月でひろった卵は誰が作る1
その朝、頭道は白かった。
「オサフネさま――っ!!!」
結衣の叫び声が、坂道に響いた。
◇
事の始まりは、朝のカブトガニだった。
頭道の坂は、今日も容赦なく急だった。
急すぎて自転車も車も使えない。その代わりに使われているのがカブトガニだ。
カブトガニは空を飛ぶ。甲羅の幅は一メートルほど。
神様の一種か神の使いかは諸説あるが、頭道では昔から乗り物として使われている。
乗り方はスノーボードに近い。大きな甲羅の上に立って、体重移動で方向を変える。
免許も不要で、子どもでも小学校に上がればだいたい乗れるようになる。
結衣のカブトガニはよく太った大きな個体で、名前はまだない。
名前をつけようとするたびに、オサフネに「神の使いに軽々しく名前をつけるな!」と止められる。
結衣は内心「たまちゃん」にしようと思っている。
その朝、たまちゃんを呼ぶと、いつもより来るのが遅かった。
ようやく現れたたまちゃんの背中を見て、結衣は首を傾げた。
白くて丸くて、耳が長いものが乗っていた。
「……ウサギ?」
「おう」
と、たまちゃんが広島弁で答えた。
「えぇ? なんであたしじゃなくてウサギを乗せてるんですか?」
「乗っとったけぇ、連れてきてしもうたわ」
「乗っとったって、どこから乗ってたんですか?」
「知らん。気づいたらおったわ」
ウサギは背中の上で丸まって、まったく動く気配がなかった。しかも一羽ではない。よく見ると三羽いる。
「降りてもらえますか?」
ウサギたちはぴくりとも動かなかった。
「降りてもらえますか??」
三羽同時にそっぽを向いた。
「……強情だ」
結衣はとりあえずウサギを三羽抱えて、たまちゃんに乗った。
坂道を下りながら周囲を見渡して、気づいた。
ウサギが多い。
いや、多いどころではない。
坂の途中にウサギ。
石垣の上にウサギ。
古本屋の看板の上にウサギが三羽並んで座っていて、「古本買取」の文字が「古兎兎兎」になっていた。
寺の石段にウサギの行列。
路地の奥にもウサギ。
屋根の上にもウサギ。
誰かのカブトガニの背中にもウサギが乗っていて、そのカブトガニが迷惑そうに揺れている。
「あれ? 今日ウサギ多くないですか」
「気づくのが遅いのぅ」
と、たまちゃんが呆れた声で言った。
「さっきから数えとったら、もう八百羽は見たわ」
「はっぴゃっぴゃ!?」
「まだ増えとる気がするわ」
そのとき、結衣の足元で何かがもぞもぞした。見ると、いつの間にかたまちゃんの背中のウサギが五羽になっていた。
「増えてる!」
「どこから乗ってくるんか、ほんまに分からんわ」
と、たまちゃんが言った。
「街の様子が気になります! 安全運転かつなるはやで降りましょう!」
結衣とたまちゃんは頭道へと降りていく。
◇
商店街に差しかかると、さらに混乱していた。
アーケードの床がウサギで埋め尽くされていて、人が歩けない。
通行人たちがウサギの波をかき分けながら進もうとしているが、かき分けるそばからウサギが戻ってくる。
「すみません、ちょっと通してもらえますかー!」
「いやウサ!!」
「どかないウサ!!」
ウサギも喋るらしい。しかも語尾が「ウサ」だ。
「語尾って、ぴょんじゃないんだ……」
と、結衣は呟いた。
商店街入口にある信号機が青になったり赤になったり忙しく点滅していた。
「助けてくれんか~」
「どうしたんです?」
「赤信号にすればええのか、青信号にすればええのか分からんのよ~」
「えぇ? 信号機なのに!? それじゃ頭道の交通安全を守れませんよ!」
「ウサギが途切れんのよ~」
確かに横断歩道を白い流れが延々と横切っている。
「これじゃ永遠に赤ですね!」
「もう二時間赤なのよ~」
「じゃあ、ずっと黄色信号にして後は自己責任ってことにしとけばよくないですか?」
「ワォ! ナイスアイデアだね!」
信号機はノリノリで黄色を点滅し始めた。
商店街に入ると、醤油の神、通称"かけすぎ爺”が店先に立って途方に暮れていた。
小柄な老人の姿をした神で、普段は穏やかな顔をしているのだが、今日はさすがに困り果てた表情をしていた。
「結衣ちゃん、どうなっとるんかのぅ」
「あたしも分からないんですが」
「店の前がウサギで埋まっとって、お客さんが入ってこれんのじゃ。さっきから五回どかしたんじゃが、どかしてもどかしても戻ってくるんじゃ」
「強情ですね!」
「ほんにのぅ。しかも何故か、うちの醤油を舐めとる子がおってのぅ」
見ると確かに、一羽のウサギが店先の醤油の小瓶をペロペロとペロついていた。
「うちの醤油はな、舐めるもんではないんじゃ。刺身にぶっかけ、冷奴にぶっかけ、卵かけご飯にぶっかけ。礼儀作法というものがあるんじゃ」
「かけすぎには注意したほうが……舐めるのもやめてさせたほうが」
「言うとるんじゃが、聞かんのじゃ」
筆屋の前では、熊野筆の神がウサギの毛並みをじっと見つめていた。
「……よい毛じゃ」
「何を考えてるんですか?」
「何も考えておらん。断じて筆にはせん」
「今ちょっと考えましたよね?」
少し先では、瓦そば屋台の鬼瓦の神が完全に戦意喪失していた。
屋台の周りがウサギで埋め尽くされ、もはや屋台なのかウサギの山なのか判別がつかない。
「いらっしゃいウサギ、いらっしゃいウサギ、いらっしゃい……ウサギ……」
鬼瓦の神が虚ろな目で呟いている。
「大丈夫ですか?」
と、結衣が声をかけた。
「大丈夫ではないのぅ」
と、鬼瓦の神が答えた。
「開店以来はじめての危機じゃ。しかも瓦そばの瓦の上にも乗っとる。温かいのが好きなんじゃろうが、これでは料理ができん」
見ると確かに、熱した瓦の上にウサギが一羽乗って、気持ちよさそうにしていた。
「熱くないんですか?」
「ウサギは月から来とるけぇ、多少の熱は平気なんじゃろうな……って、感心しとる場合じゃないんじゃ!!」
坂の上のほうから、どどどどど、という音が聞こえてきた。
振り返ると、ウサギの大群が坂道を一斉に駆け下りてきていた。
「あっ!」
次の瞬間、結衣はウサギの波に飲まれた。
「わわわわ!」
「おおおおお!!」
商店街の人々が次々となぎ倒されていく。
醤油の神も、鬼瓦の神も、荷物を持ったおじさんも、みんなウサギの濁流に流されていく。
結衣も足を取られてよろめいたが、たまちゃんがすかさず体を寄せて支えてくれた。
「ありがとうございます!」
「しっかり掴まっとれや」
ウサギの波が過ぎ去った後、商店街は阿鼻叫喚だった。
醤油の神が店先で仰向けになっていた。鬼瓦の神は屋台ごと横倒しになっていた。おじさんは荷物を全部ぶちまけていた。
「……これは早く解決せねばならんのぅ」
醤油の神が天井を見上げながら呟いた。
「そうですね」
と、結衣も頷いた。ウサギが一羽、結衣の頭の上に乗っていた。
「これはもう、オサフネさま案件です!」
「ウサ」
「そうですよね!」
結衣は頭の上のウサギを下ろすことも忘れて、たまちゃんに乗って坂の上へ駆け出した。
◇
「で、何をしに来たんじゃ」
商店街を一通り眺めてから家に戻ると、オサフネは縁側で茶を飲んでいた。素足で畳に座って、銀色の髪が朝の光にきらめいている。
結衣は頭の上のウサギを指差した。
「これです」
「……知っておる。朝から見えておるわ」
「なんとかなりませんか」
「なんとかとは」
「街中ウサギだらけで、みんな困ってるんですよ。醤油の神様の醤油はなめられてるし、瓦そばの瓦の上で暖を取られてるし、さっきは坂からウサギの大群に突撃されて、商店街が壊滅しかけました」
「壊滅」
「壊滅です!」
「まだ店は残っとるが」
「壊滅寸前です!」
オサフネはちらりと窓の外を見た。頭道水道の向こう側の月之島が、朝の光の中に浮かんでいる。
「……月之島じゃろうな」
「なんで月之島から来たんでしょう?」
「さあのぅ……」
「さあのぅ、じゃなくて!」
「分からんものは分からん。行って聞いてくるしかあるまいて」
「じゃあ一緒に行きましょう!」
「ワシが行く理由が――」
「お願いしますっ!!」
結衣は両手を合わせた。
オサフネは結衣を見た。
いつの間にか乗っていた、結衣の頭の上のウサギを見た。
そのウサギが、なぜか偉そうに頷いた。
もう一度、結衣を見た。
ため息をついた。
「……わかった。行くぞ」
「やった!!」
「やったと言うな。行くだけで解決できるかは約束できんぞ」
オサフネが縁側に立った。
「パチン!」
と、二本の指を鳴らすと、どこからともなく小ぶりなカブトガニが二匹現れた。
たまちゃんの半分ほどの大きさで、すいと空中に並んで浮かんでいる。
オサフネは左足を一匹の甲羅に、右足をもう一匹の甲羅に乗せた。スキーのように足を揃えて立つと、二匹のカブトガニが息を合わせて浮き上がった。
「ほれ、行くぞぃ」
オサフネの二匹のカブトガニが、ふわりと加速した。たまちゃんと比べると明らかに速い。滑らかで無駄がない。
「速いですね! あたしのカブトガニより全然速い」
「神通力を注いでおるからな。乗り物も力を与えれば応えてくる」
「あたしのカブトガニにも神通力注いであげてください!」
「お主のカブトガニには、お主が注げ」
「あたしに神通力はないです」
「なら、カブトガニに感謝でも伝えておけ」
結衣はたまちゃんの甲羅をぽんと叩いた。
「いつもありがとう、たまちゃん!」
「……名前つけとったんかい!」
二人が、頭道の空に飛び立った。
向こうに月之島が見える。今日のクレーターは、なんだかいつもより白く見えた。




