元の鞘に収まったということじゃな1
黒い太刀が、振り下ろされた。
オサフネは、目を閉じなかった。迫る刃を、まっすぐに見ていた。
その視界に――白い影が、飛び込んできた。
「やめてええええっ!!」
結衣だった。
砂を蹴って、転がり込むように、倒れたオサフネに覆いかぶさる。両腕を広げて、小さな体で、白い神を、かばう。
刃が、結衣の頭上に迫る。
止まらない。止まれる軌道ではない。神の力を乗せた一撃は、人間の少女ごと、白い神を両断する――はずだった。
ぴたり、と。
刃が、止まった。
結衣の頭上、紙一重。髪の毛一本ぶんの距離で、黒い切っ先が、震えていた。
夜の砂浜が、静まり返った。
波の音だけが、遠くで聞こえる。
「……なぜ」
刀身の声が、落ちた。
「なぜ、退かない」
結衣は、答えなかった。答えられなかった。心臓が、爆発しそうなほど鳴っている。膝が、腕が、震えて止まらない。怖い。怖くて怖くて、たまらない。
それでも、どかなかった。
「結衣……っ、何を、しとるんじゃ……!」
組み敷かれた格好のオサフネが、かすれた声を絞り出した。
「逃げよ……! お主が、死ぬぞ……!」
「どきません!」
結衣は、首を振った。
涙で、視界がにじんでいた。それでも、顔を上げて、まっすぐに、黒い神を見た。
「どきません。絶対に、どきません!」
「人間」
刀身の目が、細くなった。
「これは、神と神との話だ。人間の出る幕ではない。失せろ」
「出る幕なら、あります」
結衣は、震える声で、言い返した。
「だってあたし――全部、知ってるんですから」
刀身の眉が、ぴくりと動いた。
「……何?」
「あたし、見たんです。全部」
結衣は、息を吸った。
夜の海風が、頬の涙を冷やしていく。岸辺の遠くで、灯が祈るように両手を組んで、こちらを見つめている。
言うなら、今しかなかった。
「八百年前のこと。光忠さんのこと。――あなたたちが、引き裂かれた夜のことを。全部、この目で、見ました」
◇
夜の砂浜が、再び、静まり返った。
「……見た、だと?」
刀身の声に、初めて、明確な動揺が混じった。
「九十九楠です」
結衣は、言った。
「斬られた九十九楠の切り株に、触れたんです。そうしたら、九十九楠の神さまが、八百年前の――あなたたちの記憶を、あたしに見せてくれました」
「……あの楠が」
「見ました。全部」
結衣は、一つひとつ、言葉にしていった。
「光忠さんが、あなたを打ったところ。あなたが生まれて、光忠さんが、我が子みたいに喜んでたところ。鍛冶場で、二人でしゃべってたところ。夕日が差して、あなたが――すごく、楽しそうだったところ」
「やめろ」
「上村の当主が、あなたに、ひどい命令をするようになったところ。あなたが苦しんで、髪がどんどん黒くなっていったところ。光忠さんが、あなたのために怒ってくれたところ」
「やめろと言っている」
「そして――あの夜のことも」
結衣の声が、震えた。
「光忠さんが、最後まで、あなたのことだけ心配してたこと。『泣くな。お前は、悪うない』って、言ったこと。あなたが、泣きながら、真っ二つに裂けてしまったこと。……全部、見ました」
刀身は、何も言わなかった。
太刀を握る手が、かすかに、震えていた。
「……結衣」
かすれた声がした。
倒れたままのオサフネが、信じられないものを見るような目で、結衣を見上げていた。
「お主……見た、んか。あの夜を……全部……」
「……はい」
結衣は、オサフネに向き直った。
「ごめんなさい、オサフネさま。ずっと、黙ってました」
「いつ、じゃ」
「九十九楠が斬られた日です。オサフネさまが先に帰っちゃったあと、一人で、切り株に触れて……」
オサフネは、目を見開いたまま、固まっていた。
八百年、誰にも明かさなかった過去。
結衣にだけは知られたくなかった、上村の家の罪。それを、結衣は、もうずっと前から知っていた。
知った上で、何も言わずに、いつも通りに笑っていた。
「なんで……なんで、黙って……」
「だって」
結衣は、泣き笑いのような顔になった。
「オサフネさまが、黙ってたから」
「……っ」
「オサフネさま、あたしのために黙ってたんでしょう? あたしのご先祖がしたことを知ったら、あたしが傷つくから。あたしに、罪悪感を背負わせたくないから。だから八百年も、ずっと、一人で抱えてたんでしょう?」
オサフネは、何も言えなかった。
「知ってたんです、あたし。オサフネさまの優しさ。……だから、あたしも黙ってました。オサフネさまが隠したいなら、隠したままでいいって。でも――」
結衣は、再び、刀身に向き直った。
「もう、黙ってられません。だって、このままじゃ、二人とも、不幸なままだから」
夜風が、三人の間を、吹き抜けていった。
倒れた白い神と、立ち尽くす黒い神と、その間に立つ、一人の少女。
八百年の物語の、すべてを知る三人が、月之島の砂浜で、向かい合っていた。
◇
結衣は、ゆっくりと、立ち上がった。
オサフネをかばう位置から、一歩、前へ出る。黒い神と、正面から向かい合う。
「あたしの名前は、上村結衣です」
刀身の目の色が、変わった。
「あの当主の――あなたたちを引き裂いた、上村の家の、子孫です」
「……その名を」
刀身の声が、地を這うように低くなった。夜の空気が、びりびりと張りつめる。砂浜の砂が、見えない力に押されて、さらさらと逃げていく。
「その名を、私の前で、名乗るか」
「名乗ります」
結衣は、退かなかった。
「名乗らなきゃ、いけないんです。だって――」
結衣は、その場に、膝をついた。
砂の上に、両手をつく。
そして、深く、深く、頭を下げた。
「あたしの先祖が、あなたたちを引き裂きました」
夜の砂浜に、少女の声が、響いた。
「あなたの力を、自分の欲のために使いました。たくさんの人の縁を、勝手に断たせました。あなたがいちばん大切にしていた光忠さんを――あなた自身の体で、斬らせました」
「……」
「ごめんなさい」
額が、砂につくほど、頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい」
波の音だけが、響いていた。
刀身は、頭を下げる少女を、見下ろしていた。その表情は、闇に紛れて、読めなかった。
長い、長い沈黙のあと。
「……謝罪、か」
刀身の声は、凍てついていた。
「八百年前に死んだ男の罪を、お前が謝る。それで、何が変わる。謝罪で、八百年が消えると思うか」
「思いません」
結衣は、顔を上げた。
涙と砂で汚れた顔で、まっすぐに、刀身を見た。
「消えません。絶対に。あなたが苦しんだ八百年は、なかったことになんて、できません。光忠さんも、帰ってきません」
「分かっているなら、なぜ謝る」
「消えないから、謝るんです」
結衣の声に、芯が通った。
「なかったことにできないから――ちゃんと覚えてるって、伝えるんです。あなたに起きたことを、あたしは知ってます。忘れません。なかったことにしません。それを伝えるのが、あの家の血を引いたあたしの、最初にやらなきゃいけないことだから」
刀身は、黙った。
振り上げかけていた太刀の切っ先が、わずかに、下がった。
八百年。
誰一人、知る者はいなかった。誰一人、謝る者はいなかった。
あの夜の出来事は、闇に葬られ、当主は何も理解せぬまま死に、歳月がすべてを風化させた。神々の力を奪い、九十九楠を斬り、恐れられることはあっても――この八百年で、頭を下げた人間は、一人もいなかった。
目の前の少女が、初めてだった。
「……人間の謝罪など」
刀身は、絞り出すように言った。
「信じられるものか」
だがその声は、さっきまでの氷のような響きを、失いかけていた。
◇
「人間の謝罪など、信じられるものか」
刀身は、繰り返した。
自分に言い聞かせるように、もう一度。
「人間は、神を道具としか思わない。拝むのは都合のいいときだけ。用が済めば、刃に変える。八百年前も――今も、変わらない」
「違う」
結衣は、立ち上がった。
「違います。あなたは、本当は、そんなこと思ってない」
「……何?」
「あなた、本当は人間が憎いんじゃない」
結衣は、一歩、刀身に近づいた。
「信じてたから――大好きだったから、裏切られたとき、あんなに悲しかったんだ」
「黙れ」
「縁を結んで、人が笑ってくれるのが、嬉しかったんでしょう。迷子だった人が家に帰れて、喧嘩してた村が仲直りして、泣いてた女の人が救われて。そのたびに、あなたは、嬉しかったんでしょう」
「黙れと言っている」
「光忠さんの鍛冶場で、夕日を見てたときの顔。あたし、見ました」
結衣の声が、震えながら、まっすぐに飛んだ。
「すごく――幸せそうだった」
「黙れ!!」
刀身が、吠えた。
太刀が、横ざまに振り抜かれる。黒い斬撃が、夜気を裂いて、結衣に殺到する――。
だが。
斬撃は、結衣のすぐ脇の砂浜をえぐって、消えた。
外したのだ。
あの精密無比な太刀筋が、動かない少女ひとり、捉えられなかった。
「……っ」
刀身自身が、いちばん、動揺していた。
なぜ外した。なぜ、当てられない。目の前の小娘は、避けてすらいないのに。
「……今、外しましたよね」
「黙れ」
「あたし、動いてませんでした」
「黙れ!」
「だったら、外したんじゃない。外してくれたんです」
「黙れ!!」
「あなたは、優しい神さまだから」
結衣は、逃げなかった。斬撃にえぐられた砂の脇で、まっすぐに立ったまま、言った。
「八百年前から、ずっと。人を救うのが大好きな、優しい神さまだから。だから、あたしを斬れないんです」
「私は……っ、私は、人間を捨てた! とうの昔に!」
「捨てられてないから、そこにいるんでしょう!」
結衣も、叫び返した。
「本当に人間を捨てたなら、本当にどうでもいいなら、頭道に来る必要なんてなかった! 究極の神になるなら、どこか遠くで、勝手になればよかった! でも、あなたは来た。八百年ぶりに、ここに、帰ってきた」
「それは、鞘を取り込むために――」
「それだけなら、オサフネさまをさっさと取り込めばよかった! でも、あなたは話した。八百年ぶりに会った半身と、ちゃんと、話をした。本気を出すまで、ずっと手加減してた。さっきだって、あたしのこと、斬れなかった」
結衣は、一歩、また一歩、近づいていく。
「究極の神になりたいんじゃない。あなたは――ひとりぼっちが、つらかっただけなんだ」
刀身が、後ずさった。
神が。八百年かけて力を蓄え、頭道じゅうの神々を呑み込んだ黒い神が。丸腰の少女を前に、一歩、退いた。
「黙れ……黙れ、黙れ……」
「オサフネさまが言ってました。究極の神になって、誰もいない場所で、何をするんですかって。……答えられなかったんでしょう?」
「……」
「答えなんて、ないから。完全な神になることが目的じゃないから。あなたが本当に欲しかったものは、力なんかじゃ、ないから」
結衣は、足を止めた。
もう、手を伸ばせば届く距離だった。
黒い神は、太刀を握ったまま、動けずにいた。その目には、もう、殺気はなかった。あったのは――八百年前、夜の鍛冶場で、白い半身が最後に見たものと、同じ揺らぎだった。
「本当に欲しかったものを、言ってみてください」
結衣は、静かに言った。
「言えないなら、あたしが言います」
夜の波音が、ひとつ、ふたつ。
「――帰る場所が、欲しかったんでしょう」




