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霧の山と送り犬3

 光の糸の先で、痩せ細った送り犬がゆっくりと顔を上げた。


 その目には、もう敵意はなかった。ただ、深い疲れと、何かにすがるような色だけがあった。影の犬が見せていた獰猛さは、本体にはどこにもない。


「お主、送り犬じゃな」


 オサフネは膝を折り、目の高さを合わせた。


「この山に、古くからおった守り神じゃろう」


 送り犬は答えない。だが、その目がわずかに揺れた。


「灯」


「は、はい!」


「送り犬は、本来どういう怪異じゃ」


「えっと――」


 灯が早口で答えた。


「夜の山道で人を襲うって言われてるけど……でも本当は逆で、転ばずに無事に歩く人を、家まで送り届けてくれる守り神なんです! だから『送り犬』なの。山で迷った人を、ちゃんと道に返してくれる――」


「そうじゃ」


 オサフネが頷いた。


「こやつは、人を喰らう怪異ではない。迷うた者を、道へ返す神じゃ」


 オサフネは、左手の白漆の鞘を、まっすぐ送り犬へと向けた。


「じゃが、長いこと忘れられて、独りで霧の中におるうちに――己が何者か、分からなくなってしもうたんじゃろう」


 送り犬の体が、小さく震えた。


「神の力が弱まり、この山を守る縁が、切れかけておる。役目を失った神は、ただの迷子じゃ。お主は、迷う者を導く神でありながら、自分がいちばん迷うてしもうたんじゃな」


 霧が、しんと静まった。


 送り犬の目から、つうっと雫がこぼれた。


「泣いてる……」


 結衣が呟いた。


「結び直す」


 オサフネが鞘を掲げた。


「お主と、この山と、迷う者を導く役目の縁を。もう一度、ここに」


 白漆の鞘が、淡く光りはじめた。


 光の糸が、送り犬から伸び、山の地面へ、木々へ、そして遠く――霧の向こうにあるはずの一千光寺へと、幾筋にも枝分かれして広がっていく。


 切れかけていた縁が、もう一度、丁寧につなぎ直されていく。


「思い出せ」


 オサフネの声が、霧の中に響いた。


「お主が守っておった、この山を。お主を頼って、無事に家へ帰っていった、たくさんの人の足音を」


 送り犬が、ゆっくりと立ち上がった。


 もう、痩せてはいなかった。霧をまとった黒い体が、やわらかな光に包まれていく。獰猛だった影が解けて、穏やかな気配だけが残った。


 そして――霧が、晴れていった。


    ◇


 気づくと、三人は一千光寺の山頂に立っていた。


 いつもの、見慣れた山頂だった。本堂があり、石段があり、見下ろせば頭道の街と、その向こうに月之島が浮かんでいる。霧はもうどこにもなく、夜空には、いくつもの月が静かに光っていた。


 異界は、消えていた。


「……帰ってきた」


 と、結衣が言った。


「ほんとだ。元の世界だ」


 灯が大きく息を吐いた。


「よかったぁ……」


 そのとき、足元で、小さな音がした。


 くうん。


 見下ろすと、一匹の子犬がいた。


 まるまるとした、柴犬の子犬。


 さっきまでの巨大な黒い犬が嘘のように、小さくて、やわらかそうで、つぶらな瞳をしている。


 送り犬が、本来の力を取り戻し――いや、力を使い果たして、こんな姿になったのかもしれなかった。


 子犬は、よたよたと結衣に近づいてきた。


 そして、結衣の足元にちょこんと座って、動かなくなった。見上げて、また「くうん」と鳴く。


「……ついてくる気ですか?」


「わん」


「飼います!」


「判断が早い」


 オサフネが呆れた。


「だって、こんなの連れて帰るしかないじゃないですか!」


「いいなー!」


 灯が子犬の前にしゃがみこんだ。


「結衣、ずるい! あたしも触りたい!」


 子犬は、灯になでられて気持ちよさそうに目を細め、それからぺろりと結衣の手を舐めた。


「あ、舐めた」


 結衣が嬉しそうに言った。


「名前、ペロにします」


 オサフネが片眉を上げた。


「……仮にも山の守り神じゃぞ。その名は、いくらなんでも軽すぎんか」


「でも今、舌をペロってしてましたよ」


「理由が浅い」


「ペロ、よろしくね」


「聞いておらんな、こやつ」


 ペロは、わん、と元気よく鳴いた。


 まるで、その名前を気に入ったかのように。


 こうして、結衣の家にはまた一人、家族が増えたのだった。

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