元の鞘に収まったということじゃな3
それから、半月が過ぎた。
頭道の朝は、いつも通りに始まる。
坂の上の家々から、味噌汁の匂いが流れてくる。
カブトガニたちが、通勤通学の人々を乗せて、青い空をすいすいと行き交う。
商店街では店が次々とシャッターを開け、猫の細道では、猫たちがお地蔵さまの足元で、朝の日向ぼっこを決め込んでいる。
そして、上村家。
「オサフネさまー、ごはんできましたよー」
結衣が、台所から声を上げた。
「うむ」
縁側の白いオサフネが、湯呑みを置いて立ち上がる。今朝の当番は結衣だった。炊きたての飯の匂いに、ペロが、わんわんと尻尾を振って台所を駆け回っている。
結衣は、ふと、庭に出て、屋根を見上げた。
「オサフネさまー! ごはんですよー!」
「うむ、今行くと言うたじゃろ」
「あ、違います。屋根の上のオサフネさまです」
「……ややこしいのぅ」
屋根の上。
瓦のいちばん高いところに、黒い影が、あぐらをかいて座っていた。
結衣は、どちらも「オサフネさま」と呼ぶ。白いオサフネと、黒いオサフネ。呼び分けるのは、目線と、声の向きだけだ。最初のうちは取り違えも多かったが、最近はもう、家族の中では、それで通じるようになっていた。
黒いオサフネ――刀身は、あの夜から、この家にいる。といっても、家の中には、めったに入らない。定位置は、屋根の上。そこから一人で、海を眺めている。
「……いらん」
屋根の上から、短い返事が降ってきた。
「えー。今日は鯛めしですよ。瀬戸内の鯛」
「いらんと言っている」
「分かりましたー。じゃあ、縁側に置いておきますねー」
結衣は、めげずに、お膳を縁側の端に置いた。
いつものやりとりだった。そして、いつものように――しばらくして結衣が目を離した隙に、お膳の鯛めしは、きれいに空になっているのだ。誰が食べたのかは、誰も言わない。ペロだけが、屋根を見上げて「わん」と鳴く。
「ねえねえ、神様。刀身の神様って、いつもああなんですか?」
縁側で、灯が白いオサフネに尋ねた。
今日は休みで、朝から遊びに来ているのだ。
あの夜のあと、結衣は灯に、八百年の話を全部話した。灯は三回泣いた。
「ああよ。意地っ張りなんじゃ」
屋根の上から、こほん、とわざとらしい咳払いが聞こえた。聞こえているらしい。
結衣は、縁側に腰を下ろして、笑った。
あれから、頭道は元に戻った。
いや、元よりも、少し賑やかになった。
神様たちは力を取り戻し、九十九楠の新芽はぐんぐん育ち、街には「黒いジト目ネキ」という新しい神様の噂が流れている。
曰く、無愛想だが、困った人間たちに手を貸してくれるらしい。
「オサフネさま」
「なんじゃ」
「オサフネさまたち、仲直りできて、よかったですね」
白いオサフネは、湯呑みを傾けながら、ちらりと屋根を見上げた。
「仲直り、とは、ちと違うがの」
「え? 違うんですか?」
「ワシらは、別々になって、八百年も経った。今さら一つには戻れんし、戻る気もない。あやつはあやつ、ワシはワシじゃ。喧嘩しとったわけでもない。じゃけぇ、仲直りでもない」
「じゃあ、なんて言うんですか?」
白いオサフネは、少し考えた。
それから、ふっと、目を細めた。
「……まあ、なんじゃ」
湯呑みの茶を、ひとくち。
「元の鞘に収まった、ということじゃな」
「今それ言います!?」
「今言わずして、いつ言うんじゃ!」
縁側に、朝の光が差していた。
屋根の上の黒い神は、何も言わなかった。けれど、その口元が、ほんの少しだけ、ゆるんでいたことを――空を旋回していたウミネコだけが、知っている。
◇
「あ、そうだ。忘れてた」
結衣が、ぽんと手を打って、家の中から一通の封筒を持ってきた。
「これ、昨日届いたんです。月之島のウサギさんたちから」
「ウサギから? 文か?」
「請求書です」
「…………は?」
結衣は、封筒から、紙を取り出した。長い。巻物のように、長い。
「えーと、『先日の神々の戦闘により発生した損害の請求書。内訳、月之島山頂の整地費用、樹木の植え替え一式、砂浜の清掃費、工場の操業停止に伴う逸失利益、ウサギ一同の精神的苦痛に対する慰謝料、および見舞いのニンジン代――』」
「待て待て待て!」
白いオサフネが、湯呑みを置いた。
「なんでニンジン代をワシらが払うんじゃ!」
「『宛名:白いオサフネさま、黒いオサフネさま 連名』だそうです」
屋根の上から、黒い影が、すっと身を乗り出した。
「……なぜ、私もだ」
「オサフネさま、月之島の山頂に光の柱、立てましたよね」
「あれは……必要があって」
「山頂、はげ山になってましたよ」
「……」
「お二人とも、空中戦で島の木、何本もなぎ倒してましたし。砂浜もぼこぼこでしたし」
結衣は、請求書の最後を読み上げた。
「『なお、お支払いは月末まで。遅れた場合、利息として日歩ニンジン三本を申し受けます。月之島兎工業組合』……だそうです」
縁側に、沈黙が落ちた。
白いオサフネが、わなわなと、震えはじめた。
八百年の確執に決着をつけ、神々の力を取り戻し、頭道に平和を取り戻した、その結末が――ウサギからの、請求書。
「じゃけぇ!!!」
白いオサフネの絶叫が、頭道の朝に響き渡った。
「神様を何だと思っとるんじゃ!!!」
驚いたカブトガニたちが、いっせいに飛び立った。ペロが、わんわんと吠えた。灯が、お腹を抱えて笑い転げた。
そして、屋根の上では。
黒いオサフネが、海を見ながら――肩を、小さく、震わせていた。
それが笑いだったのかどうかは、やっぱり、ウミネコだけが知っている。
頭道では今日も、神様が人間に振り回されている。
二柱に、なってもなお。




