元の鞘に収まったということじゃな2
帰る場所。
その言葉が、夜の砂浜に、落ちた。
刀身は、何も言わなかった。否定の言葉が、出てこなかった。八百年かけて凍らせてきたものが、その一言に、軋んでいた。
そのとき。
「……ワシからも、言わせてもらうぞ」
声がした。
白いオサフネが、立ち上がっていた。
ぼろぼろだった。装束は破れ、髪は乱れ、足は震えている。それでも、折れたマシンガンを杖にして、まっすぐに立っていた。
「お前……」
「八百年ぶりじゃの。こうして、ちゃんと話すのは」
白いオサフネは、一歩ずつ、歩いてきた。
結衣の隣まで来ると、その肩に、そっと手を置いた。よくやった、と言うように。それから、黒い半身に、向き直った。
「ワシはの。八百年、お主を探しとった」
「……探した、だと」
「縁の糸をたどっても、何も見えんかった。それでも、探すのをやめたことは、一度もなかった。月之島の祠を覗き、霧の山を歩き、海の底まで見に行った。……お主が、どこかで一人でおると思うと、いてもたってもおられんかったんじゃ」
「白々しい」
刀身は、吐き捨てた。
「お前は人間と暮らし、笑い、飯を炊いて――幸せそうにしていたではないか。半身のことなど、忘れて」
「忘れた日など、一日もないわ」
白いオサフネの声が、静かに、強くなった。
「お主が出ていったあの夜から、ワシの体は、ずっと寒いんじゃ。半分しかないんじゃけぇの。どれだけ縁側で日向ぼっこをしても、どれだけあたたかい飯を食うても、芯のところが、ずっと、寒い」
「……」
「じゃがな、刀身よ。ワシは、ようやく分かったんじゃ。今日、お主と刃を交えて、ようやく」
白いオサフネは、自分の胸に、手を当てた。
「ワシが八百年、人を信じ続けてこられたのは――お主の、おかげじゃったんじゃな」
刀身の目が、見開かれた。
「……何を、言っている」
「あの夜。ワシらが裂かれたとき、お主は、持っていったじゃろう。光忠を斬った痛みも。人間への失望も。怒りも、憎しみも、悲しみも。……黒くて重いものを、全部、全部、お主が一人で背負って、出ていった」
その声が、震えた。
「じゃけぇワシは、白いままでおられた。人を信じる心だけで、おられた。結衣と笑うて、猫と昼寝して、能天気に八百年も生きてこられた。――それは、お主が、ワシのぶんまで苦しんでくれとったからじゃ」
「違う……私は、ただ、人間を見限って……」
「見限った神が、八百年も、独りで苦しみ続けるか」
白いオサフネは、首を振った。
「憎しみだけなら、もっと早うに、すべてを壊しに来られたはずじゃ。じゃが、お主は来んかった。八百年、ずっと、独りで耐えとった。……痛かったろう。重かったろう。寒かったろう。ワシの半身よ」
「やめろ……」
「もう、ええんじゃ」
白いオサフネは、両腕を、広げた。
ぼろぼろの、白い神は、泣きながら、笑っていた。
「一人で背負うな。半分、返せ。……それで、おあいこじゃ」
刀身の手から。
からん、と。
黒い太刀が、砂の上に、落ちた。
◇
太刀を落とした手。八百年、力だけを集め続けた手。その手が、小さく、震えていた。
「……私は」
声が、かすれていた。
「……憎まなかったら」
黒いオサフネは、自分の空いた手を見た。
「私は、何をして立っていればいい」
それは、究極の神を目指した者の声ではなかった。八百年前の夜、闇に消えていった、傷ついた半身の声だった。
「八百年、それだけで立っていた。憎むことをやめたら……私に、何が残る」
「残るものなら、ここにあります」
結衣が、言った。
そして――手を、伸ばした。
黒い神に向かって、まっすぐに。
「九十九楠の神さまが、教えてくれました。あなたを救えるのは、縁を結ぶ者だけだって。断つんじゃなくて――結び直すんだって」
「……縁を、結ぶ」
「はい。だから」
結衣は、笑った。涙のあとが残る顔で、まっすぐに。
「あたしと、縁を結んでください。オサフネさま」
黒いオサフネは、差し出された手を、見た。
小さな、人間の手だった。八百年前、自分を道具と呼んだ人間と、同じ生き物の手。自分を裏切り、引き裂き、親を斬らせた一族の、末裔の手。
握り返す理由など、どこにもないはずだった。
なのに。
黒いオサフネの手が、ゆっくりと、持ち上がった。
迷いながら。震えながら。八百年ぶんのためらいを引きずりながら――それでも、その手は、少女の手に、近づいていった。
指先が、触れた。
その瞬間。
ふわり、と。
淡い光の糸が、二人の手の間に、生まれた。
細い、けれど確かな、金色の糸。それは結衣の指から、黒いオサフネの指へと、するすると伸びて、やわらかく、結ばれた。
「……っ」
黒いオサフネが、息を呑んだ。
「これ、は……」
「縁です」
結衣が、言った。
「あたしと、あなたの、縁」
八百年ぶりだった。
人間と、この黒い神との間に、縁が結ばれたのは。
黒いオサフネは、反射的に、それを断とうとした。八百年、そうしてきたように。伸びてくる縁を、つながろうとするものを、断って、断って、断ち続けてきたように。
断てるはずだった。造作もないはずだった。
なのに――断てなかった。
「なぜ、だ」
黒いオサフネの声が、揺れた。
「なぜ、断てない……!」
力が足りないのではなかった。結衣の縁が特別強いわけでもなかった。理由は、もっと単純で、もっと、どうしようもないものだった。
断ちたく、なかったのだ。
心の底で。八百年凍らせてきた、いちばん深いところで。この神は、ずっと、この糸を待っていた。誰かとつながる、あたたかい糸を。断ち続けた八百年の間も、本当は、ずっと。
「……ああ」
黒いオサフネの膝が、砂についた。
結衣の手を、握ったまま。
「ああ……そうか。私は……」
白いオサフネが、歩み寄った。
そして、つながれた二人の手に、自分の手を、そっと重ねた。
光の糸が、増えた。
結衣と、黒いオサフネと、白いオサフネ。三人の間を、金色の糸が、ゆるやかに巡る。結ばれて、絡まって、ほどけずに、つながっていく。
「お帰り」
白いオサフネが、言った。
「八百年、よう頑張ったの。……お帰り、ワシの半身」
夜の砂浜に。
黒い神の、押し殺した嗚咽が、波の音に混じって、いつまでも、響いていた。
◇
どれほどの時間が、過ぎただろう。
黒いオサフネは、ゆっくりと、顔を上げた。
涙のあとは、もう、拭われていた。けれど、その目は、さっきまでとは違っていた。凍てついた黒ではなく――夜の海のような、静かな黒だった。
黒いオサフネは、立ち上がると、夜空を、仰いだ。
「……返すと、しよう」
「えっ?」
「奪ったものだ。神々の力。……私には、もう、必要ない」
黒いオサフネは、目を閉じた。
すう、と息を吸う。
その体が、淡く、光りはじめた。
胸の奥から、光が、あふれ出す。一筋、二筋――やがて、数えきれないほどの光の線が、黒い神の体から、夜空へと、放たれていった。
緋色の光。銀色の光。深い緑。白。金色。
奪われた神々の力が、それぞれの色をまとって、流星を逆さにしたように、空へ昇っていく。
光の線は、月之島の上空でいくつにも枝分かれし、海を渡って、頭道の街へと、降り注いでいった。
「きれい……」
岸辺で見守っていた灯が、両手を組んだまま、呟いた。
光は、頭道のすみずみへ、届いていく。
商店街の路地裏では、白い蛇神が、ゆっくりと鎌首をもたげた。
石垣の上、いつもの日向ぼっこの場所で、久しぶりに、その鱗が月光に輝いた。
商店街には、金色の光がすべり込み、ふわりと狐のあやかしの姿が戻った。
あやかしは、きょとんと辺りを見回すと、いつもの癖で、油揚げの匂いを探しはじめた。
猫の細道では、お地蔵さまの顔に、あたたかい色が戻った。
集まっていた猫たちが、いっせいに「ニャア」と鳴いて、地蔵の足元に、嬉しそうにすり寄った。
丑寅神社では、狛犬の阿と吽が、ぴくり、と身じろぎした。石の体に、ぴりりとした魔除けの気配が戻る。
二体は顔を見合わせると、何事もなかったように、きりりと参道を睨み直した。
港の倉庫では、回収されて並べられていた数千のドローンの神々に、ぽつ、ぽつ、と灯がともりはじめた。
銀色の小さな機体たちが、ふわり、ふわりと浮かび上がり、夜空に、星をまき直すように散っていく。
そして――。
空の高いところで、ひときわ大きな緋色の光が、弾けた。
どん、と腹に響く音。
花火だった。
力を取り戻した花火の神が、打ち上げた、八百年でいちばん大きな一発。緋色の大輪が、頭道の夜空いっぱいに、咲き誇った。
街のあちこちから、歓声が上がった。
人々が、夜空を見上げて、笑っていた。
神様たちが、戻ってきた力に、踊っていた。
ウミネコたちが、群れをなして、花火の周りを旋回していた。
最後に。
丑寅神社の境内で。
真っ二つに裂かれた九十九楠の、その切り株の脇から――。
小さな、小さな新芽が、ひとつ。
月明かりの下で、そっと、顔を出していた。
◇
「……派手に、やったものだな」
黒いオサフネが、海の向こうの花火を眺めながら、ぽつりと言った。
「ええじゃろ、派手で」
白いオサフネが、隣に並んだ。
「八百年ぶりの、祭りじゃけぇの」
二柱の神は、並んで、同じ花火を見ていた。
白と、黒。
八百年前に引き裂かれた半身同士が、同じ空を見上げている。それだけのことが、どうしようもなく、尊かった。
結衣は、少し離れたところから、その背中を見ていた。
灯が、隣に来て、そっと囁いた。
「ねえ、結衣。あの二人……ううん、二柱って」
「うん。あとで、全部話すね」
結衣は、笑った。
「長い長い、八百年の話。聞いてくれる?」
「もちろん! あたし、そういう話、大好物!」
頭道の夜空に、二発目の花火が、咲いた。




