月でひろった卵は誰が作る2
月之島が近づくにつれ、空気が変わった。
潮の匂いの中に、何か別のものが混じっている。
土とも草とも違う、かすかに甘いような、冷たいような匂い。結衣は思わず鼻をひくひくさせた。
「なんか変な匂いがしますね。カスタードクリームのような」
「月の匂いじゃ。慣れろ」
「慣れろって言われても……」
「先に様子を見てくる。お主はゆっくり来んさい」
パチン、と指が鳴った。
次の瞬間、オサフネの二匹のカブトガニが爆発的に加速した。あっという間に点になって、月之島の海岸線に沿って消えていく。
「速っ……」
たまちゃんがぼそりと言った。
「あれはさすがにかなわんわ」
「神通力ってすごいですね!」
「ほんまにな。ワシもああなれたらええんじゃけど」
「感謝は伝えてるよ! たまちゃん!」
「そうじゃな。まあ、ぼちぼち行くか」
結衣はゆっくりと月之島に向かって飛んだ。
◇
オサフネが月之島に近づいてみると、いつもと少し様子が違った。
五十年前、この月が空から落ちてきた日のことを、オサフネは覚えている。
轟音とともに海に落ち、巨大な水柱が上がり、頭道の街が揺れた。
当時はただの岩の塊だった。クレーターだらけで、生き物の気配などなかった。
だが今は違う。
五十年という歳月は長い。
クレーターの縁に草が根付き、谷間に木が育ち、気づけば緑が島を覆い始めていた。
ウサギたちが種を運び、水を引き、少しずつ島を作り変えていった。
今では頭道から見ると、白い岩の中に緑が混じった不思議な島に見える。
ただ今日は、その緑の上にウサギがいない。
島を一周しても、一羽も見当たらなかった。普段なら、そこかしこに白い影が見えるはずなのに。
オサフネは速度を落とし、橋のほうへ向かった。
頭道大橋が見えた。
橋の上が白い。
びっしりと白い。
ウサギの行列が橋を埋め尽くして、端から端まで切れ目なく続いていた。
車も人も見えない。ウサギしかいない。
橋の手前で、たまちゃんに乗った結衣が待っていた。
「全員、橋を渡って頭道に向かっとる」
と、オサフネは言った。
「島にウサギが一羽もいないですね」
「ああ。何かあったのは間違いないがのぅ」
「何があったんでしょう」
「分からん。ただ――」
オサフネが島の西側の岩肌に目を向けた。
大きな裂け目がある。
そこからウサギがぞろぞろと出てきていた。
「結衣、あそこに行ってみるとするぞ」
◇
空洞の中は思ったより広かった。
天井が高い。壁は岩肌のままで、ところどころに丸い照明が取り付けられている。床はでこぼこした岩だったが、長年ウサギたちが歩き続けたのか、中央の通路だけがなめらかに削れていた。
通路の両脇には小さな扉が並んでいた。どれも閉まっている。住居だろうか。
通路を進むにつれ、奥から声が聞こえてくるようになった。怒鳴り合うような、言い争うような声だ。
角を曲がると、急に空間が広がった。
ドーム状の大きな空洞だった。天井まで二十メートル以上ある。壁には大きな機械が取り付けられていて、ベルトコンベアや容器や管が複雑に絡み合っている。中央には作業台が並んでいた。
結衣は入口の看板を見上げた。
「月でひろった卵 製造工場」
「月で“ひろった”卵なのに、製造工場なんですね」
「今はそこに突っ込む場面ではない」
オサフネが面倒くさそうに言った。
作業台の上を見ると、白い卵型の菓子が箱の中にぎっしり並んでいた。大量だ。何百箱、いや何千箱あるのかも分からない。
結衣は近づいて一箱を覗き込んだ。
「これおいしそうですね」
「食うな」
「一個くらい」
ぴくっ。お菓子の箱が一瞬動いた気がした。
「……今、動きました」
「気のせいじゃ」
ぴくぴくっ。
「気のせいじゃないです」
「……」
ぱかっ。
卵型の菓子の天辺が割れた。中から小さな白い耳がぴょこんと出てきた。続いて丸い頭。黒いつぶらな瞳。小さな前足。
「卵からウサギが生まれた!!」
「生まれん」
「でも生まれてます!!」
オサフネは腕を組んで白兎を見た。白兎はよたよたと立ち上がり、きょろきょろと周りを見渡した。それから作業台の端まで歩いていって、ぴょんと飛び降りた。
隣の箱でも、ぴくっという音がした。
さらに隣でも。
その隣でも。
「あちこちで動いてますね」
「……異常じゃな」
と、オサフネがぼそりと言った。
生まれたばかりの白兎が、よたよたと空洞の奥に向かって歩き出した。一羽、二羽、三羽。次々と菓子の箱から這い出して、同じ方向へ歩いていく。
「みんな同じ方向に行ってますね」
「出口じゃろうな。頭道の方角だ」
結衣は白兎を一羽、そっと手に取った。白兎は結衣の手の上でぱちぱちと瞬きをした。
「かわいい……」
「放せ。それはお菓子じゃ」
「でも生きてます」
「だから異常じゃと言っておる」
オサフネが結衣から白兎を受け取り、作業台の上にそっと置いた。白兎はしばらくオサフネの顔を見上げてから、またよたよたと歩き出した。
空洞の奥から、怒鳴り声が近づいてきた。
怒鳴り声の主はすぐに分かった。
工場の奥で、二つのウサギの集団が向かい合っていた。
片方は十羽ほど。背中に「管理」と書かれた揃いの法被を着ている。
もう片方は百羽近い。腕に白い腕章をつけて、作業台の前に立ったまま動かない。
「商品が勝手に孵化して逃げるうさ!!」
と、法被のウサギが叫んだ。
「在庫管理ができないウサ!!」
「こっちはお菓子を作っとるのに、作るそばから同僚が増えるウサ!!」
と、腕章のウサギが叫び返した。
「新人教育が追いつかないうさ!!」
「孵化したばかりで仕事なんかできないウサ!!」
「だからパニックになっとるうさ!!」
「そもそもなんで大量生産したウサ!!」
「需要があったからうさ!!」
「なんで急に需要が増えたウサ!!」
「神様たちからの注文が増えたからうさ!!」
結衣とオサフネは顔を見合わせた。
「神様が注文するんですか?」
と、結衣が言った。
全員が振り返った。百羽以上のウサギの目が、一斉に結衣とオサフネに向いた。
沈黙。
「人間うさ」
と、法被のウサギたちが言った。
「人間ウサ」
と、腕章のウサギたちも言った。
「それと神様うさ」
「神様ウサ」
「工場見学に来たお客さんうさ」
「お客さんウサ」
「息ぴったりですね!」
「今はそこに突っ込む場面ではない」
と、オサフネが言った。
オサフネが一歩前に出た。
「話を聞かせてもらえるか。神様が買いに来るとはどういうことじゃ」
法被のウサギが胸を張った。
「最近、頭道の神様が次々と買いに来るうさ!」
「神通力が落ちた気がするって言ってうさ!!」
「だから月でひろった卵を大量に買うてくうさ!!!」
「注文が増えたから大量生産したうさ!!!」
「そしたら管理しきれなくて孵化したうさ……」
「在庫が全部逃げ出したウサ!!」
「それで頭道がウサギだらけになったわけか」
オサフネが目を細めて言った。
「神通力が落ちた、か……」
結衣はオサフネの横顔を見た。何か考え込んでいるような顔だった。
「あの~」
と、結衣は法被のウサギに向かって言った。
「なんでお菓子を食べたら神通力が回復するんですか?」
「詳しいことは分からないうさ」
と、法被のウサギが答えた。
「でも神様が、食べたら神通力が戻ったって言うてるうさ」
「戻ったって言うてるだけで、理由は分からないんですか?」
「分からないうさ」
そのとき、工場の奥から耳の先が少し垂れたウサギがゆっくりと歩いてきた。
法被のウサギも腕章のウサギも、その姿を見てすっと静かになった。
「長老うさ」
「長老ウサ」
誰かが呟いた。それだけで工場全体の空気が変わった。




