黒い神1
オサフネが、茶を淹れ間違えた。
いつもなら濃すぎるくらい濃い茶を淹れるのに、その朝の湯呑みは、ほとんど白湯だった。
結衣が「味、薄くないですか」と言っても、オサフネは「うむ」とだけ答えた。
オサフネは、海を見ている時間が増えた。縁側に座って、月之島の浮かぶ海を、じっと見ている。何かを待つように。何かに、備えるように。
結衣も、何も言わなかった。
九十九楠の言葉は、ずっと胸の中にあった。
――あの黒い神は、最後に必ず、鞘を取りに来る。
いつ来るのか。それは分からない。
でも、きっと、そう遠くない。
オサフネも、それを感じている。
だから、海を見ている。
結衣は知らないふりをした。
オサフネも、何も知られていないふりをした。
そのくせ二人とも、風が鳴るたびに、同じ方角を見た。
海の向こう。月之島の方を。
◇
その日の昼下がり、オサフネは、ふらりと家を出た。
向かった先は、商店街のプラモ屋だった。
「おう、ジト目幼女ネキやないか。今日はどうした」
店先で段ボールを運んでいたおっちゃんが、手を止めた。
オサフネは、前置きなしに言った。
「プラモ屋のおやじよ。強力な鉄砲は、ないか」
「……鉄砲?」
「ああ。お主がくれたあのエアガン、ようできておった。あれよりも強いものが要る」
おっちゃんは、オサフネの顔を、じっと見た。
いつものジト目。いつもの仏頂面。けれど、その目の奥にあるものが、いつもと違うことに、おっちゃんは気づいたらしかった。
「……どうしてだい」
「必要なんじゃ」
それだけだった。理由も、事情も、何も言わない。
おっちゃんは、しばらく黙っていた。それから、ふっと息をつくと、店の奥に引っ込んだ。がさごそと、何かを探す音がする。
やがて戻ってきたおっちゃんの手には、細長い箱があった。
「……これを、持ってきな」
箱の中身は、黒いマシンガンタイプのエアガンだった。長い銃身に、大容量のマガジン。ずしりと重い、最新型。
「発売前の新型や。連射もきく、弾もよう飛ぶ。今うちにある中で、いちばん強い」
「……すまんの」
「銭はいらん」
おっちゃんは、にっと笑った。
「そのかわり、約束せえや。それを使うようなことが終わったら――また、福引きでも回しに来てくれ。ネキが店の前におると、なんや、商店街が明るうなるけぇの」
オサフネは、一瞬、目を見開いた。
それから、ふっと、口元をゆるめた。
「……ああ。約束じゃ」
マシンガンを受け取って、オサフネは店を後にした。
その背中を、おっちゃんは、何も聞かずに見送った。
◇
夕方、家に戻ったオサフネは、結衣に見つからぬよう、マシンガンを自分の部屋の隅に、そっと置いた。
風呂敷をかけて、何食わぬ顔で縁側に戻る。
「おかえりなさい、オサフネさま。どこ行ってたんですか?」
「ん。ちと、散歩じゃ」
「散歩ですか」
「散歩じゃ」
オサフネは、いつものように茶をすすった。
結衣も、それ以上は聞かなかった。
ペロが、ととと、と縁側に駆けてきた。オサフネの匂いを、くんくんと嗅ぐ。何かを察したのか、小さく「くぅん」と鳴いて、結衣の足元にぴったりと寄り添って、丸くなった。
夕日が、海に沈んでいく。
月之島の影が、茜色の海に、黒く浮かんでいた。
静かな、嵐の前の夕暮れだった。
◇
その夜は、何の前触れもなく、始まった。
夕餉を終え、結衣が食器を片づけていた、そのときだった。
ぐらり、と。
家が、揺れた。
「えっ……地震?」
結衣は、思わず流しの縁を掴んだ。食器棚が、かたかたと鳴る。揺れは、止まらない。
それどころか、だんだんと強くなっていく。地の底から、ゴゴゴゴ、と低い唸りが響いてくる。
縁側で、オサフネが立ち上がった。
その目は、海を――月之島を、見ていた。
「結衣。来るぞ」
「え?」
「外に出るな。家の中におれ」
オサフネがそう言った、次の瞬間だった。
海の向こうで、月之島が、光った。
島の中央。こんもりと茂った山。その山頂から――天に向かって、光の柱が、突き上がった。
どん、という音が、遅れて頭道に届いた。空気が震え、家々の窓がビリビリと鳴った。
柱は、太かった。月之島の山頂を丸ごと呑み込むほどの太さで、海を、空を、夜を、真っ白に染め上げながら、雲を突き抜けて、どこまでも、どこまでも伸びていく。
頭道の空に浮かんでいたいくつもの月が、その光に照らされて、色を失った。
ペロが、毛を逆立てて、唸っている。
「な……何、あれ……」
結衣は、縁側に走り出て、立ちすくんだ。
街のあちこちから、悲鳴と、ざわめきが聞こえてくる。
ウミネコたちが、群れをなして、光から逃げるように飛び交っていた。いつもは陽気なカブトガニたちも、家々の軒先に身を寄せて、じっと動かない。
神様たちが、怯えていた。
頭道中の神様が、あの光に、怯えていた。
そして、光の柱の中に――黒い影が、あった。
遠目にも分かる。人の形。小さな、少女のような形。それが、光の柱の中心に、ゆっくりと浮かび上がってくる。
禍々しい気配が、海を渡って、頭道まで届いた。肌を刺すような、冷たい気配。結衣は、その気配を、知っていた。
八百年前の、あの夜。鍛冶場の闇に消えていった、黒い神。
「……来たか」
オサフネの声は、静かだった。
いつの間にか、その手には、風呂敷を解いた黒いマシンガンが握られていた。白いセーラー服の肩に、銃帯を斜めに掛ける。
「オサフネさま……!」
「結衣」
オサフネは、結衣を見た。
いつものジト目だった。いつもの、何を考えているか分からない、眠たげな目。でも、その奥に、結衣が見たことのないほど強い光が、灯っていた。
「家から、出るな。ペロと一緒におれ。ええな」
「待って、オサフネさま、あれって――」
「ええな」
有無を言わさぬ声だった。
オサフネは、縁側に立つと、二本の指を、ぱちんと鳴らした。
どこからともなく、小ぶりなカブトガニが二匹、すいと現れる。二匹は心得たように、空中にぴたりと並んだ。
オサフネは、左足を一匹の甲羅に、右足をもう一匹の甲羅に乗せた。
スキーのように足を揃えて立つと、二匹のカブトガニが、ぐん、と浮き上がった。
「オサフネさま!」
結衣の声に、オサフネは振り返らなかった。
ただ、一言。
「……飯を、炊いて待っとれ」
それだけ残して。
白い神は、夜空へと、撃ち出されるように飛んでいった。
光の柱に向かって。八百年前に別れた、半身のもとへ。
結衣は、縁側に立ち尽くしたまま、小さくなっていくその背中を、見送ることしかできなかった。
足元で、ペロが、心配そうに「くぅん」と鳴いた。
結衣は、ぎゅっと、拳を握りしめた。
――飯を炊いて待っとれ、じゃないですよ。オサフネさま。
あたしは、知ってるんです。あなたが、どれだけ傷ついてきたか。あの黒い神さまが、本当は、どんな神さまだったのか。
全部、知ってるんです。
「……ペロ」
「わん」
「あたし、行かなきゃ」
結衣は、夜空を見上げた。
光の柱が、海の向こうで、燃えるように輝いていた。
◇
月之島の上空は、光に灼かれていた。
オサフネは、カブトガニの上で目を細めた。光の柱は、近づくほどに巨大だった。山頂から噴き上がる白光が、夜を昼に変えている。その光の中心に、影が浮かんでいる。
オサフネは、二匹のカブトガニに、すっと体重を預けた。心得たカブトガニたちが、速度を落とし、光の柱から少し離れた空中で、ぴたりと止まる。
影が、動いた。
光の柱の中から、ゆっくりと、それは出てきた。
一頭のウミガメ――カブトガニより一回り大きいくらいの、ごく普通のウミガメが、すい、と宙を泳いでくる。
その甲羅の上に、一柱の神が、立っていた。
黒い髪。黒いセーラー服。
そして――オサフネと、同じ顔。
八百年ぶりに見る、自分の半身だった。
「……久しいな、私の半身」
刀身のオサフネが、口を開いた。
低く、硬い声。八百年前、夜の鍛冶場で聞いたときと、何ひとつ変わらない、冷たい声だった。
「探したぞ」
オサフネは、静かに言った。
「八百年。ずっと、お主を探しておった。縁の糸をたどっても、何も見えんかった。どこにおったんじゃ」
「どこ、とは愚問だな」
刀身は、薄く嗤った。
「人間のいない場所だ。深い山の底、海の淵、誰も祀らず、誰も拝まぬ場所を、転々とな。……八百年も経てば、神とて変わる。私は、人間なしで在り続ける術を、身につけた」
「……それで、力を奪うことを覚えたか」
「奪う、とは人聞きが悪い」
刀身は、両腕を広げた。
その体から、揺らめくように、力の気配が立ちのぼる。それは一つではなかった。何百、何千という、異なる色の気配。オサフネには、その一つひとつに、見覚えがあった。
「私は頭道中の神々の力を集めた。花火の神も、ドローンの神々も、九十九楠も――すべて、私の中にある」
「……っ」
「人間に媚びて、祀られて、信仰を恵んでもらわねば在れぬ神々。あれは神ではない。人間の飼い犬だ。だから私が、まとめて引き取ってやった。人間から、解放してやったのだ」
「勝手な理屈じゃ」
オサフネの声が、低くなった。
「あやつらは、好きで人と共におったんじゃ。猫と昼寝をする地蔵も、坂の上から海を見とった楠も、祭りの夜に空を飛んだドローンの神々も――みな、この町が、人が、好きじゃったんじゃ。それを、お主は」
「好き、か」
刀身の目が、すっと細くなった。
「八百年経っても、お前は変わらないな。鞘よ。人間と縁を結び、人間に寄り添い、人間の家で飯を炊いて――ああ、知っているとも。お前が今、どこの家にいるのかもな」
オサフネの肩が、ぴくりと動いた。
「上村の家だそうだな」
刀身の声に、初めて、感情らしきものが滲んだ。
憎悪、というには静かすぎる。侮蔑、というには深すぎる。八百年かけて冷えきった、何かだった。
「光忠を斬らせた、あの家。私たちを引き裂いた、あの家。――その家の娘と、今もぬくぬくと暮らしているとは、いい御身分だ」
「……あの子は、関係ない」
「関係ない?」
刀身は、嗤った。
「あるとも。あの家の血だ。神を道具と呼んだ男の、血だ。……まあいい。今日は、人間の話をしに来たのではない」
刀身は、すらりと、腰の太刀を抜いた。
黒い刀身が、光の柱を映して、ぬらりと光る。
「単刀直入に言おう。鞘よ。私は、完全な神に成る。この頭道の、すべての神の力を束ね、人間に依存せぬ、究極の神に。――そのための、最後のひと欠片が、お前だ」
「……ワシを、取り込むつもりか」
「分かっているではないか」
刀身は、太刀の切っ先を、まっすぐにオサフネへ向けた。
「八百年前、私たちは引き裂かれた。だが、本来は一つのもの。お前を取り込めば、私は完全になる。鞘と刀身、結ぶ力と断つ力――そのすべてを備えた、究極の神に」
「断る、と言うたら」
「言うと思っていた」
刀身は、構えた。
「だから、力ずくで取りに来た」
夜空に、殺気が満ちた。
オサフネは、肩のマシンガンを、ゆっくりと構えた。銃身に、淡い神通力の光が灯る。
「……ひとつだけ、聞かせよ」
オサフネは、引き金に指をかけたまま、言った。
「お主、本当に、それでええんか」
「……何?」
「究極の神とやらに成って、誰も祀らん、誰も拝まん、誰もおらん場所で――お主は、何をするんじゃ」
刀身の目が、わずかに、揺れた。
ほんの、一瞬だった。
「……問答は、終わりだ」
次の瞬間、ウミガメが、動いた。
矢のような速さで、闇を裂いて、突っ込んでくる。
八百年ぶりの再会は、こうして、戦いになった。




