじっと見た。何かが気になったのだ。


「……あの、オサフネさま」


「なんじゃ」


「あの犬、足が地面についてなくないですか?」


 オサフネが、じっと目を細めた。


 言われてみれば――黒い犬の四つ足は、地面から少しだけ浮いて、足先が霧にぼやけて溶けている。


 確かな重みがあるように見えて、その実、影を踏むように曖昧だった。


 あれは、本体ではない。霧が見せている、影。


「……よう気づいた」


「あたし、褒められました?」


「調子に乗るな。じゃけど、でかしたぞ、結衣」


 オサフネは銃口をゆっくりと巡らせた。


 目の前の影ではなく、その背後――霧がいちばん濃く、深く渦を巻いている一点へ、狙いを定める。


「本体は、そこじゃな」


 引き金を、引いた。


 ぱん、と乾いた音が、霧の中に響きわたった。


 神通力を込めた光の弾は、影の犬をすうっとすり抜け、霧の奥へ吸い込まれていく。そして、いちばん濃い霧の一点で――ぽっ、と小さな白い光になって、留まった。


 白い、結び目。


 その結び目から、細い光の糸が、するすると伸びていった。霧をかき分け、たどっていったその先に――いた。


 送り犬の、本体。


 影よりもずっと小さく、ずっと痩せ細って、霧の奥でうずくまっている。もう何年も、そうしているかのように。光の糸が、その背にそっと触れた。


「見えたぞ」


 オサフネがジっと目を細めて言った。


「おぬしの縁は――まだ、山に残っておる」

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